叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 所感(信仰) 十二

2009年12月29日 | 所感
 経典のはなし *

 日本に渡ってきた仏教経典の全てを集めた大正大蔵経典というのがあ
ります。
大正時代につくられたもので、釈迦の教えを漢字でビッシリ書いたのが百
巻あり、一巻は千ページあるそうです。

 キリスト教の聖典といわれる聖書は、新訳と旧訳の二巻ですし。。
イスラム経のコーランは一冊であることを思いますと、仏教経典の量が比
べようもなく多いことが分かるでしょう。

人類のかけがいのないこの経典を、全世界に伝えようと世界中の仏教学
者百数十人が分担して、英訳する計画が進んでいますが、全部訳すのに
何百年かかるか見当もつきません。

 いままでにやっと出来たのがアソカ王伝と妙法蓮華経の二つだそうです。
釈迦の滅後二千数百年のあいだに、
インドからヒマラヤ山脈を越え、生きて帰った者がないといわれる大砂漠
を通って中国に渡り、そこからさらに海を渡って日本にきたのです。どれだ
けの人が身命を投げ打ったかはかりしれません。

かりにその経典を全部読んだとしても、日蓮大聖人が残してくださった法
華経の肝心、御本尊にめぐり合わなければ、末代の凡夫である私たちが、
法華経の信仰を持ち続けることはできないでしょう。

日蓮大聖人ご自身が受けられた数々の大難はもとより、弟子たちが受け
た難、特にその中でも信心して日の浅い神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄
弟がいのちをかけて信仰を守ったことが縁になり、大聖人は人類救済の
大御本尊を残してくださいました。

 以上のことや、
創価学会初代会長牧口先生の獄死、二代、三代会長の死身弘法の恩を
思えば、なんの労苦もなく御本尊を持った私たちは、感謝しても感謝し尽
せるものではありません。

少々の難に驚き肝をつぶすようでは、大聖人の弟子とか、学会魂の持ち
主とは言えないのです。
ともあれ、御本尊に題目を唱えることがいかに稀有なことか、自身の福運
に感謝するのみであります。

    以上

 

人間賛歌 幸せに生きる 六

2009年12月26日 | 幸せに生きる

 民話と仏教の違い  *

私、
「日名子さん、民話に出てくる甲弁護士と息子は幸せだったと思いますか。
それに乙弁護士は甲弁護士の策略に見事にはまって不幸になりましたが、
それについてはどう思いますか。」

日名子さん、
「もちろん、甲弁護士はとても頭が良くて、財産の誘惑にも負けず見通しが
当たって幸せだったと思います。
一方、乙弁護士は甲にはめられて息子をダメにし、不幸に陥ったと思いま
すが、先生はどう思われます ? 」


「この民話は財産があるから幸福ではなく、逆に財産があったから不幸に
なった。例をあげて幸福はカネではないことを教えています。

日名子さんのご指摘どおり、甲弁護士は頭が良くて、息子が遺産を相続し
て堕落するかもしれない危惧を未然に防ぎました。
しかも自分のライバルの息子を相続人にして、結果的に乙を失敗させたの
ですから勝利したと言えるでしょう。

 しかしこれは世間一般の見方で、
十年後、二十年後に甲と乙がどうなっているかはダレにも分かりません。
乙の息子が落ちるところまで落ちて人生の辛酸をなめ、それを契機に信仰
に目覚めて人間的に大成長し、父親を喜ばすということもありうることです。

 反対に甲の息子はとんとん拍子で、たいした苦労もなく成功路線に乗り
ましたが、人生にはどんな落とし穴があるか分かりません。
本来は自分が、乙弁護士の息子がたどった人生を送る運命を持っていた
かもしれないのに、父親の機転でその難を免れたのです。

 でも父親がいなくなった後とかに、
大きな試練に出会うと、鍛えていないだけにもろくて、あつけなく自分を破
滅に追いやることも考えられます。

仏法の因果の法で見ますと、甲弁護士は自分を信頼して遺言状を預けた
依頼人を裏切り、法律上はともかく、道義上大きな罪を犯したことになりま
す。

ナゼ甲はそんな行為をしたのか、それはどんな手段を使ってでも乙に勝ち
たいという勝他の念(因)、つまり修羅界の命が現れたのです。
修羅界の特徴は、いつたんは勝ったように見えても、最後は自分より強い
者が現れて、それにやっつけられる(果)のが果報として決まっています。

法律や、道義上の責めは逃れても、因果の法則を免れることは出来ませ
ん。これが生命の因果律です。

つづく   


 



 

  


人間賛歌 幸せに生きる 五

2009年12月23日 | 幸せに生きる

 スコットランド民話 *

イギリス・スコットランドのある町に、甲と乙という二人の弁護士がいました。
二人とも優秀で、互いをよきライバルとし競い合ったので、地域でも「頼り
になるやり手の弁護士」と評判されていました。

二人には同じ歳の男の子がいました。
二人とも優秀で弁護士になるために、同じようにフランスの法律学校で学
んでいました。

あるとき、この町で評判の資産家が亡くなりました。
資産家の婦人は独身で子供はなく、兄弟など縁故者もいなかったので、婦
人の遺産はいったいダレが相続するのだろう。と町中の評判になりました。

 甲弁護士は婦人の遺書を預かっていました。

「自分が死んだら開封して書いてある通りに執行してください。」

と、約束していましたので、甲は大事に金庫に保管してあった遺言状を出
して開封したのです。
遺言状を読んでいくうちに甲弁護士の顔色が変わりました。遺言状には資
産家の全財産を甲弁護士の息子に譲る。。と書いてあったのです。

 甲は一計を案じて遺言状の相続人を、自分の息子から乙弁護士の息子
に書き換えて発表しました。
町中の人が、婦人の莫大な財産が乙弁護士の息子に譲られるのに驚くと
同時に、甲弁護士の公正な態度に喝采したのです。

 それから何年かたちました。

甲弁護士の息子は優秀な成績で法律学校を卒業し、父親のあとをついで
立派な弁護士になりました。
一方、乙弁護士の息子は、莫大な遺産を手にして地道に勉強するのがイ
ヤになり、学校を止め放蕩に明け暮れるようになったのです。

その内に株式相場に手を出して大失敗し、遺産を使い果たして無一文にな
りました。学校を途中で止めていましたのでロクな職業につけず、結局浮
浪者になってヨーロッパをさまようようになりました。

 この時になって乙弁護士はハッ、と気づきました。
 「しまった、甲にしてやられた。。
本当は甲の息子が相続人だったのを、甲の謀略で自分の息子にされたの
だ。」
と、気がついたのですが、もう後の祭りでした。

次回に続く   

   


人間賛歌 小説連載のお知らせ !

2009年12月21日 | 所感
 歴史小説「目覚める人」出稿のご案内

 いつも当ブログをご愛読くださいましてありがとうございます。
新年一月から、
「目覚める人.日蓮の弟子たち」の連載を始めます。
週二回で一年以上続ける予定ですので、ご愛読くださいますようお
願いします。
尚、今までの記事は従来どおり続けていきます。

 *

「目覚める人.日蓮の弟子たち」の概要

 二度にわたる蒙古軍の来襲で、風雲急な鎌倉時代を生き抜いた人
たち。
中でも北条一門の有力者で、幕府の要人であった北条小源太が日蓮
上人の弟子になり、武力を超えた精神の力に目覚めていく物語です。

信仰と、波乱と、ロマンに満ちた小説です。ご期待ください。

                叙事詩 人間賛歌 管理人
  

人間賛歌 乱世に勝っ生命観を持とう 十

2009年12月19日 | 乱世に勝つ生命観を持とう


 生命があって、
 それにみんな生かされているのに、
 それを忘れて、自分が生きていると思い込んでいる。
 そしてやがてみんな死んでいく。

 生まれてから死ぬまでの、わずか百年足らずを、
 全てであると勘違いして、短い時間の中を、
 生、老、病、死の四苦、憎みあう、親しい人と別れる。
 求めても求めても得られない悲しみ。  
 生きていることが苦痛である。
 というような人生送っている。

 生命そのものは、
 無始無終であって、生もなければ死もない。
 そして本来は、快活で、元気がよく、明るくて、
 思いやりがあり、勇気があって、
 人生を楽しみながら生きていく、
 特質を持っているのが人間の本性だ。
 これが生命本来の姿で、これが我らの本体なのだ。

 ところが人間は、生命(本体)に生かされているのに
 それを忘れ、本体の影であるこの世をおびえ、
 四苦八苦で送るのだ。

 蓮祖聖人は、
 「仏法は体の如し世間は影の如し、体曲がれば影斜めなり」
 と言われている。
 体を直せば影は真っすぐになるのに、
 曲がった体はそのままにして、影だけ直そうとしている。
 その結果、悪いのは社会や他人だと勘違いする。

 社会や他人が悪いのではない。
 全て我が生命が現す影であるのに、
 気がつかないで、世を嘆き他人をうらやむ。
 特に今の時代は、絶望の時代といわれ、
 前途に希望をなくし、社会は荒れ放題である。

 このままでいいのだろうか ?

 今こそ生命本来の特性に目覚めて、
 希望の時代を開くべきではなかろうか。
 みんながその気になって、自己の生命を磨き、
 心を鍛えて、他を思いやる慈悲の心を持った時、
 全ての問題は解決する。と私は思う。
 そして希望に満ちた新年を迎えたいと願っている。

 以上   

 


人間賛歌 「新・仏教教室」 百十

2009年12月17日 | 新・仏教教室

 法華経の大ロマン 地球の未来は ? 

山本さん、
「先生、私は法華経を読んだことがないのですが、ずいぶんスケールが大
きいのですねえ。
前に宇宙科学者ホーキンズ博士の「宇宙を語る」を読みましたが、
それにも私たちの想像を超えた世界が描かれていて、地球のような人間
の住める天体(星)が無数にあると書いてありました。そこを読んでたいへん
感動したのを覚えています。

 今から三千年も前に釈迦が法華経で説いた宇宙観と、
近代宇宙学の権威ホーキンズ博士の宇宙観がよく似ているのが驚きです。
望遠鏡も人工衛星もない時代なのに、釈迦はどうして宇宙の姿を知ってい
たのでしょうか。。
それから先生にお聞きしたいのですが、仏の目から見て地球の未来はどう
映るのでしょうか。ゼヒ知りたいですねえ。。」

ジッチャン、
「仏の目で見た地球の姿は、いろんな星がある中で、仏が大衆に法を説い
ている星というのがありましたね。地球もその一つだと思います。

約三千年前に釈迦という仏がインドに生まれて法華経を説きました。
このことは地球が、仏が大衆に法を説いている星の一つであることを示し
ます。

釈迦は地球に法華経が広宣流布(広く行き渡ること)することを宣告して亡く
なりましたが、そのとき、地球に広める五文字の法華経・南無妙法蓮華経
と、それを広める人を地涌の菩薩であると定めて、その人に地球の広宣流
布を託したのです。

 その後釈迦の予告どおり、日本に日蓮大聖人が地涌の菩薩の上首とし
てお生まれになり、末法に広める五文字の法華経を書き顕した御本尊を
建立されました。
その後、創価学会が出現して、五文字の法華経を世界中に広めています
から、地球は広宣流布途上の星であると言えるでしょう。。

釈迦は自分の死後二千五百年後に、この法を世界に広めて断絶させては
ならないと宣告し、
日蓮大聖人は、五文字の法華経が世界に広宣流布することは、大地を的
に矢を射るようなもので、絶対にはずれことがない。と確約されています。

そうなりますと、無数の仏と大衆が共に仏道修行している星と同じで、
地球が仏国土になることは決まっていると、経典には記されているのです。
これが仏の目で見た地球の未来ですが、山本さん。お分かりいただけたで
しょうか。」

つづく   

 

   


人間賛歌 「新・仏教教室」 百九

2009年12月15日 | 新・仏教教室

 「聖愚問答抄研鑽」続き 法華経の大ロマン

ジッチャン、
「前回学んだ本文の続きを拝読します。
 
 「あるときは餓鬼・飢渇(ケカチ)の悲しみにあいて、
 五百生のあいだ飲食(オンジキ)の名をも聞かず」

前回は戦争の災禍で焦熱、紅蓮の地獄界を勉強しましたが、今回は四悪
道(地獄界から修羅界まで)の中の餓鬼界の苦しみについて述べています。

今は食料不足は昔の話しで飽食の時代になっていますが、世界には今で
も飢えに苦しむ人たちがたくさんいます。

五百生(五百回生まれ替わること)のあいだ、満足な食べ物にありつけない
というのは、慢性的な食料不足が長期間続くことですが、過去にそういう
時代があったことは事実であります。
そのために人間のからだは飢えに耐えられるように・・
また、少しの食物で生きていけるように改良されてきました。

二本足で飽食し大きなおなかを抱えていたら、人類は生き残っていなかっ
たかもしれません。
一部の先進国では過食が問題になって、
コカコーラの大ビンをなくし、マクドナルドのハンバーガーを小さくしろ。。
という声まであるようです。


ところで五百生とはどのくらいの時間なのか。。仏教の視点で考えてみまし
ょう。
仏教では生死を繰り返しながら、九界を輪廻すと説いていますが、五百生
とは生死の繰り返しを五百回するという意味になります。
一回の生を五十年としても何万年もかかりますから、想像を超えた時間だ
と思うでしょう。

 これに限らず法華経で説く世界は大風呂敷か、オトギ話ではないかと思
うほど大きなスケールで話が展開していきます。
釈迦が智慧の光を出して三千大千世界を照らしますと、無数の星が映し出
されますが、

ある星は仏が誕生したばかりで、まだ法華経の説法をしていない星であり、
別の星では、仏が出現して人々に法を説いているのもあり、
またある星では、無数の仏が現れて大衆と一緒に法華経を修行している。
というように、星によってさまざまな形があるのを照らし出した様子が記さ
れています。

仏が誕生したばかりの星は、まだ法華経の流布していない星で。。
無数の仏と大衆が共に仏道修行しているのは、法華経が広宣流布した星
(仏国土)であることを示しています。

 注 
 三千大千世界、 銀河系の宇宙が無数にある世界で超大宇宙のこと。

次回に続く  



 






    


人間賛歌 所感 十一 (信仰)

2009年12月12日 | 所感

 信仰は貫かねばイミがない *

せっかく御本尊を頂き信仰を始めても、生涯を通して信仰を貫くのは難しい
のです。
大聖人の弟子で有名な四条金吾を例にしてみましょう。

四条金吾が、
「現世安穏・後生善処」の経文を信じて、教えられるままに信仰してきたが、
現世安穏どころか、同僚にはねたまれ、主君にはうとまれ、そのうえに所領
まで没収されようとしている。
 経文に書いてあることはほんとうなのか」
 と大聖人のお弟子にグチを言いました。

このとき金吾は信仰して二十年以上たっていたといわれます。
それを聞かれた大聖人が、すぐお手紙を書いて指導されたのが、「此経難
事」(シキョウナンジ)御書です。

「受くるはやすく、たもつは難し、さるあいだ成仏はたもつにあり」

有名な御文ですが、
この経をたもつものは難があることを覚悟してたもちなさい。
このことは朝夕弟子たちに教えているのに、みな肝心のときは忘れてしま
うから、成仏の境涯になれないのです。これ以降は「此経難事」の文を片時
も忘れることなく、信仰に励むよう指導されているのです。


信仰をたもつことが難しいのは、難があるからです。
よくなるために信仰したのに、ナゼ難にあうのか。。と疑問を抱き退転する
人がいます。
難にあうのは自分の命にしみこんだ宿業を消し、清浄な命である仏界を現
すためです。御本尊をたもったが故に、本当は重い宿業を軽く受けて消す
のです。

難にあうもう一つの理由は、心を鍛えるためです。
真っ赤に焼けた鉄を打って鍛えると、不純物が除かれて強力なハガネにな
ります。
私たちの心も鍛えれば鍛えるほど強くなり、仏界の命が現れてきます。。
信仰の途上で難にあったら、宿命転換のチャンスと捉え、仏界に近づいた
と喜んで前向きに受け止めれば、難が逆に楽しくなるのです。

こうなりますと信仰が深まり、慈悲力と智慧をもった仏界の命がいつも出る
ようになりますので、幸福が約束されたも同然なのです。    

 以上   

 

 

 




  


人間賛歌 幸せに生きる 四

2009年12月10日 | 幸せに生きる
 よい師とよい仲間 *

日名子さん、
「先生その患者さんはスゴク素直な人ですねぇ。
医者に言われたとおりにしたから、治ったのでしょう。」

私、
「そう、この女性はとても素直な方のようですね。それに担当の医者がいい
ですよ。彼女にアドバイスしただけでなく、
毎日、今日はどんないいことがありましたか。。と問いかけて彼女を激励す
ることを忘れなかったのです。

幸せな生き方とか、幸福哲学を学んだ人は、
他人を喜ばせば、自分に喜びが返ってくるとか、
人を幸せにすれば、自分も幸せになれるということはほとんど常識みたい
になっています。。
ただそれを実行できるか、どうかになると、そうでない場合が多いのですね。
ですから周囲の人がその人を理解して、協力するとか励ますという支えが
いるのです。

人間は本能的に自己中心になりがちな生きものですから、それを矯正して
他人を喜ばす行為を持続することは困難なのです。」

日名子さん、
「先生みたいなよい指導者とか、よい先輩がいないと自分ひとりでは貫け
ないのですね。やはり幸せになりたかったらよい師匠をもつとか、よい友だ
ちをもつことが大事なんですねえ。」

私、
「そう、日名子さんは察しがいいから、要点をつかんでいますね。
仏教には、こんな話が伝えられています。。。
釈迦の弟子が、釈迦に。。
 「よい友達をもつことは、仏道修行の半ばに達したと言えるでしょうか」
と質問したそうです。

それに対して釈迦は。。
「よい友達をもつことは仏道修行の半ばではなく、仏道修行のすべてで
 ある。」
と答えた。。と経典にあります。
仏道修行することは、幸せに生きる法則に沿った生き方をすることですか
ら、幸せになることが決まっています。

それには正しい方向に導いてくれるよい師匠と、同志みたいな仲間がいり
ます。それがあれば、もう仏道修行は完成したと同じですから、幸せになる
ことも決まったと同じです。

つづく   


   

人間賛歌 幸せに生きる 三

2009年12月07日 | 幸せに生きる

 幸せに生きる法則 *

 日名子さん、
「先生、私はいま両親のおかげで幸せですが、これから先のことを考えま
すと、こんなご時世ですから、結婚して子育てをして幸せにくらせるか不安
です。
幸せに生きるには、どんな生き方をすればよいか、先生教えてくださいま
せんか。」

 私、
「幸せそうな日名子さんから、そんな質問を受けるとは以外でした。
幸せにるには、幸せになる法則があって、法則にしたがって生きればだれ
だって幸せになれます。

その法則というのは以外に簡単で、その気にさえなればだれにでも出来ま
す。
自分が幸せになりたかったら、人を幸せにしてあげることです。
具体的に言いますと、自分が喜びたかったら、人を喜ばせばよいのです。
簡単なことですが、みんなはこの逆をやっています。

 自分自身が幸せになりたくて、仕事でも家事でも一所懸命やる人が、
案外不幸であったりするのは、自分の幸せしか考えないからです。
幸せというのは、ある意味では喜ぶ心のことで、不幸というのは悲しむ心
のことですね。
心ばかりは自分で変えるしか、他に変える方法はありません。お金を積ん
でも、宝石が山ほどあっても、心を変えることは出来ないのです。

 アメリカの著名な精神科医が、自分の患者に言った有名な言葉を紹介し
ましょう。
メアリーは精神科に入院している女性ですが、
 「自分より不幸な人間は世界中探したっていゃしない。」と思い込んでい
ました。
今で言えばかなり重いうつ病の患者と言えるでしょう。そのメァリーに精神
科医はこうアドバイスしました。

「メァリーさん、あなたは今日から、あなたが会うすべての人を喜ばすよう
にしてください。
新聞配達の人でも、牛乳屋さんでも、看護婦さんでも、通りがかりの人で
も、だれでもいいですから、その人が喜ぶことをしてあげるのです。
 なにもあげるものがなかったら、あなたの笑顔をあげてください。
そうすることが、あなたに一番いい薬になりますから、きっと病気も良くなり
ますよ。」 と。。

それからメァリーは医者に言われた通りに実行しました。
だれにも会えないときは、廊下に出て、会う人に笑顔をあげるようになった
のです。
やがて彼女は、自分ほど幸せな人はいない。。と思うようになり退院して行
ったのです。

つづく