叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 「新・仏教教室」 二十

2008年07月30日 | 新・仏教教室

ケイタくん、

「ジッチャン、日蓮大聖人の仏教は仏になるタネを植える下種仏教だと
言われましたが、
 そこのところをもっと詳しく聞きたいのですが。」

ジッチャン、

「ケイタくんは畑を知っているかねえ。
タネをまくというのは、畑に穴を掘ってタネを埋め、土をかぶせて水まきをし、
 タネが発芽しやすいようにするのを、タネをまくというんだ。

土をかぶせるのは、風でタネが飛ばされないように、また鳥に食われない
ようにするためなんだ。
 そしてねえ、大事なことは畑はどんなタネでも育てる力があるということ
なんだよ。

 食用になる野菜でも、なんの役にも立たない雑草でも、
時には人間の害になる毒草でもヘイキで育ててしまうのだ。

 畑じたいはタネの善し悪しを選ばないから、どんなタネでも育てるのだ。

人間の心も畑によく似ているんだ。
仏になる善いタネでも、悪人になる悪いタネでも、苦悩のタネである迷いでも心は育ててしまうのだ。
 だから心にどんなタネを植えるかが大事なんだ。

 仏になるタネというのは、法華経を信じることしかないから、
心に「南無妙法蓮華経」のタネをしっかりと植え付けることが肝心中の肝
心なんだ。


 だが、タネをまいただけでじっとしていても仏にはなれないんだ。
タネが順調に成長するように、水をやったり、太陽によく当てたり、ほかの
悪いタネが心に入り込んだり、虫に食われたりしないように、注意深く管理しなければならないんだ。

 仏の境涯というのは人間の中で最高の境涯で、
幸福の大樹のようなものだから、一年や二年で出来るものではないんだ。
 ダイコンやニンジンでも、
タネをまいて収穫するまでには、あるていどの時間がかかるが、

天を突くような大木ともなるとそう簡単にはいかないんだよ。
十年とか二十年の歳月をかけて、根を張り、枝を広げて、葉を繁らせ幸福
の大木に育っていくんだ。
 だから忍耐がいるんだよ。
仏の別名を能忍(よく耐える人)というが、そういうワケなんだよ。
ケイタくん分かったかねえ。」

ケイタくん、   

「はい、よく分かりました。」

つづく   


 


人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 十五

2008年07月28日 | 幸運を呼ぶ法則

  五、心は伝染する

 コソボ紛争で強大な軍事力をもつNATO軍が、無防備に近いユーゴを空爆したときのことである。アメリカのコロラド州で、高校生が銃を持って自分の通っている高校に押 し入り、逃げ惑う無抵抗の生徒たちに向けて銃を乱射するという事件が起きた。アメリカ中を震撼させたこの事件で、十数人の何の罪もない生徒たちが殺された。

 同じ頃、空爆にさらされたベオグラードの動物園では、母トラや母オオカミが、生まれたばかりの我が子を殺してしまう事態が頻発していた。空爆のあった翌日に多発していることから、動物園側は、「動物が精神に異常をきたしている」と懸念していた。

 子殺しが始まったのは、四月中旬にベオグラード空爆が激化してからで、トラの親が子供三匹をかみ殺したほか、母オオカミが生まれた六匹の子のうち五匹を殺した。さらにミミズクも子育てを放棄したり、かみ殺すなどしてヒナ五羽が死んだ。

 動物の流産も相次ぎ、シマウマ、コブウシ、ライオンなどが一~四回流産したほか、一頭だけオリにいたライオンは、自分の足をかみ続け血だらけになっているのも確認された。動物園の園長は、

 「オリの中にいる動物は、どこに逃げることも出来ない。彼らに罪はない。空爆は即時に中止すべきだ。」とNATO軍に訴えている。

 以上は、一九九九年五月二十一日付、ベオグラードの新聞報道である。アメリカのコロラド州とヨーロッパのユーゴは随分離れている、偶然が重なっただけだと思う人には、次の事例を紹介しよう。


 九州の宮崎県沖に幸島という小さな島がある。
この島は無人島で百匹ばかりの野生のサルが住んでいる。サルたちは木の実や草の根をエサにしていたが、とぼしくなったので人間が餌つけをしてサツマイモを与えるようになった。
 初めのうちサルたちは、ドロや砂がついたままサツマイモを食べていたが、ある日サルたちのあいだに異変が起きた。一匹の若いメスザルが海水でサツマイモを洗って食べたのだ。

 次回に続く   
   


人間は何をしに来て、どこえ行くのか 十八

2008年07月26日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか
 朗読続き、

 精神科医の立場から見た喪失(死)の対処法というのはどんなものか。

それは先ず、
「一」 死が避けがたいという現実に対しての怒りから始まる。

「二」 そこから逃れるために、事実に目をおおい否定しようとする心の働き。

「三」 そしてどうしても逃れようがないと分かると、取引をしようとする。
    たとえば末の子が学校を卒業するまで延ばしてほしいとか、いまやり
    かけている仕事を成就するまで待ってもらいたい、というふうに何かと
    取引をして時間を稼ごうとする。

「四」 それらもみなダメだと分かったとき、抑鬱状態になる。
    いらいらして人を寄せ付けようとしない、みんなには自分の気持ちな
    んか分かりはしないのだ。と決めて自分の心の中に壁をつくる。

「五」 それらを通り越して最後の受容、あきらめとも言える状態になって
    死を受け入れる心の準備がととのう。

 と説くのである。

 このなかで最後の受容が一番難しい、
抑鬱段階にとどまったまま、前に進まない人がけっこういる。特に日ごろ
インテリと言われている人に、この傾向が強いようだ。
 死という考えても分からないことをあれこれ考える結果、抑鬱状態から
抜けきれないのである。

 それに比べて高い学歴があるわけでもなく、ごく平凡に暮らして来た
庶民と言われる人たちのなかに、死を平静に受容する人が多い。

 彼や彼女たちは先に亡くなった両親に会えるとか、子供を亡くした女性
の場合は、死んだ子に会えるというような夢をもっている。

 またなにか宗教を持っている人のほうが、宗教を持っていない人に比べ
ると、死を受け入れやすいようである。


 ロスの喪失の対処法を読んで私はこう思った。
仏法の修行を積んだ人は、「一」から「四」の段階を通り越して直ちに受容
の段階に入る。
 さらに受容するだけでなく、死をも次の飛躍えのバネにする強靭な精神
力を発揮しようとする。死のときの姿が仏道修行をした結果、永遠の生命
を自覚した証明になるからである。

 釈迦はニルバーナ(死のこと)は最上の楽しみであるとまで言っている。
これほどの喜びを笑って迎えなさい!何を嘆くのであろうか!
 といわれるような心境になるのである。

つづく      




人間は何をしに来て、どこえ行くのか 十七

2008年07月23日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか

 朗読続き、

 読者は、ケイト夫人が訪ねてきたことは、ムリに信じなくてもかまわない。
本書を理解するのに差し支えないからだ。
ロスに関するエピソードの一つだと読み流してもらっていいと思う。

 ロスは自分の体験したことや、死後の世界の研究を続けるうちに、次のよ
うな考えを持つようになった。


 「いにしえの哲人や、アインシュタイン博士もそう感じていたように、
宇宙には大いなる意志みたいなものがあって、人類がそれに気づくように
メッセージを送り続けている。

 みんなはそれに気づかないだけで、
この宇宙には有とも無とも断定できない「なにかが」あるのだ。

それはキリスト教でいうところの「無限の愛」とも、仏教でいう「大慈悲の心」
とでもいえる精神的なものが、たしかに存在していて、
 そのことを人々に知らせるために使者として私は選ばれたのだ。
 私には人々にそれを伝える義務があるのだ。」


 死に臨んだ末期患者の心のケアを専門とする精神科の医師として、

近代科学を学んだ科学者の一人として、長年にわたり死後の世界という、
未知な分野を研究してきたロスが到達した結論がこれであった。

「きょう以降、自分の残りの人生を賭けて、人々が考えているような死は
 存在しないことを、世界に伝えていこう。」

 とキュブラー・ロス博士は決意したのである。

ロスが書いた「 死の瞬間 」は世界的なベストセラーになり、講演の依頼
が世界各地からひっきりなしにかかってくるようになった。
 ロスは死を忌み、死を恐れる聴衆を前に、

 死を前にした末期患者が、死を受け入れるまでに通らなければならない
五つの段階について説いた。
精神科医の立場からみた、喪失の対処法というものである。

つづく   

 


人間賛歌 「新・仏教教室」 十九

2008年07月20日 | 新・仏教教室

ケイタくん、

「ジッチャン、その地涌の菩薩の指導者・上行菩薩というお方は現れる
のですか。」

ジツチャン、

「日本では平安朝の末期にあたる十二世紀末が、末法の時代に入った
と言われる。
 これは伝教大師や、その他の賢人も同じ説で一致しているが、これ以上
は専門的になるのでこの辺で省略しよう。

 末法に入ってすぐの一二二二年に、
日本の安房の国に日蓮大聖人がお生まれになった。十二歳のとき、天台
宗系の安房清澄寺の道善という人を師に出家したのです。

 後に、法華経を根本にした日蓮宗を自分で創設されるのだが・・

法華経で予見している末法、法滅の時代(釈迦仏教の効力がなくなる時)に、
 末法万年から、それ以降の人々の心の病を治す
 「法華経の肝心、南無妙法蓮華経」の大良薬を広める上行菩薩が日蓮
であると、ご自身で宣言されたのです。」

ケイタくん、

「そうですか、上行菩薩というお方は、日蓮大聖人のことだったのですか。
 これでだいぶんつじつまが合ってきました。
それで日蓮大聖人が教えた法華経の題目を唱える実践法が、日本や世
界に広まっているワケですか。」

ジッチャン、

「そうだよ、日蓮大聖人がお生まれになってから八百年近くたっているが、
いま日蓮大聖人が書き顕された御本尊と、 「南無妙法蓮華経」 を唱え
る唱題行(修行法)が始まったところなんだよ。

 現在日本を中心に世界百二十九ケ国まで広まり、
一千万人以上の人が、日蓮仏教を実践しているのだ。

 これを広めたのが創価学会で、初代会長 牧口常三郎から二代会長 
戸田城聖と続き、特に三代会長の池田大作先生の貢献が大きいのだね。
法華経の題目を唱える教団は他にもたんさんあるが、

 日蓮大聖人の教えどおりに世界に広宣流布している団体は創価学会
しかないんだよ。
日本は島国でヤキモチ焼きが多いから、現実を正しく認識しようとしない
が、この事実は世界中が認めているのだ。
 正当に評価していないのは、本家本元の日本だけではないだろうか。」

つづく   

 


人間賛歌 「新・仏教教室」 十八

2008年07月17日 | 新・仏教教室

ジッチャン、

「さすが山本さん、分かりが早いですね。
そのとおりです。それについてはまた話すとして、ケイタくんの質問にもど
りましょう。

なぜ法華経が広まらなかったのか、について大事なことを話します。
 ケイタくん、いままでジッチャンが言ったことは覚えているだろうね。
法華経が広まらなかったのは、

教義が難しかったことと、各人の生命に釈迦と同じ仏の生命があることを
聴いても、聴いた人が始から信じなかったことにある。と言ったねえ。
 だがこれから言うことが一番大きな理由なんだよ。

 釈迦は自分の死後、始の千年を「正法時代」といい、

法華経の教えを実践する人が多く、法華経の功徳を受ける人も多い時代
であるとし。

 その後の千年は「像法時代」といい、

立派な寺院や、経典は山ほどあるが、仏教が形式化し、教えどおりに実践
する人も少なく、功徳を受ける人も少なくなる時代になる。
  と予見したのだ。

 釈迦の死後二千年以降を末法といい、法の効力が滅する時代という意
味で末法法滅時代と呼んだんだ。

釈迦の説いた法華経は薬の効能書きみたいで、過去に法華経を聴いて
仏になるタネを植えてあった衆生はこれを聴いて、仏界を現すことが出来
たが、末法になると過去に下種(仏になるタネを植えること)された衆生は
娑婆世界にいなくなってしまうのだよ。

 みんな幸せになって他土に行ったと言われるがね。

だから末法は、仏になるタネを植えていない衆生ばかりになり、
真理(生命)に無知で、欲が深く、争い事を好む人ばかりになるんだ。

 この人たちは釈迦の説いた法華経では救えないので、万人の病を治す
大良薬である「法華経の肝心、南無妙法蓮華経」を人々にすすめて飲ま
せる仏教の大指導者が必要になるんだ。

 この人を地涌(ジユ)の菩薩といい、地涌の菩薩の上首(指導者)を
上行菩薩(ジョウギョウボサツ)と申しあげるのだ。
 この菩薩が末法に出現して「南無妙法蓮華経」の大良薬を広宣流布し
世界中の人を救うだろう。と経典には予告してあるのだ。

 注、地涌の菩薩 
地から水が涌き出るように無数に出現し、あらゆる姿で「南無妙法蓮華経」
の大良薬を広める人。

つづく   
 

 

 

 

 

 

 


人間は何をしに来て、どこえ行くのか 十六

2008年07月15日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか

 朗読続き、

 後日ロスはロバートにこのメモを見せて、ケイト夫人の伝言をつたえた。
そのときのロバートの驚きようは尋常ではなかった。
 とロスは述べている。

 ここを読んでも読者は信じないかもしれない。正直言って書いている私
にも信じ難いからだ。
 ただ世界的に著名な医師で、科学者の一人であるロスが、世界中の人
に読まれている本の中に書いてあることだから、そらばなしでないことだ
けは確かである。

 私はケイト夫人の亡霊がロスを訪ねてきて、
死後の世界の研究を続けてくれと頼んだ、ということはそれほど重要なこと
ではないと思う。

そのことが事実であったかどうかに関係なく、ロスを信じるからである。

 世界中の数百万人に影響を与える思想を発表し、
彼女の講演があると世界のどこからでも、ジェツト機を乗り継いで聴きに来
る人たちで会場が満員になったと言われるほどだ。

 個人生活の面でも、どんな困難や挫折に直面しても、
莞爾として受けとめて(受容する)、それを乗り越えていく、そして自分の
使命として人類に対する慈愛を貫いて行った。そのようなロスの生き方を
尊敬するからだ。


 コペルニクスの地動説がそうであったように、新しい発想には批判はつき
ものである。
ロスは疑いをもつ人にこう言っている。

「信じない人には百パーセント正しい証拠をいくら見せても信じない
 でしょう。彼らは信じようとしない自分を信じているのですから。」

 私たちは自分が知っていることや、目で見て確認できたり、大勢の人が
認めていることしか信じないように慣らされている。
しかし私たちが知らないだけで、見えなくても大事なものはたくさんあるの
だ。

 地球は自転しながら秒速三十キロの猛スピードで、太陽を廻る軌道上を
移動しているが、それを知っていても自分の目で見ることは出来ないのと
同じだ。

 星の王子様のセリフではないが、

「大事なものは目に見えないものだ」 のセリフどおりかもしれない。

つづく   

 

 


人間賛歌 「新・仏教教室」 十七

2008年07月13日 | 新・仏教教室

山本さん、

「先生、さっき日蓮仏教の広宣流布と言われましたが、
釈迦の説いた仏教と日蓮大聖人の仏教に違いがあるのですか。」

ジッチャン、

「山本さん、良い質問をしてくださいました。

 釈迦が説いた法華経(仏教)と、日蓮大聖人が説いた法華経は、
表面上は同じ法華経ですが、根本的な違いがあるのです。
どんな違いがあるかと言いますと、

 釈迦の法華経は、すべての人に妙法蓮華経という仏界の生命があり、
その生命に具わる智慧と慈悲力は、想像することが出来ないくらい広大
で無辺である。
 と仏界の生命を褒め称えた言葉で満ちています。

法華経は六万九千余の文字で書かれていますが、一字一字が仏の生命
を賛嘆する言葉であると言われるほどです。

 法華経を万病を治す薬にたとえると、釈迦が説いた法華経は薬の効能
書に当たります。
 凄い教えだ! すばらしい! といくら褒めそやしても、それで自分の
病が治るワケではありません。


 一方、日蓮大聖人の法華経(唱題行)は薬そのものです。

薬の効能を知らなくても、効能が分からなくても、飲めば病が治るのです。
 たとえば、生まれたばかりの赤ちゃんが、母親の乳の成分をしらなくても、
乳を飲めば栄養になつて育つようなものです。

 だから日蓮大聖人の仏教は、仏になるタネを植える下種仏教だと言わ
れるのです。
釈迦仏教はすでに法華経を聞いたことがあり、仏になるタネを植えてあっ
た人たちが、仏界を現す効果があるのです。

これを脱益(ダッチャク。収穫するという意味)仏教と言い、下種仏教とは
違うのですよ。
 ちょつと長くなりましたが、私の言わんとするところを分かっていただけ
たでしょうか。」

山本さん、

「先生、よく分かりました。
そうしますと、私たちは日蓮大聖人の仏教を実践して、仏になるタネを植
えれば良いということですか。」

つづく  

 


人間賛歌 「新・仏教教室」 十六

2008年07月10日 | 新・仏教教室
ジッチャン、

「そうですね、仏が悟った法を凡人の自分たちが悟れるワケがないから、
仏教は学問があって、長いあいだ仏道修行ができる特別な人だけが
分かる教えだ。
 というように思われていたのです。

 そんなワケで、仏教用語というのも一般の人が聞いても分からない
ものが多くて、ますます民衆から浮き上がった存在になったように思いま
すよ。

日蓮大聖人は、だれにでも分かるように、
人々が理解しやすい言葉で法華経を教え、文章もかなまじりで手紙や、
解説書を書き信徒に与えられています。
 これは当時としては例外中の例外なんですね。

 日蓮大聖人が亡くなったあと、有力な高弟たちが、
かなまじりの文章を残したのでは師のハジになるという理由で、手紙や
解説書を燃やしたり、すきかえしたりしたことが事実としてあつたのです。」

山本さん、

「日蓮大聖人が書かれた手紙や、仏教の解説書を一冊にまとめた
御書というのを、私も拝見したことがあります。
 たしか辞書みたいな細かい字で印刷してあって、千六百頁以上ある
ように伺いましたが。
 燃やしたり、すきかえしたりした中でよくそれだけの文書が残ったもの
ですね。」

ジッチャン、

「これについては日蓮大聖人の信仰を、そのまま受け継いだ日興上人
の尽力があったからだと思います。
 日蓮大聖人亡きあと、各地にちらばっていた手紙や解説書を、手を尽く
して集められたのですから、大きな功績です。

 日興上人は将来、日蓮大聖人の仏法が世界に広宣流布したときは、
かなまじりの文を外国語に翻訳して伝えるべきだ。
と言われましたが、今では英語やドイツ語にも翻訳され、世界広宣流布
の役に立っているのです。

注、 世界広宣流布 日蓮大聖人の仏法が世界中に広まり、人々が
平和で幸せにくらせるようになること。

つづく   

 

人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 十四

2008年07月08日 | 幸運を呼ぶ法則

  ツキを呼ぶ心に変える

以上二つの例をあげた。自分の心を変えて他人に奉仕する生き方をする
ようになってから、不思議と幸運に恵まれ、自分が思ってもいなかった地位に登った人の例である。

 人間が自由にできるのは自分の心だけだと言われる。
他人を自分が思ったように変えたいと思っても、思うようにならないので、そのことを怒ったり、交通事故で足をなくした人が足を元通りにしたいと思っても不可能なので、自分の不運を恨んだりするのもその人の心である。

 しかし一方では、他人は他人であり自分の思い通りにしようとすることがムリなはなしで、自分は自分らしく誠意をもってつきあっていけばそれでいいではないか、足は一本なくなったが義足もあるし、もし両足なくなったことを思えば恵まれたほうで不幸中の幸いであった。と思うのも人の心である。

 どちらを取るのもその人の自由であるが、否定的(悲観主義)にとるのと肯定的(樂観主義)にとるのでは、人生に大きな違いが出てくる。
肯定的に取る人は幸運に恵まれ、否定的に取る人は幸運に見放されるからである。

 何年かまえ脳内革命という本が大評判になった。
医者である著者は本の中で、ものごとを樂観的にとり、なんでも喜びにする人と、悲観的にとりなんでも悲しんでしまう人の違いを次のように述べている。

 人間の心が喜んでいる状態のとき、

脳内に脳内麻薬の一種であるドーパミンという快感を促進する物質がつくり出されて、これがさらに快感を持続する働きをする。

 反対に人が悲しんでいるときは、

脳内に有毒な物質がつくられ、これが血管を萎縮し筋肉を凝縮させて、不快感を助長する働きをする。

このように喜ぶということは医学的にみても良いことが分かるのだ。
   著名な外科医は、いつも喜んでいる人の細胞は元気が良くて生き生きしている、反対に悲しむばかりの人は細胞に元気がなくみずみずしさがない、と言っている。
   
 ここで人生の大先輩の言葉を聞いておこう。

 「喜びは、苦悩の大木に実る果実である」         ビクトル、ユゴー

 「苦悩を突き抜けて、歓喜に至れ」               ベートーベン

 「喜べ、喜べ、人生の事業、人生の使命は喜びだ。
  空に向かって、草に向かって、樹木に向かって、動物に向かって、
    人間に向かって喜ぶがよい。」                トルストイ