日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

卒論糞くらえ

2007年10月29日 | Weblog
彼は東大の医学に入学した。
ある日、解剖実習があったが、それを機会に自分にとって、医学部は手におえないとやめてしまった。
人間の生体を知るために医学は是非必要だということはわかるが、人体を切ったりはつったりすることは自分の性格に合わないと彼は悟ったらしい。
そこで彼は文学部のドイツ文学科に転部した。

そんなことは初めから分かっているはずだから、医学部に入ってくること自体が間違っているというのは、健全な常識の持ち主の言うことで、こういう論理は彼自身には通じない。

彼によると、己の判断以外は何でも「糞くらえ、」なのである
卒論の提出のときもそうだった。大学生活の集大成として、大学ではどこでも卒業年度になると、卒業論文を書かせて提出させる。
東大ももちろん卒業するためには、卒論の提出が必要である

提出期限が迫ってきても一向にその気の見られない彼のことを心配した友人たちは、本人以上に気をもんで卒業させるために、卒論を書かせなきゃいけないと、いろいろな方面からアドバイスを繰り返した。

そして、やっとその気になった彼は友人に頼んだ。
いわく「卒論クソくらえ」。
これをドイツ語に訳して表紙をつけ、名前を書いて教務に提出してくれと他人ごとみたいなことをいう。
友人たちはあきれながらも、恐る恐るそのとおりにした。

提出する相手は日本国中にその名の知れた高名なドイツ文学者の教授である。
教授はカチカチの学究である。恐らく、こんな前代未聞の卒論は見たことはないだろう。
高名な俺を馬鹿にしやがってと怒ったか、これはドイツ文学を冒涜するものであるとカンカンになったか、はてはこの学生は間違って入学してきた、ちょっと頭の弱い同情すべき学生だと憐憫の情を感じつつ、不合格と書いたかどうかは知らないが、とにかく結果は不合格であった。 当たり前の話だ。こうなることは目に見えていた。

全くもって、常識的な判定である。この不合格という結果には当然のことながら、面倒を見てきた友人たちも、本人も、それは当然のこととして受け止めた。従って、彼は留年するか中退かという選択をせまれることになったのである

そのうちに寮では彼の姿は見かけなくなった。心配した友人が実家に電話したら、偶然、彼が電話口に出て
「東京は嫌になったから。故郷に帰ってきて、今は私立の女子高校で、万葉集を教えている。俺はこれで結構楽しいから、もう東京に戻るつもりは無い。そちらの大学の方はよろしく頼む」といったという。

全くもって、あいた口がふさがらない奴だと友達は苦笑したが、何かよい名案があるわけでもなく、学籍はそのまま放っておく以外に手はなかった。それからどうなったのか。学友は全員卒業したので調べようがないし、彼とも連絡はとれないから、彼のことは、ようとしてとして分からない。

そんないい加減な彼と私は不思議に気があって、会話を交わすことが多かった。
ある日、学寮の共同洗濯場で下着をゴシゴシ、もみして洗濯している私に向かって彼は言った。
「おい、お前。洗濯の仕方を知らないのか。洗濯というのはこうするものだ。たらいに水を張り、それに上から洗剤を入れてよくかき混ぜて、洗濯物を入れ、その上から化学洗剤をパラパラとまいておけばそれでよいのだ。あとは洗剤が勝手に、垢を落としてくれるんだ。
お前みたいに昔のバーさんじゃあるまいし、ゴシゴシやるなんて最低だ。考えてみろ。何のために洗剤があるんだ。洗剤は水に溶けて汚れを分解するように作ってあるから。水には均一に解け垢は落ちるはず。だから手でもむ必要などさらさらない。お前は遅れてるぞ」
「へえ。そんなもんか。ところで、お前一度手本を見せてくれ。俺もそうやってみるから」と私は切り返した。

彼は先ほど口頭で説明したとおりに、水をあふれんばかりに、たらいに入れて、汗臭く酸味さえ放つ衣類の上から、砂でもマクようにさらさらと洗剤をふりかけて、小一時間ほどそのままにして、もみ洗いもしないで、物干し竿にぶら下げた。

夏の強い日差しの下で、竿に乾された下着やその他の衣類は、ほどなく乾いたが、よく見ると、白い粉のツブツブが、あちこちに付着している。それは彼が先ほど衣類にふりかけた洗剤であった。かき混ぜる事もなく、手もみするわけでもないから、彼の理論とは裏腹に溶解しないまま衣服に付着し、それが乾燥して白い粉となっただけのの話である。
汚れも酸味も、異臭もなくなったわけではない。彼の意識の中では、洗濯は進んでいるのだが。常識的には洗濯以前の状態と大して変わってはいない。

乾いた後では彼は白い粉をつけたまま、しゃあしゃあとして着ているではないか。
私は彼の常識とやらを疑った。しばらくして、それが無駄であることを知った。

彼は自分が創り上げた自己流の理論に実に忠実で、他者の理屈や常識は一切受け付けないのである。また信じないのである。

余りにもふにおちない彼の洗濯に私は念を押した。
「それでもう洗濯は終わったのかい」。
「これで完了十分だ。お前も俺のようにやれば、手間が省けていいよ。」
「それにしても洗剤が解けないまま白い粉になっているがそれでもいいのかい。」
「お前は物事を理論的に考えないから困る。理屈で考えれば、これで洗濯は完了じゃないか」。
私はあいた口がふさがらないで、あっけにとられていたが、ほどなく彼を理解するために視点を変えた。
自分なりに理論を構築しそれに、100%の信頼をおく自信が羨ましい限りだと私は思った。
もちろん、「こいつはちょっと頭が変じゃないか、常識を働かせれば、自己中心にもほどがある」というマイナーの判断もできる。しかし、この世の中心は自分だと言わんばかりに行動する彼が羨ましかった。私などはひとりで、いちいち考え出すことの煩わしさから逃れて、常にビートにトラックの上を走る事ばかり考えているので、彼の常識にかなわない新鮮さ?に余計に惹かれていたのかもしれない。

学窓を巣立って40年が巡ってくる。全てが平凡の波の中に進んでいった学生生活の中で、彼のことが今では、とくに印象深く、光彩を放ち懐かしい。

彼は中退か。除籍になったのか。それは今も不明である。
今でも故郷で女子高校生を相手に万葉集を解いて、教えているのだろうか。
もったいないことだ。あれほどの秀才が。まともに洗濯も出来ない理屈をこねて自説は正しいと考えるところが、世の中の歯車とかみ合っていないばかりか、狂っている。
しかし何がどうあろうと、自分の信念や理屈を絶対に曲げようとしないところは、見上げたものである。全く人それぞれだ。
常識人の私にはどう考えてみても、これ以外の結論は出ない。


未完成交響曲

2007年10月29日 | Weblog
私の恋が終わることのないがごとく、この曲が終わることなし。

1x2=2 2x2=4から、黒板に、4分の2拍子が生まれ、

質屋の娘が投げてよこした詩集の中にある「野バラ」が、算数の授業の真っ最中に黒板の上で、作曲されていく。

作曲は、作曲家の中に潜り込んだ神が、彼の魂をゆり動かして、なされるもので音楽理論や楽器によってなされるものではないということの証明であるみたいだ。

楽器主としてピアノは、音の確認のために、補助的に使われるものであって、ピアノが弾けなければ作曲できないと言うのは、主客転倒の話である。


私にも、教壇に立ち、黒板に字を書いている最中に、メロディーが頭の中で鳴り出して、慌てて、胸のポケットに忍ばせている。五線紙に、書きとめた経験がある。

神は、洋の東西を問わず、特定の人に、時間空間を越えて、メロディーをお与えになる。

私は神に祈りたい。

シューベルトやチャイコフスキーやフオスターに与えたもうた美しいメロディーを私にも与え構え。

透視能力

2007年10月29日 | Weblog
透視能力のある予言者と交われば、その予言者の背後にある神々への信仰を深めることを考えなければ、単に建物の興味を満たすことだけに終わり、神に一歩近づくことはできない。

神仏の信仰への入り口として、または、神仏への信仰を深めるきっかけとして、透視能力者を眺めるべきである。

縁・ えにし

2007年10月29日 | Weblog
どこで手に入れたのか、まったくわからないのに、クリーム色のこの紙に書かれた「奈良の大仏さん」という詞は東大寺長老・清水公照師の御作であるとすぐわかる。
字の形が先生そのものを表していいるからだ。

すばやく眼を走らせた。私の胸はあつくなり、たかなった。

詞の字数や形式からすると、これは曲がつくことを前提に作詞されたものである。

よーし。作曲してみよう。
どうせ、誰かが作曲してはいるだろうが、良い詞に、何人もの作曲家が、それぞれの趣の曲をつける例はいくらでもある。
 
厚かましくも私はこの詞を作曲して、テープに収め、東大寺の塔頭・宝厳院の主人、清水公照師を訪ねた。

 師は快く、付曲を許可してくださり、師の著書「泥ドロ仏」をくださった。そして、「今日は急ぐので、この次にサインしてあげよう」。という言葉を残して、車上の人となられた。

 届けたものの、前回のテープで、満足できない私は、早速の録音のやり直しをした。テープができあがったのが夜の7時。
「できました」。と電話したら、「12時まで起きているから、いらっしゃい。と師の声。
 
めったに会えない人に会えるのだから、と、女房をせきたてて、車に乗せ、西名阪国道をひとっ走り。
家を8時にでて、9時過ぎには、もう師の前に女房と二人でチョコンと座っていた。

 周りをぐるりと人々に、取り囲まれながら、師はたっぷり墨をつけた大きな筆を紙の上に滑らせて、心の中の思いを、思いのままに残されていく。

周りの人々と、にこやかに話をかわしながら、精神・ご自身の心を紙の上にしたためていかれる。
それを見ていると、その昔、聖徳太子が一時に10人の話を聞き分けたという伝説が真実のように思われた。
 
現に師は気安く言葉をかわしながら、一心不安に、異次元の墨跡作りに、精を出しておられるではないか。作品はみるみるうちに出来上がっていく。わずかに2,3時間の間に10幅はは下らないだろう。

絵がかけ、書ができ、随筆がかけ、陶芸でき、俳句や短歌はお手のもの。師の心は真っ赤に燃える創造のマグマ。
それが、絵となり、書になり、エッセイとなり、あどけない泥ドロ仏となって、床の間を飾る。

 そんな多才な先生と、私はふとしたことから、ご縁をいただいた。

「縁に従い、縁を追い、ふとしたご縁は、またしても、エニシを広げていく」。

実感実感。
                

バーニング・ボデイ

2007年10月29日 | Weblog
インド 、バラナシのガンジス川の河岸はヒンズー教の聖地で、全国から大勢の信者が沐浴にやってくる。

同時にヒンズー教徒は、この河岸で火葬にされ、骨灰はガンジス川の流れに流されて輪廻転生の輪から離脱できると信じているとのことである。
それはいったいどういうことか。
インドいきたいと思った根底には、こんな疑問が横たわっていた。
取材というよりは自分の記録として取っておきたかったのである。

この河岸で行われている火葬について恐いモノ見たさという好奇心もあって、ガイドブックをしっかり読んだ。

火葬の様子を写真に撮ったり、ビデオに収めたりすることは、厳禁と書いてある。
当然だ。今生の別れで嘆き悲しむ遺族の心情を思いやることもなく、興味や好奇心の目で見ることは残酷でさえある。
僕はガイドブックの記事に賛成した。


バラナシで偶然知り合ったインド人は小学校の校長先生で、ガンジス川の火葬や沐浴風景を見て、インド人の宗教観を理解してほしいと言いながら、そこを案内してくれるという。日本を出る時には、遺族の心情思いやることが大切だとの思いはあったが、インドのインテリが案内するという言葉に、僕は簡単に便乗した。浅ましいや奴だ。この俺は。後ろめたさを心に残して、ガイド氏の後を追うようにして、くっついて行った。

ごちゃごちゃしたところを通り抜けて、川下を指して進むと、観覧席のようになっているところへ出た。今から始まろうとしている火葬を、腰をおろして見物しようとしていると、ガイド氏は写真やビデオをとってもいいよという。

僕はビデオのスイッチを入れて取り始めた。そうしたら、間髪を入れず、両サイドから上半身裸の背のたかい男が二人駈け上ってきた。

それ見たことか。やっぱり駄目だろう。次の瞬間、何が起こるのか、胸がどきどきした。ガイド氏は両側の男に10ルピーずつ渡せといった。
僕はポケットから10ルピー紙幣を2枚取り出して、彼らに渡した。
男たちはおしだまったまま、パンツのポケットにねじこんで、下へ降りていった。

今、僕の前に横たわっている。この老人は人間としての体をなしてはいるが、魂の抜け殻で、単なる物体としか思われない。しかも、物理的距離はほんの3メーターも離れてはいないのに、彼と僕のその世界は次と地球上の別々の世界であるという思いがした。
黄色の布で体は覆われているが、頭の部分だけが覆いが取れ見えていた。彼はおじいさんだった。

ヒンズー教では、どんなお経を唱えるのかは知らないが僕は思わず、南無阿弥陀仏と口走った。

今、僕の目の前で火葬され、あと2時間もすれば、骨灰となる。この人の一生を、僕なりにたどってみた。
彼が生まれた時、両親をはじめ、近親者は男子出生の喜びにわき、彼は周りの誰からも祝福されたことだろう。やがて彼は成長し、結婚し、一家を構え、夫となり、父となって家族の面倒を見て老いを迎え、死に至ったのだろう。

火葬するには、それなりのお金がかかり、その財力がないと、ここでこうして骨灰にしてガンジスに流してもらえないとのことだから、ひょっとすると、彼は金もうけに一生を費やしたのかもしれない。

インドでは人の生き方の理想とされる林住期を持たず、おそらく生涯を家族と共に、過ごしてきたはず。そうして彼は今、近親者によってガンジスの水に流され、清められいわゆる解脱しようといているのである。

今、妻や子供たちが彼を取り囲み、最後の別れに悲しみの涙を流しているのだ。

お釈迦様の言うように、この世は四苦八苦の世界だから、死ぬことによって本当に輪廻転生の輪から抜け出して、常住極楽ならば、それもいいなと思った。


いよいよ作業は始まった。竹で作った担架に乗せられた死体を井桁に組んだ薪の上に移し、ガンジス川の聖水(このきたない濁り水と僕は思うのだが)を布の上からかけた後で、枯れた井草のような植物の薪の間に差し込み火をつけた。

ほどなくはく煙がもうもうと立ち上がり、ちょろちょろっと炎が紅色の舌をだすが、まだ薪に火は移っていない。
火夫が棒をマキの間に突っ込み、がさがさ掻き回してから、こののようなものをふりかけると、炎は勢いよく燃えあがった。こんなことを3、4回繰り返しているうちに、火はマキに移り、本格的に燃えだした。

彼を包んでいた黄と朱と金色の布も燃え失せて、黒々と焼けた体が目についた。
そして2時間後。彼は骨灰になって、ガンジス川に流された。
ああ。これで1巻の終りか。これで全てが終わったのか。僕は目を閉じて、ため息をついた。

薪を井桁にくんで、その上に死体を乗せて、着火して完全に骨灰となったら、すべてガンジス川へ戻すのを、僕は緊張して、体をこわばらせながら、一部始終を見た。
全てが流されたとき、僕はなぜか、ほっとした。

家族は三々五々引きあげたが、僕はそこに座ったまま、いま目の前で繰り広げられた光景をもう一度頭の中で反芻した。

釈迦はこの世における人間の姿を見て、生きるということは、苦であるというところから出発して、それゆえに生きることを、実のあるものにしようと教えた。
すなわち、この世における人間の現実を支配している原理を発見して、人々がその原理原則を認識することを出発点として、充実した命のあり方や生き方を説いたのである。
人は果たして輪廻転生するのか。解脱するというが、その世界があるのか。つまびらかでないにせよ、価値のある生き方やヒントを人類に与えてくれたのである。

そうか。僕の一生もこの通りなんだ。いずれあちら岸に渡らなくてはならない日が来る。そして神のみぞ知る、その日まで、僕はこちら岸にいる。
好むと好まざるにかかわらず、人間として生まれたからには、すべからく、こうなるんだ。そこには例外がない。いったん人として、この世に生まれ落ちると、みな平等にこうなるのだ。

男女間の性交渉に始まって、受胎、出産、成長、成熟、老衰という生命曲線を眺めるとき、いま僕が目の前にしている火葬は着地したその姿である。

この姿を起点にすると、今からでも遅くはない。赤々と燃えている自分の命をさらに輝かせるために真剣に生きよう。自分の意に添うようにして、命をもやそう。
いやもやさなければならないという気になって、僕は自分の命に対する責任感みたいなものを感じた。
生きよう精一杯。羽目を外してでも生きよう。とにかく生きなければ。

僕は心の中に引っかかっていたもやもやを、このわき上がってきた不思議な力によって吹き飛ばした。
そして新鮮な意欲に満ちた自分の心に気がついた。