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叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

 すべて無料です、気軽に読んでください。

人間は何をしに来て、どこえ行くのか 二十六

2008年09月27日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか
 後日談・最終回

この原稿を書き終わったとき、次のような新聞報道があった。

「前世療法」で有名なアメリカの精神科医。ブライアン・エル・
ワイス博士の来日と、そのインタビュー記事である。

ベストセラー「前世療法」の著者でユダヤ教徒の博士は、
インタビューのなかでこう語っている。

 「以前の私自身が、前世といったたぐいの話にたいしては、
  非常に懐疑的でした。

  しかし過去二十年で三千人に及ぶ事例を集め、輪廻や前世の
  実在を確認しました。」

 注
 
輪廻とは輪廻転生のこと、仏教思想のひとつで、人間の生命は今世
だけで終わるのではなく、
過去、現在、未来と転生(生まれかわること)を繰り返しながら永遠
に続いているという思想。


 博士によるとアメリカでも、

輪廻転生を信じる人の割合は増えているそうで、時代は序序にだが
精神的、霊的価値を見直す方向にすすんでいるとみられる。
と述べている。

「人間は何回も生まれ変わりながら、
 愛や慈悲などを学び、自らをち高めていく存在です。
 死は決して終わりではない。
 肉体は洋服みたいなものですが、私たちの魂は不死なのです。」


     二千一年五月、Y新聞より、以上。


  おわりに。

 「人間は何をしに来て、どこえ行くのか」という難しいテーマに
長いあいだおつきあいくださった方々に敬意を表します。

 今から三千年ほど前に、釈迦はこのテーマの答えを見つけて、
自分の悟った事実を人々に伝えました。それが仏教の始まりです。
 注 生命の真実を悟った釈迦の最初の言葉が「不死は得られた」
   であったと伝えられています。

いまでは世界の各大学でも、生死の問題を研究するようになりまし
た。それはキュブラー・ロスの、
 「死は存在しない」宣言が大きく影響しています。

ところでロスはなぜアメリカに行ったと思いますか。
 理由はカンタンなんです。
ロスが学んでいた医学校に、アメリカから留学していた学生と恋愛
し、結婚して渡米したのです。

 夫という縁がなければ、ロスがアメリカに来ることはなかったか
もしれません。
仏教ではすべての結果には、元になる因があるが、因は縁がなけれ
ば現れないと教えています。

 ロスの才能を想像以上に開花させた夫は、ロスにとって善い縁の
人だったに違いありません。

  

人間は何をしに来て、どこえ行くのか 二十五

2008年09月21日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか

 朗読続き「ロスの晩年」

 ロスが面接した臨死体験者のなかには、こんな話をするものが
いた。
彼らは死を体験するなかで、

 「あなたはいままでに、他の人の役にたったことを
   なにかしましたか。」

と、だれかに聞かれたような、あるいは自問自答であったような
気もして、その点ははっきりしないが、
たしかにそのようなことがあったことは覚えている。

 聞かれた人が黙っていると、

 「それではもう一度やり直してきなさい。」

と言われて、この世に戻された。というのである。
それも少々の人ではなく、体験者の中のかなりな数の人が、同じ
ような体験をしているのである。

ロスは死後の世界、すなわち永遠の生命を信じない人には
こう言っている。

 「この問題は信じるとか、信じないとかの問題ではなく、
  知るか知らないか、ということだけです。
  もし詳しく知りたいと思う人がいれば、よく分かるように
  説明してあげます。

  いずれにしてもこの問題は、みなさんが死んでみれば
  分かることですから。」


 スイスの恵まれた家庭で、三つ子の姉妹のひとりとして生まれ
たロスは、波乱に満ちた人生をアメリカの地で送った。

 二十世紀の聖女・マザー・テレサにも匹敵する人類愛を貫いて生
きたキュブラー・ロス博士に感謝のことばを述べてこの稿を終わり
たい。

 ありがとう、 エリザベス・キュブラー・ロス

 死をタブー視していた、私たちの目を覚ましてくれた

 あなたのことを、人類は永遠に忘れない。

                       完


 ひとこと

 祖国スイスをだれよりも愛し、世界一美しいレマン湖畔で育った
ロスは、遠く離れたアメリカの地で生涯を終えた。

ロスが晩年をすごしたアリゾナ州は砂漠の多いところだと聞いてい
る。砂漠を貫くハイウエイから、
ロスの家に来る道路の入り口には、目印にスイス国旗が掲げられて
いたそうだ。

 世界中から訪ねてくる人たちのためと、医学生時代をすごした
レマン湖を想い出すためだったのかもしれない。

 レマン湖畔を、

いつも灰色のコートを着て散策していた心理学者のユングと、よく
出逢ったが、話す機会がなかったことをロスは残念がっていた。

最終回につづく  








 


人間は何をしに来て、どこえ行くのか 二十四

2008年09月14日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか
 朗読続き 「ロスの晩年」

 ロスは夫のつくった借金のために、
せっかく建てた ホスピスを失うが、やがてそれを再建した。しかも前よりも
もっと大規模で、設備も整ったものを別の場所につくった。

講演活動とホスピスの運営と、順調に進んでいるロスをさらに大きな試練
がおそう。

 ロスは当時アメリカ社会で問題になっていたエイズ患者の遺児たちを、
ホスピスに引き取って育てようとするが、
そのことが地域住民の猛反発をうむことになった。

住民は自分たちの住む地域に、エイズ患者の遺児たちが来ると、エイズに
感染すると思いこんだ。
ロスは州議会に働きかけて住民の無知を改めようと努力するが、失敗に終
わった。

 ヨーロッパでの講演旅行から戻ったロスの目の前で、
暴徒によって放火されたホスピスも、ロスの居宅も残らず灰燼に帰したので
ある。

ホスピスの立ち退きを求めて訴訟を起こしていた住民たちが、
裁判所の煮え切らない態度に業をにやし、強行手段に訴えたのだ。

 喪失の対処法を身につけているロスは、
受容するのが早く、すぐにホスピスを再建しようとするが、
これ以上住民を刺激するとロスの命が危ないのを子供たちは心配した。

 そこで拒むロスを強引に説き伏せて、自分たちの住んでいる州に移す
のである。


ここでロスは晩年をすごすが、持病であった糖尿病が悪化して病床に伏
すことが多かった。
遺稿と思われていた「 人生は廻る輪のように 」 を、
このような状況のなかで書いたのである。ロスはこの本の終わりのほうに
次のような文章を書いている。

「人生は見方によれば、つらいことのほうが多いと思う。
 しかし、より高い世界に移るための鍛えととれば、耐えることが出来るし、
 耐え切れないほどの試練もやってこない。」

つづく   

人間は何をしに来て、どこえ行くのか 二十三

2008年09月05日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか

 朗読続き 「死は存在しない」

医者で心理学者でもあるロスは、人が死を受容するまでに通らなければ
ならない五つの段階は、死に限らず何か大きな災難に出会ったときに、
人が通る段階でもある。と言っている。

愛する家族の死とか、
会社が倒産するとか、
自分の家が火事になり、一瞬のうちに全財産をなくする。

というような大きな不幸に直面すると人は、

一 怒り、 なんで自分がこんな目にあわなければならないのかと思う。

二 否定、 現実の出来事を受け入れられず、苦しさを酒にまぎらわし
        たり、他人のせいにして憎んだりする。

三 取引、 不幸や失敗の原因を環境や他人のせいにして、自分の非
        を認めようとせず、他に助けを求める。こんなときに限って
        神仏を頼み、これからは信仰に励むので、
        どうかこの場は助けてくださいと、祈ったりする。

四 抑鬱、 考えたことがみなダメで、家族に当たったり、自暴自棄にな
        ったりする。

五 受容、 ある程度の冷却期間を過ぎ、他ばかりを責めていたが、
        自分にも過ちがあったと認めるようになり、以後は自分の
        やりかたを改めようと思いだす。

 五の段階までくると、何か立ち直るきっかけをつかんで災難を受容する
ようになる。


 人間が受ける一番大きな試練は死である。

死を受容できる心の鍛練が出来ている人は、そのほかの試練もたやすく
受け入れて、次の段階に向かって前向きに進む。

 これは信長や秀吉、松下翁などが、
どんな困難に出会ってもそれを受け入れ、悠々と乗り越えてきた事実を見
ればわかる。このような人を器量が大きい人という。

人間はみな無限の力を持って生まれているが、
それを発揮できないのは恐れる心があるからである。そして恐れる心を生
む根源が死えの恐怖である。

死えの恐怖心を克服することが今後の人類の課題なのだ。

法華経を広めた日蓮大聖人は、

 「人は先ず臨終のことをならって、後に他事をならうべし」

と言い残している。
この言葉のもつ重大な意味を、我々は謙虚に学ばなければならない。

つづく   


         


人間は何をしに来て、どこえ行くのか 二十二

2008年08月27日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか

 朗読続き 「死は存在しない」

 いままで主に外国の例をあげたが、日本の場合を見てみよう。
日本史で有名な織田信長は能の敦盛を好み、その中の一節、

 「にんげん五十年  化天のうちにくらぶれば 
  
  夢まぼろしのごとくなり 」

と謡って舞ったことがよく知られている。
化天というのは仏教説話にでてくる他化自在天(人間の住む世界を支配
する主の意)の住むところとされ、

一説によれば、この世の百年が化天の一日一夜に当たるといわれる。

 その信長に仕えた豊臣秀吉は、死にのぞんで、

 「露と立ち 露と消えぬる我が身なり

  難波のことは 夢の世の中 」

の和歌を辞世の句に残している。

信長も秀吉も永遠からみれば、この世は一瞬に過ぎず、まるで夢をみてい
るようなものである。
との死生観を持っていたことがうかがわれる。

経営の神様として尊敬されている松下幸之助翁は、少年のころ船の上から
海に落ちて九死に一生を得たことがある。翁はカナヅチ(泳げないこと)であ
った。
 後年翁は、

 「カナヅチだった私はあの時てっきり死んでいたはずだ。
  それが運よく近くで釣りをしていた漁師に助けられて、命びろいをした
  のだ。
  その時のことを思うと、どんなにつらいことがあっても、自分にはきっと
  何か出来るはずだ。と自分で自分を励まして今日までやってきたのだ」

と述懐している。
若いときそのような体験をした翁は、生命について、

 「いのちというものは、たとえて言えば、溶鉱炉の中で真っ赤に焼けた
  鉄みたいなものだと思う。
  その鉄がナベやカマになったり、ときには鉄砲になったりして世の中
  の役に立つ、形はいろいろであっても鉄であることにかわりない。

  そして年数がたって古くなったり、使命を終えるとまた溶鉱炉の中に
  戻って造りなおすのだ。
  これと同じように命というものは一回かぎりりのものではないと思う」

と語っている。

 以上の例でも分かるように、
なにか大きな事業を成し遂げた人たちに共通しているのは、生命は今世
だけで終わらないという死生観をもって生きたということである。

つづく   


人間は何をしに来て、どこえ行くのか 二十一

2008年08月15日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか
  朗読続き 「死は存在しない」

 ここで成功哲学「思考は現実化する」で有名なナポレオン・ヒルの
エピソードを紹介しよう。
ヒルはアンドリウ・カーネギーの思想「思考は現実化する」をカーネギーから
学び、カーネギーの死後それを世界に広めた人である。

 カーネギーは、

「宇宙にはいかなる知者でも説明することができない、
無限の叡智とでもいえる力があり、いままでこの力を活用せずに大きな事業
を成し遂げた人はひとりもいないし、これからもいないだろう。

この力を活用するには一つの条件がある。

それは自分の利益のためだけでなく、公共のために役立つとか、
自分以外の他の人ために奉仕する精神を持つことである」

 という思想を持っていた。


カーネギーはこの思想を自分で実践し、一介の職工から鉄鋼王と呼ばれる
ようになり、世界的な大富豪になった。

ナポレオン・ヒルもこの思想を実践して、ルーズベルト大統領の特別顧問と
なり、一九二九年代の世界大不況からアメリカ経済が立ち直るのに貢献し
た。
やがてアメリカ社会でなくてはならない重要な人物になるのである。


 そのヒルが゛あるとき娘をつれてドライブを楽しんでいた時のことである。
車がたまたま墓地の横を通ったとき、娘が、

「パパ、人間は死んだらみんなここに来るのね。」

と聞いた。

ヒルは娘の年齢ではまだはやいかな、と思ったがよい機会なので言って
おこうと思った。

「リズ、人間の死というのはね、より高いレベルに進むための一つの段階に
過ぎないのだよ。
この世はそのための修練の場所だから、死は終わりではなく決して怖いも
のではないのだよ。」

 ヒルはハンドルを握ったまま、隣に座っている娘に言った。

つづく   

人間は何をしに来て、どこえ行くのか 二十

2008年08月09日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか

ジッチャン、

「日蓮大聖人は釈迦の言葉、ニルバーナは最上の楽しみである。
に関して次のように言われている。

 「生も歓喜  (生きることも喜び)
 「死も歓喜  (死んだあとも喜び)
 「生きているときは 生の仏」
 「死んだあとは  死の仏」

で、どちらも喜びの生命(仏)であると。

その仏の生命が自分の生命にあることを知ることについて、

 「自分の心(生命)が本来の仏であると知ることを、大歓喜と言うのである。
 南無妙法蓮華経(仏の生命を呼び出す声)は、歓喜の中の大歓喜であ
 る。」   (趣意)

と言われています。

もちろん、人々が嫌がる死がなくなるワケではありませんが、
歓喜の心というのは、生死を超越して続く大宇宙(大自然)の心ですから、
始まりも終わりもなく、この状態が無限に続きます。

 なぜ歓喜の中の大歓喜の心になれるのかについては、

 「自他共に智慧と慈悲あるを喜とはいうなり」  

と御書の文にあるように、自分だけの喜びではなく、
他者に尽くして喜ばせることが歓喜する根源であると言われています。


 前に、大自然の実態は慈悲の心であると言いましたが、
慈悲の行為は簡単に出来ることではありません。困難を伴いますが、
それを永続して行うエネルギーが、歓喜する心であると私は思います。

 自分が歓喜していると、他者になにかしてあげたいという心になるもの
です。
仏教では「深心の本願」といって、自分でも気がついていない心の一番
深いところに、他者に尽くしたいという慈悲の心があるが、無明という壁
にさえぎられて現れないのだ。と説いています。

人間の心が慈悲に基づいた歓喜に満ちたとき、人間は最高に進化した
と言えるのではないでしょうか。

地球に生存する人間の多くがこの境涯になるにつれて、地球から戦争と
いう悲惨がなくなっていくと考えられます。

 ロスの話から脱線しましたが、また朗読に戻ります。

つづく  
 

 

 

 

 

 


人間は何をしに来て、どこえ行くのか 十九

2008年08月07日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか

山本さん、

「先生、前回で、ニルバーナ(死のこと)は最上の楽しみであると、
釈迦のコトバを引用されましたが、死を賛美するようでいかがなものかと
思うのですが。

 いま日本は世界一高い自殺率をなんとか押さえようとして、法律や条令
をつくっていますが、それに水をさすようでまずいのではないでしょうか。」

ジッチャン、

「山本さん、よい点を指摘してくれました。私も言ったてまえそのことで悩ん
でいたのです。
 そこで今回はちょつと早いとは思いますが、釈迦のコトバについて、私の
説明不足だったところを補足しておきます。


 仏教を学ぶうえで、一番難しいとされる生死の問題ですが、
これを明らかにして生死の苦しみをなくすのが、仏教の究極の目的ですか
ら、よく聞いてください。

 仏教では生と死を別々に捉えず、生死不二と捉えるのです。
生死不二というのは、二っのようだが別々には切り離せない一体のことで、
たとえば、体と影の関係をみると、体があって影がないとか、
影があって体がない、というようなことはあり得ません。

 体と影は二であっても実際は二ではないことを不二というのです。

 釈迦のコトバを生死不二の視点でみると、
 死は最上の楽しみ(喜び)であるということは、
 生も最上の楽しみ(喜び)であることになります。

生が喜びであるから、死も喜びであり、生死は不二で別々ではないのです。
自殺される人は、苦しみから逃れようとして死を選ぶのでしょうが、他人を
殺すか、自分を殺すかの違いはあっても、殺生罪に違いはありません。

仏教では殺生を一番重い罪として戒めていますので、重い罰を受けるか
もしれないのです。
 非常に微妙なところですが、

人間は生死の苦しみである無明(生命に明らかでない、無知なこと)を破り
死の恐怖から開放されるために生まれてきた。と仏教は教えています。

つづく   
 






 


 


人間は何をしに来て、どこえ行くのか 十八

2008年07月26日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか
 朗読続き、

 精神科医の立場から見た喪失(死)の対処法というのはどんなものか。

それは先ず、
「一」 死が避けがたいという現実に対しての怒りから始まる。

「二」 そこから逃れるために、事実に目をおおい否定しようとする心の働き。

「三」 そしてどうしても逃れようがないと分かると、取引をしようとする。
    たとえば末の子が学校を卒業するまで延ばしてほしいとか、いまやり
    かけている仕事を成就するまで待ってもらいたい、というふうに何かと
    取引をして時間を稼ごうとする。

「四」 それらもみなダメだと分かったとき、抑鬱状態になる。
    いらいらして人を寄せ付けようとしない、みんなには自分の気持ちな
    んか分かりはしないのだ。と決めて自分の心の中に壁をつくる。

「五」 それらを通り越して最後の受容、あきらめとも言える状態になって
    死を受け入れる心の準備がととのう。

 と説くのである。

 このなかで最後の受容が一番難しい、
抑鬱段階にとどまったまま、前に進まない人がけっこういる。特に日ごろ
インテリと言われている人に、この傾向が強いようだ。
 死という考えても分からないことをあれこれ考える結果、抑鬱状態から
抜けきれないのである。

 それに比べて高い学歴があるわけでもなく、ごく平凡に暮らして来た
庶民と言われる人たちのなかに、死を平静に受容する人が多い。

 彼や彼女たちは先に亡くなった両親に会えるとか、子供を亡くした女性
の場合は、死んだ子に会えるというような夢をもっている。

 またなにか宗教を持っている人のほうが、宗教を持っていない人に比べ
ると、死を受け入れやすいようである。


 ロスの喪失の対処法を読んで私はこう思った。
仏法の修行を積んだ人は、「一」から「四」の段階を通り越して直ちに受容
の段階に入る。
 さらに受容するだけでなく、死をも次の飛躍えのバネにする強靭な精神
力を発揮しようとする。死のときの姿が仏道修行をした結果、永遠の生命
を自覚した証明になるからである。

 釈迦はニルバーナ(死のこと)は最上の楽しみであるとまで言っている。
これほどの喜びを笑って迎えなさい!何を嘆くのであろうか!
 といわれるような心境になるのである。

つづく      




人間は何をしに来て、どこえ行くのか 十七

2008年07月23日 | 人間は何をしに来て、どこえ行くのか

 朗読続き、

 読者は、ケイト夫人が訪ねてきたことは、ムリに信じなくてもかまわない。
本書を理解するのに差し支えないからだ。
ロスに関するエピソードの一つだと読み流してもらっていいと思う。

 ロスは自分の体験したことや、死後の世界の研究を続けるうちに、次のよ
うな考えを持つようになった。


 「いにしえの哲人や、アインシュタイン博士もそう感じていたように、
宇宙には大いなる意志みたいなものがあって、人類がそれに気づくように
メッセージを送り続けている。

 みんなはそれに気づかないだけで、
この宇宙には有とも無とも断定できない「なにかが」あるのだ。

それはキリスト教でいうところの「無限の愛」とも、仏教でいう「大慈悲の心」
とでもいえる精神的なものが、たしかに存在していて、
 そのことを人々に知らせるために使者として私は選ばれたのだ。
 私には人々にそれを伝える義務があるのだ。」


 死に臨んだ末期患者の心のケアを専門とする精神科の医師として、

近代科学を学んだ科学者の一人として、長年にわたり死後の世界という、
未知な分野を研究してきたロスが到達した結論がこれであった。

「きょう以降、自分の残りの人生を賭けて、人々が考えているような死は
 存在しないことを、世界に伝えていこう。」

 とキュブラー・ロス博士は決意したのである。

ロスが書いた「 死の瞬間 」は世界的なベストセラーになり、講演の依頼
が世界各地からひっきりなしにかかってくるようになった。
 ロスは死を忌み、死を恐れる聴衆を前に、

 死を前にした末期患者が、死を受け入れるまでに通らなければならない
五つの段階について説いた。
精神科医の立場からみた、喪失の対処法というものである。

つづく