叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

 すべて無料です、気軽に読んでください。

人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 三十八

2009年10月31日 | 幸運を呼ぶ法則

 ペテンを見抜け 二

人間が本来持っている無限の力を教えている法華経を、八百回以上読み
切ったとき、頼 朝に転機が訪れた。

妻政子の実家である北条一族の支援をえて、平家打倒の兵を挙げたので
ある。頼朝は安房の豪族千葉氏の協力や、弟義経の目覚しい働きで、平
家を滅ぼしたあと鎌倉に幕府を開いた。これがわが国で初めての武家政
治(軍事政権)の登場となったのである。

兄の不興をかった義経は、藤原秀衡を頼って奥羽に逃れ、そこでかくまわ
れた。頼朝は奥羽で強大な勢力をもつ秀衡をおそれて、

「御館は奥六郡の主、予は東海道の惣官なり、尤も魚水の思いをなすべき
なり」

 吾妻鏡、文治二年四月二十四日 条、文の意は、

「あなたは奥羽の王、私は関東の王、水魚の思いで互いに仲良くしましょ
う」

との手紙をだして秀衡を安心させた。

 しかし一一八七年(文治三年)秀衡が死去すると、息子の泰衡をそその
かせて、一一八九年(文治五年)四月、弟の義経を討たせた。
秀衡亡きあと、強力な支援者をなくした軍事天才家の義経が殺されたこと
を知った頼朝は、これを口実に大軍を集め、同年七月に奥羽に攻め入り、
藤原氏を滅亡させた。

父秀衡亡きあと息子の泰衡は、頼朝の策略にのって義経を殺し、自分も殺
される運命を選んだのである。
大恩ある父為義の首を切った義朝、義経をかくまうという父の言いつけを
破った泰衡、
この二人の例は、人間として守るべき道すじをたがえた者たちが陥る悲惨
な末路を教えている。これと同じような例は、これ以後の歴史にも数多く登
場するのである。

 
 頼朝は平家に囚われていた十数年間、屈辱に耐え、忍耐することを学ん
だ。恋人との仲をさかれ、その間にできた子供を殺されるという悲運にも耐
えた。頼朝の心の中に、源氏再興という大きな希望があったからである。
その希望を持ち続けたために、流人の身から、天下統一という大偉業を成
し遂げる幸運をつかんだのだ。

一方、源義朝と藤原泰衡は、相手の欺瞞を見抜けなかったために、自分と
自分の一族を滅亡させるという不運で生涯を終わったのである。

この稿終わり   

  


人間賛歌 信仰に生きる 四十

2009年10月29日 | 信仰に生きる
 願いが叶う御本尊 (ザダンカイ続き)  *

 中心者は居ずまいを正して話を続けました。

「いまから七百五十年前、何回も命の危険にあいながら法華経を修行され
た日蓮大聖人が、ご自分の生命の中に宇宙にもつながる強大な仏界の生
命が確かにあることを悟られて、その強大な仏界の生命を図に顕し、
御本尊として残してくださいました。

私たちには、そんな強大な生命が自分の中にあるとは想像もできなかった
のですが、日蓮大聖人は各人に具わっている強大な生命を引き出すに
は、この御本尊を拝んで、
「南無妙法蓮華経」と唱えれば誰でも、一人の例外もなく仏界の生命を現
すことができると教えてくださっています。
あなたもこの通りにすれば、今まで想像もしていなかった仏界の生命を現
すことができます。

 日蓮大聖人がお約束くださっているのですから、絶対にウソではありま
せん。これは私一人の考えで言っているのではなく、ここにいる皆さんが
日夜に体験し、実感していることです。」

 私、
「私は会社の倒産以来、不眠症になって夜眠れなかったのですが、
題目を唱えるようになってから、グッスリ眠れるようになりました。それも、
その仏界の生命というのが出ているからでしょうか。」

 中心者、
「その通りです。
この御本尊を信じて「南無妙法蓮華経」と唱えると即座に仏界の生命が
現れます。仏界の生命が現れると、苦しみ悩む地獄界の生命は冥伏して
隠れてしまいます。
苦悩する生命が隠れて力強い仏界の生命が現れれば、心配や不安はな
くなり、希望と勇気が心を支配するようになって、安心して眠れるようにな
ったのです。

気をつけて欲しいのですが、苦しみ悩む生命は一時的に隠れているので、
無くなったワケではありません。
なにかの縁で、たとえば借金取りが催促に来るとかすれば、また現れて
あなたは苦しまなければならなくなります。どんなことがあっても題目を唱
えて仏界の生命を出し、地獄の生命を冥伏させることです。

特にあなたの場合は、
絶えず題目をあげて、仏界の生命を出し続けていかなければなりません。
その内に、ああ、こうすればよいのだ。 というような当面の問題を片付け
る智慧が必ず出てきます。

どうかガンバってください。この御本尊に願っていけば、どんな願いでも必
ず叶いますから。」

次回に続く    


  

人間賛歌 信仰に生きる 三十九

2009年10月27日 | 信仰に生きる

 鏡に写った汚れた顔 *

 座談会は初めて来た私にもわかるほど盛り上がっていました。

私は中心者が言った、福運をつけるという言葉が気になっていました。
以前友人から、「おまえは運のよいヤツだ」と言われたことはありましたが、
福運をつける、という言葉は初めてでした。
 運をよくする。そんなことが出来るのだろうか。

中心者の話は続きました。

「あなた(私のこと)は会社が倒産して借金ができて、それで苦しんでいると
思っているでしょうが、それは本当の原因ではなくて、さきほどの女性の研
究発表にありましたように、あなたの生命の中に元々ある、苦しみ悩む地
獄界の生命が現れているのです。

事業の失敗や借金は地獄界の生命を現す縁に過ぎません。
その苦しみ悩む地獄界の生命のクセを変えないかぎり、今回は切り抜けて
も、また何かの縁で苦しまなければならないのです。

あなただけでなく大部分の人は、表に現れた結果を変えようとして努力し、
あせりますが、
これは顔の汚れを落とそうとして、懸命に鏡を拭いているようなものです。
鏡ではなく自分の顔が汚れているのが原因ですから、それに気づき変えな
ければなりません。」

 原因を変える。私には思いがけない言葉でした。

 私
「じゃあOさん(中心者の名前)、
私が借金まみれで苦しんでいるのは結果で、私の生命の中の苦しみ悩む
原因から変えなければならないと、言われるのですか。」

「そうです。」

「その原因を変えるにはどうすればよいでしょうか。私にも出来るでしょう
か。」

「ももちろん、あなたにも出来ますし、誰だって出来ます。
現にここにお集まりのみなさん、お年寄りや子供さん、男の人も女の人も
みんな実行しています。あなたに出来ないハズは絶対にありません。」

次回に続く   

 あとがき
万事は因果の法則で成り立っていることを知っただけでも、ここを見た人は
幸運です。因を変える方法は次回に出ます、お楽しみに。



  


人間賛歌 「新・仏教教室」 百四

2009年10月24日 | 新・仏教教室
 「聖愚問答抄」 解説 *
ジツチャン、
「生命の真理を悟った聖人からみると、それを知らずに迷い苦しんでいる
人々が、かわいそうで。痛ましくて。とても見てはいられないと嘆く声です。

生命は本来、生まれる始もなければ、死んで終わってしまうような限定され
た微小なものではありません。
生命の本質は、久遠の昔から永遠の未来えと続いている慈悲の心(他を幸
せにするために役立ちたいと願う思いやりの心)であります。

この本来の生命を仏界の生命といいますが、これを悟った人以外の人は、
この真理を知りません。

なぜ知らないかと言いますと、
生命には仏界の生命と、迷いの状態である九界の生命が一体になってい
ますが、九界の人にも仏界があることを教えなければ、迷っている人は自
分で悟ることは出来ないのです。

 九界の人は無明 (永遠に続いている尊極な命の仏界があることを信じな
い) という酒を飲んで酔っ払い、本心(仏界)を忘れているのです。
山本さん、ここまでのところで言葉の意味が分かったでしょうか。」

山本さん、
「先生、私たちは酒に酔って本心を失い、せつかく持っている仏界を知ら
ず、使わずにいる。という意味でしょうか。」

ジッチャン、
「その通りです。さきほど言いましたように、生命は慈悲の心で、その心に
無限の智慧があることを悟った人が仏で、歴史上はインドに生まれた釈
迦、中国に生まれた天台、日本で生まれた伝教、日蓮等の人たちです。
 (仏とは生命のことなり、が先師の悟りでした)

悟った人以外の人々は、仏界があることを知ることも、悟ることもせず、
生死を繰り返しながら、九界の境涯を永遠に流転します。

九界とは、六道(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界)のこと
で、六道の中を車輪が廻るようにグルグル、グルグル廻っていてそれに気
づかない境涯です。
 しかし六道の人でも、人の死を見たり、世間の栄枯盛衰を観じて無常を
知り、生命とは何ぞや、と探求する者もいます。

これを四生(声門界、縁覚界、菩薩界、仏界の一部<悪人でも自分の妻子
は愛すので仏界の一部になります> と言います。
六道輪廻の人より一歩進んだ境涯ですが、自身に具わる仏界を現してい
ないので、迷いの境涯の内に入ります。

次回に続く  


 

人間賛歌 「新・仏教教室」 百三

2009年10月21日 | 新・仏教教室

 生と死(生命)の時代 *
山本さん、
「前回、東京大学に希望学部というのができ、世界の大学が死後の研究を
していると伺いましたが、死後の研究をして本当に死後のことが分かるの
でしょうか。

死んだ人で帰った者はいませんから、仮に死後の世界があったとしても証
明のしようがないと思いますが、先生のご意見はどうでしょうか。」

ジツチャン、
「さすが山本さん、着眼点がいいですね。
たしかに死後の世界はあると、キュブラー・ロスは宣言しましたが、ロスが
面接した六万人余の臨死体験者は、死んだ状態から生き返った人たちで、
厳密に言うと死の体験者とはいえないかもしれませんね。
現にそう言う学者もたくさんいるそうです。

仮に死後の世界があったとしても、みんなにそれが分かるように証明でき
なければ、人間の役には立ちませんね。

そこで今回は少し難しいかも分かりませんが、日蓮大聖人の教えを通して
この問題を考えてみたいと思います。
大聖人が書かれた聖愚問答抄という御抄があります。

生命の真理を悟った人(聖人)と、そうでない人(愚人・愚かという意味では
なく迷っている人の意味です)の質疑応答ですが、その中の肝心のところを
学びましょう。

ケイタくん、ここを読んでくれないか。
読者には聞こえないでしょうから、文字を目で追つて行つてください。解説
はあとでしますから、意味が分からなくても耳しみこませるつもりで聞いて
ください。」

ケイタくん、
「それでは聖愚問答抄の一節を読ませていただきます。」


 悲しいかな、痛ましいかな、我ら無始よりこのかた、
 無明の酒に酔いて、六道・四生に輪廻して、
 あるときは焦熱・大焦熱の炎にむせび、あるときは紅蓮・大紅蓮の
 氷にとじられ、
 あるときは餓鬼・飢渇(ケカチ)の悲しみにあいて、
 五百生の間飲食(オンジキ)の名をも聞かず。

 あるときは畜生・残害(ザンガイ)の苦しみをうけて、
 小さきは大きなるにのまれ、短きは長きにまかる。これを残害の苦
 という。
 あるときは修羅・闘ジョウの苦をうけ、
 あるときは人間に生まれて八苦をうく、
 生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五盛隠苦なり。

 あるときは天上に生まれて五衰をうく。
 かくの如く三界の間を車輪の如く回り (中略)
 生を受けたる我が身も死の終わりを知らず、

 ああ受け難き人界の生をうけ、あい難き如来の聖教にあい奉れり、
 今度もし生死のきづなをきらず三界の籠ハン(ロウハン)を、
 出でざらん事かなしかるべし、かなしかるべし。

(読みやすいように句点をいれました。)  御書四七四頁  *

次回に続きます。   

         
 


人間賛歌 所感 六

2009年10月19日 | 所感

 経済と株価 *

ニューヨーク株価が一年ぶりに一万ドルの大台に乗せました。
総じて途上国を中心に、世界の株価は上昇傾向にあると思います。

日本の株価はそれらの国に比べて出遅れている感がしますが、これは
経済の動向よりも、民主政権と市場の折り合いが、まだしっくりしな
いからだろうと思います。

株価が今どのへんにいるのか、
私が参考にしているテンプルトンの相場観測によりますと、悲観の中
で生まれた上昇相場が、今は懐疑の中で育っている段階であると思い
ます。

これを通り越すと、楽観の中で成長し、幸福の中で終わる。と進んで
いきますが、そこまで行くにはまだ間があります。

経済の
先行きは不透明で、最悪期は脱したが実体は良くない状態が続
くと思います。失業者が増え個人消費が沈滞したままなのが気になり
ます。

証券市場が活発化して株が高くなると、個人のフトコロが豊かになっ
て消費も増えますが、今は生活するのが精一杯という状況が世界中で
見られます。

ここにきて原油価格が高騰し、金価格も最高値をつけるなど、商品市
場に資金が入ってきています。これがいずれ証券市場に廻ってくるこ
とは期待できます。
元の悲観相場には戻らないと思いますので、投資家はここは忍の一字
で待つことでしょう。

   


人間賛歌 信仰に生きる 三十八

2009年10月17日 | 信仰に生きる

 座談会 続き。 *

 やがて中心者(責任者)は新来者の私をみんなに紹介して、信仰をしよう
とした動機を話すようすすめました。
みんなも待っていたように、大きな拍手が起こりました。

私は立ち上がり、中心者に招かれて前に出るとみんなに向かって話ました。

「私は脱サラをして、苦労してつくった会社を三つとも潰してしまいました。
そのうえ不眠症になって夜眠れなくなったのです。
私の妻は長いこと皆さんと同じ信仰をしていたのですが、事業の成功で思
い上がっていた私は妻の信仰を止めさせてしまったのです。

そのあげく、同じ所にいるとまた妻が信心しだすかも分からないと思って、
この地に家を求めて引っ越してきました。
違う所に住めば妻も信心のことは忘れるだろうと思ったのです。

それから三、四年の内に三つあった会社が次々に倒産して残ったのは借
金だけになりました。
窮状を見かねた友人が持ってきてくれた本に、
「法華経に背いて失敗した者は、法華経で立ち直るしか方法はない。」と
書かれていたのが私に丁度当てはまるようなので、信仰しようと思ったの
です。」

会場に大きな拍手が湧き上がりました。

「よかったですねえ、おめでとう  ! 」大勢の人が口々に言いました。

会社が倒産したのに、よかったねえ、おめでとう。とはどういう意味だろう。
私はすぐには理解できなかったのですが、会場を埋めている百人近い人
が、一人も残らず自分のことのように喜んで、心から祝っていることは間違
いありませんでした。

「夜になり寝ようとしても眠れなくて、枕元にウイスキーのビンを置き、アル
コールで頭を麻痺させなければ恐くて横になることが出来なかったのです。
それが題目を唱えた夜から、酒なしで眠れるようになりました。」

また一段と大きな拍手が起きました。

私は実際に不思議に思っていました。あの日以来、頭が割れそうになる
恐怖は一度も起きていなかったのです。
 私が話し終わると、中心者は、

「あなたの奥さんの信心で、あなたは信心できたのだと思いますが、
本当に良いことに気がついてよかったですねえ。
せつかく苦労してつくった会社が潰れたことは、一面から見ればお気の毒
のように思いますが、会社が潰れたおかげで信心する気になったのですか
ら、結果的には良かったのです。

もし会社が潰れず信心に反対したままでいたとしたら、あなたの将来はど
うなっていたか分かりません。会社はまたつくればよいじゃあないですか。
大事なのは福運をつけることです。福運がなければ何をしても結果は良く
ありません。
 福運をつけるにはこの信仰をしていく以外にないのです。」
 と言いました。

次回に続く  



 


人間賛歌 信仰に生きる 三十七

2009年10月15日 | 信仰に生きる

 座談会 *

前回の折伏体験は、入信四年目に起きた出来事です。
途中を飛ばしましたので、今回は時計の針を逆に廻して入信したころに戻
します。

創価学会に入り法華経の信仰をするようになった私は、ある日妻と一緒に
近所で行われた座談会(同じ信仰をしている同志の会合)に出席しました。

会場には百人ちかい男女がいて、お年寄りや子供もいる賑やかで明るい
雰囲気でした。
歌があり、笑いと拍手があり、信仰の体験談ありで、
始は、面食らうほど変化に富んだ朗らかな会合で、私はいままで経験した
ことのない別の世界に来ているようでした。

その内に、若い女性の研究発表がありました。
テーマは「法華経で説く生命の十界論」でした。

「私たちの生命には十種類の境涯があり、それが原因となって、それぞれ
の環境になり、十界の内のどれかを現しながら生活している。」
 という内容でした。

「苦しみ悩みながら、それをどうすることも出来ず、怒りを感じながら生きて
いる地獄界の境涯、欲張るガキ界、愚かな畜生界、弱い者には威張り強
い者にへつらう修羅界、平和で穏やかな人間界、喜んでいる天界で、
ここまでを六道といい環境に支配されている境涯です。」

と彼女は言いました。

「欲しいものを手に入れて喜んでいても、それを無くしたり、
次に欲しいものが出来たりすると、それを手に入れようとして元の苦しむ
境涯に陥ってしまうように、周囲の環境に左右されるからです。」
続いて彼女は、

「環境に支配されるのではなく、逆に環境を自分の思う通りに変えていくこ
とのできる強い生命の境涯があります。
それは人生の真実・真理を求めて生きる声聞・縁覚界、エゴを捨てて利他
に生きようとする菩薩界の生命。
そして最も力強くて何があっても恐れず、一切の試練を楽しみながら悠々
と乗り越えていく仏界の生命も私たちの生命に平等に備わっております。

これを現実の生活のうえに現していくのがこの信仰の目的で、それは題目
を唱えることによって誰にでも出来ることです。」
 と結論しました。

美しく輝いた顔で、声はここちよい音楽を聞いているようでした。

会場にいるお年寄りも若い人も、子供もまでもがみんな理解しているよう
で、彼女の発表が終わるといつせいに拍手が起きました。

 次回に続く   

  


人間賛歌 乱世に勝つ生命観を持とう 八

2009年10月13日 | 乱世に勝つ生命観を持とう

 釈迦が悟りを開いたあと、 かっての修行仲間にあって、
 最初に言った言葉が、 
 「不死は得られた」 であったと伝えられている。
 釈迦は生老病死の四苦から開放された、自由な魂を求めて
 修行に入った。

 一説では、十九歳で出家 三十歳で成道したと言われる。
 「不死は得られた」 ということは、
 死はないことを悟ったに通じる。
 不生不滅で (生まれたり死んだりせず)
 常に存在する生命(仏の命)を、自分の生命に覚知したのだ。

 釈迦が悟ったときの言葉は有名であるが、
 詩的で実感がつかめないから、 ここでは省略する。
 要約すると、
 真実を悟った歓喜に打ち震えている、 自分の心を詩的に
 表現したものである。

 悟りとはなんだろう。 釈迦は、
 「我即宇宙 宇宙即我」という有名な言葉を残している。

 我は宇宙なり、 釈迦の心が宇宙であり、
 宇宙は釈迦の心である。 と言うのである。

 釈迦の心は、 生きとし生けるものを安穏に、 幸せに
 と願い、その実現のために行動する心であった。
 宇宙は我なりであるならば、 宇宙も釈迦同様
 万物をいつくしみ、 幸せにしたいと願う、慈悲の心
 てなくてなんであろう。

 宇宙が自己中心で、 自分のために動きだしたら、
 宇宙の今の姿はないだろう。
 (自己中心のガン細胞は必ず死滅する)
 このことは一流の科学者や、 人のやり得ない大事業
 を成し遂げた人たちが知っている、共通のことである。

 彼らは慈悲の正体である 「南無妙法蓮華経」を知らないから、
 グレート・サムシングと呼んだり、
 いかなる智者でも説明することが出来ない、
 無限の叡智、と言ったりしたが、

 私たちが受持している御本尊は、
 宇宙の究極・慈悲を顕したものだ。

 なんの労作もなく、苦行して心を鍛えることもなく、
 ただ、南無妙法蓮華経と唱えるだけで、
 釈尊が悟った永遠の生命と、その生命に具わる
 無量の智慧が、 また
 自在神通・慈悲の力(日蓮大聖人の言葉)が、
 自然に私たちに譲り与えられるのだ。

 これほどの喜びがあるだろうか。
 地球(宇宙)はすばらしい。 歓喜に満ちあふれている。
 と、叫ばれる世界に私たちは住んでいるのだ。
  それには人間革命するという条件があるが・・

 つづく

 注 
 悟るまでの釈迦は、自分の四苦を解決するために出家したのであって、
 他者の救済が目的ではなかった。




 

  


人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 三十七

2009年10月10日 | 幸運を呼ぶ法則

  
  十二、欺瞞(ペテン)を見抜け

 武士社会出現のもととなった保元の乱は、一一五六年(保元元年)七月
二日、鳥羽上皇の逝去を契機に起きた。上皇派の後白河天皇をかついだ
源義朝、平清盛連合軍と、崇徳上皇派についた源為義、平忠正連合軍の
勢力争いである。

白河殿にこもった崇徳上皇派を、九月十一日の朝、義朝、清盛連合軍が
急襲してこれを破ったが、この乱の後始末が悲惨をきわめた。
崇徳上皇は讃岐に流され、平清盛は叔父の平忠正の首をはねた。これを
見た源義朝は、実父である源為義の首を落とした。武勇ばかりで人のよい
源義朝は、狡猾な清盛の策略にのって、源氏の棟領である実の父を殺し
た。

 これが因になって源氏の勢力は二つに割れたのだ。そして後年、義朝が
破滅をむかえる平治の乱の因となるのである。

保元の乱後、着々と勢力を拡大する平清盛をみて、源義朝はあせった。
一一五九年(平治元年)十二月九日、ついに義朝は兵をおこした。清盛が
平氏一門をつれて、伊勢の熊野詣にでて、京を留守にしているあいだに
一挙に勢力挽回をはかったのである。
義朝はいっときは京の実権をにぎるが、急きょ駆け戻った清盛と、為義派
の源氏勢も加わった連合軍に襲われて大敗し、東国をめざして逃走した。

 嫡男頼朝もいっしょに逃走したが、途中猛吹雪にあって父一行と離れば
なれになった。
頼朝は一人で荒野をさまよっていたが、追跡してきた平家方に捕えられ
た。一方義朝は旧臣の屋敷まで逃れたが、休息していたところを旧臣に裏
切られ謀殺された。

捕えられた頼朝は京に連れもどされ、打ち首になるところを、清盛の義母、
池の禅尼の慈悲で死を免れた。伊豆に流された頼朝は、無念の死をとげ
た父義朝と、一門の菩提をとむらうために、法華経の経典八万四千字を千
回読むことを決意して、それを実行した。

人間が本来持っている無限の力を教えている法華経を、八百回以上読み
切ったとき、頼朝に転機が訪れた。

次回に続く