叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 運命と宿業と 十一

2007年10月29日 | 運命と宿業と

田中くん、
「へーえ、ボクが自分で願って生まれてきたと言われるのですか。」

山田教授、
「そうだよ、田中くんに限らずみんな、願って今の姿で生まれてきたと、
経典にあるよ。
仏界を開き人々を救うのに一番よい立場を、自分で選んで生まれてきたの
だから、今の悩みは同じ悩みを持つ人々を救うための方便(仮の姿)なのだ。

だから使命を自覚し、使命を果たしていく内にぜんぶ、
マイナスを逆にプラスに変えていけるんだ。これをきみも知っているように、
変毒為薬というのだよ。

田中くん、
「教授のおはなしですが、自分で願ったなんて思い出しませんが、
忘れてしまったのでしょうかね。」

山田教授、
「覚えている人はほとんどいないが、
みな自分の使命を果たす目的を持って生まれているのだ。それこそ例外
なしだよ、でもそれに気づく人も少ないがね。


信仰の次元とは違うがこのあいだ面白い話を聞いたよ。
神奈川の産婦人科の先生の話だがね、自分の病院で生まれたナン百人
かのアカチャンの、生育状態を調べていて分かったそうだが、アカチャンの
中には自分の意思で生まれてきたことを覚えている子がいてね。

わたしはおおきくなったら女優になりたいの、
この両親なら私を女優にしてくれると思って、ここに生まれてきたの。
とか、
この家はいつも楽しそうな笑い声がしていたので、ここならキット幸せに
なれると思って、この家にうまれてきたの。など、

いろんな例をあげていたが、まだハッキリしないがアカチャンは偶然生まれ
て来るのではないと、その医者は言っているね。」

続く

 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 七十四

2007年10月26日 | 若い人の仏教教室
ベートーベンは、
「絶望を突き抜けて歓喜に至れ」
と言ったが、絶望と歓喜は別々にあるのではないのだな。絶望だけとか、
歓喜だけというのはないのだ。

絶望するほどの衝撃がなければ、歓喜する境地にはなれないし、
絶望から逃げれば、永久に歓喜と縁のない存在になってしまう。絶望という
カベにぶっかって勇敢に立ち向かったとき開ける世界が、二度と失うことの
ない歓喜の世界なのだ。

それを開くには勇気がいるが、
仏教実践の第一歩も今までのカラを破る勇気から始まるのだ。

ビクトル・ユゴーの言葉を紹介しておこう。

「未来はいくつもの名前を持っている。
弱き者には<不可能>臆病者には<未知>思慮深く勇敢な者には<理想>と
いう名を。」

ケイタくん、この言葉は手帳にでも書いて覚えておくといいよ。」

ケイタくん、
「はい、そうします。」

山本さん、
「先生、さきほどの生命そのものである体について、もっと詳しく教えて頂
けないでしょうか。」

ジッチャン、
「そうだね、生命の体と用の関係を正しく理解すれば、
釈迦の言う、「不生不滅・生まれたり死んだりしないこと」や、「我常住於此・
ガジョウジュウオウシと読み、私は常にここにいるという意味」という経文の
意味も理解できるだろう。

だがこれは頭で考えて分かることではないんだ。
私たちのいのちは無死無終に継続し、想像もできない力と智慧を持ってい
ることを信じて、それを自分の生命で体験する以外に理解する方法はないんだよ。
頭で分かろうとするのではなく、
釈迦や日蓮大聖人と同じ仏界の境涯に自分を変えようとすることが、肝心
なのだ。

続く

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人間賛歌 若い人の仏教教室 七十三

2007年10月24日 | 若い人の仏教教室

山本さん、
「先生のおっしやる通りです。
生命というと姿カタチと人によって性質や性格が違うとこまでは考えられま
すが、生命そのものといわれる体については考えたことはありません。」

ジッチャン、
「山本さん、率直に答えてくれてありがとう。
釈迦が、私はいつもここにいる。というときの私は、生命そのものである体を
指しているのであり、
それを聞いている弟子や私たちは、生命の働きである用しか認識できない
から、見解に差が出て当然なんだね。

私たちも元々は永遠の生命である体を持ったホトケなんだ、ということを思い
出せば疑問は解消するが、思い出すことができないから困るんだよ。

ではどうすれば思い出せるか。

そんなメンドーなものを思い出してもしようがないと思う人は、
それはそれでも良いが、それでは生命の真実を知らず、いつまでも不幸な
六道輪廻の生死を繰り返すだけなんだ。


科学者でもある著名なキュプラー・ロス博士が、
「死は存在しない」と言い出してから半世紀近く経ったいま、世界の大学の
中には、

「生命の継続性(永遠性)を認めなければ説明できないところまで、現代の
 生 命科学は来ている。」として、研究を始めだしたのも事実なのだ。

チョット硬い話になったから気分転換をしよう。
人間は幸福になりたいと思ってみんな努力している。
幸福とは、カネ、恋、家、車、地位、名誉など、世間的に優位な立場にたつ
ことだと思う人が多い。

だが本当にそれだけで幸福なのだろうか、
仏教では幸福とは生命の歓びであると捉える。モチロン先にあげたものも、
現実に生活するうえでなくてはならないものだが、
それが有っても本当の幸福.すなわち生命の歓びとは言えないのだ。
なぜなら、
それらが無くなったときは不幸を感じるし、虚脱感に陥るかもしれない。

生命の歓びというのは、それらに関係なく心がいつも歓喜に包まれている
状態のことをいうのだ。

つづく

 


人間賛歌 運命と宿業と 十

2007年10月22日 | 運命と宿業と
 前回の続き、

田中くん、
「ボクなんかホースから汚い水ばかり出るようですが、
いつまでやればきれいな水が出るようになるのでしょうか。」

山田教授、
「これは人によつて違うからいちがいに言えないね。
ただどんなに宿業深重な人であっても、マジメに信心をしとおせば一生の内
に必ず業を切つて、清らかな仏界のいのちになれると日蓮大聖人はお約束
されている。

だから田中くんも大丈夫だよ。
その内に仏界のいのちが出るようになるから、そうなるとシメたものだよ。」

田中くん、
「それを聞いて安心しました。
これからも信心に励みます。将来の参考にしたいのですが、
キレイな仏界のいのちが出だすと、いまのボクはどう変わるのでしょうか。」

山田教授、
「いまの田中くんが別の人になることはないよ。
そのままの田中くんだが、田中くんを取り巻く環境が変わるのだよ。
何をやってもうまくいかなかったのが、逆に何をやっても良い方に良い方に
回転して、
自分がまるで別の人になったように思いだすよ。」

田中くん、
「ワアー、そうなるとすごいですね。
博士、ボクだけ例外ということはないでしょうね。」

山田教授、
「心配ないよ、老若男女、人種を問はずだれでもそうなると、
日蓮大聖人や釈迦始め諸仏が約束されていることだから、いらぬ心配は
しないでいいよ。

もう一歩深く立ち入って考えれば、田中くんもいまの姿を自分で願って、
この世に生まれてきたのだから、そして御本尊にあって宿業を転換し、
仏界の境涯になる姿を示して、人々を救う使命を果たすために生まれて
きたのだ。
だからゼッタイだよ、仏界になる軌道上を進んでいるのだからね。」

つづく



人間賛歌 若い人の仏教教室 七十二

2007年10月19日 | 若い人の仏教教室

ジツチャン、
「みんなが元々仏であり、仏の行いは人を救う菩薩行なんだと思い出せば
最高なんだがね。
この境涯がゼツタイ幸福なんだから・・

なぜ思い出せないのだろう、
そして私たちはいったいどこから来たのだろう。
釈迦はこれについてどう言っているか聞いてみることにしよう。

これを聞いたら直ちに理解できるというものではないが、仏教とはそんなに
スゴイ教えなのか、生命とはそんな可能性を持っているのか、
それなら自分も勉強して身につけたい、という渇望の心が出ればたいしたものだが。


先ず私たちはどこから来たのか、について釈迦の意見を聞いてみよう。

釈迦は、
「私はどこからも来ないし、どこえも行かない。
いつもここにいてあなたたちに説法し、真実を教えようとしているのだ。」
と言うのだ。

でもインドに生まれた歴史上の釈迦は八十歳で亡くなっているし、
いつもここにいると言われても、どこにいるのか私たちには見当もつかない
のだ゛。
そこでそのナゾを解くカギを探してみよう。

仏教は生命を、
生命そのものである体(如是体という)と、
生命の働きである用(ユウと読む、現象として認識できる力、作用のこと)
の二つに分けて捉えているのだ。
生命そのものである体は、生まれたり死んだりせず宇宙とともに永遠に
存在しているが、

私たちが実感として捉えられないだけなんだ。

一方、生命の働きのほうは、
目で見える姿カタチ(如是相という)や、境涯の違いからくる心や性格の差異
(如是性という)として現れるので、私たちも認識することが出来るのだ。

私たちが生命という言葉で連想するのは、自分で認識できる相や性で、
体を連想することはないハズなんだ。
かりに連想できるという人がいれば、その人は仏界の人だから改めて説明
することもないが、まあそんな人はいないと思うが、

山本さんはどう思いますか。」

続く

ご案内
だれにも眠ってはいるが仏界という最強の生命があります。
「目覚める人」は北条小源太が仏界に目覚めるまでの過程を書いています
ので、参考になると思います。下のURをクリックして紹介文を読んでみてく
ださい。

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人間賛歌 運命と宿業と 九

2007年10月17日 | 運命と宿業と

 前回の続き、

第九識をアマラ識といい、根本浄識ともいうのだ。
一切の汚れにそまらず、清浄で永遠に変わらない仏界の生命のことだ。
このいのちを、南無妙法蓮華経というのだよ。

このいのちが出ると、はるか過去世から現在にいたるまで生命に刻まれた
いかなる宿業も転換し、生命を根底から変換することが出来るのだ。
ちょうど太陽が昇ると、いままで闇に閉ざされていた世界が、

パッと明るくなりすべてを見通せるが、
それと一緒で生死の闇を照らし、物事の本質を見抜く智慧が出てくるのだ。

その結果「衆罪は霜露のごとし」の経文どおり、
悪業を消滅させ、逆に善に変えていくことが出来るのだ。
毒を変じて薬となす大良薬とは、法華経のことをいうのだ。

やや専門的になったが分かったかね、私はキミならぜんぶ理解できた、
と思うけれどね。」

田中くん、
「教授、ありがとうございました。大事なことがよく分かりました。
それと同時に私に妙法を教えてくれた友人に感謝しきれない気持ちです」 

山田教授、
「感謝する心が出たらたいしたものだよ。
そこで宿業転換の原理をだれでも分かるように教えられた戸田先生の
指導を紹介しておこう。


・・長いあいだ使っていなかったホースに水を通すと、始は汚れた汚い水
が出るが、そのうちに汚れがとれてきれいな水が出てくるようになるね。
これと同じだよ。
私たちのいのちも長いあいだの宿業で汚れているが、
信心を続けていくと汚れがとれて、元のきれいな水が出てくるようになるのだ。・

続く

 

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人間賛歌 若い人の仏教教室 七十の追加

2007年10月16日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「ケイタくん、誤解を招きやすいところがあるので、補足しておくよ。
人間は自分の意思で両親を縁にし、生まれてきた。と言ったが親を軽く見
るように思われるかそうではないのだ。

仏教は人の生き方を教えたものであるが、最も大事なものの第一に報恩を
あげているんだ。
特に自分を生み育ててくれた親に孝であることが、善い生き方の第一として
いるのだ。
自己実現をするために・使命を果たすためと言ってもよいが、自分の目的を
果たすのに一番適した境遇を選んで生まれようとしても、縁がなければ生ま
れることはないのだ。
縁になってくれた両親を最大事することが報恩の始め
なんだよ。よく覚えて
いてね。」

ケイタくん、
「はい、分かりました。」  

 以上

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 七十

2007年10月15日 | 若い人の仏教教室
ジッチャン、
「ケイタくん、難しいことを言ったものだから目をシロクロさせているのでは
ないかね。
要するに言いたいことは、人間は神や、お父さんお母さんが造ったのでは
なく、生命そのものである自分の意思で両親を縁にしこの世に生まれてき
たというワケだよ。

なんのために生まれてきたかというと、苦難の充満したシャバ世界で色々
な苦難に会い、自分の生命にたまった宿業を消すためなんだ。
それを宿業転換というが、積もり積もった宿業(不幸のもと)という汚れを落と
すと、仏界という本来の姿になるんだよ。


清らかで、強くて、智慧にあふれ、人を大事にする慈悲心をもち、
なにものをも恐れない最高の人格者が仏界を現した人だ。
インドに生まれた釈迦や、日本に生まれた日蓮大聖人のことだ。」

山本さん、
「先生、それではみんなが元々仏界の人だというワケですか。」

ジッチャン、
「そう、その通りです。みんなが元々仏だと教えているのが法華経です。」

山本さん、
「そうしますと法華経というのはスゴイことを教えているのですね。
 どうしてみんなが信じないのでしょうか。」

ジッチャン、
「釈迦が説いた法華経は、みんなが仏だということを教えた大事な経典だ
が、じゃあ、どうすれば仏界を現せるかという実践法は教えていないんだね。

釈迦は、仏は自分のいのちの中にあるのだから、人を頼らず自分で修行
に励んで悟りを求めなさい、と言って亡くなったのだ。

釈迦は弟子たちに過去、遠遠劫という昔に「みんなが仏である」と私が教
えたではないか。
それを思い出すのだよ、みんなは忘れているが深心(心の深いところ)の
本願は、法華経を悟って人々を救っていきたいという菩薩の心が本心な
んだよ。

と何回も何回も教えるが、なかなかみなは思い出さないのだね。
今のみんなもそうなんだ。法華経を信じられないというのは本心を忘れて
いるからなんだよ。」

つづく

人間賛歌 運命と宿業と 八

2007年10月12日 | 運命と宿業と
 前回の続き、

生命活動の最も表層に現れるのが「五識」で、
見る、聞く,嗅ぐ、味わう、触れるなど、外部からの情報を五感で認識する
ことだ。

「第六識」はこの五識をまとめる意識のことで、情報を整理し物事を推測し
たり、判断する知性の働きなのだ。
ここまではだれでも知っていることで、とりたてて言うほどではないが、
ここからが意識に出ない潜在意識といわれる領域で、最近の心理学でも
研究されているが、仏法の洞察力の凄いところなのだ。


第六識の奥に第七識があり、これは自分自身に執着する心で生命の
根源的な働き、自己保存本能といえるだろう。

具体的には、
一  貪欲・欲望に執着する心
二  怒り・欲望が満たされないことえの怒りで、他者や社会に対して向け
    られる。
三  愚か・表面に出た現象だけにとらわれ、自分の生命が造り出す現象
    であることを認めない無知のこと。

四番目は恐れる心のことだ。困難や未知なことに立ち向かっていく勇気が
ないのは恐れる心があるからで、心が臆病という病気にかかっている状態
なのだ。
臆病の根源は死えの恐怖心があるからだ。と心理学者は言っている。

第八のアラヤ識は私たちの振る舞い、これには行ったこと、思考したこと
など、善悪すべての行為が業として蓄積される貯蔵庫のような領域だ。

ここにどのような業を積んでいるかで、
私たちの生命の境涯が決まるとされている重要なところだ。


ここまでであれば、私たちは第八識に蓄積された業という障壁にはばまれ
た不自由な境涯で生きなければならないが、仏法は生命の最も奥深い所
に、第九識があると説いているのだ。

続く

人間賛歌 若い人の仏教教室 六十九

2007年10月09日 | 若い人の仏教教室

ジツチャン、
「ケイタくん、こんなスゴイ生きものをいったいだれが造ったと思う。」

ケイタくん、
「?....    」

ジッチャン、
「もちろんお父さんやお母さんが、そんな精巧なものを造ったとは思えない
し、だれが造ったか分かっている者はいないんだよ。
それでユダヤ教やキリスト教では創造主である全知全能の神が造ったと言
っているが、
今ではほんとうにそれを信じるのは一部の人だけで、神の存在そのものを
疑問に思う人がケッコー多いみたいだね。

仏教では人間は生命体である自分の意思で生まれてくる、と説くのだ。
生命本来の願いが、苦悩で充満している娑婆世界に生まれることを選んだ。
と言うのだ。
みな自分が願ったことを忘れているから、信じようとしないが事実は
そうなんだと釈迦は言っているんだね。


有名な産婦人科医が、
自分がとりあげた何百人もの赤ちゃんのその後の成長過程を調べて記録
しているが、子供の中にはハッキリと自分で環境を選んで生まれてきた。
と言う子も何人かいるそうだよ。

例としてあげていたが、ある女の子は、私は女優になりたくてこの親なら私
を女優にしてくれると思って、ここに生まれてきたのと言うし、
別の女の子は、
この家はいつもにぎやかな笑い声が聞こえて楽しそうだから、この家に生
まれることにしたの、と自分で環境を選んだことを記憶しているんだ。

もちろんゼンブがゼンブではないがね、
ただ人間は偶然生まれてきたのではなく、仏教で言うように何かを実現す
るために、自分の意思でこの時期にこの場所を選んで生まれてきたのだ。
目的は苦悩に満ちた娑婆世界で心を鍛え、生命の真理を悟るためなんだよ。

釈迦は、
自分は生まれたり死んだりせず、常にこの世にいて、
死を恐れながら暮らしている人々に、ほんとうのことを教えようとしているが、
人々が聞こうとしないのだ。
と法華経の中で言っているんだ。

続く