叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

 すべて無料です、気軽に読んでください。

人間賛歌 賢聖の境涯 七

2006年12月28日 | 賢聖の境涯

  聖徳太子 続き、 十七条の憲法

第一条、 ( 旧文、一にいわく )
 
「和をもってとおとしとする、さからうことなきを宗とせよ、
人みな党(たむら)あり、またサトれるもの少なし、
ここをもって、あるいは君父に従わず、また隣里にたがう。

しかれども、上、和らぎ、下、睦びて、
事を論(あげつら)うにかなうときは、事理おのずから通ず、
何事かならざらん」

和といっても、黙って命令に従うのではなく、
互いの違いを認めたうえで、穏やかに議論すれば、
自然に道理に通じる。
そうすれば何事も成就しないわけがない。

という意味である。

第二条、(旧文、二にいわく )
 
「アツく三宝をうやまえ、三宝とは仏と法と僧なり、
すなわち四生のよりどころ、万国の極宗(オオムネ)なり、
いずれの代、いずれの人か、この法をたっとばざらん。

人、はなはだあしきもの少なし、よく教えられるをもって従う、
これ三宝によりまつらずば、
何をもってか、まがれるを直さん」


人間がほかの動物とちがって、欲望をコントロールし、
人間らしく生きるための根本を定めている。
これはインド各地にのこっている、アショーカ王の詔勅. 
( 石に刻んだ王の勅命 )

「ブッダ( 仏 )と、ダンマ( 法 )と、サンガ( 仏教を広める人の集団 )
に敬礼」

と同じ精神である。

生命の真実を悟った仏と、仏の悟った法と、
それを正しく伝える僧団、
この三つを、宝のごとく尊敬し、その教えを実践する以外、
道理にかなう正しい生き方をすることはできない。

どんな国、どんな時代の人であっても、
これを離れて、人道を全うすることは不可である。
これを国のおおもととして守ろう。

と定めたのだから、世界でもまれな、進歩的な条文といえよう。
 つづく

 

 


人間賛歌 賢聖の境涯 六

2006年12月22日 | 賢聖の境涯

  聖徳太子 続き

 聖徳太子が遣隋使、小野妹子らを派遣し、
中国の文化、学問、諸制度を導入したことは有名だ。

太子は高麗から渡来した恵滋、百済からの渡来人慧聡を師にして、
仏教を学んだが、その理解の深さは両師が、
舌をまくほどであった。

太子か著した、
「法華義ショ」 「ユイマ経ギショ」 「ショウマン経ギショ」を、


注、義シヨとは経の意味を解釈した講義書のこと、

師の恵滋が高麗に持ち帰り、
広めたのをみても、その辺の事情がわかる。

それらの義ショの冒頭に、

「ヤマトの国、ウエノミヤ王.聖徳太子自ら撰述したもの、
海のかなたからの書ではない」

と記している。

尚、近年敦煌で発見された、ショウマン経ギショが、
太子か著したものと同一である、と言われるので、
太子の著書は朝鮮を超え、
中国にもわたったものと、推察できる。

太子の業績のなかで、もっとも有名なのが、
十七条の憲法の制定である。
太子は朝廷の権威を高め、武力に頼るそれまでのやりかたを改め、
法によって国を統治した。

十七条の憲法全体を貫くのは、和の精神であり、
力による争いごとを排し、話し合いによって諸事を決する、
合議制を尊重した。

主な条文を取り上げて列記しよう。
当時の人が高度な精神性を持っていた事に、
驚きを感じるだろう。

注、聖徳太子の言葉や、十七条の憲法の条文などに、古文がでてきます。
古文を読むのが今ハヤっていますが、意味がよく分からなくても、
太子の文に接すると、高貴な人格にふれたような感動がわいてきます。

できれば声をだして読むと、美しい日本語の原点と、高貴な精神の故郷に、
帰ったような気がしてきます。

つづく



 


人間賛歌 賢聖の境涯 五

2006年12月16日 | 賢聖の境涯
  聖徳太子 続き

 釈迦が、生命の真実を明らかにした、法華経の説法を始めた時、
その場にいた五千人の弟子が、
釈迦に一礼して、いっせいに立ち去った。

彼らは、釈迦の弟子の中でも優秀で通っており、
自分たちは釈迦の教えを、すでに学び尽くしており、
これ以上教わることはないと、思いあがったのだ。

釈迦は彼らが立ち去るのを、黙って見ていたが、
立ち去るのを、見届けてから、

「まだ悟りを得ていないのに、すでに得たと思う慢心したものたちは、
いま去って行った。
ちょうど今、かって説かなかった未曾有の法を説く時が来た。
長年秘密にしてきた、本当のことをこれから教えよう」

と言って、生命の真実を明らかにした教えである、
「妙法蓮華経」の説法に入るのだ。


生ずべき始めもなければ、死すべき終わりもない、
自他彼此( 自分、他人、動物、植物、それ以外のもの )
の区別もなく
永遠に続く生命である、妙法蓮華経は、
言葉で説明することも、心で想像することも出来ない、
不可思議な法 (妙法 )である。

慢心した弟子たちに、妙法を教えても信じることができず、
逆に不信の心を起こすだろう。
妙法を信じられず、それに違背すれば、
苦しみ悩む境涯に陥るので、彼らのためには、
かえってよかったのだ。
これで心おきなく、秘密の法を説くことが出来る。

と釈迦は思った。

釈迦は、

「この妙法は信じがたく、理解しがたいが、
少しでも法を聞いて、歓喜する人の功徳は、
仏の智慧をもっても、量り切れないほど大きいのである」

と言って、去らずに残って法を聞く弟子たちを、
褒め称えている。

横道になるが、
全インドを統一したマウリヤ王朝の、アショーカ大王、
中国、隋の文帝、日本の聖徳太子はいずれも名君主として、
世界史に名を残している。

三者の共通点は、武力によらず法によって国を治め、
平和で文化的な国家を築いた点だ。
そして法治の根本にしたのが、法華経で、
民衆を大事にする、慈悲の政治を行った。 続く.

人間賛歌 賢聖の境涯 四

2006年12月10日 | 賢聖の境涯
  聖徳太子 続き

 太子は、学問だけでなく、武芸にも優れ、
蘇我の馬子が、物部の守屋と争った時、十四歳だった太子は、
馬子に加勢して出陣した。

武門の誉れたかい物部勢に押されて、
蘇我勢が劣勢になったとき、太子は弓を引き絞り、
仏法を守護する、四天王を念じ矢を放つたところ、

矢は馬上の敵将に当たり、一矢で射取めた。
これを機に、蘇我勢は勢いを盛り返し、
物部一族を、滅ぼしたのである。


太子が後に、四天王寺を建てたのは、このときの仏天の守護に、
報恩感謝するためであった。

表向きは、
新興勢の蘇我氏が、仏教擁立派で、
旧勢力の物部氏が、反仏教の立場であったので、
仏教信奉者の太子が、仏教派の蘇我氏に、
加勢したとされている。

しかし内実は、新旧の勢力争いもあり、
蘇我氏の血を引く太子が、母の実家である、
蘇我氏に加勢したのは、
当然であったのかもしれない。


 そのころ中国では、
文帝 (在位581ー604 )が、隋の国を興し、
戦乱と、廃仏運動後の混乱を収拾していた。

文帝は、法華経の正師といわれる天台大師を師とし、
自分も仏教を、信奉すると同時に、法華経の正義を広めて、
中国仏教の全盛期を築いた。

文帝には、次のようなエピソードがある。

あるとき日照りが続いて、国中の民、百姓が困った時、
天台大師が、雨乞いの祈祷をした。
その結果、三日三晩雨が降り続いて、
国中の民、百姓が歓喜したことがあった。

天台大師の、雨乞いの祈祷の場にいた文帝は、
あまりの嬉しさに、宮廷に戻るのを忘れてしまった。
と言うのである。

文帝の仏法を求める真剣さが、
伝わってくる、エピソードである。

聖徳太子も、隋の文帝も、ともに法華経を信奉したが、
仏典には、これとは逆のエピソードが載っている。
続く

人間賛歌 賢聖の境涯 三

2006年12月04日 | 賢聖の境涯

  聖徳太子続き

 その場に同席していた、聖徳太子は、
これはよくないことを、なされた。もしこのことが人に知れたら、
帝の災いのもとになるだろう。
このことは、絶対内密にしなければならない。
と考えた。

太子は、その場にいた者たちに、金銀の宝をあたえて、

「このことは絶対口外しないように」

と命じた。
それからしばらく経った。

だれも知らないはずのこのことが、蘇我の馬子の耳に入った。
かねてから、帝が、自分のことを心よく思っていないと、
感じていた馬子は、帝が口走った、
「憎いヤツ」とは、自分のことに違いないと、思った。

このままでは、自分の身が危ない。
恐れた馬子は、
アヅマアヤアタイゴマ、アタイイワイの、
二人の渡来人に、スシュン帝の暗殺を命じた。

こうして、スシュン天皇は史上まれな、臣下による暗殺で、
あたらいのちを、落としたのだ。

 スシュン天皇の死後、すぐ女帝のスイコ天皇が即位した。
聖徳太子は乞われて、摂政になり、スイコ天皇をたすけて、
政務をつかさどった。
太子が二十歳のときであった。


上宮王子< 聖徳太子の幼名、後に太子の徳を讃えて聖徳太子と、
呼称した> は、
父、用明天皇、母、アナホベノハシヒトおおきさきの、
長子として生まれた。

おおきさきが散策中、産気づいて、厩のなかで出産したので、
厩戸の王子ともいわれる。
用明天皇は、太子をこよなく愛し、皇居の丘の上に御殿を建てて、
住まわせたので、上宮王子とよばれた。


太子は非常に聡明で、一を聞いて八を知り、
同時に八人が言う事を、理解できたといわれる。
つづく