4月6日付の朝日新聞夕刊の「窓 論説委員室から」に「司馬史観への疑問」が載っていた。当ブログでも、何回か、司馬史観への問題点を書いている。
NHKが、司馬遼太郎の、「坂の上の雲」の映像化を拒否する遺言ともいうべき意思に反して、敢えて、放送化したことが問題の始まりだった。
書店に行っても、商売上からでもあるが、無批判に「坂の上の雲」を取り上げた本を多く見かける。作家の作品の上での考えだから、敢えて、批判することもないだろうという意見もあるが、NHKの放送等から、史実だと勘違いする人も少なくないものと思える。また、「あたらしい歴史教科書」の編纂にも、「司馬史観」は影響を与えている。こうした問題のある教科書などに見られるように、「司馬史観」を見過ごすわけにはいくまい。
明るい明治と、日露戦争から坂を転げ落ちた果ての敗戦までの暗い昭和という対置は、あくまでも、史実ではない。
コラムでは、名古屋大名誉教授の安川寿之輔氏の一連の研究を紹介している。
たとえば、日清戦争、及び、今年100年目になる日韓併合も、「司馬史観」では、避けられない地政学上の出来事として描かれている。しかし、勝海舟は、日清戦争に反対し、足尾鉱毒事件という暗い明治に関わった田中正造との交流という動きもあった。選択肢としては、別の展開もあり得たのである。
このコラムには、安川説の大事な概要が書かれていて参考になった。
興味があったのは、明治をことさら明るく描く源流に、戦後の著名な政治学者の丸山真男があげられている事だ。福沢諭吉のアジア蔑視を無視して、健全なナショナリズムと評価し、昭和の超国家主義と対峙させている。
僕自身、何故、丸山真男が、大学の講義でも高く評価されるのが長い間分からなかった。政治評論家も政治学者も、丸山氏を必要以上に持ちあげている。
多分、その歪みに原因があるのかもしれない。戦争に対して、沈黙することしかできなかった、あるいは、協力した「文化人」は、自分たちの責任を正面から反省する事をしたのだろうか。丸山氏も、傍観者でしかありえなかった。それゆえ、戦争に反対した組織や個人を否定的に描いた。自分の立場の保身からかもしれない。「家父長制」などとの烙印を押すことで、彼らの立場を評価することがなかった。だから、戦後、そうした組織から離れた人々は、丸山の考えを高く評価した傾向がある。
傍観者の負い目は、自分の立場の批判者となりうる組織や個人を否定する事につながったのではないか。そして、彼の考えに共鳴する学者や評論家も似たような傾向があったのではないのか。
「司馬史観」の源流として理解することは、意味のある事のように思えた。
NHKが、司馬遼太郎の、「坂の上の雲」の映像化を拒否する遺言ともいうべき意思に反して、敢えて、放送化したことが問題の始まりだった。
書店に行っても、商売上からでもあるが、無批判に「坂の上の雲」を取り上げた本を多く見かける。作家の作品の上での考えだから、敢えて、批判することもないだろうという意見もあるが、NHKの放送等から、史実だと勘違いする人も少なくないものと思える。また、「あたらしい歴史教科書」の編纂にも、「司馬史観」は影響を与えている。こうした問題のある教科書などに見られるように、「司馬史観」を見過ごすわけにはいくまい。
明るい明治と、日露戦争から坂を転げ落ちた果ての敗戦までの暗い昭和という対置は、あくまでも、史実ではない。
コラムでは、名古屋大名誉教授の安川寿之輔氏の一連の研究を紹介している。
たとえば、日清戦争、及び、今年100年目になる日韓併合も、「司馬史観」では、避けられない地政学上の出来事として描かれている。しかし、勝海舟は、日清戦争に反対し、足尾鉱毒事件という暗い明治に関わった田中正造との交流という動きもあった。選択肢としては、別の展開もあり得たのである。
このコラムには、安川説の大事な概要が書かれていて参考になった。
興味があったのは、明治をことさら明るく描く源流に、戦後の著名な政治学者の丸山真男があげられている事だ。福沢諭吉のアジア蔑視を無視して、健全なナショナリズムと評価し、昭和の超国家主義と対峙させている。
僕自身、何故、丸山真男が、大学の講義でも高く評価されるのが長い間分からなかった。政治評論家も政治学者も、丸山氏を必要以上に持ちあげている。
多分、その歪みに原因があるのかもしれない。戦争に対して、沈黙することしかできなかった、あるいは、協力した「文化人」は、自分たちの責任を正面から反省する事をしたのだろうか。丸山氏も、傍観者でしかありえなかった。それゆえ、戦争に反対した組織や個人を否定的に描いた。自分の立場の保身からかもしれない。「家父長制」などとの烙印を押すことで、彼らの立場を評価することがなかった。だから、戦後、そうした組織から離れた人々は、丸山の考えを高く評価した傾向がある。
傍観者の負い目は、自分の立場の批判者となりうる組織や個人を否定する事につながったのではないか。そして、彼の考えに共鳴する学者や評論家も似たような傾向があったのではないのか。
「司馬史観」の源流として理解することは、意味のある事のように思えた。