よく見かける群の定義の述べ方に,数理論理学的観点から見て不適切な点が含まれていることを,私は本橋信義氏の『新しい論理序説』(朝倉書店,1997 年)で初めて知った。
「よく見かける群の定義」というのは次のようなものである。
<quote>
集合 G を空でないとして,次の 3 つの性質をすべて満たすような G×G から G への写像 ・★・が定義されているとき,G は写像 ★ に関して群をなすという。
</quote>
この定義の問題点は,「ある元 e が存在して」という言明は項目 2 内のみにしか効力を及ぼさないように思えるのに対し,項目 3 で用いられている文字 e は項目 2 で導入されたものと同じ e のことであると暗黙の裡に了解しているように取れることである。
この問題点は,項目 2 と項目 3 の順序を入れ替えてみるとはっきりする。項目 3 だけを見ては e という文字が何を表しているのか全く不明である。
それでは,3 つの条件の述べ方を次のようにすれば問題点は解消されるであろうか。
<改良案 A>
項目 3 に現れる e の素性が分からない,という問題は解消されたかに見えるが,項目 2 と項目 3 が完全に分断されてしまい,両者に現れる e の間の関連が全く失われてしまった。実際,項目 3 の e を別の文字 f に変更してしまっても論理的な内容は一切変わりないのである。
実は,それはそれで興味のあるネタを提供してくれてはいる。<改良案 A> の条件は,項目 2 と項目 3 の e が同じものとは限らないという点で,通常の群の公理よりも弱いものになっている。群の公理をそのように弱めたとしても,果たして標準的な群の公理と同値であるか,という問いについて考えるのは,ちょっとした暇潰しくらいにはなるであろう。(この問いに対する答えは本記事の最後に記しておく。)
これよりも次の案の方がマシであろう。
<改良案 B>
項目 3 に但し書きを追加したので,読み手に項目 2 と項目 3 の e が同じものを指しているらしいとはっきり伝わる。群の定義を誤解なく伝えるという目的からすれば及第点ではなかろうか。
ただし,このような但し書きはいわばメタな言明であって,1 階述語論理の枠から逸脱していると思われる。
ここまで考察を進めていくと,項目 2 の冒頭に述べられた「集合 G のある元 e が存在して」の後に項目 2 の条件を述べただけで打ち切ってしまうのではなく,そのまま項目 3 を続けて記述すればよいのではないかと思い至る。
したがって,教科書風の記述スタイルであれば,次のようにすればよいであろう。
<改良案 C>
<quote>
空でない集合 G において,3 つの任意の G の元 x, y, z に対して結合法則と呼ばれる等式
(x★y)★z=x★(y★z)
を満たし,さらに単位元と呼ばれる G に属する特別な元 e があって,任意の x∈G に対して
・ex=xe=x が成り立ち,
・xy=yx=e を満たす y∈G が存在する
ような,G×G から G への写像 ★ があるとき,G は写像 ★ に関して群をなすという。
</quote>
このような定義の述べ方は,本橋氏が上掲書の「あとがき」(p.146) で「正しい定義が書かれている本」の一例として挙げている,遊星社発行の『反例からみた数学 改訂増補版』(1989 年)の p.124 に記された和田秀男氏による定義と同様のものである。
なお,私は日本数学界の「学派」について疎いが,和田秀男氏は彌永(いやなが)昌吉氏の下で学位を取得しており,和田,本橋両氏の名は例えば彌永氏の『数の体系(上)』(岩波新書 815,1978 年)の「まえがき」に述べられた謝辞の中に見られるので,ある意味「彌永学派(スクール)」といってよいであろう。
そうすると,そもそも彌永氏はそのいくつもの著作の中で群の定義を述べる必要に迫られた際に,果たして「正しい」定義を述べているか,という,どちらかというと悪趣味な興味・関心が湧いてくる。このような「群の定義狩り」は,その成果を大っぴらにするのではなく,個人的にひっそり愉しむ程度にとどめておくべきであろうが,たまたま手元にちくま学芸文庫版の『公理と証明 証明論への正体』があったので,その調査結果のみ書き留めておこう。
同書 p.60 に「§ 12 群の公理系」がある。特に p.61 から p.62 にかけて群の公理系が明確に述べられているが,そこでは初めに「単位元と呼ばれる特定の元」e,集合上の演算,逆元と呼ばれるものを表す記号(いうなれば,集合の任意の元に対して逆元と呼ばれる,同じ集合に属する何がしかの元を対応させる写像)を列挙した上で準備を整え,それらが具体的にどのような特定の性質を満たすことを要求するかを,(1) 演算の結合法則,(2) 単位元の性質,(3) 逆元の性質の順に挙げている。「まえがき」によると,この部分は彌永氏と赤攝也(せき せつや)氏の共著とのことであるが,赤氏の単著になる p.124 から p.125 にかけての群の公理系の叙述は,本記事の冒頭に掲げた「よく見かける群の定義」とほぼ同等の体裁になってしまっている。ただし,項目 2 のところで「e を単位元という」といった,記号 e は特別な元に対して用いていることを匂わせるニュアンスを含めている。
他に,『数の体系(上)』の「まえがき」に登場する松坂和夫氏の『代数系入門』あたりも確認したい衝動に駆られるが,これもたまたま手に取った堀田良之(りょうし)氏の『代数入門―群と加群』(裳華房,1987 年)での群の定義の述べ方を最後に紹介して本稿を締めたい。
それは,まず集合 G 上に結合法則を満たす 2 項演算 ★ が定義されているとして,それを半群と呼ぶ,と述べることから始める。
そして,群の定義の項目 2 の性質を持った単位元 e を持つ半群をモノイドという,と続ける。
最後に,2 項演算と単位元を有するモノイドにおいて,いずれの元 x も項目 3 に現れる逆元 y をもつとき,群という,と締めるのである。
群の理論のみに焦点を当てたいのであれば,半群やらモノイドやらといった概念や用語は初学者の負担を増やすものとして避けたいところであるが,堀田氏の書は代数系といった理論への入門を趣向しているのであるから,基本的な代数系の紹介をするのは自然な在り方といえよう。そして読者はむしろ初めは何でもアリに近い「半群」から,単位元持ちの「モノイド」へと進化し,最後に「群」へと到達する,集合へ次第に構造が追加されていくストーリー展開は魅力的なものに映るのではなかろうか,と思うのである。そのようなわけで,私は堀田氏のような漸次構造を追加していく定義の述べ方が好ましく感じているのである。
そういえば,本橋氏と同様の指摘を最近別のどこかで見かけた記憶があるが,それがどこでだったか思い出せないでいる。確か,Bourbaki の定義は正しい定義に近いものだといったような評も書かれていたように記憶している。
いつもお世話になっている Wikipedia の記事だったかと今確認してみたが,「群(数学)」の項目で確認できた定義は「よく見かけるソレ」と同様の体裁であったし,わざわざ論理式も付しているのに,項目 3 の記号 e が束縛されておらず,自由変数のままブラブラしているので,記事の執筆者は本橋氏が指摘したような問題点に気付いていないように見受けられる。
あ,だったら自分で編集して「正しい」定義に直せばいいのか。
それはいずれ,時間があって,かつ,気が向いた時にでも。
【答え】
2 つの元 e, a のみからなる集合に,「積」が
ee=e,
ea=a,
ae=a,
aa=a
という規則で入っているとき,この積が結合法則を満たしていることが確認できる。
また,任意の x について ex=xe=e,ax=xa=a が成り立っているが,e を項目 2 の e,a を項目 3 の f とみなすこともできる。
したがって,必ずしも e=a とは限らないのである。□
「よく見かける群の定義」というのは次のようなものである。
<quote>
集合 G を空でないとして,次の 3 つの性質をすべて満たすような G×G から G への写像 ・★・が定義されているとき,G は写像 ★ に関して群をなすという。
- 集合 G の 3 つの任意の元 x, y, z に対して結合法則 (x★y)★z=x★(y★z) が成り立つ。
- 集合 G のある元 e が存在して,任意の x∈G に対して ex=xe=x が成り立つ。
- 任意の x∈G に対して,xy=yx=e となる y∈G が存在する。
</quote>
この定義の問題点は,「ある元 e が存在して」という言明は項目 2 内のみにしか効力を及ぼさないように思えるのに対し,項目 3 で用いられている文字 e は項目 2 で導入されたものと同じ e のことであると暗黙の裡に了解しているように取れることである。
この問題点は,項目 2 と項目 3 の順序を入れ替えてみるとはっきりする。項目 3 だけを見ては e という文字が何を表しているのか全く不明である。
それでは,3 つの条件の述べ方を次のようにすれば問題点は解消されるであろうか。
<改良案 A>
- 集合 G の 3 つの任意の元 x, y, z に対して結合法則 (x★y)★z=x★(y★z) が成り立つ。
- 集合 G のある元 e が存在して,任意の x∈G に対して ex=xe=x が成り立つ。
- 集合 G のある元 e が存在して,任意の x∈G に対して,xy=yx=e となる y∈G が存在する。
項目 3 に現れる e の素性が分からない,という問題は解消されたかに見えるが,項目 2 と項目 3 が完全に分断されてしまい,両者に現れる e の間の関連が全く失われてしまった。実際,項目 3 の e を別の文字 f に変更してしまっても論理的な内容は一切変わりないのである。
実は,それはそれで興味のあるネタを提供してくれてはいる。<改良案 A> の条件は,項目 2 と項目 3 の e が同じものとは限らないという点で,通常の群の公理よりも弱いものになっている。群の公理をそのように弱めたとしても,果たして標準的な群の公理と同値であるか,という問いについて考えるのは,ちょっとした暇潰しくらいにはなるであろう。(この問いに対する答えは本記事の最後に記しておく。)
これよりも次の案の方がマシであろう。
<改良案 B>
- 集合 G の 3 つの任意の元 x, y, z に対して結合法則 (x★y)★z=x★(y★z) が成り立つ。
- 集合 G のある元 e が存在して,任意の x∈G に対して ex=xe=x が成り立つ。
- 任意の x∈G に対して,xy=yx=e となる y∈G が存在する。ただし,この e は項目 2 の e と同じものとする。
項目 3 に但し書きを追加したので,読み手に項目 2 と項目 3 の e が同じものを指しているらしいとはっきり伝わる。群の定義を誤解なく伝えるという目的からすれば及第点ではなかろうか。
ただし,このような但し書きはいわばメタな言明であって,1 階述語論理の枠から逸脱していると思われる。
ここまで考察を進めていくと,項目 2 の冒頭に述べられた「集合 G のある元 e が存在して」の後に項目 2 の条件を述べただけで打ち切ってしまうのではなく,そのまま項目 3 を続けて記述すればよいのではないかと思い至る。
したがって,教科書風の記述スタイルであれば,次のようにすればよいであろう。
<改良案 C>
<quote>
空でない集合 G において,3 つの任意の G の元 x, y, z に対して結合法則と呼ばれる等式
(x★y)★z=x★(y★z)
を満たし,さらに単位元と呼ばれる G に属する特別な元 e があって,任意の x∈G に対して
・ex=xe=x が成り立ち,
・xy=yx=e を満たす y∈G が存在する
ような,G×G から G への写像 ★ があるとき,G は写像 ★ に関して群をなすという。
</quote>
このような定義の述べ方は,本橋氏が上掲書の「あとがき」(p.146) で「正しい定義が書かれている本」の一例として挙げている,遊星社発行の『反例からみた数学 改訂増補版』(1989 年)の p.124 に記された和田秀男氏による定義と同様のものである。
なお,私は日本数学界の「学派」について疎いが,和田秀男氏は彌永(いやなが)昌吉氏の下で学位を取得しており,和田,本橋両氏の名は例えば彌永氏の『数の体系(上)』(岩波新書 815,1978 年)の「まえがき」に述べられた謝辞の中に見られるので,ある意味「彌永学派(スクール)」といってよいであろう。
そうすると,そもそも彌永氏はそのいくつもの著作の中で群の定義を述べる必要に迫られた際に,果たして「正しい」定義を述べているか,という,どちらかというと悪趣味な興味・関心が湧いてくる。このような「群の定義狩り」は,その成果を大っぴらにするのではなく,個人的にひっそり愉しむ程度にとどめておくべきであろうが,たまたま手元にちくま学芸文庫版の『公理と証明 証明論への正体』があったので,その調査結果のみ書き留めておこう。
同書 p.60 に「§ 12 群の公理系」がある。特に p.61 から p.62 にかけて群の公理系が明確に述べられているが,そこでは初めに「単位元と呼ばれる特定の元」e,集合上の演算,逆元と呼ばれるものを表す記号(いうなれば,集合の任意の元に対して逆元と呼ばれる,同じ集合に属する何がしかの元を対応させる写像)を列挙した上で準備を整え,それらが具体的にどのような特定の性質を満たすことを要求するかを,(1) 演算の結合法則,(2) 単位元の性質,(3) 逆元の性質の順に挙げている。「まえがき」によると,この部分は彌永氏と赤攝也(せき せつや)氏の共著とのことであるが,赤氏の単著になる p.124 から p.125 にかけての群の公理系の叙述は,本記事の冒頭に掲げた「よく見かける群の定義」とほぼ同等の体裁になってしまっている。ただし,項目 2 のところで「e を単位元という」といった,記号 e は特別な元に対して用いていることを匂わせるニュアンスを含めている。
他に,『数の体系(上)』の「まえがき」に登場する松坂和夫氏の『代数系入門』あたりも確認したい衝動に駆られるが,これもたまたま手に取った堀田良之(りょうし)氏の『代数入門―群と加群』(裳華房,1987 年)での群の定義の述べ方を最後に紹介して本稿を締めたい。
それは,まず集合 G 上に結合法則を満たす 2 項演算 ★ が定義されているとして,それを半群と呼ぶ,と述べることから始める。
そして,群の定義の項目 2 の性質を持った単位元 e を持つ半群をモノイドという,と続ける。
最後に,2 項演算と単位元を有するモノイドにおいて,いずれの元 x も項目 3 に現れる逆元 y をもつとき,群という,と締めるのである。
群の理論のみに焦点を当てたいのであれば,半群やらモノイドやらといった概念や用語は初学者の負担を増やすものとして避けたいところであるが,堀田氏の書は代数系といった理論への入門を趣向しているのであるから,基本的な代数系の紹介をするのは自然な在り方といえよう。そして読者はむしろ初めは何でもアリに近い「半群」から,単位元持ちの「モノイド」へと進化し,最後に「群」へと到達する,集合へ次第に構造が追加されていくストーリー展開は魅力的なものに映るのではなかろうか,と思うのである。そのようなわけで,私は堀田氏のような漸次構造を追加していく定義の述べ方が好ましく感じているのである。
そういえば,本橋氏と同様の指摘を最近別のどこかで見かけた記憶があるが,それがどこでだったか思い出せないでいる。確か,Bourbaki の定義は正しい定義に近いものだといったような評も書かれていたように記憶している。
いつもお世話になっている Wikipedia の記事だったかと今確認してみたが,「群(数学)」の項目で確認できた定義は「よく見かけるソレ」と同様の体裁であったし,わざわざ論理式も付しているのに,項目 3 の記号 e が束縛されておらず,自由変数のままブラブラしているので,記事の執筆者は本橋氏が指摘したような問題点に気付いていないように見受けられる。
あ,だったら自分で編集して「正しい」定義に直せばいいのか。
それはいずれ,時間があって,かつ,気が向いた時にでも。
【答え】
2 つの元 e, a のみからなる集合に,「積」が
ee=e,
ea=a,
ae=a,
aa=a
という規則で入っているとき,この積が結合法則を満たしていることが確認できる。
また,任意の x について ex=xe=e,ax=xa=a が成り立っているが,e を項目 2 の e,a を項目 3 の f とみなすこともできる。
したがって,必ずしも e=a とは限らないのである。□
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