2014年1月27日、朝日新聞 「声」 に投稿したボツ原稿です。
いつからだろう。若者の間にKYという言葉が流行り、
自分の意見を言わなくなったのは。自分だけが目立たないように、
周りの空気を読むことに汲汲として見える。
人と違う意見を言わず、自己主張をしない若者は、
為政者にとって都合のよい存在になりはしまいか。
まして道徳教育という一つのベクトルが与えられるようになると、
更にこの傾向は強まるのではないだろうか。
世の中には絶対的な 「正」 は無い。正しいと思うことも、
見方を変えれば、違う側面が見えてくる。
人と違う意見を言ったり、聞いたりすることで、物事を複合的にあぶり出し、
自分の意見をより相対的に見ることができるようになるのでは
ないだろうか。
こうした訓練の場として、道徳教育よりディベートの時間を
取り入れて欲しいと、切に願う。
* 「ディベート」 という言葉に拘り、 「反対意見」 という言葉を使いましたが、
「反対意見」 を全て 「人と違う意見」 に改めました。
いつからだろう。若者の間にKYという言葉が流行り、
自分の意見を言わなくなったのは。自分だけが目立たないように、
周りの空気を読むことに汲汲として見える。
人と違う意見を言わず、自己主張をしない若者は、
為政者にとって都合のよい存在になりはしまいか。
まして道徳教育という一つのベクトルが与えられるようになると、
更にこの傾向は強まるのではないだろうか。
世の中には絶対的な 「正」 は無い。正しいと思うことも、
見方を変えれば、違う側面が見えてくる。
人と違う意見を言ったり、聞いたりすることで、物事を複合的にあぶり出し、
自分の意見をより相対的に見ることができるようになるのでは
ないだろうか。
こうした訓練の場として、道徳教育よりディベートの時間を
取り入れて欲しいと、切に願う。
* 「ディベート」 という言葉に拘り、 「反対意見」 という言葉を使いましたが、
「反対意見」 を全て 「人と違う意見」 に改めました。