叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 若い人の仏教教室 百十二

2008年04月10日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン。
「みんなもよく知っている二宮尊徳と言う人がいるね。
日本人の道徳のお手本として最近特に注目されている人だ。
その尊徳翁が、

「天というものは慈悲深いもので、人間を援けよう援けようとするが、人間の
ほうがそれを避けてばかりしているのだ。」

と言って嘆いたと伝えられている。
天(大自然)が本来の慈悲の意志で、人間を援助しょうといくら計画しても、
人間のほうがそれを知らないで、天の意志とは反対のことばかりするのだ。

欲が深く、利己主義で、自分がトクすることばかり考えているから、
せつかくの天の慈悲が受けられないのだ。天は慈悲の心がある人の味方
をするから、そうでない人は恩恵を受けられないからだ。
山本さんの質問とちょつとはずれてきたが、今までの話ですこしは参考に
なりましたかね。」


山本さん。
「先生がおっしゃることの意味はよく分かります。
結局、人間が変わって境涯を高めることが先決なんですね。
インドでガンジーがやった非暴力の独立闘争や、アメリカのマーチン.キング博士が人種差別の撤回を求めて展開した運動も非暴力を根本にしていましたね。

人間が境涯を高めて暴力に頼ることをやめ、
非暴力が世界の潮流になれば、世界平和達成も夢ではなくなりますが、
そういうことが実現するでしょうか。」

ジッチャン。
「世界中の人が生命の真実に目覚め、境涯を高めていけばできないこと
ではないね。そのために日夜努力している人が二千万人近くいるから・・
やがて世界はその方向に向かって動いていくと信じるよ。
イヤもうすでに動き出しているが、みんなが気がつかないだけかもしれな
いね。

しまいに、大自然の力について大事業家で哲学者であった、アンドリゥ.
カーネギーの言葉を紹介しておきたい。

「一神教でいうところの神というものではないが。
いかなる知者でも説明することのできない、無限の叡智とでもいえるもの。
大自然を動かしている巨大な力ともいえるが、この力を活用せずに事業を
成した人はひとりもいないし、これからもいないだろう。」

注釈
カーネギーがいう無限の叡智とでもいえるものとは、仏界のいのちである
と私は思うが、みなさんはどうだろうか。

この稿おわり    



人間賛歌 若い人の仏教教室 百十一

2008年04月08日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン。
「山本さんの質問に答えるまえに、大事なことがあるので指摘しておきたい。

大自然は慈悲の心であると言ったが、
正確に言うと慈悲を行おうとする意志・それも不退転の固い意志と言った
ほうが適していると思うね。

釈迦の慈悲の心にしても、釈迦が弟子たちに、

「生きとし生けるものの安穏と、 幸せのために。
すみやかに行って、 人々にこの経を教えなさい。」

と言ったのをみても、たんに慈悲の心ではなくて、慈悲を行おうとする意志
のことなんだ。
だれの心にも慈悲の心はあるが、大事なのはそれを行おうとする意志即ち
具体的な行動がないと意味がないからね。


そこで山本さんの質問に入りますが、
たしかに山本さんの言われるようなことが現実には起きています。
むしろ慈悲に反する行為のほうが多いといってもよいでしょう。仏教の教え
とは違うではないかと、思うのも当然かもしれません。

しかし人間の行為はとりあえず別として、
大自然は一日、一夜、一秒の休みもなく、過去から現在.未来に向かって
生命を慈しみ育てる慈悲の意志(慈悲心を行動で現すこと)をやめようとし
ないのも否定できない事実です。

ではナゼ戦争やテロ、飢餓で苦しむ人がいるのかというと、
生命には十の境涯があって、そのうちの苦しみ悩むジゴク界の境涯とか、
飢えに苦しむガキ界の境涯が人間に現れているのです。

争いは当事者どうしが話し合って解決に努めることは勿論てすが、
人間の境涯を高めることが根本的な解決策になります。

地球も十界の境涯が具わっています。
これは私たち一人ひとりのいのちに十界が具わっているのと同じです。
大自然も、地球も、喜びに満ちた天国のようなところもあれば、苦悩が
充満した地獄のようなところもあります。


仏教は、人間の生命を改革して、ジゴク界、ガキ界、チクショウ界の三悪
道の境涯から、人、天さらにはボサツ界にまで高めることを目的にしてお
ります。
それには人間生命の変革、すなわち人間革命をするしか方法がないの
です。

つづく    

 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 百十

2008年04月01日 | 若い人の仏教教室

 前回の続き、

ジッチャン。
「前回、大自然は慈悲の心で成り立っている例をあげたが、
いちいちあげるとキリがないほど、小さいものから大きなものまで、大自然は
助け合いで成り立っていることが分かるだろう。

難しく言うと互いに協調して共生しているということになるがね。
釈迦の悟りは慈悲の心であったとも言われる。

注、慈悲  抜苦与樂ともいい、不幸の原因である悪を除き、幸福の原因で
ある善をなさしめる意志(心)のこと。

大自然では慈悲が正義であり、善であり、
慈悲に反するものが邪義であり、悪であると定義されると言えるだろう。

私の師から聞いた先師(師の師匠のこと)の言葉に、

「青年は親をも愛せぬ無慈悲なものが多いなかで、慈悲の心を会得せしめ
法華の功徳の大海を自在に遊劇せしめんと、
日夜、心を痛めているが真剣に取り組むものが少ないことを吾人(じぶん)は
嘆くものである。」

と言われたそうだ。またあるときは、

「信仰を続けていって慈悲の心が出るようになったらもうシメたものだ。
鬼に金棒で恐いものなしだよ。」

とも言われたと聞いているがね。


慈悲心とは、自分のことより他者の幸福を望む心のことで、
これを伝教大師は「 忘己利他 」と言ったが、このへんに仏教の真理が
あるかもしれないね。
宇宙(大自然)は慈悲の心であり、釈迦が悟ったのも慈悲の心であったと
すれば、「 我即宇宙.宇宙即我 」の意味するものが、おのづから分かる
と思うがね。」

山本さん。
「先生、大自然は慈悲の心であると言われましたが、
それではナゼ戦争やテロとか、民族間の対立、貧困による飢餓など、慈悲
に反する行ないが地球の至るところで行われているのですか。
なにか矛盾しているような気がしますが・・」

つづく   



 


人間賛歌 若い人の仏教教室 百九

2008年03月28日 | 若い人の仏教教室
  お詫び
三月二十一日から二十六日まで急きょ入院し、ご迷惑をかけました。
無事退院しましたので更新を続けたいと思います。どうかよろしくお願い
致します。


ジッチャン、
「ちょつと難しい話が続いたので、このへんで話題を変えてみよう。
よく耳にする言葉に、人間は自然の一部である。というのがあるが山本さん
は聞いたことがありますか。」

山本さん、
「先生よく聞きますよ、それに私自身も人間は自然と別個にあるのではなく
て、自然の一部であると考えておりますが。」

ジッチャン、
「たしかに人間は自然の一部であるという言葉はよく聞くし、
多くの人もなんとなくそう思っているといえるね。
そこで有名な釈迦の言葉になるが、釈迦は、

「我即宇宙・宇宙即我」と言ったと伝えられているんだ。

ここで宇宙というのは大自然のことだから、
「我は大自然であり、大自然は即ち我である。」という意味にとれるがどう
だろうかな。
仏教史で、釈迦の悟りは何であったのか。真理はナゾとされているが、
この言葉なんか、真相を知る手がかりになるのではないだろうか。

「私は自然の一部ではなく、私は自然そのものだ。」云々


山本さん。
「先生、スケールが大きくなってきましたね。なんだか気持ちがワクワクす
るようですよ。
釈迦はほんとうにそう思ったのでしょうかねえ。」

ジッチャン。
「そこで大自然とは何か、その意義が重要になるが以前、大自然は慈悲
の心で成り立っているということを話したことがあったね。
身近な例で言うと、

動物はサンソを取って、炭酸ガスをだし。
植物は炭酸ガスを取って、サンソを出す。
蝶は花の蜜をもらうかわりに、花粉を運んで花が子孫を残すのに協力し
ている。
魚はわずかしか魚にならないのを承知で、何十万個ものタマゴを生んで
プランクトンにエサを提供している。
地球は地軸を中心に回転することで重力を生じ、大気や海水が地球から
離れないようにしている。」

つづく  

人間賛歌 若い人の仏教教室 百八

2008年03月18日 | 若い人の仏教教室

ジツチャン、
「題目の力は、たとえばこうも言えるのだよ。
一粒のドングリの実が見上げるような樫の大木になったり、
地球が秒速二十キロの猛スピードで、太陽を廻る軌道を廻ったりするが、

軌道が太陽に近すぎると地球は灼熱の焦土となり、
遠すぎると零下何百度という凍土になってしまうのだ。ちょうどよい位置を
キープして廻っているのだね。

樫にしても地球にしても、ナゼそうなるのか。説明できる人はいないが、
理由は分からなくても何十億年も、それを続けているんだ。そのおかげで
私たちもこうして生きていけるのだよ。

題目にナゼ、それに匹敵するほどの力があるのか。
説明することは出来ないが、自分でやってみると生命力と智慧が満ちあふ
れてくるので、不思議に思うんだよ。
 これはねぇ、ケイタくん。

説明は困難だが、仏界のいのちが自分にあることを信じて、
題目を唱え。 その結果事実であるということを自分でつかむ以外に分か
る方法はないんだよ。


日蓮大聖人は、

「百千万年くらき所にも、ともしびを入れぬれば明かるくなる。
我等衆生、悪業、煩悩、生死果縛の身が仏性の因によりて即身成仏する
こと疑いなかるべし」  (趣意)と仰せだ。


悪業、煩悩。 生命にしみついた悪い習慣と、貪る、怒る、愚かの三毒が
盛んなこと。
生死果縛の身。 仏性を覆い隠す無明のため迷いの生死を繰り返してい
る衆生のこと。
仏性の因。 仏界を現す原因のこと。
即身成仏。 その身そのままで仏界のいのちを現すこと。


題目を唱えると、無明の闇に閉ざされていた我等の仏性が現れて、
仏界の境涯(二度と不幸にならない幸福境涯のこと)になることは疑いない
ことなのだ。と仰せられているのだ。
だからケイタくん、
ジッチャンが言うことのゼンブは理解できないと思うが、とにかく理屈抜きで
題目を唱える修行をすることだ。そうすれば自然に分かってくるようになる
から・・・」

ケイタくん、
「ジッチャン、分かりました。ボクはゼツタイその通りにやってみます。
また分からないことがあったら教えてくださいね。」

つづく


 


人間賛歌 若い人の仏教教室 百七

2008年03月15日 | 若い人の仏教教室

ジツチャン、
「日蓮大聖人ご自身も題目を唱えることを修行の根本にされていたのだ。
その上で、
法華経.方便品第二や如来寿量品第十六を読まれていたことが、諸御抄
に書いてあるのだよ。



方便品第二  だれの生命にも仏界の生命が具わっていることを明かした
経典。
如来寿量品第十六  仏界の生命は無始無終で永遠に続くことを明かした
経典。

題目を唱えるのは簡単ではないか、と思うだろうがこれが簡単なようでなか
なか難しいのだよ。
なぜかというと、私たちの生命には仏界という最高の生命があるが、
それを覆い隠しているのが無明(生命の真実を知らないこと)という迷いなのだ。
無明は生命が本来持っている、死を恐れる性質が死を直視することを避け
るために起きたり、
長いあいだ生命活動を続けるなかで、善くない習慣が・悪業とも言うが・・
しみついて仏界が現れるのを邪魔するのだ。

だから題目を唱えようとすると、
思いもしなかった妨害が自分の心や、まわりの人の反対というかたちで
現れてくるのだ。

題目を唱えることは難事中の難事といわれるくらい難しいのだよ。」

ケイタくん、
「シッチャン、題目を唱えるとナゼ、その仏界のいのちというのが現れるの、
そこのところがボクにはよく分からないのだけれど。」

ジツチャン、
「ケイタくんなかなか鋭い質問だね。
だがこれにうまく答えられる人はいないのだよ。

日蓮大聖人は、空をとぶ鳥が鳴くと、カゴの中の鳥も鳴いて外にでようと
するように、南無妙法蓮華経と呼ぶと、
自分の中にある南無妙法蓮華経(仏界のいのち)が呼ばれて外に出ようと
するのだ。と仰せなのだ。

題目を唱えるとナゼ出るのか分からなくても、仏界という強い生命力が実
際に湧き出すんだ。
頭もよくなるんだよと、わが師は言われていたがね。
 それを自分で実感できるのだよ。」

続く   

 


 


人間賛歌 若い人の仏教教室 百六

2008年03月09日 | 若い人の仏教教室

山本さん、
「先生、日蓮大聖人の仏教と釈迦の仏教はちがうのですか。
私は同じだと思っていましたが。」

ジツチャン、
「山本さんよい質問をしてくれました。
仏教ではよい質問をする人を発起衆(ホッキシュウ)といって、たいへん
貴重な存在であると誉めているのですよ。

それは自分が質問することで、仏の説法をうながし、人々が仏教を理解
する手助けをするからです。
その人の福徳は大きいと仏典に書いてありますから、山本さんも福徳豊か
な人になりますよ。

そこで、釈迦の仏教と日蓮大聖人の仏教の違いを分かりやすく言うと
こうなるのです。
釈迦は、
すべての人の生命に仏界という最高の生命があり、
その生命が持つ智慧と力と福徳は、すべてを見通す智慧を持つた釈迦でも量ることができないほど大きいのだ。と言い、その仏界の生命を褒め称えたのが妙法蓮華経(略して法華経)なんです。

ただ釈迦は仏界の生命を現すには、どうすればよいかという点については
具体的に示さなかったのです。

釈迦が弟子の阿難に言った最後の言葉が、

「 すべてのものは過ぎ去って行く
  己をより処とし 法をより処として 他をたのむな 」

であったといわれ、「菩薩道を励めよ」と言って亡くなったと伝えられている
のです。


これに対し日蓮大聖人は、
釈迦が法華経で明らかにした仏界の生命を、図に書いて現し御本尊と
して残してくださったのです。
この御本尊を受持して、題目を唱えると、法華経の意味が分からない人
でも、仏界の生命を直ちに現せるという画的な実践法を教えられたのです。

法華経の題目を唱える修行法は、
中国の天台大師や、日本の伝教大師も、他にすすめることはなかったが、
自分の修行には南無妙法蓮華経と唱えていたと伝えられています。
またインドの国父マホトマ.ガンジーが、
題目を唱えていたことは有名な事実として知られているのですよ。」

つづく  


 


人間賛歌 若い人の仏教教室 百五

2008年03月06日 | 若い人の仏教教室
ケイタくん、
「ジツチャン、ボクはゼヒそんな人生を送りたいです。
毎日が楽しくて楽しくてしかたがない人生が送れるのなら、ボクはなんだっ
てやりますよ。」

ジッチャン、
「ケイタくんそんなにムキになって力まなくてもいいよ。
信仰をすればだれでもそうなれるのだから、そんなに難しいことではない
からね。」

ケイタくん、
「ジッチャン、信仰をするって、仏教を信仰するということ・・・」

ジッチャン、
「結論はそうだが、幸福になるには日蓮大聖人の教えた仏教を信じて、
南無妙法蓮華経と題目を唱えることなんだ。
そうすればゼツタイ幸福になれるよ。ゼツタイ間違いないから、もしウソだっ
たらジッチャンの首をあげてもいいよ。」

ケイタくん、
「ジッチャンの首なんかもらっても、置くとこもないし、いらないよ。
でもジッチャンがそこまで言うのなら、ボクは南無妙法蓮華経の題目を唱え
ますよ。」

ジッチャン、
「ケイタくんえらいよ。それでいつから始めるかねえ。」

ケイタくん、
「今日からでもいいですよ。やりかたはジッチャンが教えてくれるでしょう。」

ジッチャン、
「よし、あいわかった。ケイタくんの母上が驚くだろうが、
これは本人の心の問題だからケイタくんの決意次第なんだ。ジッチャンが
つつしんでお教え申し上げましょう。

日蓮大聖人の仏教は、信.行.学が実践の基本になるんだ。
信とは、自分のいのちに仏界という最高のいのちがあることを信じることで、
行とは、南無妙法蓮華経と唱えることなんだ。
題目を唱えると元々ある自分の南無妙法蓮華経ののいのちが、呼ばれて
現れてくるのだ。

次に学とは、仏教の奥深い理論を勉強して仏界のいのちの素晴らしさを
理解していくことだ。
この三つがそろえば、仏教を実践する大利益が直ちに現れて、ケイタくん
自身が仏教の凄さを一番感じるはずだよ。」

つづく


人間賛歌 若い人の仏教教室 百四

2008年03月03日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「そう、山本さんも安岡正篤さんの本を読まれましたか。
ひところ東洋学が流行ってブームになったときがありましたね。私の記憶
では、中曽根総理時代までが安岡さんに師事して、安岡さんの死後は
総理の師になった人物がいたとは聞きませんので、

人間学を学ぶ政治家も減ってきたのかもしれませんね。

それに人生の師を見つけることはたいへん難しいことなんです。
仏教のエピソードの一つを紹介しましょう。

あるとき釈迦の弟子が釈迦にこんな質問をしました。

「善い友(釈迦は弟子のだれでも善い友と呼んでいた)を得ることは仏道
修行の半ばまできたと思ってもよいでしょうか。」

それに対し釈迦は、

「それは違う、善い友(師も含む)を得ることは仏道修行のすべてなんだ。」

と応えたといわれています。
師と善い友との言葉の違いはありますが、善い人と交わるということは、
仏道を成就して幸福になる条件なんですね。」

山本さん、
「先生、人生の師や、善い友を持つことが大事なことはよく分かりました。
さきほど仏道を成就して幸福になると言われましたが、
仏道を成就するとはどういうことなんですか。詳しく教えていただけないで
しょうか。」

ジッチャン、
「山本さん、仏道を成就するとは、分かりやすく言うと幸福になるという
ことです。
私の師は、生きていること自体が楽しいという境涯になることだ。と話した
ことがありますが、人生が楽しくて、楽しくて、しかたがないというようにな
るのです。

やること、なすこと、ぜんぶ旨くいって、あっちからも、こっちからも味方が
現れ協力してくれるのです。
仏典ではこのことを、思うこと、言うこと、なすこと、振舞うことの日常の行動
のすべてが、
生命の法則と一致して(仏界の境涯になること)自由自在な境涯になると
記してあるのです。

ケイタくんなんか、これからが長い人生なんだから、できればこういう
人生を送ってもらいたいと思うが、ケイタくんはどう思うかねえ。」

つづく   

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 百三

2008年02月25日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「人間を不幸におとしいれる五欲をもたらす根源を、
仏教では五鈍使(ゴドンシ.誤った見解を起こす五つの煩悩)と言い、

五鈍使は、

一  貪る心
    満足することがないキリのない欲望のこと。
二  怒る心
    欲望を満たすことが出来ず、思うようにならない世の中や、他人
    に怒りを感じること。
三  愚かな心
    目先のことしか考えず、長期的視野にたって物事を見ることが
    出来ないこと。
四  慢心する心
    望むものを得たり、ある程度知識や経験を積むと、自分が偉く
    なったように思い他者を見下ろすこと。
五  疑う心
    自分の知識や経験がすべてで、それ以外のことは受け入れよ
    うとせず疑うこと。

以上の五鈍使が人を悪道に向かわせるのだが、これはだれの心にも元々
あって、自分は例外だと言える人はいないのだ。

だが、自分は愚かであるとか、慢心しているとかに気づく人はほとんど
いないので、それを指摘してくれるだれか第三者が必要になるのだ。


今から三・四十年ぐらい前、
歴代総理大臣や大会社の社長らが師と仰いだ安岡正篤と言う人がいた。
東洋学の大家で、私なんかもよくその人の本を読んだものだがね。
国や会社など組織のリーダーが学ぶ学問を帝王学というが、

注、帝王学とは所属する人たちを幸せに導くために指導者が学ばねば
  ならない人間学のこと。

その第一の条件として、人生の師を持つことである。と書いていたのを今
でも覚えているがねえ。
人生の正しい道を教えてくれたり、間違いを指摘してくれる師がいるかど
うかで、人生の幸、不幸が決まるといっても言いすぎではないと思うよ。
そのくらい大事なのだ。」

山本さん、
「安岡正篤先生の本なら私も読んだことがあります。
人間はどう生きるべきか。ということを学ぶのに参考になったと思います。」

つづく