今日のうた

思いつくままに書いています

1★9★3★7 (イクミナ) ①

2016-05-17 06:14:38 | ⑤エッセーと物語
今村昌平企画、原一男監督のドキュメンタリー『ゆきゆきて、神軍』を
観た時には、「観たからには、見なかったことにはもう出来ない」と思いました。
2014年7月13日のブログ 
             ↓
http://blog.goo.ne.jp/keichan1192/e/3fb81ff54338b7e73d62e2c3746139da

辺見庸著『1★9★3★7 (イクミナ)』は、「読んだからには、
知らなかったことにはもう出来ない」という思いです。
             ↓
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309247526/

私にとって戦争の記憶とは、酔った時に父が話す軍隊での辛い体験であり、
ベトナム戦争を扱ったアメリカ映画であり、小さい頃に成田山参道で見かけた
白衣を着てつくばいになった傷痍軍人です。それ以上でも、それ以下でもありません。
それほど戦争に対しては無知に生きてきました。

父はお坊ちゃん育ちで気が弱く、戦地では人並みには動けなかったようです。
そのため隊では一番殴られていた、と亡くなってから戦友の方に聞きました。
またアミーバ赤痢に罹っていたこともあり、父が戦地で人を殺すことなど
考えたこともありませんでした。酔って何の屈託もなく、
戦地での体験を話していたのですから・・・。
その体験とは、中国ではおしっこが凍る程の寒さだったとか、眠いのに起床ラッパで
起こされたとか、冷たい川の水で洗濯をして手が凍ったとか、上官に殴られたとか、
そういった類の話でした。
30代、40代の私は忙し過ぎて、父の話が始まると逃げていたものです。
50代、60代になっていたら、もっと父の話に耳を傾けることが出来たのではと
悔やまれます。

『1★9★3★7 (イクミナ)』は、私が知らないことばかりでした。
読んでいて苦しい時もありました。人間は嫌な記憶ほど忘れたがるものです。
心に引っかかったものを残して置こう――その思いで、本の一部を引用させて頂きます。

(1)(浜田知明作品集『取引・軍隊・戦場』現代美術社)
 
   最近、
   赦免されて刑務所の門を出る
   一部戦犯者たちの
   誇らかな顔と
   不謹慎な言葉には
   激しい憤りを覚えずにはいられません。
   再軍備の声は巷に高く
   その眼から怪しげな光芒を放つ亡霊は、
   今や
   黒く淀んだ海面から浮び上がりつつ
   あります

   「日本に於いては/ 日本人による/ 戦争責任者の裁判は/ 行われませんでした」。

(2)この年(1937年)には、なによりも日中戦争の発端となる盧溝橋事件が
   勃発し、それまで経験したことのない規模で人間とモノと「精神」を
   上から下までやみくもに総動員する「国家総力戦」のはじまりとなった。
   国家総力戦の精神的な支柱は「挙国一致」である。挙国一致とはなんだろうか。
   大辞林にはその語義として「国全体が一つの目的に向かって同一の態度をとること」
   と、……盧溝橋事件の翌月にあたる1937年8月、近衛内閣は
   「国民精神総動員実施要綱」というのを閣議決定する。
   国家権力が「精神」をとなえ、「動員」をよびかけ、それらのことをかってに
   「閣議決定」するくらい怪しいうごきはない。
   だが、歴史の  (傍点が付けられず
   太字にしました)時間にあって、果たして、どれだけのひとがこれを
   まがうかたない危機と感じえたか。わたしはいぶかる。
   抵抗はなきにひとしかったのだ。 

(3)学徒出陣のさいにもちいられた行進曲(大日本帝国陸軍の公式行進曲、別名
   「抜刀隊」)と自衛隊・防衛大学校の観閲式の行進曲がおなじというのは、
   不思議どころかまことに異常ではないか。戦争の反省もなにもあったもの
   ではない。あまりといえば無神経ではないのか。

(4)丸山(眞男)が『忠誠と反逆――転形期日本の精神史的位相』のなかの論文
   「歴史意識の『古層』」であげていたニッポン人の歴史意識の古層を形成する
   特徴的ことばは、「つぎ」「なる」「いきほひ」の三つであった。・・・
   三つの原基的な範疇を抽出すれば、「つぎつぎになりゆくいきほひ」
   なのだという。これは、わたしに言わせれば、主体と責任の所在を欠いた、
   状況への無限の適応方法をうちにもつ、丸山に言わせれば「オプティミズム」の
   歴史観だという。・・・
   ただ、ニッポンの昭和十年代の、「狂熱」としか名状のしようのない、
   およそ論理的一貫性というもののない、熱に浮かされ、地に足がつかぬまま、
   命じられるままに大挙集合し、つきすすみ、あばれまくる様は
   「つぎつぎになりゆくいきほひ」そのものではないかとおもわれる。
 
   また、いま平和憲法をかなぐりすてるとおなじ瞠目(どうもく)すべき歴史的
   大転換点にありながら、このクニで土台がゆらぐほどの抵抗も悲嘆もないのは、
   歴史が、わたし(たち)という人間主体がかかわって新たに生まれたり
   変革されたりすべきものではなく、自然災害のように「つぎつぎになりゆく
   いきほひ」として、わたし(たち)の意思とはなんのかんけいもなく、
   どうしようもなく外在するうごきとしてとらえられているからでは
   ないのか……そううたがわざるをえない。

(5)1937年のような実時間に、自分がどうふるまい、なにをかたり、
   なにをかたらないで生きることができるのか。つきるところこれだけが
   本書のテーマなのである。すべてを時代のせいにすることはできないのだ。

   「どうも昭和の日本人は、とくに、十年代の日本人は、世界そして日本の
    動きがシカと見えていなかったのじゃないか。そう思わざるをえない。
    つまり時代の渦中にいる人間というものは、まったく時代の実像を理解
    できないのではないか、という嘆きでもあるのです。
    とくに一市民としては、疾風怒濤(しっぷうどとう)の時代にあっては、
    現実に適応して一所懸命に生きていくだけで、国家が戦争へ戦争へと
    坂道を転げ落ちているなんて、ほとんどの人は思ってもいなかった」。
   『昭和史1926-1945』(平凡社ライブラリー)に、こう書いたのは、
   半藤一利(はんどうかずとし)さんである。

   「これは何もあの時代にかぎらないのかもしれません。今だってそう
    なんじゃないか。なるほど、新聞やテレビや雑誌など、豊富すぎる情報で、
    われわれは日本の現在をきちんと把握(はあく)している、
    国家が今や猛烈(もうれつ)な力とスピードによって変わろうとしている
    ことをリアルタイムで実感している、とそう思っている。
    でも、それはそうと思い込んでいるだけで、実は何もわかっていない、
    何も見えていないのではないですか。時代の裏側には、何かもっと
    恐ろしげな大きなものが動いている、が、今は『見れども見えず』で、
    あと数十年もしたら、それがはっきりする。歴史とはそういう
    不気味さを秘めている」と言う。

(6)この小説(堀田善衛著『時間』)のもつ、なにものにもとらわれない、
   自由奔放とさえおもわれる、非ニッポン的な「個の目」にひきつけられるのだ。
   そして、小説の後段にでてくる「幾十百万の難民と死者たちをどうして
   くれるつもりか。
   日軍(辺見注=日本軍)の手になる南京暴行を、人間の、あるいは戦争による
   残虐性一般のなかに解消されてはたまったものではない」という
   主人公の心情吐露が、できごとの加害と被害のかんけいをとびこえて、
   わたしにも「たまったものではない」というおもいをかきたてるのである。
   にしても、時間とは、じつにおもいはかることのできないものだ。

(7)「君が代」はむしろ、「桃太郎」や「一列談判」の基底部にながれている
   ニッポンどくとくの「執拗な持続低音」なのであり、わたし個人の第六感で
   言えば、それらは想像の共同体をたちあげ、しばしば非ニッポンジンへの
   「いわれのない暴力」と差別とをそびきだしてきた曲であり、歌詞である。
   それらは、子どもらにさいしょの「われら」=「最強・永遠の共同体」を
   想像させ、さいしょの「他者」=「鬼、鬼が島、醜いもの、みっともないもの」
   の存在をイメージさせるだろう。前者には「死んでも尽く」し、
   後者には敵対し、さげすみ、ときには容赦ない「征伐」の対象とすることを、
   おしえるともなくおしえる。
                              ②につづく






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1★9★3★7 (イクミナ) ②

2016-05-17 06:14:15 | ⑤エッセーと物語
(8)おもいだした。「記憶は無記憶になりたいと望み、それに成功する」とは、
   やはりレーヴィが言ったのだった。……「それ(辺見注=記憶)を何度も
   否定することによって、排泄物や寄生虫を体外に出すかのようにして、
   自分自身の中から有害な記憶を輩出する」(『溺れるものと救われるもの』)。
   記憶の無記憶化はじゅうぶんに可能だというのだ。ニッポンは記憶の
   無記憶化にほぼ成功しつつある。敗戦後のニッポンは朝野あげて
   記憶の無記憶化にはげんだ。

(9)善意と悪意の定義は解体され、それらの境界は消えている。
   慈悲と獣性の共存――かもしれない。
   だが、真理のきれはしに触れえたとしても、なぞはとけない。
   獣性はどこにいったのか。
   それはいまのこの社会に細かく揉みこまれてはいないのか。
   戦後とはなんだったのか。
   そのときそこ にいなかった者たちは、
   そのときそこ にあったできごとに
   無関係でいられるのだろうか。 
   そのときそこ にいなかった者たちは、 
   そのときそこ にあったできごとに
   ついて、今後とも無記憶でいられるものだろうか。
   なにかが、ぶりかえしはしないのか。
   いま、ひょっとしたら、大変なことがぶりかえしつつあるのではないか。
   記憶の堰(せき)が決壊し、氾濫することはないのだろうか。

(10)街にはどこかにかならず異形の人がいた。底に車輪をつけたミカン箱や
    リンゴ箱にのり、両手にもった棒で地面をかき、人ごみをこいでいく、
    下肢を失ったひと。ヒロポン中毒者。
    母子の物乞い。気の触れた物乞いもいた。駅前には、白い浴衣のような
    病衣を着て軍帽をかぶった傷痍(しょうい)軍人がいて、
    軍歌「戦友」をアコーディオンで弾いたり、ハーモニカで吹いたりしていた。
    「ここは御国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕陽に照らされて 
    ともは野末(のずえ)の石の下……」。
    かれらには四角い「影」と似たつよい磁力があった。眼光が鋭かった。
    白衣がめくれると義足や義手がむきだされる。
    地べたにすわっておじぎしつづける男もいた。
    両親も親戚もかれらと目をあわせようとはしなかった。
    「ニセモノだ」「ニッポンジンはあんなことをしない」「朝鮮人だ」――。
    白衣の者らには聞こえぬように、吐きすてるように言い、
    わたしの手をつよくひいてとおりすぎた。

    後年聞いたのだが、わたしが二歳の夏、天皇ヒロヒトが「巡幸」と称し、
    故郷をおとずれて、ひとこと「あっそう……」と言ったらしい。
    傷痍軍人たちや異形のひとびは事前にどこかにおいはらわれたという。

(11)わたしはほんとうにものを知らない。むかしもいまも。
    あまりにも不勉強で無知である。
    そうおもい知らされたことがこれまでにいくたびもあるけれども、
    「大日本傷痍軍人歌」のときもそうだった。
    その作詞者が「春よ来い」とおなじであったこともわれしらずかるく息を
    のんだが、さらに、作詞者はすなわち相馬御風(そうまぎょふう)であり、
    早稲田大学校歌「都の西北」を作詞したひとでもあるとおしえられた
    ときにはかるい眩暈(めまい)さえおぼえた。・・・

    「大日本傷痍軍人歌」と「都の西北」を、こころみにまぜこぜにしてみる。
    おもいつくままチャンポンにしてみる。
    「あつまり散じて 人はかわれど 仰ぐは同じき 理想の光 
     前途は遠し皇国の 使命果たさで止むべきか 大和武夫の真心の 
     一徹何か成さざらん わせだ わせだ・・・」。・・・
    だが、「都の西北」も、あまたの校歌や応援歌、寮歌、社歌、
    かつてのいちぶ労働歌とおなじく、軍歌とじつに親和的な歌だったのだ。
    いや、「都の西北」もこの国の軍歌的古層のうえにたてられた、
    軍歌と同根の歌であったと言うべきであろう。……

    にしたって、「元より君の御為に 捧し身なり生きの身の 生きの限りは
    日の本の 心の花のつわものぞ」の歌詞の、ひとをひとともおもわない卑しさ、
    下品さはどうだ。
    これを負傷した「皇軍」将兵だけでなく、朝鮮人傷痍軍人にまで
    うたわせた無神経はどうだ。
    駅頭の傷痍軍人をニセモノ→朝鮮人ときめつけた敗戦後のニッポンの
    手のつけられない差別と身勝手さはどうだ。
 
(国家総動員法を連想させる「一億総活躍社会」、いまだに「抜刀隊」が
 自衛隊・防衛大学校の観閲式の行進曲として使われいる現実、
 そして軍歌と紛う校歌や応援歌など――こうしたことが私たちに
 サブリミナル効果のようなものを、もたらしているとは考えられないだろうか)

(12)元大元帥陛下=昭和天皇はその後、原爆投下について「遺憾には思って
    いますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に
    対しては気の毒であるが、 
    やむを得ないこと と
    私は思っています」
   (傍点〈太字を用いました〉は辺見。1975年10月31日、
    日本記者クラブ主催「昭和天皇公式記者会見」)とかたる。
    わたしは唖然とした。だが、ニッポンはそうじてとくにがく然とも
    唖然ともせず、怒りもしなかったのだ。
    ニッポンはその後も、原爆をまるで「自然災害」のごとくにかたり、
    みずからの侵略責任と相殺するかのように、原爆投下の責任を米国に
    問うことはなかった。

(こうしたことで、全てのことがうやむやにされていったのだろう。
 それにしてもこの会見が終戦直後ではなく、1975年だったとは……)

(13)いつだったか、まだ子どものころ、酔った父がとつじょ言ったことがある。
    静かな告白ではない。
    懺悔でもなかった。野蛮な怒気をふくんだ、かくしようもない、
    かくす気もない言述である。
    この記憶はまだ鮮やかだ。「朝鮮人はダメだ。あいつらは手で
    ぶんなぐってもダメだ。スリッパ(軍隊で「上靴(じょうか)」と
    よばれていた、いかにもおもそうな革製のスリッパ)で
    殴らないとダメなんだ・・・」。
    耳をうたがった。発狂したのかとおもった。
    いまでもわからないのだ。ニッポンという”事象”に伏在する病が、
    父をよくわからなかったように、よくわからない。
    わたしは父の戦争経験を忖度し、非難を抑制してきた。
    しかし、かれが激昂し、スリッパをふりあげてひとを打ちすえている
    図にはとても堪えられなかった。いまも堪えがたい。

(30年ほど前になるが、私はある県立高校で働いていた。体育館で全校集会が
 行われるので、多くの生徒たちが集まってきていた。
 体育館の入り口には体育教師が立ち、自分のサンダルの片方を脱いで、
 定刻に遅れて来る生徒たちを待ち受けていた。そして入って来るや、
 その汚れたサンダルで、男子、女子かまわず一人一人の頭を殴り始めたのだ。
 逃れる生徒もいたが、もろに殴られる生徒もいた。誰もそれを止める
 教師はいなかった。
 ALTとして働いていたアメリカ人の女性だけが、
 「テリブル!アンビリーバブル!」と言って顔を背け震えていた。
 それから数か月後、「日本の全てが私を疲れさせる」という言葉を残して、
 彼女は帰国してしまった。
 この高校は英語教育で文部省のモデル校になるなど、ごく普通の高校だった。
 私も含め、こうした暴力に対して誰も何も言えない日本人。
 見て見ぬふりをする日本人。今も学校でこのようなことが起きているのだろうか)

(14)「上靴バッチ」を朝鮮人にたいしてやった父と、それをやったことはない、
    父の長男であるわたしのかんけいとはなんなのだろうか。
    かんけいはないのか。やはり、ある、とおもう。
    わたしが想起したくなくても想起するかぎりにおいて、
    父の歴史とわたしの歴史は交叉せざるをえないのだ。
    ひとが歴史を生きるとはどういうことなのだろうか。
    歴史的時間を生きるとは。
    それは、ニッポンジンでも朝鮮人でも、韓国人でも、自己の生身を
    時間という苦痛にさらし、ひるがえって、時間という苦痛にさらされた
    他者の痛みを想像することではないのか。
    わたしの記憶と父の記憶は、傷んだ筏(いかだ)のように
    繋留されたままである。
    からだに時間の痛みとたわみを感じつつ、自他の「身体史」を生きること――
    それが歴史を生きることなのか。             ③につづく



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1★9★3★7 (イクミナ) ③

2016-05-17 06:13:50 | ⑤エッセーと物語
(15)父も、ほとんどの初年兵がそうであったように、
   「皇軍」でんとうのシゴキをうけていた。
    ビンタはしょっちゅう。左右の頬を殴打する「往復ビンタ」は日常茶飯事。
   「革帯」(ベルト)をつかうシゴキもあった。二等兵二人を相対させて
    たがいにビンタをはらせる「対抗ビンタ」もあたりまえ。……
    すこしでも手をぬきでもしたら古参兵のリンチをうける。
    兵士らはたがいにたがいをおとしめ、身体的な苦痛と屈辱感を
    味わわせることによってシステマティックにかつ徹底的に
   「個」と「私」をうばいつくし壊しつくした。
    殴られる被害者は、じゅんぐりに殴る加害者になっていった。
    きちんとそれを継承し踏襲した。そこに論理はなかった。

    「ぼくという人間の基本的権利はいっさい消滅した」という
    父の文をわたしはうたがわない。
    「あの戦争はなんだったのだろう……」とひとりごち、昭和天皇に
    問うてみたいという父の心情もわからぬではない。
    だが、これはたかのぞみだろうか、かれの自己表白には、この国ではあまりにも
    いっぱん的な、だからこそいつまでもひきずる黒い穴のように
    無神経な欠如があるとおもうのだ。それは、みずからを「加害者」ではなく、
    「被害者」の群れのなかに、ほとんどためらいもなく立たせてしまう
    作用をはたす、意識の欠落である。

(16)底知れないほど低級な、ドブからわいたような、およそ深みなど
    まったくない力に、げんざいがやすやすと支配されていること。
    世界はじつのところ、もうタガがはずれ底がぬけてしまっていること。
    かつては十年単位くらいで変貌していた世界が、いまは数カ月か
    数週間でせわしなく変容していること。世界内存在が根底から
    こわれているのかもしれないこと。
    人間が在ることの根拠(または世界の根拠)も失せていると感じられること。
    おそらく「時間」もこわれてしまっているだろうこと。
    時間は、ひょっとしたら、未来にではなく、過去にむかって逆むきに
    うつろっているかもしれないこと。……
    
    にもかかわらず、「悪」とはなにか、「善」とはなにか、「正義」とはなにか、
    「敵」とはだれか、「抑圧者」とはだれか――がよくわからないこと。
    ひとびとがそれらをかつてよりいっそうかんがえようとしなくなったこと。
    人間世界のありとある概念を、あまねく骨の髄まで浸潤しつくしているものは、
    とどのつまり、人間のためのものではなく、にもかかわらず人間たちが
    死ぬまで憑依(ひょうい)しつづける〈資本〉というまぎれもない
    最終勝者であること。
    あらゆることがふたしかななかで、それだけがたしかであること。
    この先にはまちがいなくろくでもないことしかまってはいない、
    とわたしだけではなく、多くのひとびとがかつてのどの時期よりも
    つよく確信していること。

(17)「然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起しながら、我こそ戦争を
     起したという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。 
     何となく 何物かに押されつつ、
     ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したという
     この驚くべき事態は何を意味するか」
     (丸山眞男「超国家主義の論理と心理」1946年)。
    コノオドロクベキジタイハナニヲイミスルカ?70年間、
    オドロクベキことに、だれもついにまともに答ええなかったのだ。

(18)戦後30年の1975年10月31日、皇居「石橋の間」でおこなわれた
    天皇の記者会見ほどすごいできごとは、現代史をつうじてもなかった。……

    (問い)また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えに
        なっておられますか、おうかがいいたします。
    (天皇)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面は
        あまり研究もしてないので、よくわかりませんから、
        そういう問題についてはお答えができかねます。

    爾来、このクニの記憶も思想も文学もジャーナリズムも、とろけた
    煮こごりのように意味をなくしている。

(19)(……)今次の戦争に於ける、中国や比律賓(フィリピン)での日本軍の
    暴虐な振舞についても、その責任の所在はともかく、
    直接の 下手人は一般兵隊であったという
    痛ましい事実から目を蔽ってはならぬ。
    国内では「卑しい」人民であり、営内では二等兵でも、一たび外地に赴けば、
    皇軍として究極的価値と連なる事によって限りなき優越的地位に立つ。
    市民生活に於てまた軍隊生活に於て、圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、
    一たび優越的地位に立つとき、己れにのしかかっていた全重圧から
    一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられたのは
    怪しむに足りない。彼らの蛮行はそうした乱舞の悲しい記念碑では
    なかったか。
    (丸山眞男「超国家主義の論理と心理」『超国会主義の論理と心理 他8篇』
     岩波文庫所収)

(20)2015年げんざいのげんじつに生きるわたしも痛感しているのは
    なんともせつめいがつかないことである。南京の大虐殺はあった。
    にもかかわらず、いっぽうの当事者が「なかった」
    「それほどの数ではなかった」といいつのり、
    もしくは奈落のさまをあらかた忘れさり、
    そうするうちに忘却者も記憶者もつぎからつぎに鬼畜に入っている。
    できごとは当事者たちをうしなって虚空に宙づりになり、
    そのために、いつまでたっても終わることができない、
    永遠の「未了」状態から脱することができずにいる。
    陳英諦(堀田善衛著『時間』に出てくる主人公)は嘆息する。
    まるで2015年げんざいを予見するように。

(21)何百人という人が死んでいる――しかし何という無意味な言葉だろう。
    数は観念を消してしまうのかもしれない。この事実を、黒い眼差しで
    見てはならない。
    また、これほどの人間の死を必要とし不可避的な手段となしうべき
    目的が存在しうると考えてはならぬ。死んだのは、そしてこれから
    まだまだ死ぬのは、何万人ではない。
    一人一人が死んだのだ。一人一人の死が、何万にのぼったのだ。 
    何万と一人一人。この二つの数え方のあいだには、戦争と平和ほどの差異が、
    新聞記事と文学ほどの差がある……。(堀田善衛『時間』)……

    これは、巷間、南京の虐殺といわれているものは、じっさいには
    たいした数ではないだろうという、過小評価派への反論でもあり、
    南京大虐殺への反論であり、戦争を死者数と破壊規模だけで
    ながめる酷薄な「黒い眼差し」への根本的な否定でもあった。
    「死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、
     一人一人が死んだのだ」の指摘はじゅうだいである。
    「一人一人が死んだのだ」とは、ひとりびとりの事情(わけ)が
    問答無用とばかりに消去されたこととおなじことなのであり、
    堀田は、大量虐殺をその「大量」さゆえにいきどおるのではなく、
    おのおのが、すなわち、かならずじぶん固有のワケを負うた
    「ひとりびとり」が、細かな記憶ごと抹殺されたのに、
    ひとというものの〈ひとりびとり性〉がいつまでも無視されていることに
    臓腑もちぎれるほどふんがいしたのだった。    ④につづく



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1★9★3★7 (イクミナ) ④

2016-05-17 06:13:15 | ⑤エッセーと物語
(22)げんざいのニッポンの政治権力は、ファルスの大小はべつとして、
    体質的に ”戦争オルガスムス”をこいねがい、天皇制を天皇じしんよりも
    はるかに熱心に護持・強化したがり、さらにはそれを利活用したがってもいる、
    戦後まれにみるウルトラ右翼思想のもちぬしたちではないのか。
    かれらをなんとしてもたおさなくてはならない。けれども、
    〈なんとしてもたおさなくてはならない〉という、かつてつかいふるされた
    ことばのその貧相な語調がいやになる。

(23)安倍政権はすでに2015年5月に、じじつじょうの「独裁宣言」を
    していた、とわたしはおもう。
    首相は、集団的自衛権を行使するばあいでも「他国の領土、領海、領空に
    派兵することはない」と詭弁をろうし、民主党代表がそれなら法律に
    「派兵しない」と書きこむべきだともとめると、
    首相はたからかに言ったものだ。

    「われわれがていしゅつする法案の説明としてはまったく正しいと
     思いますよ。私は総理大臣なのですから!」。

(24)2015年夏にほぼ完成しつつあるものは安保法制だけではない。
    ニッポンとニッポンジンアイデンティティのすりかえも、
    これまでのところ成功りにすすめられている。
    そうじてニッポンとニッポンジンたちは「戦争の加害者」という
    重苦しい歴史的アイデンティティから「戦争の被害者」という
    自己認識にスムーズに転換しつつある。
    そうして記憶のブレから「反戦平和」をとなえるひとびともすくなくない。
    記憶のブレから生じたものだって「反戦平和」はわるくないけれども、
    「安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから」という
    原爆死没者慰霊碑前面にきざまれた不可思議な文言に象徴されるように、
    被害と加害のかんけいは「禍害」いっぱんの不幸としていっしょくたに
    融かされてしまう。

    ために、戦争法を成立させた安倍政権でも、原爆を投下しながらいちども
    公式に謝罪をしたことのない米国の大使でも、ヒロシマは
    〈だれが・だれに・なぜ〉という被害――加害――理由の、
    主体とかんけいのありようをほどよくあいまいにしてくれるし、
    「どの面さげて!」とののしられようとも、各人がいけしゃあしゃあと
    「平和の使徒」をよそおううえでまだまだ利用価値のある「場」
    なのである。
    もとより戦争においては、加害者個人が被害者個人となり、
    被害がわが加害がわに転位することはざらである。
    しかし、いったん殺されてしまった者が生きかえることは  
    どうあってもできないのだ。
    「口実をさがすためにしか歴史を学ばないのか」――『時間』の主人公、
    陳英諦は南京に侵攻してきた日本軍将校に無言でいきどおる。
    将校はいかにも惨劇をうれえるような口調で、しかし、きっぱりと言う。
    「われわれの国の総力を傾けてアジアの責任をとろうとしているのです」。
    ここには埋めようのない溝が暗々と口をひらいている。
    「口実をさがすためにしか歴史を学ばない」権力者を
    われわれはいまもいただいている。

    ニッポンとニッポンジンはいま、めぐりめぐって、ぜんたいとして
    戦争の加害者ではなく、”被害者意識”こそをもって(もたされて)
    いるようにみえる。それは官民あげての歴史の大胆かつ危険きわまる
    書きかえ、とりわけ侵略や傀儡(かいらい)政権樹立、大量殺りく、
    強制連行などの負の歴史の消去と忘却奨励が奏功したけっかでもあろう。
    が、それだけではなく、そもそも無差別に殺し、略奪し、手あたり
    しだいに強姦し、捕虜を生体解剖をしたがわの記憶よりも、いいかえれば
    加害がわよりも、それらを生身になされた被害がわの記憶のほうが、
    くらべものにならないほど圧倒的にあざやかで、ゆたかで、
    カラフルなのであり、そうしたヴィヴィッドな被害の記憶は
    代をつないでかたられていく。
    加害の記憶はどうしても継承されがたい。

    ・・・ふくむニッポンとニッポンジンは、これまでみずからを
    「戦争加害者」として認識したことがあっただろうか。そのことの
    罪と恥について身も世もなく痛哭して、被害者たちに心底わびたことが
    いちどでもあろうか。玉砕をしいられた南方戦線、おびただしい住民を
    死においやった沖縄戦の記憶が、それらの責任追及どころか、
    いつのまにかニッポンとニッポンジンの不幸な戦争の歴史、被害の記憶
    いっぱんにすりかわってしまったのはなぜなのだろうか。

(25)このクニはいまだにこんな空気と記憶のぬけがらが浮遊している。
    ニッポンはかつて、なんとなくそう なって
    しまった戦争にまきこまれる こととなり 、
    父祖たちはなんとなく兵隊に  、
    なんとなくたくさんのひとびとを殺す ことになり 、
    また、なんとなく多くのひとびとが殺される こととなり 、
    いつのまにか原爆が落とされる ことになり  、
    気がついたら、戦争がおわっていて、
    焼け野原に なっていた 。
    そうだろうか?
    なんとなく安倍政権がたんじょうすることとなり、
    なんとなく秘密保護法がとおることとなり、
    なんとなく武器輸出三原則がへんこうされて防衛装備移転三原則になり、
    いつのまにか憲法が有名無実と化することとあいなり、
    ハッと気がついたら、戦争法案が可決されるということに
    なっていた――ように、ニッポンのこんにちは、
   「 なってしまった 」のだろうか。

    ふたたび丸山眞男をひく。「これだけの大戦争を起しながら、
    我こそ戦争を起したという意識がこれまでの所、
    どこにも見当たらないのである。
    何となく 何物かに押されつつ、
    ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は
    何を意味するのか」。
    どのような苦痛や犠牲があっても、この問いにだけは必死で答える
    ひつようがあった。
    「この驚くべき事態」の意味は、ほかのなにをおいても、
    解明されなければならなかった。
    70年というじゅうぶんすぎる時間があったのに、しかし、
    それはなされはしなかった。
    ベリベリと皮膚をはがされたじぶんの顔を正視せずにすますように、
    わたし(たち)はこの問いに答えようと苦悶することさえなかった。

(26)だとしたら、安倍晋三なるナラズモノは、いったいなにから生まれ、
    なににささえられ、戦争法案はなぜいともかんたんに可決されたのか。
    「この驚くべき事態」は、じつは、なんとなくそう 
    なって しまったのではない。
    ひとびとは歴史(「つぎつぎになりゆくいきほひ」)にずるずると
    押され、引きずりまわされ、悪政にむりやり組みこまれてしまったかに
    みえて、じっさいには、その局面局面で、権力や権威に目がくらみ、
    多数者やつよいものにおりあいをつけ、おべんちゃらをいい、
    弱いものをおしのけ、あるいは高踏を気取ったり、周りを忖度したりして、
    いま、ここで、ぜひにもなすべき行動と発言をひかえ、知らずには
    すませられないはずのものを知らずにすませ、けっきょく、
    ナラズモノ政治がはびこるこんにちがきてしまったのだが、
    それはこんにちのように なってしまった  
    のではなく、わたし(たち)がずるずるとこんにちを
   「 つくった 」と
    いうべきではないのか。 (引用ここまで)


(若い頃に観た『プラトーン』のテレビ放送があったので、録画して観ることに
 した。だが、ものの10分も経たないうちに息苦しくなってきた。
 何度も何度も観ようとするのだが、体が受け付けない。
 ベトナムの民と、中国の民がダブって見えてしまうのだ。結局、録画は削除した。
 『1★9★3★7 (イクミナ)』が、私の中に化学変化を引き起こしたのだろうか)

 ここ数年、自分は歴史の転換点に立っているという思いを強くしている。
 こんな理不尽なことが大手を振ってまかり通ってしまおうとしているのに、
 私の周りの人たちは誰も何も言わない。危機感すらないように見える。
 「政治の話はタブー」という社会通念がはびこっているのだろうか。
 「女はちょっとくらいバカで可愛い方がいい」「政治の話をする女は生意気だ」……
 こんな前近代的な考えに、今も女性自身が捉われているのだろうか。

 私は政権のバックにいるであろう、目に見えないものが怖い。
 サイバー攻撃は数知れず、それに対して守ってくれる組織というものが私にはない。
 それでも、辺見さんがお書きのように、今ここでおかしいと感じながら何もせずに、
 何も言わないでいたら、それはおかしなものに加担してしまうことになる――
 という思いを、一層、強くした。

 無知は怖い。何も知らずに平気で生きてきてしまった自分が怖い。
 次に堀田善衛著『時間』を読もうと思うのだが、読み通せるかは自信がない)
       ↓
http://www.amazon.co.jp/%E6%99%82%E9%96%93-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%A0%80%E7%94%B0-%E5%96%84%E8%A1%9E/dp/4006022719/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1463607500&sr=1-1&keywords=%E5%A0%80%E7%94%B0%E5%96%84%E8%A1%9B 

追記
加害国ニッポンの作家、堀田善衛がひきうけ、みずからが塑像した中国人・陳英諦に
仮託するかたちで、惨劇を活写し、ひとはここまで獣性をあらわにできうるものか、
ニッポンジンとはなにか、歴史とはなにか――を縦横に思索させたのである。 
(辺見庸さんが『時代』の解説を書いています。その一部を引用しました)

主人公を加害者ではなく、被害者という形を取ったからなのかは分らないが、
一気に読み通しました。
主人公が思索する場面や美しく詩的描写が多く、また作者の歴史観・哲学などが窺えて
案じていたような残虐なシーンでたじろぐようなことはありませんでした。
1955年新潮社から出版されたものが、2015年11月17日第1刷発行で
岩波書店から出ています。今、読むべき本だと思いました。
(2016年5月30日 記)

 
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