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叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ 十一

2010年10月05日 | 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ
 歓喜の中の大歓喜 *

 質問します。
「日蓮大聖人の御書の中に歓喜について述べられているところがあります
か」

 お答ええします。
「おお有りです。先ず一番大事なところから紹介していきます。

「我が心本来の仏なりと知るを即大歓喜となずく、いわゆる南無妙法蓮華経
は歓喜の中の大歓喜なり」 御義口伝 789頁
 また、
「自他共に智慧と慈悲あるを喜とは云うなり」 御義口伝 761頁

 小我(苦悩)にこだわっている自分の心が、本当は大我(仏界の心)なので
す。仏の心は他に尽くし喜ばせようという心ですから、他が喜ぶのを見て自
分も喜ぶのです。
しかし、
自分の心に仏界があることを知りませんから、小我(九界)の夢の中の出来
事に執着して夢、幻の人生を送るのが普通です。
夢、幻というのは財産や地位、名声を求めて一生を過ごすことです。

財産や地位、名声は得たと思っても夢中の出来事ですから、命が尽きて夢
が覚めれば何も残りません。自分はいったい何をやってきたのだろう。と後
悔すするのです。

 私たちが生まれてきた目的は、堪忍世界であるこの世であらゆる苦労をし
ながら、自分の心を鍛え磨いて、なにがあっても幸福を感じる仏界の心を開
くことであります。
心を磨き鍛えて明鏡のようにするには、日夜朝暮に南無妙法蓮華経と唱え
ることであると大聖人は仰せです。

生死の束縛から解き放されて、真に自由自在の境涯になるのを、歓喜の中
の大歓喜というのです。
これは頭で考えも分かりません。
南無妙法蓮華経という仏界の心を悟った人の言葉を信じて、その人の教え
どおりに実践するしか分かる方法はありません。

 妙法の妙というのは、コトバで説明することが出来ず、心で想像することも
出来ません。しかし厳然と実在する事実ですから不思議なのです。

妙が死で法(目に見えるすべての現象)が生であるとも云われ、生(法)も死
(妙)も一体であると大聖人は仰せであります。


続く
         
           

人間賛歌 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ 十

2010年09月15日 | 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ

 大我(仏界)に生きる以上の幸せはない *

 質問があります。
「仏界を現していない九界の凡夫の私たちが、仏界を現し歓喜の境涯
になるには、日蓮大聖人が書き現された御本尊に題目をあげるしかな
いのですか」

 お答えします。
「日蓮大聖人の御命である御本尊に、南無妙法蓮華経と唱えるほかに
仏界を現す方法はありません。
御本尊に向かって一遍の題目をあげれば、一遍の題目にも仏になる種
子が含まれています。題目はたくさんあげるにこしたことはありませ
ん。

さらに大聖人は、

正法像法時代と違って、末法に法華経を修業して仏界を得るには自行
(自分の成仏のため)と化他(他の人の成仏のため)の修業が必要である
と述べられています。
末法の時代に生まれてくる人は、前代の人よりも罪業が深い法華経を
誹謗(正法に背きけなすこと)した人たちであるからです。

法華経の肝心であるご本尊が建立された国は、日本国をおいてほかに
ありません。その御本尊を現した大聖人を国中の人が迫害しました。
大聖人は謗法の人が生み広げたのが日本国であると言われています。

外国には正像法時代の法華経がありましたから、それを誹謗した人は
謗法の罪によって罰をうけました。
しかし日蓮大聖人がおしたためになった御本尊に謗法する罪はそれ以
上に大きいのです。
前者は五逆罪の第一に当たる無限地獄の苦をうけますが、後者は大無
限地獄の苦を受けると云われています。

大無限地獄とは、生まれるたびにこれ以上ない苦しみの境涯に生じて
くることであるといわれています。

法華誹謗の罪を消すには、他の人に御本尊の素晴らしさを話すことが
一番近道です。他の人に御本尊の話をしますと必ず反対されます。
悪口を言われたり、軽蔑されたり、さまざまな難を受けますが、この
難を受けるたびに謗法の罪を消していけるのです。

 大聖人は、
「浅き罪なれば我よりゆるして功徳を得さすべし、重きあやまちなら
ば信心をはげまして消滅さすべし」 阿仏房尼御前ご返事1308頁
と仰せであります。

信心を励ましてとは、難を乗り越えて宿命転換をさすということであ
ります。

この稿おわり
   


小我(苦悩)から大我(歓喜)へ 九

2010年09月01日 | 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ

 明鏡のこと *

 暑いのに難しいことを言うようですが、大事なことなので書かせて
もらいます。

御義口伝(オンギクデン)は、日蓮大聖人が悟られた法華経の法義を弟
子の日興上人に口頭で伝えられ、日興上人がそれを文章にして後世に
残されたものです。
もちろん日蓮大聖人が認可されたものであります。

御義口伝・法師品四個の大事で大聖人はこう述べられています。

「法華経に鏡のたとえを説くことこの明文なり、
六根清浄の人は瑠璃明鏡のごとく三千世界を見るという経文なり。
いま日蓮等のたぐい南無妙法蓮華経と唱え奉る者は、明鏡に万象を浮
ぶるが如く知見するなり、

明鏡とは法華経なり別しては宝塔品なり、または我が一心の明鏡な
り」 (中略) 763頁

日蓮大聖人ほど多くの文書や手紙を書いた宗教家はほかにいません。
その大聖人が日興上人に口頭で伝えられたものですから、どれほど重
大な意義があるか分かろうというものです。

私たちが南無妙法蓮華経と唱えますと、六根(六識=眼耳鼻舌身意)が
清浄になり、心に万象を浮かべることが出来ると仰せです。
先入観に捉われず物事をありのまま観察して、縁に従って出る仏の智
慧をもとに行動すれば、間違うことはありません。

末法時代の凡夫(九界)の私たちが、
日蓮大聖人の仰せどおりに題目を唱え(自行)、自分だけでなく他者に
もすすめる(化他)の信仰をいたしますと、釈尊や日蓮大聖人と同じ境
涯になれると仰せなのです。

これほどありがたいことはありません。

仏の言葉に虚妄はありません。世界史をみても釈迦や日蓮大聖人の言
葉どおりに進んでいるのを知ると、驚くばかりです。
そしてその宝物を仏教に対してなんの功も、労もない自分が受持して
いる事実に粛然とします。

これは二十年間御本尊に反対し、その結果大罰を受け、以後心を改め
て三十三年間信仰に励んだ私の体験です。
罪障もいくらか消滅し、苦悩からおさらばして歓喜の日々を送ってい
ます。幸せ(大我)になるには仏界を顕す以外にないと断言できます。

どうか疑わないように、疑うと損しますよ。

続く  

 


人間賛歌 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ 八

2010年08月25日 | 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ
 自浮自影の鏡(法華経のこと) *

 日蓮大聖人は法華経を鏡にたとえて、次のように述べられていま
す。

「法華経は人の影を浮かぶるのみならず、心をも浮かべ給えり。
心を浮かぶるのみならず、先業をも未来をもかんがみ給う事くもりなし」
 神国王御書 1521ページ

 鏡が無ければ自分の顔を見ることができません。
鏡を見て、自分の顔が汚れていないか、苦痛でゆがんでいないか、喜
んでいるか、などをを知ることができます。

仏教の因果の法を知っていれば、自分の心を磨いて汚れた顔や、苦痛
でゆがんだ顔を根本から治すことが出来ます。
喜んでいる顔であれば、さらに心を磨いていっそう強く壊れない幸福
境涯になるよう励むカテになるでしょう。

 ただし、
これは鏡の表に向かっている場合で・・
鏡に写った像が見えますが、鏡の裏に向かっていては何も写りませ
ん。真っ黒でそこに写っていると思うのは錯覚(先入観念)で、自分の
心か生み出した幻のようなものです。

自分の心の中にある、貪る心、怒り苦しむ心、真実を知らない愚かな
心、慢心する心、疑う心、
客観的にみて誤っているのに自分の誤りを認めない心、
自分の心の中に歓喜する仏界の心があることを信じず、仏界があるこ
とを信じている人をバカにしたり、誹謗してその人を嫌悪する心。

以上の消極的な心が感じるもろもろの悩み、苦しみが鏡に写っている
ように思うのです。
鏡の裏を見ているのですから、本当は何も写っていません。だが自分
の心が生み出した幻想であることに気がつきません。
この状態が小我にこだわる人の特徴で、十界の中の九界の境涯の人で
す。

それに対して仏は鏡の表に向かっています。

鏡の表には森羅万象がことごとく写っていて、もれるものはありませ
ん。鏡は小さいので万象を浮かべるのはムリだと思うでしょうが、
向きを変えたり、望遠技術を使えば、宇宙のかなたにある星でも写し
だします。

鏡は仏の智慧が広大無辺であることをたとえたもので、全宇宙や、過
去、現在、未来に生じる出来事を正確に知見します。
万象を起こす法則があって、それを知り尽くした仏の智慧は、三世を
見通して狂いがないのです。

鏡の表に向かう人を仏といい、大我の人ともいいます。

続く  

 

人間賛歌 小我(苦悩)から大我(歓喜へ 七

2010年08月20日 | 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ
 人生は喜ぶためにある *

 仏法は何のためにあるのか。それは万人を幸福にするためにある。
そして万人を大歓喜の境涯にするためにある。
 と言えます。
それは本稿の主題「小我(苦悩)から大我(歓喜)へ」と一致するのであ
ります。
ロシアやの文豪トルストイは綴りました。

「喜べ! 喜べ! 人生の事業、人生の使命は喜びだ。
 空に向かって、太陽に向かって喜ぶがよい。」

 (トルストイの言葉 法華経の智慧より引用)

世界の名曲ベートーベンの交響曲第九、歓喜の歌の合唱も喜びを表し
ています。ベートーベンはほとんど絶望的な状況の中で不朽の名作を
創作しました。
 「苦悩を突き抜けて歓喜にいたれ」は世界的に有名な言葉です。

では、
 苦悩を突き抜けて歓喜に至ったり、
 空や太陽に向かって喜べ!喜べ!
と言ったトルストイのような心になるには、どうすればよいのでしょ
う。

 私もふくめだれ一人として苦悩(悲哀)の人生を望んでいる人はいま
せん。みな喜んで大歓喜の人生を送りたいと努力していることは同じ
です。
それでも出来ない人が多いのはナゼでしょう。

自分の心を苦悩する心から、歓喜の心にする方法があるのに、しかも
その気にさえなればその日のうちに変われるのに、みんなやろうとし
ないのです。

 質問があります。
「今日からでも実践できる方法というのは何ですか。
また、どうしてそれを実行できないのかワケを教えてください。」

 お答ええします。
「苦悩する人は自分の心に喜びの心があることを知らないのです。
幸せが外にあると思い込んで、必死にそれを追い求めますが得られま
せん。
幸せは自分の心の中にあるから、それを取り出して幸せになりなさ
い。と教えられても素直に信じられず、逆に誹謗したりします。

 注、誹謗 正しい法を教えてくれる人を、あんたはおかしいなどと
言ってケナすこと。

続く    

  

人間賛歌 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ 六

2010年07月01日 | 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ

 題目に始まり題目に終わる 

 * 質問します。
「南無妙法蓮華経と唱えると、ナゼ仏の命が現れるのか、日蓮大聖人
はどのように仰せでしょうか。」  

 * お答えします。
「日蓮大聖人は、
空とぶ鳥が鳴けば、カゴの中の鳥も鳴いて外へ出ようとするように、
南無妙法蓮華経と唱えれば自身の胸中の南無妙法蓮華経が、呼び呼ば
れて現れてくるのです。と仰せです。

また、鳥の卵がヒナになるときの例をあげて、、
ヒナがカラを破って外に出ようとする、ちょうど同じときに、親鳥が
クチバシでカラをつつき、絶妙なタイミングでカラが破れ、ヒナが誕
生するようなもので、だれがするのか分からないが、それが自然であ
ると仰せです。

 自身の心の奥深くにある九識=仏界は、外に出ようとしますが、、
無明(自身に仏界があることを信じられない迷い)という厚い壁にはば
まれていますので、縁がなければ自力だけで現すことは出来ないので
す。
御本尊という仏の命を縁にして、題目を唱えますと、
もともと自身にあるものですから、呼ばれて現れるのです。。。

 大聖人は仏の命を九識・心王・真如(心の王で真理にのっとった大
慈悲心のこと)といわれ、
この境涯は、どこにいて、なにをしても、獅子王が百獣におじないよ
うに、恐れのないことは獅子王の如くなるであろう。
 と仰せになっています。

 私の師匠は、常々、
「なにがあっても、とにかく題目を唱えることだ。これが勝利の秘法
である。」
 と指導しています。

信仰歴の長い人は「この信仰は題目に始まって題目に終わる」とい
い、悩んだり、策や方法を考えるひまがあったら御本尊の前に座って
題目をとなえなさい。」と助言しています。
 どんな困難があろうとも、それを突破する生命力と、どうすれば突
破できるかという智慧を御本尊が必ず与えてくださいますから・・
ダマされたと思って題目をあげてみなさい。必ず結果がでます。

これが長年信仰した人たちの共通した結論でした。

続く  

 

 


人間賛歌 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ 五

2010年06月28日 | 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ
 無限地獄(苦悩)の道をふさぐ *

 質問します。
「題目を唱えますと、だれでも一生のあいだに歓喜の命になれると言
われましたね。そしてこれは末法の仏・日蓮大聖人のお約束だから絶
対間違いありませんと断言されました。 
 それについてお伺いしたいのですが、一生のうちといっても三年も
あれば十年もあります。
 だいたいどのぐらいをメドにすればよいのでしょうか。」

 お答えします。
「どのくらいの年月がいるかはわかりません。
人によって信心の強弱があったり、宿業の軽重などがありますので、
一概には言えません。
 ただ、大聖人は稲に早稲(ワセ=早く実る稲)とオクテ(実るのが遅い
稲)の違いがあっても、一年のうちには必ず実って収穫できるよう
に、一生のうちには必ず仏の境涯になれるとおおせです。

 一生といってもあっというまに過ぎてしまいますから、今世の短い
修行で永遠に続く歓喜の境涯が得られるなら、五年や十年の差は問題
てはないと思いますよ。

 それより、「一生むなしく過ごして万歳悔ゆることなかれ」という
大聖人の警告を肝に銘ずべきではないでしょうか。
 さらに大聖人は、
御本尊を信じて題目を唱える人は、「無限地獄の道をふさぎぬ」とい
われ、すぐに大我の境涯になれなくても、、
今まで苦悩の底であえいでいた人であっても、、
二度と苦悩の境涯にもどることはないと、おおせであります。。

 私は今から三十三年前に入会しました。
そのときは事業に失敗し、一生かけても払えないだろうと思うほどの
借金をかかえていました。
入会するときに来宅された学会の幹部の人が、「これ以上悪くなるこ
とはありませんから、安心して信仰にはげんでください。」
 と言われました。

そのときは意味がよく分からなかったのですが、その後何回かの浮き
沈みを経験するうちに、不思議に借金が残るような失敗がないことに
気づきました。
ギリギのところで損がでないように御本尊に護られていたのです。
「無限地獄の道をふさぎぬ」のお言葉の意味の重さを身にしみて感じ
ています。

 もし今、借金で苦しんでいる人がいましたら、、
迷うことなくこの信仰をして、無限地獄(借金苦はまさに無限に続く
苦しみですから)の苦からか開放され、二度と落ちないように道をふ
さいでください。
 苦悩の道をふさげば、歓喜の道しか残りませんから・・

続く  

人間賛歌 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ 四

2010年06月23日 | 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ
 大我を現すには・・

 質問します。
「自分の命にたまった宿業を消して、大我(仏の命)を現すにはどうす
ればよいのですか。」

 お答えします。
「仏の命(大我)のことを南無妙法蓮華経といいます。
私たちが本来持っている真の自分の命を現すには、南無妙法蓮華経と
唱えて、仏の命と同じになればよいのです。

とはいっても、仏の命があるかどうか、分からない人に南無妙法蓮華
経とだけ唱えなさいといってもムリだと思います。

 そこで末法の仏である日蓮大聖人が、、
仏法に無知な末代の弟子の私たちに、仏の命を現す縁になる御本尊を
残してくださいました。
 この御本尊は日蓮大聖人ご自身が悟られた仏の命を書き顕したもの
であります。

 日蓮大聖人は、御本尊を与えられた門下へのお手紙で、

「日蓮がたましいを墨にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給え。
 仏のみこころは法華経なり、
 日蓮がたましいは南無妙法蓮華経に過ぎたるはなし」

としたためられています。
日蓮大聖人(仏)の命であるから大事にしなさい。と仰せであります。

 八識にたまった宿業の厚い壁を破ったところに、九識=仏界がある
といっても私たちには想像もできません。
しかし、日蓮大聖人が書きあらわされた御本尊を仏の命と信じて、南
無妙法蓮華経と唱えることはできます。
そうしますと今まで厚い壁に囲まれていた自分の仏の命が現れてくる
のです。

 なぜ現れるのか理屈でわからなくても、
題目を唱えますと、今までとは違った力強い自分が現れることが実感
できますので、ウソではないことが分かります。

 質問します。
「南無妙法蓮華経と唱えるだけなら、私でも出来ると思いますが、
それで本当に仏の命になれるのですか。」

 お答えします。
「絶対になれます。題目を唱える人がだれびとであれ、
一生のあいだに必ず仏界になれるというのが、日蓮大聖人のお約束で
あります。仏の言葉にウソはありません。

続く  

人間賛歌 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ 三

2010年06月18日 | 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ
 真の自分(大我)とは ? 

 質問します。
「大我が真の自分であるといわれても、ピンときませんが、、もう少
し詳しく教えていただけないでしょうか。」

 お答えします。
「小我(自分のことしか考えない我)を現代人にわかるように考えてみ
ましょう。
私たちは、目、耳、鼻、舌、皮膚(以上を五識といいます)でキャッチ
した外界の情報を意識(一番浅いところにある心で六識といいます)で
分別し、その結果なにかの行動を起こします。

 たいていはそこで終わり、
次にキャッチした新しい情報に心は移って、さつきまで自分がしてい
たことは忘れてしまいます。
ところが表層意識より深いところにある潜在意識は覚えていますの
で、情報に対する反応パターンが習慣になって記録されるのです。仏
教ではここを七識と呼んでいます。

 ところで九界にしみこんだ心の特徴は、
地獄=怒る心、餓鬼=むさぼる心 畜生=愚かな心、修羅=素直でなく自
分が一番エライと思う心、人=穏やかな心、天=喜ぶ心、声聞=真理を
悟って安心しようと思う心、縁覚=自分の経験などで真理の一部を悟
る心、
菩薩=仏になろうとして利他行をする心、

 ごく簡単に言いますと、以上が九界の衆生の心にしみついた内容で
あります。
たとえば地獄界は怒る心が習慣になっていますのですぐ怒り、自分も
他人も苦しめます。菩薩は自分のことはさしおいて他に尽くす心なの
で、自他共に喜びを感じ幸せな心であります。
 ただ、仏と違って小我の中に入れるのは、自分が仏になるために
利他行をしているのてあって、自分のためではなく利他の心しかない
仏とは紙一枚違うのです。

 同じ人間でも心が千差万別であるのは、
七識に心の差異があるからで、これによって行動した結果が、善悪ひ
とっ残さず、八識(アラヤ識)に貯蔵されているのを仏教は発見し、
これを業(カルマ)と呼んでいます。
 現代心理学の祖、ユングが発見したのもこの八識であると云う人も
います。

 開設がだいぶん長くなりましたが、肝心の大我について述べさせて
もらいます。
八識を突き抜けたところに九識(アマラ識=仏の心)があることを突き
止め、これを悟ったのが釈迦を筆頭にしたすべての仏です。
この九識(大我)の境涯になると、自分と他人との区別も、こことかあ
そこという場所の違いもありません。

 宇宙の心(生命)と同じ心であり、いつも嬉しくて、嬉しくて仕様が
ないという心です。この歓喜の心がづーつと永遠に続くのですから、
これほど有り難いことはないのです。
 それこそが本当の自分であると信じることがポイントです。

続く  

 


人間賛歌 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ 二回

2010年06月16日 | 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ

 真(まこと)の自分 * 

 創価学会二代会長、戸田城聖先生は、大我を現した歓喜の命を、

「とにかく、生きていること自体が楽しくて、楽しくてしようがな
い。というような境涯なるのだ。
 信心した人は、死ぬまでにみんなそうなるのだ。」

と言われていたとうかがっています。

 法華経には、、
衆生(生きているものすべて)は、この世を遊楽(なにをしても楽しい
こと)するために生まれてきた。と記しています。
 ところが現実は、、
遊楽どころか、もろもろの苦悩が充満していて、楽しくなく、恐れや
苦しみの海の中でもがいている人の方が多いのです。。

 ナゼでしょう。
仏教は生老病死の四苦及びそれから派生する八苦を超えて、この世を
楽しむ境涯になる方法を教えています。
 前回で、小我にこだわった生き方をすると苦悩が尽きない人生にな
ると云い、小我とは九界の境涯のことであると申しました。

 九界とはすでにみなさんご存知のように、
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声門、縁覚、菩薩のことで、九界
の特徴は、死の苦縛から逃れられない境涯のことです。
 それに対して仏界は、、
死の苦を解決して、自在な境地(なにをしても楽しくてしょうがない
という歓喜の命)で、小我に対して大我といいます。

 仏教では、
大我=仏界が真の自分であって、九界の姿は仏界を悟るためにわざと
苦労している、仮の姿であると指摘しています。
九界は夢で、仏界が夢からさめた真実の我であると教えるのです。

 日本人で最初に法華経を読んだ聖徳太子は、
「世間虚仮(セケンコケ) 唯仏是真(ユイブツゼシン)」と書き残して
います。この世は仏になるための仮の世であり、仏(仏界)の世界だけ
が唯一の真実である。
 という意味であると思います。

続く