叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

 すべて無料です、気軽に読んでください。

人間賛歌 「新・仏教教室」 二十六

2008年08月30日 | 新・仏教教室
ケイタくん、

「ジッチャン、素朴な質問があるのですが聞いていいですか。」

ジッチャン、

「ケイタくんの質問は素朴なものが多いから驚かないが、
なにか気になることでも出来たのかね。遠慮しないでなんでも質問
していいよ。」

ケイタくん、

「テレビなんかを見ていて、フシギに思うのは、
外国の大統領とか国王など偉い人が、国民に何かを訴えるとき、
聖書や聖典に手をのせて、演説するのをよくみかけます。

 ところが日本では総理大臣の演説や、所信表明などの場面で、
外国のようなシーンは見られません。

日本はキリスト教国でも、イスラム教国でもないですから、当然か
もしれませんが。
そうしますと、日本の総理大臣や、偉い大臣は、国民に訴えるとき、
何に誓って言ったことを実行するのでしょうか。

その点を聞きたいのです。」

ジツチャン、

「ケイタくん、また素朴なことを聞くのかと思ったら、実にミゴト
なことを言うね。
 夏休みの特訓でだいぶん成長したのかねえ。

ケイタくんの質問は素朴なようだが、日本人ならだれでも感じてい
ることだと思うし、
 たいへん意義のある質問だと言えるね。

 ジッチャンなんかが、まだ若いころ、
有名なアメリカ大統領のJ.F.ケネディがいてねえ。

「あなたがたは、国家が何をしてくれるのかではなく、国家のため
 に何が出来るのかを問いたまえ。」

と国民に訴えたが、これは歴史に残る名場面であったね。
いまでも想い出すが、そのときケネディ大統領は聖書に手をのせて、
演説していたねえ。

日本人でもみんな感動したものだよ。

アメリカはキリスト教国だから、神に誓って宣言するという意味が
あるが、ほかのキリスト教国の場合も同じだね。

国民の大多数が信じ、自分も信じる神に誓って正義に反することは
いたしません。と誓うのだよ。

つづく  

人間は何をしに来て、どこえ行くのか 二十二

2008年08月27日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか

 朗読続き 「死は存在しない」

 いままで主に外国の例をあげたが、日本の場合を見てみよう。
日本史で有名な織田信長は能の敦盛を好み、その中の一節、

 「にんげん五十年  化天のうちにくらぶれば 
  
  夢まぼろしのごとくなり 」

と謡って舞ったことがよく知られている。
化天というのは仏教説話にでてくる他化自在天(人間の住む世界を支配
する主の意)の住むところとされ、

一説によれば、この世の百年が化天の一日一夜に当たるといわれる。

 その信長に仕えた豊臣秀吉は、死にのぞんで、

 「露と立ち 露と消えぬる我が身なり

  難波のことは 夢の世の中 」

の和歌を辞世の句に残している。

信長も秀吉も永遠からみれば、この世は一瞬に過ぎず、まるで夢をみてい
るようなものである。
との死生観を持っていたことがうかがわれる。

経営の神様として尊敬されている松下幸之助翁は、少年のころ船の上から
海に落ちて九死に一生を得たことがある。翁はカナヅチ(泳げないこと)であ
った。
 後年翁は、

 「カナヅチだった私はあの時てっきり死んでいたはずだ。
  それが運よく近くで釣りをしていた漁師に助けられて、命びろいをした
  のだ。
  その時のことを思うと、どんなにつらいことがあっても、自分にはきっと
  何か出来るはずだ。と自分で自分を励まして今日までやってきたのだ」

と述懐している。
若いときそのような体験をした翁は、生命について、

 「いのちというものは、たとえて言えば、溶鉱炉の中で真っ赤に焼けた
  鉄みたいなものだと思う。
  その鉄がナベやカマになったり、ときには鉄砲になったりして世の中
  の役に立つ、形はいろいろであっても鉄であることにかわりない。

  そして年数がたって古くなったり、使命を終えるとまた溶鉱炉の中に
  戻って造りなおすのだ。
  これと同じように命というものは一回かぎりりのものではないと思う」

と語っている。

 以上の例でも分かるように、
なにか大きな事業を成し遂げた人たちに共通しているのは、生命は今世
だけで終わらないという死生観をもって生きたということである。

つづく   


人間賛歌 「新・仏教教室」 二十四の追加

2008年08月25日 | 新・仏教教室
 夏バテで一生成仏抄(いっしょうじょうぶつしょう)の意味を書くのを忘れて
いました。なんのことやら分からなかった方もおられるでしょう。

 一生成仏抄というのは、

いま生きているこの世で、必ず仏界の境涯になれることを教えられた文書
です。
それぞれの性質によって早い、遅いの違いはあっても今生で仏界を開く
ことに相違はないと、日蓮大聖人は言われています。

 尚、仏界の生命については、有るとか無いとかの問題ではなく、
知っているか知らないかの問題だと思います。詳しくは仏界の境涯を参照
してください。

 この文は下総の信徒 富木常忍に与えられた手紙の一節で、富木氏は
千葉氏の有力な一門であり下総中山に住んでいました。
 その屋敷跡が有名な中山法華経寺です。

 失念していたことをお詫びして追加します。  以上

人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 十七

2008年08月24日 | 幸運を呼ぶ法則

  六 恐怖心がツキをなくする

 人間はだれでも幸運を呼び込み、幸せに生きる能力を持って生まれている。
そのためには前向きな心をもって、なにごとでも挑戦する生き方でなければならない。
たちはだかる困難や壁を、ひとつまたひとつと乗り越えるたびに、いままで使わずに眠らせていた能力が目覚めてくる。その経験が積もり積もって、どんなことがあってもビクともしない強い心がつくられる。

 この強い心が、一見不可能とみえることでも可能にする、奇跡のような幸運を呼ぶ力となるのだ。困難を前にして、もうダメだ。とあきらめたり困難を避けて安易な方え逃げるような生き方では、せっかく持って生まれた、有り余るほどの脳力を使うことは出来ない。
困難を恐れずに立ち向かっていく勇気が、人間の眠っている脳力を目覚めさす原動力となるが、その脳力を眠らせ白紙の状態のまま終わらせるのが恐怖心である。
   
   大事業家であり、哲学者でもあったカーネギーは、

 「人間は恐れること以外に、恐れるものは何もない。」と言っている。

人間は恐れる心を持つことが一番恐ろしいことで、それ以外に恐れるものは何もないという意味である。

   実例をみてみよう。

 シカゴにある職業相談所に一人の男が訪ねてきた。ヨレヨレの服を着て、肩を落とし歩くのがやっとのようである。重い足を引きずって入り口の階段を登り、相談員の前に来て腰掛けると、男は言った。

 「ここで何か解決策が見つからないと、自分はミシガン湖に身を投げて、決着をつけるつもりだ。」

男はまじめに仕事に取り組んできたが、いつも人に騙されるばかりで、それを何とか今まで切り抜けてきたが、今度ばかりはどうしようもない状態に追い込まれたのだ。
男の話を聞いた相談員は、確かにこの男のおかれている立場は、たいへん厳しいものだが、もっとたいへんな状態で相談にくる者がいることを知っていた。相談員は、

 「○○さん、お話はよく分かりました。あなたが厳しい状態におかれていることも理解できます。ついては今のあなたに一番適切なアドバイスができる人が一人います。
 今その方をご紹介しますが、その方はたいへん無口な方ですので、あなたからよく話しかけて、何でも相談してください。
 その方は勇気のある人で、どんな困難にもくじけないで、勇敢に立ち向かっていく方ですから、きっと満足のいく答えが得られると思います。
相談が終わったらもう一度ここに来てください。私もあなたにアドバイスできることがありますから。」

次回に続く   


人間賛歌 「新・仏教教室」 二十四

2008年08月22日 | 新・仏教教室
 「一生成仏抄 抜粋の解説」

 一念無明の迷心というのは、

仏界という太陽のように輝く生命をもちながら、それを知らずに(無明)
苦悩の境涯にいる迷える人のことを言います。

しかし、元々が太陽のような輝きをもっていますので、光を覆っている
厚い雲を取り除けば、太陽が姿を現すように・・

人々がもっている仏界の生命も、磨くことによって汚れが取れ、もとの輝
きを取り戻すのです。
どうやって磨くのかといいますと、仏の言葉を信じ、

「南無妙法蓮華経」と唱えることを磨くと言うのです。

縁あって日蓮大聖人の仏法に出会った私たちは、朝に夕に怠らず生命
を磨いていきましょう。



 中国の天台大師は、

一念(生命)が三千諸法(森羅万象)となって現れるという一念三千の教義
を説きました。
宇宙のすべての現象(三千諸法)は、生命が造り現したものであるという
説で、

 釈迦が説いた法華経をより理論的に分析し、検証した教えです。
難解で分かる人が少ないと言われますので、これ以上深入りはしません。

天台大師の一念三千の教義から生命を一念と呼ぶようになったのです。


 さて法華経は別名を智慧に入る門といわれるぐらい智慧を重視します。
智慧は知識とは違います。
知識は情報の一種ですが、図書館やコンピューターで世界中の知識が
簡単に手に入るようになりました。

智慧というのは、知識を活用して世の中に喜びを伴う利、美、善の価値
を創造することを言います。

 さて仏界の生命は、

三千諸法を写し出す明鏡のように、すべての事象の起こった因果や、
それが招くであろう未来えの影響を明確に写し出す能力をもっています。

これを如実知見(ありのまま実のごとく知見する)といい、
事実をありのままに誤りなく見通す智慧のことであります。

情報を誤りなく理解して対処できれば、人生に行き詰まりや過ちは生じま
せん。多くの人が困難な人生を歩むのは、この力に欠けるからで、情報
を自分に都合よく解釈して行動するから失敗するのです。

人生という航路を行くのに羅針盤(明鏡)を持っていくか、持たずにいくか
の違いが、信仰を持つか、持たないかの違いなのです。
つづく    

人間賛歌 「新・仏教教室」 二十三

2008年08月18日 | 新・仏教教室
 残暑お見舞い申し上げます。

 前回の補足

 誤解を招かないために言っておきますが、死を恐れない人というのは、
生命の真実( 真理 )を悟って、生も死も生命本来が現す姿であるから、
恐れることも忌むこともないことを知っている人で、決して命しらずの暴れ
んぼーのことではありません。

 人間には死を恐れる本能がありますから、
事故を未然に防いだり、病気を早く発見して健康を取り戻すなどの効果
もあります。
ですから死を恐れることがいちがいに良くないとは言えないのです。

 要は真理を覆い隠している無明を除いて、
苦悩の元である迷いをなくすことが大事なのです。  以上


ジッチャン、

「仏教は人間が幸せになるためには、生命に本来具わっている仏界の命
を現せばよいと教えていますが、
その仏界の命を覆い隠しているのが生命えの無知で、迷いとも無明とも
言います。

 仏教を信じ、仏道を修行するのは、この無明をなくして、
 仏界の命を現すことですが、

日蓮大聖人は次のように言われています。


 「 一念無明の迷心は磨かざる鏡なり
   これを磨かば必ず法性真如の明鏡となるべし (中略)

   日夜朝暮に又おこたらず磨くべし
   いかようにしてか磨くべき、ただ南無妙法蓮華経と
   唱えたてまつるを磨くとはいうなり 」
   
    ( 一生成仏抄より抜粋 )

 注一 鎌倉時代の鏡は銅製だったので、いつも磨いていないとサビて
     写らなかった。

 注二 法性 真如 どちらも生命の実相(実の姿)である真理のこと。

 つづく   

  

人間は何をしに来て、どこえ行くのか 二十一

2008年08月15日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか
  朗読続き 「死は存在しない」

 ここで成功哲学「思考は現実化する」で有名なナポレオン・ヒルの
エピソードを紹介しよう。
ヒルはアンドリウ・カーネギーの思想「思考は現実化する」をカーネギーから
学び、カーネギーの死後それを世界に広めた人である。

 カーネギーは、

「宇宙にはいかなる知者でも説明することができない、
無限の叡智とでもいえる力があり、いままでこの力を活用せずに大きな事業
を成し遂げた人はひとりもいないし、これからもいないだろう。

この力を活用するには一つの条件がある。

それは自分の利益のためだけでなく、公共のために役立つとか、
自分以外の他の人ために奉仕する精神を持つことである」

 という思想を持っていた。


カーネギーはこの思想を自分で実践し、一介の職工から鉄鋼王と呼ばれる
ようになり、世界的な大富豪になった。

ナポレオン・ヒルもこの思想を実践して、ルーズベルト大統領の特別顧問と
なり、一九二九年代の世界大不況からアメリカ経済が立ち直るのに貢献し
た。
やがてアメリカ社会でなくてはならない重要な人物になるのである。


 そのヒルが゛あるとき娘をつれてドライブを楽しんでいた時のことである。
車がたまたま墓地の横を通ったとき、娘が、

「パパ、人間は死んだらみんなここに来るのね。」

と聞いた。

ヒルは娘の年齢ではまだはやいかな、と思ったがよい機会なので言って
おこうと思った。

「リズ、人間の死というのはね、より高いレベルに進むための一つの段階に
過ぎないのだよ。
この世はそのための修練の場所だから、死は終わりではなく決して怖いも
のではないのだよ。」

 ヒルはハンドルを握ったまま、隣に座っている娘に言った。

つづく   

人間賛歌 「新・仏教教室」 二十二

2008年08月12日 | 新・仏教教室
ジッチャン、

「山本さんから三毒のほかには心の病はないのかと、指摘がありましたが、
心の病は今まで言った三毒なんか軽いほうで、もっと重い病がいくつもあ
ります。

 四百四病(すべてのの病ことで、金欠病もこの中に入る)
と言われるくらい多くの病がありますが、根本的な重病を治すとあとは枝葉
みたいなものですから、たいした問題ではありません。」

山本さん、

「先生、四百四病の中に金欠病も入ると言われましたが、金欠病も本当に
治るのですか。
 それと、その根本的な重病というのはどんな病なのですか。」

ジッチャン、

「山本さん、
 はじめの質問の答えです、金欠病(貧乏病)は治ります。
ちょつと時間はかかりますが、治ることに間違いありません。

 それも根本的な病を治してからのことですが・・
次の質問の根本的な重病とはなんですか、についてお答えします。


仏教ではすべての病の根源になるものを、
「元品の無明 ガンポンのムミョウ・生命にもともとある迷いのこと」 と捉え
ます。
 元品の無明、生命にもともとある迷いといってもイメージしにくければ、
「死を恐れる心」 とイメージしてください。

どんな人でも死を恐れます。自分は死ぬことなんかこわくないと言っても、
イザその時になると臆するのが普通です。

 元品の無明はすべての人の生命にありますが、これが人間のあらゆる
苦しみの根源であると見抜いたのです。関係ないようですが貧乏病もこ
れが一番の原因なのです。

そこで元品の無明=死を恐れる心はどこから来るのかと言いますと、
生命の真実( 真理 )に無知であることから生じます。
 明と暗、善と悪が表裏一体であるように、
 生命には真理を悟る智慧( 法性 )と、
 真理を知ろうとしない迷い・無知の両面があります。

真理を悟って死を恐れなくなった人を覚者・仏といい、
真理を知らず死を恐れる衆生を凡人(迷っている人)と、仏教では言うので
す。

つづく

人間は何をしに来て、どこえ行くのか 二十

2008年08月09日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか

ジッチャン、

「日蓮大聖人は釈迦の言葉、ニルバーナは最上の楽しみである。
に関して次のように言われている。

 「生も歓喜  (生きることも喜び)
 「死も歓喜  (死んだあとも喜び)
 「生きているときは 生の仏」
 「死んだあとは  死の仏」

で、どちらも喜びの生命(仏)であると。

その仏の生命が自分の生命にあることを知ることについて、

 「自分の心(生命)が本来の仏であると知ることを、大歓喜と言うのである。
 南無妙法蓮華経(仏の生命を呼び出す声)は、歓喜の中の大歓喜であ
 る。」   (趣意)

と言われています。

もちろん、人々が嫌がる死がなくなるワケではありませんが、
歓喜の心というのは、生死を超越して続く大宇宙(大自然)の心ですから、
始まりも終わりもなく、この状態が無限に続きます。

 なぜ歓喜の中の大歓喜の心になれるのかについては、

 「自他共に智慧と慈悲あるを喜とはいうなり」  

と御書の文にあるように、自分だけの喜びではなく、
他者に尽くして喜ばせることが歓喜する根源であると言われています。


 前に、大自然の実態は慈悲の心であると言いましたが、
慈悲の行為は簡単に出来ることではありません。困難を伴いますが、
それを永続して行うエネルギーが、歓喜する心であると私は思います。

 自分が歓喜していると、他者になにかしてあげたいという心になるもの
です。
仏教では「深心の本願」といって、自分でも気がついていない心の一番
深いところに、他者に尽くしたいという慈悲の心があるが、無明という壁
にさえぎられて現れないのだ。と説いています。

人間の心が慈悲に基づいた歓喜に満ちたとき、人間は最高に進化した
と言えるのではないでしょうか。

地球に生存する人間の多くがこの境涯になるにつれて、地球から戦争と
いう悲惨がなくなっていくと考えられます。

 ロスの話から脱線しましたが、また朗読に戻ります。

つづく  
 

 

 

 

 

 


人間は何をしに来て、どこえ行くのか 十九

2008年08月07日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか

山本さん、

「先生、前回で、ニルバーナ(死のこと)は最上の楽しみであると、
釈迦のコトバを引用されましたが、死を賛美するようでいかがなものかと
思うのですが。

 いま日本は世界一高い自殺率をなんとか押さえようとして、法律や条令
をつくっていますが、それに水をさすようでまずいのではないでしょうか。」

ジッチャン、

「山本さん、よい点を指摘してくれました。私も言ったてまえそのことで悩ん
でいたのです。
 そこで今回はちょつと早いとは思いますが、釈迦のコトバについて、私の
説明不足だったところを補足しておきます。


 仏教を学ぶうえで、一番難しいとされる生死の問題ですが、
これを明らかにして生死の苦しみをなくすのが、仏教の究極の目的ですか
ら、よく聞いてください。

 仏教では生と死を別々に捉えず、生死不二と捉えるのです。
生死不二というのは、二っのようだが別々には切り離せない一体のことで、
たとえば、体と影の関係をみると、体があって影がないとか、
影があって体がない、というようなことはあり得ません。

 体と影は二であっても実際は二ではないことを不二というのです。

 釈迦のコトバを生死不二の視点でみると、
 死は最上の楽しみ(喜び)であるということは、
 生も最上の楽しみ(喜び)であることになります。

生が喜びであるから、死も喜びであり、生死は不二で別々ではないのです。
自殺される人は、苦しみから逃れようとして死を選ぶのでしょうが、他人を
殺すか、自分を殺すかの違いはあっても、殺生罪に違いはありません。

仏教では殺生を一番重い罪として戒めていますので、重い罰を受けるか
もしれないのです。
 非常に微妙なところですが、

人間は生死の苦しみである無明(生命に明らかでない、無知なこと)を破り
死の恐怖から開放されるために生まれてきた。と仏教は教えています。

つづく