ペテンを見抜け 二
人間が本来持っている無限の力を教えている法華経を、八百回以上読み
切ったとき、頼 朝に転機が訪れた。
妻政子の実家である北条一族の支援をえて、平家打倒の兵を挙げたので
ある。頼朝は安房の豪族千葉氏の協力や、弟義経の目覚しい働きで、平
家を滅ぼしたあと鎌倉に幕府を開いた。これがわが国で初めての武家政
治(軍事政権)の登場となったのである。
兄の不興をかった義経は、藤原秀衡を頼って奥羽に逃れ、そこでかくまわ
れた。頼朝は奥羽で強大な勢力をもつ秀衡をおそれて、
「御館は奥六郡の主、予は東海道の惣官なり、尤も魚水の思いをなすべき
なり」
吾妻鏡、文治二年四月二十四日 条、文の意は、
「あなたは奥羽の王、私は関東の王、水魚の思いで互いに仲良くしましょ
う」
との手紙をだして秀衡を安心させた。
しかし一一八七年(文治三年)秀衡が死去すると、息子の泰衡をそその
かせて、一一八九年(文治五年)四月、弟の義経を討たせた。
秀衡亡きあと、強力な支援者をなくした軍事天才家の義経が殺されたこと
を知った頼朝は、これを口実に大軍を集め、同年七月に奥羽に攻め入り、
藤原氏を滅亡させた。
父秀衡亡きあと息子の泰衡は、頼朝の策略にのって義経を殺し、自分も殺
される運命を選んだのである。
大恩ある父為義の首を切った義朝、義経をかくまうという父の言いつけを
破った泰衡、
この二人の例は、人間として守るべき道すじをたがえた者たちが陥る悲惨
な末路を教えている。これと同じような例は、これ以後の歴史にも数多く登
場するのである。
頼朝は平家に囚われていた十数年間、屈辱に耐え、忍耐することを学ん
だ。恋人との仲をさかれ、その間にできた子供を殺されるという悲運にも耐
えた。頼朝の心の中に、源氏再興という大きな希望があったからである。
その希望を持ち続けたために、流人の身から、天下統一という大偉業を成
し遂げる幸運をつかんだのだ。
一方、源義朝と藤原泰衡は、相手の欺瞞を見抜けなかったために、自分と
自分の一族を滅亡させるという不運で生涯を終わったのである。
この稿終わり