叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 四

2008年03月30日 | 幸運を呼ぶ法則

  所長はやがて鉄道会社の重役に昇進した。後年カーネギーが鉄鋼会社を興すために出資
   者を募ったとき、このときの所長がカーネギー鉄鋼会社えの出資の保証を申しいでたの
   だ。
   このおかげでカーネギーは必要な資金を集めることができた。カーネギーの人に尽くす
   生き方が後年幸運となって帰ってきたのである。

   どうすれば鉄を安く売ることができるかを目的にした、カーネギー鉄鋼会社はやがてア
      メリカ一の大鉄鋼会社に発展していったが、その頃のことである。
   カーネギー鉄鋼会社のオーナーで、鉄鋼王ともてはやされていたカーネギーにひとりの
   秘書がいた。この秘書は優秀な青年であったが若気のいたりか、酒を飲んで夜遊びをす
   るようになった。それがこうじて会社を遅刻するようになったのである。
   カーネギーの側近たちは、

   「秘書をクビにして別の秘書を雇うように・・」と進言したが、カーネギーは、

   「私に考えがあるから・・」と言って秘書をかえようとはしなかった。

   あるときカーネギーはくだんの秘書を自宅に招いた。
   夕食のあと秘書を書斎に通してコーヒーを飲みながら、ふたりは打ち解けた態度で話し
   あった。

   「きみは最近夜遊びがちょつと過ぎているようだが、私は若気のいたりで一時的なもの
   だと思っている。たがいつまでも続くようだと健康にもよくないので、このへんで考え
   直したほうがよいと思うが、きみはどう思うかね。」

   カーネギーは自分の考えを率直に言ったあと、秘書の意見を聞いた。
   てっきり叱られると思っていた秘書は、カーネギーの寛大な態度に、

   「ご心配をかけて申し訳ありません。
   秘書のひとりやふたりいつでもクビにできる立場のあなたのようなかたが、私のような
   ものに、そこまで気を配っていただいたことを感謝します。
   あすから心を入れ替えてやり直しますので、どうかこのまま私を秘書として使ってくだ
   さい。お願いします。」

   と応えた。クビになっても仕方がないと思っていた青年は、心を入れ替えてやり直すこ
   とを決意したのである。
   カーネギーは自分よりもはるか年下で、しかも部下である青年をひとりの人間として扱
   い誠を尽くして接した。血気さかんで自暴自棄になりかけていた青年はこのおかげで救
   われ、やがてカーネギーのパートナーとして会社の発展に大いに貢献したのである。



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人間賛歌 若い人の仏教教室 百九

2008年03月28日 | 若い人の仏教教室
  お詫び
三月二十一日から二十六日まで急きょ入院し、ご迷惑をかけました。
無事退院しましたので更新を続けたいと思います。どうかよろしくお願い
致します。


ジッチャン、
「ちょつと難しい話が続いたので、このへんで話題を変えてみよう。
よく耳にする言葉に、人間は自然の一部である。というのがあるが山本さん
は聞いたことがありますか。」

山本さん、
「先生よく聞きますよ、それに私自身も人間は自然と別個にあるのではなく
て、自然の一部であると考えておりますが。」

ジッチャン、
「たしかに人間は自然の一部であるという言葉はよく聞くし、
多くの人もなんとなくそう思っているといえるね。
そこで有名な釈迦の言葉になるが、釈迦は、

「我即宇宙・宇宙即我」と言ったと伝えられているんだ。

ここで宇宙というのは大自然のことだから、
「我は大自然であり、大自然は即ち我である。」という意味にとれるがどう
だろうかな。
仏教史で、釈迦の悟りは何であったのか。真理はナゾとされているが、
この言葉なんか、真相を知る手がかりになるのではないだろうか。

「私は自然の一部ではなく、私は自然そのものだ。」云々


山本さん。
「先生、スケールが大きくなってきましたね。なんだか気持ちがワクワクす
るようですよ。
釈迦はほんとうにそう思ったのでしょうかねえ。」

ジッチャン。
「そこで大自然とは何か、その意義が重要になるが以前、大自然は慈悲
の心で成り立っているということを話したことがあったね。
身近な例で言うと、

動物はサンソを取って、炭酸ガスをだし。
植物は炭酸ガスを取って、サンソを出す。
蝶は花の蜜をもらうかわりに、花粉を運んで花が子孫を残すのに協力し
ている。
魚はわずかしか魚にならないのを承知で、何十万個ものタマゴを生んで
プランクトンにエサを提供している。
地球は地軸を中心に回転することで重力を生じ、大気や海水が地球から
離れないようにしている。」

つづく  

人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 三

2008年03月20日 | 幸運を呼ぶ法則


   事業経営にしろ、株式投資、競輪競馬などの勝負ごと、人生そのものが勝負ごととも言
   えるが、それにツキがなくて勝ち通した人はいない。
   人を喜ばす行いは、ツキを呼び込む魔法のような力を持っており、カーネギーが調べた
   ところによると、この力の恩恵は人種男女の差別なく、誰でも受けることができ、例外
   はないことが分かったのである。
   こんな凄い力があり、誰でも使えるのなら使わないのは損だ。では具体的にどうすれば
   この力を使う事が出来るのだろう。
   参考までにカーネギーの生き方をみてみよう。

   カーネギーは若い時、ある鉄道会社の営業所で電信技士の仕事をしていた。運行してい
   る列車に、会社からの指示を電信で伝える仕事である。
   ある朝、運行中の列車から、列車がなんらかの事故に巻き込まれて、線路上で立往生し
   ているとの電信が入った。カーネギーは電文を持って所長室に行ったが、所長はまだ出
   勤していなかった。いつも定刻に出社する所長がこの日にかぎって来ていないのだ。所
   長の身に何かあったのではないかと心配して、彼は急いで所長宅に行った。

   「主人はいつもの通りに家を出て会社に向かいました。」

   という夫人の言葉にカーネギーは、慌てていたのでひょっとしたら途中で所長と行き
   違いになったかもしれないと思い、急いで社に戻ったが所長はまだ出社していなかっ
   た。

   同じ線路上を走っている後続の列車に、前方の線路上で立ち往生している列車がある
   ことを知らさなければ、大事故につながる恐れがある。
   しかもこんな大事なときに、指示を出す所長がいないことがあとで会社に分かると、
   所長の責任問題に発展しかねないのだ。時間は刻々と過ぎたが所長は姿をあらわさな
   かった。
   所長の命令なしで列車に指示を出すことは固く禁じられていた。
   それを行えば重大な職務違反になるのは知っていたが、事故が起きたあとではどうし
   ようもないので、カーネギーは自分で電文をつくり後続の列車あてに電信を打った。

   電文は、
   「OO地点の線路上に列車が立ち往生しているので、その地点から四キロ後方にある
   避難線に入って待機するように。」
   という内容であった。電信を打ち終わるとカーネギーは事故のあった報告書と、電信
   を打った顛末書に自分の辞表をそえて所長の机の上に置いた。

   やがて所長は出勤してきた。
   列車が事故を起こし立ち往生していることなど、夢にも知らない所長はカーネギーの
   報告書を見て驚いた。通勤途上にある、ある店にいちど立ち寄ってみたいと思いなが
   ら、いままで機会がなかったので、たまたまこの日に立ち寄ったために出社時間に遅
   れたのだ。
   所長はカーネギーを自分の部屋に呼んで聞いた。

   「カーネギーくん、この電文はきみが作ったのかね。」

   「はい、私が自分でつくりました。事故の電信が入りましたので、急いで所長のお宅ま
   で知らせに行きましたが、所長は家を出られたあとでした。仕方がないので社に戻って
   待っていました。
   しかし時間がたっても所長がおみえになりませんので、このようなときに所長が指示さ
   れる内容がわかっていましたので、私が電文をつくって打ったのです。
   私の行為が職務違反になることは分かっていますので、会社を辞める覚悟でおります。

   とカーネギーは答えた。

   「うん、この電文はなかなかよく出来ている。もし私がいたとしてもキミと同じことを
   やったと思うよ、ありがとう。
   それからね、カーネギーくん、この辞表は受け取るわけにはいかないよ。」

   所長は机の上に置かれた辞表を取り上げると、カーネギーの手に渡しながら、

   「助けられたのは、むしろ私のほうだから・・」と言った。

抜粋四に続く

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人間賛歌 若い人の仏教教室 百八

2008年03月18日 | 若い人の仏教教室

ジツチャン、
「題目の力は、たとえばこうも言えるのだよ。
一粒のドングリの実が見上げるような樫の大木になったり、
地球が秒速二十キロの猛スピードで、太陽を廻る軌道を廻ったりするが、

軌道が太陽に近すぎると地球は灼熱の焦土となり、
遠すぎると零下何百度という凍土になってしまうのだ。ちょうどよい位置を
キープして廻っているのだね。

樫にしても地球にしても、ナゼそうなるのか。説明できる人はいないが、
理由は分からなくても何十億年も、それを続けているんだ。そのおかげで
私たちもこうして生きていけるのだよ。

題目にナゼ、それに匹敵するほどの力があるのか。
説明することは出来ないが、自分でやってみると生命力と智慧が満ちあふ
れてくるので、不思議に思うんだよ。
 これはねぇ、ケイタくん。

説明は困難だが、仏界のいのちが自分にあることを信じて、
題目を唱え。 その結果事実であるということを自分でつかむ以外に分か
る方法はないんだよ。


日蓮大聖人は、

「百千万年くらき所にも、ともしびを入れぬれば明かるくなる。
我等衆生、悪業、煩悩、生死果縛の身が仏性の因によりて即身成仏する
こと疑いなかるべし」  (趣意)と仰せだ。


悪業、煩悩。 生命にしみついた悪い習慣と、貪る、怒る、愚かの三毒が
盛んなこと。
生死果縛の身。 仏性を覆い隠す無明のため迷いの生死を繰り返してい
る衆生のこと。
仏性の因。 仏界を現す原因のこと。
即身成仏。 その身そのままで仏界のいのちを現すこと。


題目を唱えると、無明の闇に閉ざされていた我等の仏性が現れて、
仏界の境涯(二度と不幸にならない幸福境涯のこと)になることは疑いない
ことなのだ。と仰せられているのだ。
だからケイタくん、
ジッチャンが言うことのゼンブは理解できないと思うが、とにかく理屈抜きで
題目を唱える修行をすることだ。そうすれば自然に分かってくるようになる
から・・・」

ケイタくん、
「ジッチャン、分かりました。ボクはゼツタイその通りにやってみます。
また分からないことがあったら教えてくださいね。」

つづく


 


人間賛歌 若い人の仏教教室 百七

2008年03月15日 | 若い人の仏教教室

ジツチャン、
「日蓮大聖人ご自身も題目を唱えることを修行の根本にされていたのだ。
その上で、
法華経.方便品第二や如来寿量品第十六を読まれていたことが、諸御抄
に書いてあるのだよ。



方便品第二  だれの生命にも仏界の生命が具わっていることを明かした
経典。
如来寿量品第十六  仏界の生命は無始無終で永遠に続くことを明かした
経典。

題目を唱えるのは簡単ではないか、と思うだろうがこれが簡単なようでなか
なか難しいのだよ。
なぜかというと、私たちの生命には仏界という最高の生命があるが、
それを覆い隠しているのが無明(生命の真実を知らないこと)という迷いなのだ。
無明は生命が本来持っている、死を恐れる性質が死を直視することを避け
るために起きたり、
長いあいだ生命活動を続けるなかで、善くない習慣が・悪業とも言うが・・
しみついて仏界が現れるのを邪魔するのだ。

だから題目を唱えようとすると、
思いもしなかった妨害が自分の心や、まわりの人の反対というかたちで
現れてくるのだ。

題目を唱えることは難事中の難事といわれるくらい難しいのだよ。」

ケイタくん、
「シッチャン、題目を唱えるとナゼ、その仏界のいのちというのが現れるの、
そこのところがボクにはよく分からないのだけれど。」

ジツチャン、
「ケイタくんなかなか鋭い質問だね。
だがこれにうまく答えられる人はいないのだよ。

日蓮大聖人は、空をとぶ鳥が鳴くと、カゴの中の鳥も鳴いて外にでようと
するように、南無妙法蓮華経と呼ぶと、
自分の中にある南無妙法蓮華経(仏界のいのち)が呼ばれて外に出ようと
するのだ。と仰せなのだ。

題目を唱えるとナゼ出るのか分からなくても、仏界という強い生命力が実
際に湧き出すんだ。
頭もよくなるんだよと、わが師は言われていたがね。
 それを自分で実感できるのだよ。」

続く   

 


 


人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 二

2008年03月11日 | 幸運を呼ぶ法則

 幸運を呼ぶ法則 抜粋二

 クスクス笑っている人もいるようだが、これは人生の縮図なのだ。
自己中心で自分のことしか考えない人は、富や地位を得ようとして、一生をあくせくもがきながら送る。しかし結局手に入れることは出来ず、悲嘆とあきらめの内に終末を迎えるのだ。そのことを地獄行きの待合室の絵は表しているのである。

 一方、人のために尽くすことを知っている人たちは、自分が食べる前に人に与えるので、自分でガツガツ求めなくても、他の人が持ってきてくれるのだ。極楽行きの待合室の絵がこれを表しているのは言うまでもない。

多くの人がこの事実を知らないために、せっかくの人生を台無しにしてしまう。
人を喜ばす行為は自分にも喜びとなって返ってくるが、利己主義者はこのことを知らないのだ。そのためにいつもガツガツ求めるだけで、満足するということがない。
   
 幸運な人というのは、人も含めまわりの出来事すべてを、自分の味方にする人のことをいう。実例をあげてみよう。
   
 一介の職人から叩き上げて大鉄鋼会社を創り、後に鉄鋼王と呼ばれたアンドリウ・カーネギーはこう言っている。

 「自分の得た財産、地位、名声、友人、家族など、自分に幸福をもたらしてくれる全てのものは、人に尽くし、人を喜ばす行為によって得たのであり、それ以外のものは何ひとつない。」

 注、アンドリウ・カーネギー(一八三五~一九一九 )アメリカの実業家、スコットランド生まれ、一八四八年、十二歳のとき一家でアメリカに移住、ペンシルバニア鉄道のトーマスA・スコットの秘書兼通信士となる。
一八八一年、カーネギー製鋼設立、慈善事業に関心をもち、数多くの図書館や、カーネギー・ホールなどの公共施設の建設に私財を投じた。

 人に尽くし、人を喜ばす行いは、自分にツキを呼び込むだけでなく、自分の家族や友人など周囲の人も幸運に巻き込む魔法のような力をもっている。
 さらにカーネギーは、

 「人間が本来持っている不思議な力、どんな知者でも説明することの出来ない“無限の英知”とでもいうもの、この力(ツキを呼び込む力)を活用せずに成功した者は、今までに一人もいないし、こらからもいないだろう。」と断言している。

 事実カーネギーは、自分と同時代にアメリカで活躍し大成功した、ヘンリー・フォードや、ロックヘラー、ルーズベルト大統領など五百人以上の男女の、成功の秘訣を調べた結果、自分と同じように“人に尽くす”生き方をしていることが分かったのである。

三に続く   

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人間賛歌 若い人の仏教教室 百六

2008年03月09日 | 若い人の仏教教室

山本さん、
「先生、日蓮大聖人の仏教と釈迦の仏教はちがうのですか。
私は同じだと思っていましたが。」

ジツチャン、
「山本さんよい質問をしてくれました。
仏教ではよい質問をする人を発起衆(ホッキシュウ)といって、たいへん
貴重な存在であると誉めているのですよ。

それは自分が質問することで、仏の説法をうながし、人々が仏教を理解
する手助けをするからです。
その人の福徳は大きいと仏典に書いてありますから、山本さんも福徳豊か
な人になりますよ。

そこで、釈迦の仏教と日蓮大聖人の仏教の違いを分かりやすく言うと
こうなるのです。
釈迦は、
すべての人の生命に仏界という最高の生命があり、
その生命が持つ智慧と力と福徳は、すべてを見通す智慧を持つた釈迦でも量ることができないほど大きいのだ。と言い、その仏界の生命を褒め称えたのが妙法蓮華経(略して法華経)なんです。

ただ釈迦は仏界の生命を現すには、どうすればよいかという点については
具体的に示さなかったのです。

釈迦が弟子の阿難に言った最後の言葉が、

「 すべてのものは過ぎ去って行く
  己をより処とし 法をより処として 他をたのむな 」

であったといわれ、「菩薩道を励めよ」と言って亡くなったと伝えられている
のです。


これに対し日蓮大聖人は、
釈迦が法華経で明らかにした仏界の生命を、図に書いて現し御本尊と
して残してくださったのです。
この御本尊を受持して、題目を唱えると、法華経の意味が分からない人
でも、仏界の生命を直ちに現せるという画的な実践法を教えられたのです。

法華経の題目を唱える修行法は、
中国の天台大師や、日本の伝教大師も、他にすすめることはなかったが、
自分の修行には南無妙法蓮華経と唱えていたと伝えられています。
またインドの国父マホトマ.ガンジーが、
題目を唱えていたことは有名な事実として知られているのですよ。」

つづく  


 


人間賛歌 若い人の仏教教室 百五

2008年03月06日 | 若い人の仏教教室
ケイタくん、
「ジツチャン、ボクはゼヒそんな人生を送りたいです。
毎日が楽しくて楽しくてしかたがない人生が送れるのなら、ボクはなんだっ
てやりますよ。」

ジッチャン、
「ケイタくんそんなにムキになって力まなくてもいいよ。
信仰をすればだれでもそうなれるのだから、そんなに難しいことではない
からね。」

ケイタくん、
「ジッチャン、信仰をするって、仏教を信仰するということ・・・」

ジッチャン、
「結論はそうだが、幸福になるには日蓮大聖人の教えた仏教を信じて、
南無妙法蓮華経と題目を唱えることなんだ。
そうすればゼツタイ幸福になれるよ。ゼツタイ間違いないから、もしウソだっ
たらジッチャンの首をあげてもいいよ。」

ケイタくん、
「ジッチャンの首なんかもらっても、置くとこもないし、いらないよ。
でもジッチャンがそこまで言うのなら、ボクは南無妙法蓮華経の題目を唱え
ますよ。」

ジッチャン、
「ケイタくんえらいよ。それでいつから始めるかねえ。」

ケイタくん、
「今日からでもいいですよ。やりかたはジッチャンが教えてくれるでしょう。」

ジッチャン、
「よし、あいわかった。ケイタくんの母上が驚くだろうが、
これは本人の心の問題だからケイタくんの決意次第なんだ。ジッチャンが
つつしんでお教え申し上げましょう。

日蓮大聖人の仏教は、信.行.学が実践の基本になるんだ。
信とは、自分のいのちに仏界という最高のいのちがあることを信じることで、
行とは、南無妙法蓮華経と唱えることなんだ。
題目を唱えると元々ある自分の南無妙法蓮華経ののいのちが、呼ばれて
現れてくるのだ。

次に学とは、仏教の奥深い理論を勉強して仏界のいのちの素晴らしさを
理解していくことだ。
この三つがそろえば、仏教を実践する大利益が直ちに現れて、ケイタくん
自身が仏教の凄さを一番感じるはずだよ。」

つづく


人間賛歌 幸運を呼ぶ法則

2008年03月04日 | 幸運を呼ぶ法則

 
  ご案内
いま「幸運を呼ぶ法則」という本の出版を準備しています。
まもなく完成する予定ですが、本の内容の一部を抜粋してご紹介致します。
尚、継続して紹介する予定ですので宜しくお願い致します。 以上


   幸運を呼ぶ生き方  抜粋一

スエーデンの古い城に保存されている一枚の絵がある。絵には”待合室”という題がついていて、死んでから地獄へ行く人と極楽へ行く人が、それぞれの通行証をもらために順番を待っている部屋の様子が描かれている。
 どちらの部屋にも部屋の真ん中に暖炉があって、その上に大きなナベがかけてある。


ナベの中では美味しそうな食べ物がグツグツ音をたてて煮えているが、ナベの周囲は近づけないように木の柵で囲んであるので、手を伸ばして食べ物をつまんで食うことはできない。
 そのかわりに柵の外側に長さが一メートルもある木のハシが置いてあって、それを使ってナベから食べ物をつかんで食べる仕組みになっている。

 地獄行きが決まった人たちがいる待合室の絵を見てみよう。
みんな空腹に耐えかねているのだろう。先を争いながらハシを使ってナベの中の食べ物をつかもうとするが、これがなかなかつかまらないのだ。
 たまたまうまくつかまえても、自分の腕よりも長いハシの先の食べ物を、腕を曲げて口に入れるのは容易なことではない。
 それをなんとか口に入れようとして、もがいている様子が描かれている。

 一方、極楽行きが決まった人たちのいる待合室はどうだろう。こちらの絵ものぞいてみることにしよう。
 部屋の仕様は地獄行きの部屋とまったく同じで、なにひとつ変わっていないが、人々の振舞いが違う。柵の中にナベがあって、こちらにも長いハシが置いてあるが、人々は互いに譲り合いながら助け合って食事をしている。
 一人の人がハシの先でつまんだ食べ物を、

   「どうぞ召し上がれ。」

 と声をかけて柵の向かいの人の口の中に入れてやる。すると今度は向かいの人が、ハシの先でヒョイとつまんだ食べ物を、

   「はーい、お返し」

と言って相手の口の中に入れて、お返しをする。こうやって食事を済ませた人たちが和やかに団欒している様子が描かれている。
 地獄行きの待合室では、食事にありつけた人は一人もいない。やがて彼らは名前を呼ばれて、通行証を受け取り、空腹のまま長い旅路へ出発することになる。

 クスクス笑っている人もいるようだが、これは人生の縮図なのだ。
自己中心で自分のことしか考えない人は、富や地位を得ようとして、一生をあくせくもがきながら送る。しかし結局手に入れることは出来ず、悲嘆とあきらめの内に終末を迎えるのだ。そのことを地獄行きの待合室の絵は表しているのである。

二に続く

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人間賛歌 若い人の仏教教室 百四

2008年03月03日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「そう、山本さんも安岡正篤さんの本を読まれましたか。
ひところ東洋学が流行ってブームになったときがありましたね。私の記憶
では、中曽根総理時代までが安岡さんに師事して、安岡さんの死後は
総理の師になった人物がいたとは聞きませんので、

人間学を学ぶ政治家も減ってきたのかもしれませんね。

それに人生の師を見つけることはたいへん難しいことなんです。
仏教のエピソードの一つを紹介しましょう。

あるとき釈迦の弟子が釈迦にこんな質問をしました。

「善い友(釈迦は弟子のだれでも善い友と呼んでいた)を得ることは仏道
修行の半ばまできたと思ってもよいでしょうか。」

それに対し釈迦は、

「それは違う、善い友(師も含む)を得ることは仏道修行のすべてなんだ。」

と応えたといわれています。
師と善い友との言葉の違いはありますが、善い人と交わるということは、
仏道を成就して幸福になる条件なんですね。」

山本さん、
「先生、人生の師や、善い友を持つことが大事なことはよく分かりました。
さきほど仏道を成就して幸福になると言われましたが、
仏道を成就するとはどういうことなんですか。詳しく教えていただけないで
しょうか。」

ジッチャン、
「山本さん、仏道を成就するとは、分かりやすく言うと幸福になるという
ことです。
私の師は、生きていること自体が楽しいという境涯になることだ。と話した
ことがありますが、人生が楽しくて、楽しくて、しかたがないというようにな
るのです。

やること、なすこと、ぜんぶ旨くいって、あっちからも、こっちからも味方が
現れ協力してくれるのです。
仏典ではこのことを、思うこと、言うこと、なすこと、振舞うことの日常の行動
のすべてが、
生命の法則と一致して(仏界の境涯になること)自由自在な境涯になると
記してあるのです。

ケイタくんなんか、これからが長い人生なんだから、できればこういう
人生を送ってもらいたいと思うが、ケイタくんはどう思うかねえ。」

つづく