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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

嵐を静めるイエス様(岡山志伸師)

2014-11-10 09:10:58 | 礼拝説教
2014/11/9 礼拝説教
■テーマ:環境への神の権威
■説教題:「嵐を静めるイエス様」
■聖書箇所:マタイ8:23~27

8:23 イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。
8:24 すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
8:25 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
8:26 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
8:27 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

<はじめに>
 今日は、マタイの福音書8:23~27です。イエス様はガリラヤ湖畔のカペナウムで多くの病人を癒されましたが、群集が押し迫って身動きができなくなったため、弟子たちに舟を用意させ、対岸に行こうとされました。前回は、その舟に乗り込む途中の弟子たちや律法学者たちとのやりとりの会話がなされました。そして、イエス様の弟子となっていくための大切な教えがなされました。そしてその問答の後に、イエス様と弟子たちは、次の目的地へ行くために舟に乗り込んでガリラヤ湖を渡ります。
 
<Ⅰイエスと弟子たちの乗船>
1.イエスの後に従って
 「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。」(8:23)とありますが、イエス様が舟に乗られると、弟子たちも従いました。イエス様は、弟子の一人や律法学者と問答をかわした後、当初命じておられたように「向こう岸」に行くため、御自身が先頭に立って舟に乗りこみます。その後、弟子たちも従いました。些細なことですが、この順番というものにも注目したいと思います。イエス様が舟に乗って弟子たちが続いています。イエス様は神の支配を実現するために、我々の前を先立つお方だということが分かります。弟子たちが進むべき道を、身を持って拓いていくお方である、そのようにいってよいでしょう。弟子たちは自分たちで「向こう岸」へ行くことを計画したのではありませんでした。イエス様が「向こう岸」へ行こうとされるので、弟子たちはその歩みに従ったわけです。イエス様の弟子とは主が前をいつも行かれることを知っている者です。

2.湖の激しい嵐 !
 さてイエス様と弟子たちですが、「すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。とこ
ろが、イエスは眠っておられた。」(8:24)というのです。注目すべきは、イエス様が「向こう岸」に行くことを明確に意思表示しているにも関わらず、あたかもそれに逆らうかのように激しい嵐が起こったということです。「すると、見よ、」は、口語訳では「すると突然」と訳しています。つまり、突風がガリラヤ湖に吹き付けたということです。それのため湖は大荒れになり、舟は波にのまれそうになったのです。この舟と嵐の関係は、教会に対する迫害や混乱という嵐と言ってみたり、あるいは個人的な困窮を指すと考えたりします。いずれにせよ、イエス様が「向こう岸」に行くことを命じても自動的に物事が順調に進むというわけではないことを教えられます。それは、イエス様のご意志が行われるのは、罪の蔓延するこの世であって、天国のようなところではないからです。神の意志に逆らうものが満ちている世界だからなのです。サタンは人に平安を与えたくない存在であり、神の計画を人間から奪い、邪魔をする存在です。ですから、神様のご計画が実現していく道は、どうしても戦いという状況があります。そして教会も個人もまたそれに巻き込まれていったりするのです。

3.イエスに助けを叫ぶ!
 しかし弟子たちは嵐のために、パニックに陥りました。「弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」(8:25)イエス様は疲れていたのでしょうか?このような嵐の中でもすやすやと眠っておられます。神様への信頼もあったことでしょう。こんなイエス様のお姿を見ると、本当に頼れる方だと思います。弱い私たちですが、いざとなった時にも落ち着きを保って行動するという精神性というものもイエス様から頂く必要があると思います。
この激しい嵐の中で、中にはがリラヤ湖を知り尽くした漁師もいました。ですから、少しばかりの嵐には驚くはずはないと思います。しかし、よほどの大嵐だったため、そんな漁師たちのいる弟子たちもさすがに恐ろしくなりました。ここに弟子たちのまだまだ若い信仰というものが見られます。イエス様の沢山の奇跡を見ていながら、それでもなお、彼らには、イエス様が偉大な力と権威を持ったメシアであるということが分からなかったのでしょう。
 また、この場面で大事なことは、イエス様が乗り込んでいる舟にも関わらず嵐が起こっているということです。イエス様がおられる舟にはいっさい嵐が来ないということではなく、イエス様が一緒におられても嵐は来るのだということです。この嵐、人生の嵐、困難によく例えられると言いましたが、クリスチャンになれば、ただ万事うまくいく、そのように私もイエス様を信じたばかりの頃、思っていました。しかし、クリスチャンになってイエス様が一緒にいて下さっているのに、困難はあるし、恐れも来る、救われたばかりの時、「どういうことですか?」そんな風に神様に問いつめていました。しかし、大切なことは、人生の歩みの中で嵐が起こったならば、その嵐を神様によって静めて頂くことです。 

<Ⅱ 沈まない舟>
1.嵐を静めるイエス
 弟子たちの必死の声にイエス様は、「『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。」イエス様は、弟子たちに対して「なぜこわがるのか」といいます。これは、あなた方だけではなく、わたしが共に舟に乗っているではないか、という意味が含まれています。舟に乗る前、イエス様はペテロの姑を癒すなど数々のみ業によって、神の権威と奇跡を委ねられた救い主であることを現し、弟子たちはそれを体験したのです。ところが、嵐に遭遇すると弟子たちはそんな神の力を信頼できなくなるものです。私たちも同じです。
イエス様は起き上って風と湖を叱られ、嵐を静められ、沈みそうな舟を沈まない舟とされました。不思議なことです。私たちはこれをどう受け止めたらよいでしょうか。ある人は、単純に、これは作りことであって、伝説の類ではないかと考えます。しかし、天地万物を造られた神には、嵐の中で沈まない舟へと導くこともまた、可能なのです。聖書では嵐を静めるというテーマが繰り返し語られています。詩編89:9、ヨブ38:11の二ヶ所を紹介します。このように旧約聖書において、嵐のため大荒れの波を静めるのは神であると歌われています。これは、救い主である神が天地万物をお造りなった方である、という信仰があります。
また、心の嵐をも静めてくださる方です。「主よ、起きてください!」イエス様を起こして、イエス様に立ち上がって頂かなければいけません。皆さんの中でイエス様との関係があまり密接ではなく、イエス様がずっと寝ている状態という人はいませんか?イエス様を起こさなければならないのです。なかなか起きないように思っても、弟子たちのように必死に起こすことです。激しいばかりのイエス様への訴えが時に必要であり、主は嵐の中で心の舟を沈まないようにされる方です。

2.信仰の薄い者たち
このところのイエス様の言葉、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」という言葉をもう少し掘り下げてみますと、この言葉は、イエス様の弟子たちへの批判ではなく嘆きというものでしょう。時にイエス様は私たちの不信仰に嘆かれていますが、そんな場面が聖書にはいくつかあります。
イエス様がガリラヤ湖の水の上を歩いた場面では、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と言われ、マタイ17:19-20では、「『なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。』イエスは言われた。『あなたがたの信仰が薄いからです。・・」とあり、また、ルカ9:41には、「あなたがたの信仰が薄いからです。ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。・・」と、いくつもあります。私たちの不信仰が神を悩ませるのです。私たちの不信仰が神の栄光を現せなくなってしまっているのです。しかし、弱い私たちの思いもまた、イエス様はご存じです。肝心なことは、不信仰な自分でも構わないと居座るよりも、「私たちの内にある不信仰を少しでも取り除いてください。そして信仰を引き上げてください。」そう願っていくことです。そして、主が願う信仰へと導いて頂くことでしょう。
 
<Ⅲ イエスの権威の驚異>
1.自然、環境への神の権威
 このように、自然界に対して超自然的な権威を示されたイエス様です。この状況に、「人々は驚いて『いったいこの方は、どういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか』」(8:27)と腰を抜かしたわけです。ここでは、弟子という言葉が使われていません。一般の人と同じように「人々」と呼ばれています。彼らは、弟子としていろいろな神の奇跡を体験しましたが、多くの人々同様にイエスが神であられることを、信じられず、ただ呆然と驚くほかなかったからです。しかしこの圧倒的な驚きが私たちには時には、大事なのです。今も生きて働く神ご自身に直面した人というのは、神の圧倒的な驚異と偉大さの前にひれ伏すのです。この驚きは「あなたこそ生ける神の子キリストです」という信仰の告白へと導き、私たちの信仰を一層、揺るがない土台としていきます。
私の弟は、数年前この教会でイエス様を信じてクリスチャンとなりました。まだ信仰もそう長くはありません。弟が沖縄に旅行に行ったとき、台風に見舞われたそうです。台風の進路は、どう考えても変わりそうにありません。旅行の全てが台風の天気なのかと残念に思い、イエス様に心からの天気の回復を祈ったそうです。すると、弟たちがいた日の一日だけ、台風の進路が真っ直ぐでなく、その日を避けるように、凹んだラインを描いて進んでいったそうです。お陰で弟たちは、素晴らしい天気の中で旅行を楽しめたそうです。弟は、祈りにおける神の力に驚き興奮して、私に話してきました。まだ、私はそんな体験はありません。皆さんはそう仰るかもしれません。しかし、小さな心からの祈りによってもこのような自然を動かす神の力があることを信じて頂きたいと思います。

2.人生への神の権威
 今日の話しの前でイエス様は、不治の病をご自分の言葉でいやし、また、キリストの弟子となっていくことによって、人々の人生の歩みの大切な教えをされました。そして、ここでは、ご自分のことばによって、風と湖を静められたのです。このようなところから、イエス様は、人々や自然界、全てにおいての権威と神の御力を持たれた方であることを知ります。人と自然界は、私たちの環境として共存するものです。神の奇跡的な驚異は、人に対する神の愛と憐れみがそこにあります。イエス様は、私たち人生全てにおいて、神の権威を示され、導かれる方なのです。
神の存在、そしてイエス様に与えられた偉大なる神の権威は、私たちの魂を救いをもたらし、心や肉体を癒し、一人一人の人生観までに及び、そして自然や周りの環境までをも支配し、変えていくことが出来る方です。私たちの人生の全てが神の権威とその力で捉えられて導かれることを願って、共に歩んで参りましょう。




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