叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

 すべて無料です、気軽に読んでください。

人間賛歌 若い人の仏教教室 六十七

2007年09月29日 | 若い人の仏教教室
ジッチャン、
「一人のいのちは地球よりも重い、とよく言われるがナゼかというと、
いのちにはだれのいのちにも仏界という宝があるからだ。
宝とは、
苦難に立ち向かう勇気、限りなき希望、燃え上がる情熱、汲めども尽きぬ
智慧、以上のすべてがいのちにもともと具わっていると、わが師のコトバを
紹介したが、その通りなんだ。

そこで仏界を具えた人間とはいったい何者なんだ。という点から話を進め
ていきたいと思うがどうだろうか。」

ケイタくん、山本さん、
「先生、ぜひそうしてください。私からもお願いします。」

ジッチャン、
「お二人とも賛成のようだから、仏教教室の第二章はそこからスタートしようと思う。
ところでみんなは読んでいないと思うが、
人間賛歌の冒頭に次のような文章があるんだ。先ずそれを紹介しよう。


「人間賛歌」 概略

人間は長いあいだ{自分は何者なのだ、どこから来たのか、何をしに来て
どこへ行くのか}と考えてきましたが答えは出ていません。
そこで一緒にこの問題を考え、生命の実体を知り生命軽視の風潮を少し
でも無くしていきたい、と考えています。

読んでいくうちに自分も他人も、こんなにスゴイ存在だったのかとキット
驚かれるでしょう。

ここから第一章の生命から現在まで展開してきたのです。
去年の五月から始めて一年以上経過し、延べ二万人以上の人が読んで
くださったことに感謝しています。

尚、生命の実体を知るには釈迦の説いた教えの中でも法華経の智慧によ
らなければ理解できず、とくに法華経の中でも日蓮仏法による第三の法華
経でなければ実体をつかむことは出来ないと、私は思っています。

ところでケイタくんはどこから来たの、と聞かれたらどう答えるかねぇ。

ケイタくん、
「ウーン、ジッチャンボクにはよく分からないよ、思っていても恥ずかしくて
言いにくいし..」

つづく

人間賛歌 運命と宿業と 六

2007年09月27日 | 運命と宿業と

 前回の続き

田中教授
「ちょつと次元が低いようだがその通りだよ。
十数億年前の海で、ピカイアと違って海底に穴を掘って隠れたり、
硬いカラでからだを囲んで食肉生物の攻撃から逃れた生物もいたが、

彼らの子孫はいまだに進化せず、穴に隠れたり貝殻のなかで細々と
生きているよ。」

山田くん、
「ハマグリとかウニ、アナゴなんかその子孫なんですかね。
困難に挑戦する勇気がなかったのですょね。」

田中教授、
「そう、人間だって困難から逃げるばかりしていると、ヒヨワで頼りない
人になってしまうよ。これは事実なんだ。」

山田くん、
「それに知恵も大事ですね、類人猿が人間に進化したのも火を使ったり、
コトバを使って情報を伝達する知恵があったからですねぇ。」

田中教授、
「仏法では、生命には本来あらゆることに対応できる知恵が具わっている
と説くが、要はこれを活用するかどうかだね。
ほとんどの人が活用せずに、折角の宝を持ち腐れで終わるのだ。

これは人類にとって大損失だよ、いま地球と人類を救うには、人間の中に
眠っている膨大な知恵を開発する以外に道はない。と識者は言いだしたね。
そしてこの知恵は、他者に奉仕する生き方をすることで会得されると、
最近の脳科学者は言っているようだ。
他に奉仕するために進化した生き物が人間だ。とも主張しているね。」

山田くん、
「ところで教授、セーヌ河に身を投げて死んだ女性は、
仏の境涯(絶対幸福)になれる運命を捨てて、苦しい境涯のまま一生を終
えたようですが、
彼女はその後どうなるのでしょうか、幸福になる運命でありながら、それを
知らずに途中で放棄したのですからかわいそうですね。」

続く

 

 


 


人間賛歌 若い人の仏教教室 六十六

2007年09月25日 | 若い人の仏教教室

  お知らせ

今度、でじたる書房から電子ブック「目覚める人」自著・を出版することに
なりました。
歴史小説で武力一辺倒の北条一族の武将、北条小源太が武力を超えた
[ある力]の存在に気づき目覚めていく過程を書いた物語です。
法華経の行者日蓮上人も登場し、第三の法華経を学ぶ教材になりますの
でご希望の方は購入してください。

目覚める人・第一巻・著者 森川克彦、二百頁・六百円で販売する予定
です。尚、購入方法、電子ブックの読み方など詳細は後日お知らせします。

 以上


  仏教教室 六十六

ケイタくん、
「ジッチャン、目覚める人の出版おめでとう、ボクも読ませてもらいますからね。」

ジッチャン、
「ケイタくんありがとう、ケイタくんのお母さんがパソコンの入力を手伝って
くれて、四ヶ月で出来ちゃつたよ。
たいへんだったけど完成して良かったと思うよ。お母さんにお礼を言って
おいてね。」

ケイタくん、
「はい、ジッチャンが喜んでいたとお母さんに伝えますよ。お母さんも喜ぶ
でしょう。」

山本さん、
「先生、おめでとうございます。それにしてもこれだけのブログを毎週書き
ながら単行本まで出されるとは、たいしたバイタリテーですね。
感心しましたよ。」

ジッチャン、
「山本さんありがとう。前に書いたものがありましてね、それを手直ししなが
らパソコンに入力して電子ブックにしただけですよ。
原稿はまだたくさんありますから第二巻、第三巻と続けたいと思っています。
オカゲで仏教ミニ知識なども中止していますが、折を見てまた続けたいと
思いますからよろしくお願いします。


日蓮大聖人は、
「教主釈尊の出生の本懐は人の振る舞いにて候いけるぞ。」と仰せです。
これは人間として最高の生き方を示すために釈迦は生まれてきた。
という意味で、フツウの人間を最高の振る舞いをする仏に変えるのが法華
経の狙いなんだね。

私の師匠は法華経が分かるということは、自分が変わることなんだよ。
と言い、どう変わるかというと、

苦難に立ち向かう勇気・限り無い希望・燃え上がる情熱・汲めども尽きぬ
智慧・全部が自分の本有(ホンヌと読み、もともと有ること)の宝です。
これを確信して人生に挑戦する人か仏です。と言われているのだ。

つづく

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 六十五

2007年09月22日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「仏教教室も今回で六十五回になった。
長いあいだ読んでくださった方々に感謝したい。今までで仏教とは何かに
ついて概略は分かってもらえたと思う。

仏教は釈迦の教えであるが釈迦が仏教を説いた目的は、
人間の幸福と世界の平和を実現させることであり、そのために究極の教え
である法華経を最後に説いたのだ。

釈迦はすべての思想や教えが効力を失い、逆に既成の思想や教えが
人々を不幸にする時が来るだろう。その時法華経の教えが世界中に広ま
って人々を救うだろう。と予告しているのだ。


二十一世紀の今になって既成の価値観が崩れ、
なにを根拠にしてよいのか分からなくなり、行き詰ったのが現在であると思
うが、山本さんはどう思いますかねぇ。」   

山本さん、
「たしかに宗教の違いで戦争やテロが頻発しているのを見ますと、釈迦が
予告した通りではないかなと思います。」

ジッチャン、
「そこで若い人の仏教教室もこれからは一般論ではなく、法華経の核心に
迫っていくものにしたいと決意しているのだ。
法華経は昔から有名だから、みんな知っているが法華経は時代によって
三つの法華経があることを知っている人は意外に少ないんだね。

三つの法華経というのは、
第一は釈迦の説いた法華経のことで、すべての人に仏性があり
仏道修行すればだれでも釈迦と同じ仏(覚者)になれると説いたのが釈迦
の法華経なのだ。

第二の法華経というのは、
中国の天台大師がとなえた一念三千の法門といわれるもので、
森羅万象(すべての現象で三千世間という)は生命(一念)が現すものであり
、その生命はどんな人にも備わっているという教義なのだ。
釈迦の教えを理論的に証明したものといえるだろう。

第三の法華経は、
日蓮大聖人の仏法で、仏界の生命を図に現した本尊を受持することが
仏道修行になり、題目を唱えれば直ちに仏界が現れるという画期的な
法門なのだ。

つづく

 

 

 


人間賛歌 運命と宿業と 五

2007年09月18日 | 運命と宿業と
田中教授
「これは理屈ではないのだ、頭でいくら考えても分からない
不思議な法なんだね。
信じて題目を唱える人だけが分かるのだ。宇宙に充満する
この力を活用すれば、人生に不可能なことは無い。

自由自在で、なにものにも縛られず、
自分の個性を最高に発揮していけるのだ。
みんなは知らないからこの力を使わないのだ。

自分がどんなにスゴイ力を持っていても、信じなければ使う
ことが出来ないからね。

「仏法の知恵の大海は信をもってのみ入ることが出来る」
これは中国の天台大師の言葉だが、信の大事さを教えているのだ。

山田くん、
「教授のお話をきいていると、元気が出てきました。
なにかにチャレンジしたい気持ちです。

田中教授、
「それはスゴイね、その前向きの心が大事なのだ。
希望を持ちそれに向かって挑戦すれば、生命に不可能なことはない。
これは生命編のところでも学んだね。

戸田先生は、「ホトケとは生命なり」と言われたが、
まったくその通りだね。

山田くん、
「生命編で原始生物ピカイアが、食肉生物に勇敢に対応する
のがありましたね。
困難に挑戦する勇気があれば、生命に不可能なことはない。
とあのとき聞きました。

そのあとに登場する、海から陸に上がったイクチオラスの例も
そうでしたね。サンソのいっぱいある陸に行きたい夢を持ち続け、
困難なカベをひとつ、ひとつ乗り越えて、
ついに上陸に成功しましたね。

あれも同じですよね、恐竜の首が伸びたのも、
高い所の木の葉を喰いたい一念で、首が伸びたのてしたね。

続く

人間賛歌 若い人の仏教教室 六十四

2007年09月15日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「仏教を知らない人は依正不二とか、生活環境である国土にも十界の
境涯があるといってもおそらく信じないと思う。
半信半疑ならまだよいほうで、そんなことがあるワケがないだろう。

と言い放っのがオチだ。ケイタくんはどう思うかね、
山本さんはだいぶん分かってきたようだが。」

ケイタくん、
「ボクにはどうもよく分からないし、半信半疑というとこです。」

ジッチャン、
「いまの人はどうか知らないが、ジッチャンか子供のじぶん飛行機が空を
飛ぶのを見て、あんな重いものが空をとんで、どうして落ちないのだろう、
と疑問に思ったものだよ。
おおきくなって学校え行くようになり、
飛行する物体には飛行方向に直角に働く揚力(上に持ち上げる力)があって
、その力で飛行機は浮かぶんだということを知った。

揚力があるから飛行機は飛べるのだ、とわかったときは嬉しかったね。
飛行機が恐くなくなったのだよ。


仏教の依正不二の原理や、依報にも十界があることが分かり、
依報を変える方法を知れば、人間は環境を思いのままに変えることが
できるのだ。
それには正報である自分を変えなければならないが、自分を変えると
いうことは単に心構えを変えるという安易なものではなくて、自分の生命
の根底から変えなければならないのだ。

それにはだれの命にも有る力強くて清浄な仏界の命を現せばよいが、
その方法が明かされていなかったから、人間は長いあいだ苦しんでき
たのだ。
だが何回も言うようだが、日蓮仏法を信じて題目をとなえれば、
仏界が現れるので問題はイッキに解決するのだ。

ただ長いあいだの生死流転で生命にしみこんだ汚れ(宿業)を洗い流さ
なければならないが、それについとはこれから検討していこう。

つづく

 注釈.
揚力の発見で人間は自由自在に空を飛ぶようになった。それと同じように
自分の生命の仏界を現す方法を知れは、人生は自由自在になるのだ。

 

 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 六十三

2007年09月13日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「カーネギーの言葉には続きがあってね。
...人間はほんとうは余りたいして分かっていないくせに...と言ったのだよ。
だから山本さんのように、分からないから無いと思うのは間違いだ。
と気づくのはたいへん知恵があることになるんだね。」

宇宙飛行士の毛利さんが宇宙から帰って、
...地球は美しくて一つの生命体のようだ...
と感想を述べたあと、私たちは地球や宇宙のほんの一部を理解しただけで、
まだ分かっていないことのほうが多いのです。
と言っていたのは印象的だったね。


そこでまだ若いケイタくんや山本さんに頼んでおきたいことがあるのだが、
いいだろうか。

山本さん、
「先生、頼みたいことというのはどんなことでしょうか。」

ジッチャン、
「いま地球の危機を報道しない日がないくらい、人類と地球は危険にさらさ
れていることを知っているね。」

山本さん、
「はいよく知っています。地球の温暖化防止や環境浄化にいろいろ努力し
ていますが、大丈夫なのかなあと正直いって心配になります。」

ジッチャン、
「いま地球が存亡の危機にさらされているということは、地球の境涯でいえ
ば苦悩するジゴク界、貪欲なガキ界、生命に無知なチクショウ界、慢心した
シュラ界であり、正報である人間も同じ境涯の四悪道の人が多いと言うこと
ができるね。
この人たちの境涯を高めて人界かボサツ界に引き上げないと、
ほんとうに人類の存立が危うくなっているのだ。

私たちがやっている法華経を広める運動は、
人類の境涯を高める最高の方法だと思って努力しているのだ。
みんなが境涯を高めて人界とかボサツ界の人が多くなれば、地球の環境
も変ってくると思うね。
私があなたがたに頼みたいことは、境涯革命の思想である法華経を広め
てもらいたいことなんだ。」

つづく



 

 


人間賛歌 運命と宿業と 四

2007年09月11日 | 運命と宿業と

田中教授、
「善い行いをすれば善い結果を招き、悪い行いをすれば悪い報いを受ける。
これは通常の因果の法則だね、

仏法でなくても道徳とか倫理とか、およそ教えと名のつくものであれば、
たいてい善因善果、悪因悪果の法則は説いているよ。法華経を説く前の初期仏教
でもそれを説いていたのだ。
だが釈迦の本意はそうではなかった、生命に本来ある仏因(仏界になる因で本因と
いう)と、
仏果(仏界になった結果得られる知恵と力で本果という)は万人に平等にあるので、
万人が仏になれるのだ。と教えたのが釈迦の法華経だ。

それに対し日蓮大聖人は、どんな悪人でも、今までに善因を積んでいない人でも、
地獄界から菩薩界までの途中の因果をぜんぶとばして、直接仏果を得るための
御本尊を現された。

この御本尊に題目を唱えればだれでも、仏因と仏果を同時に得られるのだよ。
これが日蓮仏法の凄いところなのだ。
釈迦はすべての人に仏性があると教えたが、仏性を現す具体的な修行法は示さ
なかった。

日蓮大聖人はご自分が悟った仏界『少我をこえた大我のいのちで、我即宇宙.
我即宇宙の大境涯」を、
『これが仏界のいのちだよ、大切にしなさい」と図に現し、御本尊として遺された。
仏法に幼稚な私たちでも、この御本尊を受持して題目をとなえると、

日蓮大聖人と同じ仏界のいのちが、即座に私たちのいのちに現れるのだ。
これを凡夫即極(仏)と言うんだよ。

山田くん、
「へえ、すごいですね。題目を唱えることにそんな重大な意味があることを、
いままで知らなかったですよ。」

続く

 

 


 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 六十二

2007年09月06日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「雨乞い名人は、この国の人はいささか欲が深くて足りることを知らない。
と言ったねぇ。
欲が深いというのは貪欲ということで、この国の人に限らず人間の本質的
なものだから、誰にでもあるんだ。

これを境涯でいうとガキ界になり、この国にはガキ界の境涯の
人が多く住
んでいるということになるね。

一方で雨乞い名人の国の人たちは、少欲でたりることを知っていると言っ
たが、これは欲望に振り回されるガキ界を超えた人界の境涯の人が多い
ということになるね。

仏教では生命活動の主体(この場合は人間のこと)を正報(ショウホウ)とい
い正報が活動する場を依報(エホウ)というのだ。依報はそれがなければ正報が存在しないということで、国土、気候、人情など正報を囲む生活環境す
べてのことだ。
そして大事なのは依正不二と教えていることなんだよ。
人間(正報)と生活環境(依報)は別々に切り離すことが出来ないもの、
したがって人間だけの存在も、環境だけの存在もあり得ず両方がワンセット
で成り立っていると説くのだ。

正報である人間の境涯がガキ界であれば、
依報である環境もガキ界の境涯であるワケだな。

正報が人界であれば依報も人界だから、必要なものは必要なときに与え
られる境涯になり、困るということがないんだ。と雨乞い名人が自分の国の
ことを言ったがそのとおりなんだね。

正報も依報もガキ界であれば、望んでも望んでも欲しいものが得られない
のがガキ界の特徴だから、干バツなどの天災が起きるのだねえ。
依正不二なんだから、人間の境涯を変えなければ環境は変わらない。
と仏教は教えているのだ。

山本さん、
「先生、ちょつと理解しにくいのですが、理解できないから無いと思うのは
間違いである、ということがいいくらか分かってきました。
カーネギーが言っているのはそのことなんですか。」

つづく

 

 

 

 

 


人間賛歌 運命と宿業と 三

2007年09月03日 | 運命と宿業と

田中教授、
「ひとたび仏界の境涯になると、二度とジゴク、ガキ、チクショウ、シュラ
の四悪道におちることはないし、
願って人界、天界を現すことはあっても、常にはボサツ行をして人を救っ
ていくのだ。

だから仏道修行をするからには、仏の境涯を確立することが大事なのだ。
日蓮大聖人は凡夫ももともと仏性(仏になる性質)を具えているから、
もともと有るのを現すのであるから、
きめられた通りに修行すると、だれでも一生のうちに必ず仏になれると確約
されている。これを信じて修行に励むことだね。」

山田くん、
「日蓮大聖人のお命を現された御本尊を受持して、
南無妙法蓮華経と題目を唱えると、ゼツタイ幸せになれるし、
自分の個性を最高に発揮できると聞いていますが、
それでいいのですね。」

田中教授、
「それでよいのだよ、そして自分がよい方に変わっていくのが
分かるから、その喜びを家族や友人に語ってあげることだね。

そうしている内に自分の仏界の境涯が固まって、
どんなことがあっても、ビクともしない強い自分になれるのだ。
こうなったらもう怖いものなしだ。
大安心の境涯になり、人生でこれ以上の幸福はないと自覚できるのだよ」


山田くん、
「二人の女性は自分の運命を変えたと私は思っていました。
でもまた元の境涯に戻ることがあるのであれば、運命を変えたことには
ならないですね。」

田中教授、
「運命はそう簡単に変わったり、元にもどったりするものではないね。
ガキ界の人がなにかの縁で天界になったり、
天界にいた人が、ジゴク界におちたりすることはよくあることだ。」

続く