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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

みんなでいただく

2018-03-18 17:24:42 | 礼拝説教
2018/3/18礼拝説教
【テーマ】  聖餐式
【説教題】 「みんなでいただく」
【聖書箇所】 ヨハネ6:1-14
  6:1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。
6:2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。
6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。
6:4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。
6:5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
6:8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
6:10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
6:12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
6:13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
6:14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。

○ 今日は聖餐式をいたします。今日のテキストを読んでいると、すごい人数の聖餐式のような気がします。共に食するということは教会のメンバーとしてとても大事なことであり、嬉しいことです。新中野教会では毎週ランチがあるというのもすばらしいことです。お弁当持ちでなくても一緒に食べることができるのですから。食事の交わりはお互い心を開きやすいものです。

Ⅰ.大勢がイエス様のところに
A.イエス様のところに集まる
1.イエス様が次々病人を癒されました。それを多くの人が知り、癒して欲しい人がどんどん集まりました。また、そういう奇跡を見たい人もどんどん集まりました。
2.当時のラビといえばパリサイ人や律法学者のように民衆に厳しく、落ち込んでいくようなことしか言わない人達でしたので、イエス様のように優しく、愛をもって接してくださるラビは人々から一気に尊敬されました。

B.教会に集まる
1.今はイエス様が見えませんからイエス様のところに行くというのがわかりにくく思われるかも知れませんが、聖霊が私たちの内におられるという事実があります。その聖霊によって私たちはイエス様がいつも共におられることを信じているのです。
2.また教会はキリストの体として存在するので、教会を通してイエス様を感じることができる、つまり私たちを通してイエス様が感じられるのが教会です。

Ⅱ.イエス様はみんなに与えられた
A.信仰を教える問答
1.奇跡見たさに集まったかも知れない人々ですが、どんな思いで集まってこようともイエス様はみんなのことを気にされました。お腹を空かせた人々に食べ物を与えたいと思われるお方です。 6:5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」 と。
2.しかし、この言葉を聞いたピリポは 6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」 と、現実的な計算をしました。それは当然大事なことです。しかし、 6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。 とあるように、これはピリポはじめ弟子達に信仰の世界を見せるために言われたことでもありました。
3.聖餐式の小さなパンを食べてどうなるか? なんてパンのことにしか意識が行かないと私たちもこの時の弟子達のようなもので信仰による救いの世界が見えてこないのです。イエス様はこの小さなパンのかけらを通して、私たちに十字架の救いの偉大さを教えておられるのです。

B.五つのパンと二匹の魚
1.弟子達がパンのことで思いあぐねていると、アンデレが少年の持っていたパンを示しました。が、 6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」 と、少なすぎると悲観します。
2.しかし、イエス様はそれを増やして、欲しいだけ与えられたのです。奇跡を見に来た人々は驚きましたし、何よりも弟子達が驚いたのです。イエス様にこんな事ができるとは誰も思っていなかったからです。しかし、これを見ても、この後十字架によって罪からの完璧な救いがなされるとは誰にもわかりませんでした。

Ⅲ.食べるべきパンとは
A.いのちのパンであるイエス
1.イエス様が人々のためにパンを増やされたように、神様は私たちのためにいのちのパンであるイエス様をくださいました。人々が欲しいだけ食べたように、イエス様の恵みも溢れるほどにいただけるのです。
2.つまり、聖餐式のパンがちぎられるように、十字架刑でイエス様の体が裂かれました。しかし、それによって私たちの罪は完全に取り去られたのです。ひとかけらも残されないということです。

B.十字架を思い起こす
1.聖餐式のパンはちょっとです。少年が差し出したパンはイエス様だけが食べるには十分でしたが、一万人も二万人もいるようなこの状況では私たちの聖餐式のパンどころかもっともっと少ない量です。ところが、それをイエス様が増やしてしまい、みんなのお腹を完璧に満たしました。
2.聖餐式のパンがちょっとでも、私たちは今、この礼典を通してイエス様の十字架を思い起こしています。その十字架に表されたものすごく大きな神様の愛を思い起こしているのです。たった一人の身代わりの死が全世界全ての人の罪を背負うことができるのです。それが神、神の子のわざです。

● 初代教会の人達が共に集まって食事をした話は有名です。教会での食事は金持ちも貧しい人も関係なく、同じようにいただきます。身分の差も、学歴の差も無い、同じクリスチャンとして交わりがあります。みんなイエス様によって救われたという喜びでその交わりを楽しんだようです。同じ事が私たちの教会のランチにもありますし、聖餐式も同じです。みんな一緒に同じ神の言葉イエス・キリストをいただくのです。

★ イエス様の救いには限界がありません。野原でみんながお腹いっぱい食べたように、私たち誰でも救われるのです。
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