叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 人の生命活動 八

2006年07月31日 | 人の生命活動
 前回のつづき
鏡に写った自分と、長時間対面した男になにが起こったのでしょう。
カウンセラーから「 どんな困難にも挫けず、勇敢に立ち向かっていく人 」
と紹介された人は、鏡に写ったもう一人の自分だったのです。


 ベテランのカウンセラーは男が立ち直ることを知っていた。

それから数ヶ月経ったころ、男は立派な身なりでカウンセラーの前に現れた。
男はカウンセラーに先日の礼を述べ、次のように言った。

 「 あれから新しい仕事につきました。これもあなたのおかげです。
  ほんとうに感謝しています、
  お礼にあなたのお手伝いをして、私も人に喜ばれることをしたいのです。
   私に出来ることがありましたら、なんでもやりますのでお申し付け
  ください。」


 男は鏡の中のもう一人の自分と、何を話し合ったのだろう、、
あのとき男は、鏡に写った貧相な男を見て、始はそれが自分とは思わなかった。
やがて、それが鏡に写った自分の姿だと知って、

 「 自分の失敗を他人のせいにし、不運を嘆き人を恐れ憎んでいる、醜い
  自分の姿を見たのだ。失敗の原因は人ではなく自分にあった。」

と男は気がついたのだ。 


 恐れ、不安、憎み、嫉妬など、消極的な心にとらわれると、
 希望、勇気、元気、快活など積極的な心はかくれてしまう。
消極的な心と積極的な心が同時に心を占めることはないので、幸福になるには
いつも積極的な心でいることが必要なのだ。


 実際にはそれがよいと分かっていても、自分の心を自分でコントロールする
ことは難しい。
 
 心は境涯によって働きかたが違うからだ。
境涯を変える事が、幸福な心になる絶対条件だ。と言う理由がここにある。
       つづく 



人間賛歌 人の生命活動 七

2006年07月26日 | 人の生命活動
 前回のあらまし

 自分の心を劇的に変えた男の話の途中て終わりました。
職業相談所のカウンセラーに、解決策か見つからねば自殺するしかないと、
男は苦しい胸のうちを打ち明けたが・・・


 男の話によると、いままでまじめに仕事をしてきたが、いつも人に騙されて、
良い結果になったことは一度もなかった。
弱り切っていたところを性懲りもなく、また騙されて、今度ばかりはもうどう
しようもない破目に陥った、と言うのだ。

 男の話を聞き終わったカウンセラーは、確かにこの男の置かれた状況は、
たいへん厳しいものであるが、もっとたいへんな状況で相談にくるものが、
いることを経験上知っていた。


 カウンセラーは男にこう言った。

 「 ooさん、  お話しはよく分かりました。
 あなたが切羽詰まった状態におられることも理解できます。
  それについて、今のあなたに一番適切なアドバイスが出来る人が
 います。
  いまその方を紹介しますが、その方はとても無口な方ですので、
 あなたからよく話しかけて、なんでも相談してください。
  その方はどんな困難にも挫けず、勇敢に立ち向かっていく人です
 から、キツト満足できる答えが得られると思います。

  相談が終わったらもう一度ここに来てください、
 私もあなたにアドバイスできることがありますから。」

カウンセラーは男を別の部屋に案内した。
その部屋は家具もなく、中央に椅子がひとつ置いてあるだけで、椅子
の向かい側の壁にカーテンが掛かっていた。

 カウンセラーは男を椅子に掛けさすと、カーテンを開いて、

 「 ご納得いくまで、いつまででも話し合ってください。」

と言って、部屋を出て行った。
男はうつむいて、暫くじっとしていたが、顔をあげて見ると一人の男
が、自分と向き合って座っていた。

 どこかで見た事がある人だな、
と思って、男は相手がなにか言ってくるのを待ったが、その人は黙った
ままだった。

 ヘンだな、と思い目をこらしてよく見ると・・・向き合って座って
いるのは、鏡に写った自分の姿であった。

 それからかなり時間がたったあと、男は部屋を出てカウンセラーの
前に立った。

 「 カウンセラーさん、私が間違っていました。
    もう一度やり直してみます。 」 

と男は言った。男はカウンセラーに礼を言い、ここえ来たときとは別人
のような、しつかりした足取りで出ていった。   つづく





人間賛歌 人の生命活動 六

2006年07月21日 | 人の生命活動
  前回に追加

釈迦は、当時インドにあった既成宗教を否定した。神や絶対者を崇め
服従するのではなく、自分の生命にある仏性を開き、運命を自分で切り
開くよう教えた。没するまで五十年間インド中を説法して回ったので、
釈迦は宗教家ではなく、教育者だと評価する学者もいる。

 日本人は無宗教で通っている、だが宗教心「自己を規制する心」を持
たない民族が、民主主義を取り入れたらどうなるか、その実験をしてい
るのだろうか、と思うぐらいヒドイことが多発している。

 人間の欲望は、自分で制御できるほど小さくなく、人間の力量は宗教
的なものを信じなければ、活用できないほど巨大なのだ。


前回、法華経にある説話を通して、境涯により人の生命活動に違いが
あることを示した。境涯の違いはどうして出来るのか、原因を追求して
いこう。



 生命は同じなのに これほど違いがあるのは
 なぜだろう
 釈迦は 生命の実体を明かす中で
 境涯によって 心の働きが異なることを
 解明した

  境涯とは 人が生命活動する上での
 立場 身分 身の上で 環境を含む
 生活状態のことだ

 先にあげた二例は 極端なようだが
 人が百人いれば 百通りの人生があり
 同じものは ひとつもない
 だが 大きく分けると 幸福であるか
 不幸であるか のどちらかだ

  同じことでも 人によって
 受け止めかたが ゼンゼン違う
 幸福な心の人は なんでも良いほうに
 受け止め 前向きに行動する
 不幸な心の人は 悪いほうに悪いほうに
 受け止め
 もうダメだ どうせ自分なんか
 何をやっても ダメなんだと
 グチと文句で 自分をごまかし
  壁を破ろうとせず 逃げてしまう


 心が劇的に変化するドラマを見てみよう。

 シカゴにある職業紹介所をひとりの男が訪ねてきた。
ヨレヨレの服を着て肩をおとし、足元はふらついて入り口の階段をのぽる
のが、やっとだった。
 男は、カウンセラーの前にきて、すすめられた椅子に腰掛けると、
弱弱しい声で言った。
 「 カウンセラーさん
 ここで何かよい解決策が見つからなければ、私はミシガン湖に
 身を投げて、決着をつけるつもりです 」

 男の青白い顔は緊張のため、ときどきけいれんを起こしている。
相当打ちのめされている様子だ。  つづく
                      

人間賛歌 人の生命活動 五

2006年07月16日 | 人の生命活動
 前回のつづき
 
 自分のことしか考えない利己主義者は、境涯の低い人で次のような
生命活動をする


 生まれるたびに 貧乏で
 親 兄弟 親族の 仲が悪く
 争いの絶えない処に 生まれ
 口の息が常に臭く 人に嫌われ

 貧相で 卑しく
 他人にこき使われ 病気がちで
  頼れる人もなく
 人に取り入ろうとしても
 人が 相手にしない

 少々の財を得ても すぐに失う
 人に背かれ 盗みにあい
 災難が いつもついて回って
 離れることがない

 常に苦悩の境涯に いるのに
 自分では それに気づかず
 地獄 餓鬼 畜生 修羅の悪道
 (苦悩する境涯)にいることが
 常であり
 自分の住む 居宅にいるようである


 以上、二つの例は法華経に出てくる説話である。
法華経ほど各国語に翻訳された経典はない、と言われるぐらい
世界中で読まれているから、みなさんも一度や二度は耳にした筈だ。

 法華経は釈迦が生涯で説いた教えの中で、最高の教えと言われ、
日本でも聖徳太子を始に、連綿とその思想は受け継がれてきた。
みなさんは忘れているが、日本に縁の深い経典なのだ。

 法華経は、妙法蓮華経のことだが、なにを説いているのか、
釈迦が悟った生命の実体を、明らかにした経典なのだ。


 生命は 始もなければ 終わりもない
 生じたり 滅したりせず 永遠にある
  これが生命の実体だ

 生命の実体が 生命活動をするとき
 「生命の働きを用(ゆう)という」
 個の姿を伴って現れ 個は
 生滅を繰り返しながら 続いていく

 古くなった道具を 新しいのに替えるように
 歳をとり 不自由になったからだは
 いつたん死んで また新たに生まれてくる
 そして前の続きを やるのだ
 これが生命活動(用、ゆう)の実態だ


 法華経に
 方便現涅槃「ほうべんげんねはん」
 而實不滅度「にじつふめつど」
  の文がある
 新しく生まれるために
 方便として 死を現すが
 實は 滅していないのだ の意味だ

 しかし人々は 生命に 
 体と用が あることを知らない
 用を生命の全てと 思い込み
 用の中断を 死と思い 恐れるのだ
 これが 人間がたどってきた
 不幸の根源であるが それに気づかない

 釈迦は 生命の実体を 仏性「釈迦の悟った永遠の生命」
 とも 妙法蓮華経ともいい
 すべての生き物に 仏性がある と教えた
  これが法華経である

 

 

人間賛歌 十四 人の生命活動

2006年07月11日 | 人の生命活動
 前回のあらまし
 
 無死無終で続く生命、その生命の境涯など、耳慣れない言葉を聞いて
戸惑った方もいるでしょう。理解し難いし、生命の話を始めて聞いて、
そんなバカな、と思っている人もいるかもしれません。
 實は私自身がそうでしたから、だが生命があることは否定できないし、
生命活動が千差万別なのも事実です。境涯の違いが生命活動の違いとな
って現れる例を、文献に基づきあげていきます。

 境涯の高い人は他人に奉仕する思想を持つが、境涯の低い人は利己主義
者が多い。境涯の高い人の例を見てみよう。


生まれるたびに 善い両親のもとで
裕福な家庭に生まれ
健康で 頭もよく 容貌に恵まれ
知恵にあふれ よい友人に囲まれ
争いごとがなく 人々から愛され
尊敬され 
 多くの人が喜んで 集まって来る

 成人して 商売をすれば
順調で 財も集まる
もし商売仇が現れ 邪魔をしても
その人のほうが 行き詰まる

 悪意を抱く人がいても
気持ちが変わり 味方になる
かりに殺意を持つ人があっても
逆に その人が災難にあい
自分は難を免れる 
不幸な事故にあっても 最小の被害ですみ
災いを転じて 福となす事ができる

 その人がいるだけで 周囲の人や
所属する団体が 好運に恵まれる

 結婚し 子を望めば
福徳才知に恵まれた 男子を産み
女子を望めば 容姿端麗で
人に愛敬される 女子を得る

 自分が思う事 なす事が自在で
喜びをもって すべてを成就させる
死しても すぐにこの世界に戻って
自己の使命を成し遂げ
 充実した人生を 全うする
このような 満足で遊楽の人生は
 尽きる事がない  つづく
 



 

人間賛歌 十三  人の生命活動

2006年07月05日 | 人の生命活動
 前回のあらまし
 今の私たちは二十数億年まえ、原始の海に誕生した微生物が進化したもの
であり、その微生物は地球外から来た公算が高い。
困難に挑戦したピカイア、辛抱強いアノマロカルス、どれひとつなくても私
たちの存在はないかも知れない。生命は時間、空間を超えた想像もできない
スケールの実在なのだ、生命が生命活動をするとき、個個の姿かたちを伴な
ってあらわれ、始まりと終わりがあるように見える、これは生命現象の起滅
で、生命自体は無始無終でつづく、
 人間は想像を超えた力を持つ生命の素晴らしさを、証明するために生ま
れたとも言えるが、実態はどうだろうか?


 生命は 生まれたとき始まり
死んで終わる
海面に浮かんだ 泡みたいなものだと
小さく考えるのは 人間が心につくった
壁みたいなものだ
人間の心は 生きるのに精一杯で
自分のことしか 考えない
ケシ粒のような 小さな心もあれば
 人類の幸せと 世界の平和を願う
大空のような 大きな心るある

 その違いは 生命の境涯の差にある
自分のことしか 考えない
低い境涯から 自分以外の他のもの
ひいては全人類の 幸せを願う
 高い境涯になることが
人間がこの世に 生まれた目的の一つだ
おおきな目的の中に 個の幸せも含むから
それがすべてだ という説もある

 境涯とは、人が生きていく上で置かれる立場、身分など環境も含めた
身の上。自己の生命に対する認識の差異など。


 境涯を高めることは 容易でない
人間は自己に執着する 傾向があるので
生命全体が自分だと 考えるのに
 抵抗を感じるからだ
故に 自分(個)が死ぬと 全てが終わりと
思ってしまう それ故
死を恐れ 忌み嫌うのだ

 だが修練を積み 心を鍛えれば
自分と生命全体との 関係がわかり
生も死も 生命本来の働きであり
恐れることも 忌むこともないことが
わかるのだ

 死は 全ての恐怖心の根源だ
死を恐れなくなると 恐怖心の壁が破れ
人間が 本来持っている脳力を
最大限 発揮できる
 人間には 無限の力があると言うが
それを発揮できないのは
恐れる心が壁になって 破れないからだ


 非暴力主義で イギリスの植民地から
祖国インドを開放した ガンジーのモットーは
 「 恐れるな 」であった。   つづく