叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

 すべて無料です、気軽に読んでください。

人間賛歌 「新・仏教教室」 八十二

2009年05月30日 | 新・仏教教室

 前回の続き *
ここで御書を拝読しましょう。

「実相というは妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経ということなり、
 ( 中略 )
仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、

万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりという事を諸法実相とは

申すなり。」   諸法実相抄  御書 1359ページ

 注釈  諸法実相
諸法とは森羅万象のことで、実相とは真実の姿のこと。森羅万象の真実
の姿を明かした文。


だれの命も唯一の生命( 妙法蓮華経=仏の命 )の現れであると観じること
には、重大な意味があります。
それは、生命には本来、自他彼此( ジタヒシ )の区別はなく、みんなが仏
の命であるということです。

自分と他人の差異にこだわる心が、人間どうしのいがみあいや、争い事
のもとになりますので、釈迦は、
差異にこだわる心を、心にとがった一本のトゲとと呼び、だれの心にもあ
るこのトゲを抜くことが仏道修行の目的であると指摘しました。

 自他彼此の差別をなくし、自他ともに幸せになるために仏の命である
仏界を現すことを教えたのです。

仏道修行をして仏界の命を現すことは容易なことではありませんが、それ
を可能にしたのが日蓮大聖人です。

日蓮大聖人は、

自身の仏界の命を図に書いて現し、これを御本尊と定められました。
日蓮大聖人の信徒はこの御本尊に向かって、南無妙法蓮華経と唱える
ことで、己心の仏界の命を現すことが可能になったのです。

釈迦の滅後、二千二百余年にこの御本尊が始めて日本国に出現された
ことは、未曾有なことであると、大聖人ご自身が述べられています。

たとえようもなく会い難い御本尊に会い、唱え難い法華経の題目を唱える
ことは、決して偶然そうなったワケではありません。深い意味があることで
すから、山本さんもここのところは心にきざんでおいてください。」

山本さん、
「先生ありがとうございます。肝に銘じて承りました。」

つづく   







 


人間賛歌 信仰に生きる 二十五

2009年05月28日 | 信仰に生きる
 希望せよ、そして待て !  *
日名子さん、
「先生は頼朝さんにずいぶん詳しいですが、お調べになったのですか。」

先生、
「ええ、書く前に出来るだけ調べますが、大筋は山岡壮八著「源 頼朝」を
参考にしました。それに私の信奉している日蓮大聖人の御書に、

 「右大将家(頼朝のこと)はずいぶん法華経に肩入れした功によって、
  日本国を領する大将とはなりぬ」

という意味の文がありますので、それを文の根拠にしました。」

日名子さん、
「ブログで一回ほどの文章に、それほどの気配りをされているのですか。
どうりで心を打つものがあると、納得できました。」

先生、
「今日はいい日ですよ、日名子さんのような美人に褒められて、
褒められたらなんでもやっちゃうのが人情ですから、なにかお聞きになり
たいことがありましたら、なんでも聞いてくださいよ。」

日名子さん、
「お言葉に甘えるようですが、
頼朝さんは流罪人として二十年間もつらい生活をしたのですね。最近は
自殺する人も多いのに、よく辛抱できたものと、感心しています。」

先生、
「それは頼朝には源氏を再興したいという、源氏の統領としての目的が
あったからではないでしょうか。
人間は、なにがなんでもやり遂げたいという目標を持つと、思いもしなか
った力を発揮するものですね。

人間ではありませんが、水中の生活から陸での生活に切り替えたイクチ
オーラは、海中に少なく、 陸地には多い酸素を、 たらふく食べたくて、
一千万年もかかって陸に上がったそうですよ。

そのあいだに陸の生活に適すように体の構造を変えたのですが・・・
これがわれわれ人間の先祖に受け継がれていくのです。

 目標を明確にして、忍耐強く、待つ、ということは魚でも人間でも大切な
ことなんですね。調子にのってついしゃべり過ぎましたが、このへんで今日
は終わりましょう。」

つづく   
 
   

人間賛歌 「新・仏教教室」 八十一

2009年05月22日 | 新・仏教教室
 生命の本質 続き *

注釈 寿量品について、

三如是の実体と、生命の働きである七如是を悟った仏の命が永遠である
ことを明かした最も大事な経典です。
仏道修行をし、他者に奉仕する菩薩道をすれば仏の境涯になり、生命が
永遠であることと、仏の生命が宇宙と一体であることを認識できると教え
ています。

ジッチャン、
「ここは非常に難しいとこですが、法華経のイチバン大事なところです。

ですから、理解を度外して仏の生命はそんなに凄いものなのか、と押さえ
ておくことがだいじですね。そうすれば法華経(御本尊)が分かってきます。

また信仰を実践して価値を生み出す源泉になりますから、なんども挑戦し
て分かるようになってもらいたいです。

一般に生命と言いますと、
大事なものであると観念的に捉えがちですが、生命は相性体の三如是の
ことと受け止めますと、実感として感じるようになります。

たとえば山本さんを例にして悪いのですが、

ここに山本さんという姿形をしたひとりの人間がいます。(如是相)
その山本さんは頭もよいし、マジメで勤勉なひとであるという性格と、山本
さんにしかない特徴をもっています。(如是性)

そして山本さんの如是相と如是性を現している如是体という生命がありま
すが、これは山本さん専用の個人の生命ではありません。

生きているもの、生きていないものを含め、
すべてのモノや現象を現しているのが生命ですが、
これは個個が、それぞれ別の生命を持っているワケではないのです。

ポログラフィで撮った写真は、一枚のネガのどこを切り取っても同じ像が
現れるといわれます。
生命も千差万別の姿形や性格をもって現れますが、これは一枚のネガか
ら無数の立体像が現れるポログラフィに似ています。

個個の違いはあるが、唯一つの生命(妙法蓮華経)が無数の現象として現
れたものであると、仏教は見抜いています。

つづく   


   

人間賛歌 「新・仏教教室」 八十

2009年05月20日 | 新・仏教教室

 生命の本質 *
ジッチャン、
「心と影の関係について話してきましたが、ここまできたら法華経が教える
生命の本質まで進まなければ、山本さんや読者に申しわけないと思いま
す。

法華経・方便品(ホウベンボン、注釈参照)で生命の本質は、

 如是相(ニョゼソウ・外に現れた姿形)
 如是性(ニョゼショウ・性質、特徴など内面)
 如是体(ニョゼタイ・生命そのもので心のこと)

の三如是であり、三如是とは、

 一 如是相、かくの如き相(姿形)と読み、目に見える形として現れたもの
         です。前回では心に対して影の関係であると述べました。

 二 如是性、かくの如き性と読み、個ごの性質、特徴などで心をとおして
         現れます。影を造り現す実体で万象は心の現れであると述
         べました。

 三 如是体、かくの如き体と読み、生命そのものです。

生命そのもの如是体は無始無終で、生まれたり死んだりせず永遠に続い
ていますが、縁にあうと如是相、如是性を伴い形として現われます。

相、性、体の三つがどれ一つ不足しても、逆にどれかが多くても、生命体
としては存在しません。この三如是を明らかに知ることを三諦(サンタイ・三
つを明らかにするの意)と呼びます。

山本さん専門的になりましたが、難しいでしょうかねぇ。」

山本さん、
「生命の三如是について初めて聞きましたので、難しいとか易しいと思う
以前の段階です。
ただ私なりに考えをまとめますと、前回学んだ心と影の関係は、生命その
ものが現したものである。ということなんでしょうか。」

 注釈
法華経は二十八品(部)で構成されていますが、その中でも特に大事なの
が方便品と寿量品(ジュリョウボン)です。
方便品は個ごの生命の現れ方について法則を示し、三如是が生命の働き
てある七如是を現すことを明らかにしています。七如是については別の機
会に詳しく説明します。

次回に続く   
 

 


人間賛歌 信仰に生きる 二十四

2009年05月18日 | 信仰に生きる
 頼朝の信仰 *

ドイツの政治家で鉄血宰相といわれたビスマルクは、
「凡人は自分の体験から学ぶが、賢人は歴史の体験に学ぶ」と言っており
ます。

伊豆の流罪人、源 頼朝の体験は惨めなものでした。
父義朝に従って初めて出陣した戦いに敗れ、源氏の本拠地である東国を
目指して逃走中に猛吹雪にあい父一行と離ればなれになりました。

やがて頼朝はただ一人平家の囚われの身となったのです。

安否を気づかい唯一の望みであった父義朝は、旧臣に裏切られ殺されて
いました。なんの目当てもなくただ打ち首になる日を待っていたのです。
 頼朝が十三、四歳頃の出来事でした。

平 清盛の義母、池の禅尼の慈悲で仏門に入ることを条件に命だけは助
かりました。以来二十年近いあいだ伊豆の山奥で不遇の日を過ごしてき
ました。

年頃になり地元の比企の娘と恋をしたこともありましたが、
平家の眼を恐れる父親に知られ、仲を引き裂かれたうえに、娘はムリヤリ
他家に嫁がされ、生まれたばかりのわが子は無残に殺されてしまいました。
頼朝は悲運を嘆き無力を悲しむかわりに、耐えることを学んでいったので
す。

頼朝は父の菩提を弔うために法華経を読むことを日課とし、法華経八万
四千字を千回読むことを決意していました。
法華経には釈迦の体験した壮大な生命の世界が説かれていました。

死者のためではなく、どんな苦境にいるものでも奮い立たさずにはおかな
い大いなる希望が説かれていたのです。 

今(結果)があるのは過去にその原因があり、
未来は今行っている行為(原因)で決まる。
すでに起こったこと(結果)ではなく、
これから起こることを決定する原因の世界のことが説かれていたのです。

原因を変えれば結果は変わる。現状が厳しく惨めであればあるほど、
頼朝の未来えの希望は大きく、いかなる困難にも耐えることができたのです。
頼朝は自分の体験ではなく歴史の体験を信じ学んでいたのでした。


 十数年かけて法華経を八百回以上読みきったころ転機がきました。
北条の娘との縁で北条一族を味方にし、平家打倒の旗揚げをしたのです。

数百にも満たない兵で、平家でなくば人にあらず、と言われた数十万の強
大な平家に戦いを挑み、やがて平家を滅ぼして鎌倉幕府を開くという、
不可能を可能とする偉業を成し遂げたのでした。

信仰には人間が持っ無限の能力を引き出す力があります。人間はそれを
理解しないので活用しようとしませんが、理解できないものを信じようとし
ないのが、人間の最大の欠点の一つだとカーネギーも指摘しています。

つづく    

人間賛歌 「新・仏教教室」 七十九

2009年05月16日 | 新・仏教教室

 万象は心の現れ *

山本さん、
「先生前の回で、すべての現象は心が造り現しているのだから、心が大切
なんだと話されましたが、正直言ってまだよく理解できていません。
ナゼ、目に見えない心が、目に見える形となって現れるのか、そのへんを
もっと詳しく教えていただけないでしょうか。」 

ジッチャン、
「世の中のすべての現象は心が造り現している。
と言っても、山本さんにかぎらずみんな理解できなくて不思議に思うでしょう。

それは目に見える現象が実体であると思い、現象と心は関係なく、別のも
のと思っているからです。
仏教では心が実体で、現象は心を写した影であると捉えるのです。

心が主で現象は心の影で従であることが分かれば、心の肝要を説いた仏
教の本質に迫っていくことが出来ます。

ビクトル・ユゴーの言葉だったと思いますが、

「内( 内面=心 )と外( 外面=形 )の区別はないのだ。内が必ず外なんだ」

というのがあります。
これなんかも心と影の関係を言い表していると思いますね。
心と形の区別はなく、心がそのまま形として現れるという意味ですから、
仏教の説と同じだと思います。」

山本さん、
「いくらか分かりかけてきましたが、仏教を実践している人はみんな、
その観点でものごとを捉えているのですか。」

ジッチャン、
「釈迦が生命の実相を悟って、最初に説いた教えが華厳経ですが、その
なかに有名な言葉があります。

「心はたくみな画家が、なんでもキャンパスに描くことが出来るように、
 心も一切の現象を造り現すことが出来る。
 この心は釈迦の心も、衆生の心も同じで本来差はないのだが、これを
 知っているのが仏で、知らないのを凡夫というのだ。」  ( 趣意 )

というのであります。

仏教を実践している人でも、よほど修行を積まないと仏の境地てものごと
を捉えることは難しいのです。しかし出来ないというのではなく、修行を積
めば必ず仏と同じ境地になれると仏教は教えています。」

つづく   

 


人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 二十九

2009年05月13日 | 幸運を呼ぶ法則

 善い行いをすれば必ず栄える 続き *

U氏は、北海道M市に住んでいる漁師である。イカ漁が専門で、イカのシ
ーズン以外はほかの漁もやるが、なんといっても収入の柱となっているの
がイカ漁だ。ところがこの年は、衆議院が解散されて、イカ漁のシーズンと
衆議院議員選挙の運動期間が重なってしまった。

他人に奉仕する生き方を心がけているU氏は、同志で衆議院に立候補し
ている仲間の支援活動をするか、イカ漁に出るか、の二者択一を迫られ
た。

せっかくの儲けのチャンスを逃すのは惜しい気もしたが、律義なU氏はイカ
漁に出るのを止めて、仲間の支援活動に没頭したのである。
その内に選挙が終わった。U氏の支援した候補者は当選したので、支援
者もおおいに喜んだが、U氏の気になっていたイカ漁は、もうシーズンが終
わりに近づいていた。

U氏の仲間やほかの漁師たちは、しこたま儲けたので、もう漁に出ようとは
しなかった。
仲間たちは、漁に出ようとするU氏を、

「いくらなんでも、もう遅すぎるよ。いまごろ海に出たってイカがいるはずな
いよ。」

と言ってからかった。U氏も仲間が言うように、ちょっと遅すぎるかな、と思
ったがとにかく船を出してみることにした。
目当ての漁場にきて、半日近く釣ってみたが一匹のイカもかからなかった。

「やっぱりダメだったか、もう止めて引きあげよう。」

U氏があきらめて帰ろうとしたときだ。急に強いあたりがあって、イカがかか
ったのである。釣り上げてみると、長年イカ漁をやっているU氏が、一度も
見たことがない大イカがあがってきたのだ。

U氏はイカの大きさに驚いて、

「おまえは、この辺りのイカの主だろう。ヌシを捕まえるのはかわいそうだか
ら、おまえを海に逃がしてやる。
そのかわりに、おまえの仲間をいっぱい連れてきてくれ。」

と大イカに言い聞かせて、海に戻してやった。

それから不思議なことが起きた。海面が盛りあがるほどのイカの大群が押
しよせてきて、船のまわりを囲んだのである。
それからは、いれぐいで、ハリをはずすのが間に合わないくらい、釣れに釣
れて、釣ったイカで船が沈みそうになるほどの大漁だった。

U氏は獲物を満載して意気揚々と港に帰った。次の日もその次の日も、U
氏が漁に出るたびに、どこからともなくイカの大群が押し寄せてきて、船の
まわりを囲んだ。こうしてU氏は、シーズンの終わりにもかかわらず、漁港
の記録を破る大漁をして、その年の漁を終えたのである。

次回に続く   


人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 二十八

2009年05月11日 | 幸運を呼ぶ法則

   九、 善い行いをすれば必ず栄える

善は必ず栄え、悪は必ず亡びる、また正義は必ず勝ち、それに反する邪
義(よこしまな考え方)が勝ったためしがない。これは人類が長い間の経験
でえた智慧である。

ところが人間は、これと反対のことをすることが多い。
なぜだろう。いろいろあろうがひとくちに言うと、目先のことしか考えないか
らである。
犬や猫が将来に備えて自己の鍛練に励む、というようなことは考えられな
い。人間だけが、目先に苦しいことがあっても、ガマンと忍耐をして、将来
に備えることができるのだ。

善い行いは、目先的にみれば自分にとって得でないように思える。ここで
善い行いというのは、自分の利益のためでなく、他のために尽くす行いの
ことをいう。
その反対に、自分の利益のためだけに行動するのが悪である。
他というのは、友人、親兄弟、社会で恵まれない人、なんらかの助けを求
めている人のことで、要するに自分以外のもののことである。

親兄弟に尽くすのは、以前は当然だという美風があったが、いまではその
当然のことが崩れているようにみえるので、他の中に加えた。

弱きを助け、強きをくじく、というのが昔あったが、いまではあまり聞かな
い。むしろ逆のケースが多いようだ。
人間の不運不幸は、しいたげられた弱いものが、さらに自分より弱いもの
をいじめるという行為で増幅される。自分の妻に暴力をふるったり、子供を
虐待する大人など、また強い国が弱い国を攻撃するのも同じことである。

その結果が不幸と悲惨の連鎖反応を起こす。
残念ながらこれは人類がいままで歩んできた道であった。人類の歴史は幸
福を求めながら不幸の連続であったと言えよう。

自分の目先の利益を捨てて、他に尽くした人の例をあげてみよう。

次回に続く   

   


人間賛歌 「新・仏教教室」 七十八

2009年05月09日 | 新・仏教教室

 心を変えれば環境が変わる *

問う。
自分の心が変われば環境が変わるのはナゼですか。

答う。
先ず心と環境の関係について話しましょう。

仏教では衆生(シュジョウ・すべての生きもののことですが、ここでは人間を
指す) と環境は別々に存在するのではなく、二つに分かれているようです
が、よく観察すると一つであるという意味で不二と捉えるのです。

これを人間と、鏡に写った人間の像の関係で説明しますと、人間と鏡に写
った像は二つのようですが、実は一つなんですね。

人間がいて、そこに鏡があれば必ず像が写ります。
鏡に写らないユーレイみたいな人間はいるはずがなく、また鏡に人の像が
あれば必ずそこに人間がいます。このような関係を仏教では不二というの
です。

不二の意味が分かりましたら、
人間 (正報といい生命活動の主体のこと) と環境 (依報といい主体を構
成するもの) が不二であるとする、依正不二の教えについて話を進めて行
きましょう。

生命活動の主体である自分が喜んでいれば、環境(依報)も自分の思いど
おりに運んで、喜んだ姿を現しますし、
自分が苦しんでいると、環境もやることなすことすべてダメで、暗い沈んだ
環境になります。

このことは、ごまかしようのない厳粛な事実で修正のしようがありません。

したがって環境を変えるには自分の心を変えるしか方法がなく、
心が変われば環境も必ず変わることを依正不二の原理と言うのです。

「鏡を見たら汚れた顔が写っていたので、鏡を拭いた。」という人はいない
でしょう。
クスクス笑っている人がいますが、そんな間違いをみんなが人生という劇
場で演じているのです。環境を変えようと必死にもがきますが、だんだん
深みにはまるだけで、いっこうに改善しません。

自分の心を変えないからです。いや、心を変えるという発想すら持ち合わ
せていない人が多いことが問題なのです。

 *
ひとこと
人間が喜べば環境も喜び、人間が悲しめば環境も悲しみます。人間と、鏡
に写った人間の像の関係と同じで、すべては心で決まるのです。

つづく   


、  


人間賛歌 信仰に生きる 二十三

2009年05月06日 | 信仰に生きる
 成功する生き方 *
ちょつと横道になりますが、成功哲学という言葉を聞かれたことがあるで
しょう。哲学と言いますと堅苦しく聞こえますが、成功する生き方とも、幸福
に生きる生き方とも言えます。

生き方によって人の幸不幸が左右されますが、生き方を決めるのはその
人の心構え、考え方であるとされています。
アメリカでは「明るい心が運を開く・光明思想運動」として定着しています。

人はみな、潜在意識に無限の能力を持っており、それをいかにして引き出
し活用していくかが主要なテーマになっています。

よく知られていることですが、

人間の脳は約百五十億個の細胞で出来ています。だが実際に人が一生
のあいだに使うのは、その内のせいぜい一割か二割ぐらいで、残りは使
われずに眠ったまま終わってしまうのです。

人間の脳以外の各機関の細胞は新陳代謝で常に入れ替わっており、
肝臓などは一ヶ月もするとまったく新しい細胞に入れ替わります。
脳細胞だけは生まれてきたままの細胞で生涯替わることはないと言われ
てきました。

最近では脳細胞も再生することが証明されるようになりました。

「人間この未知なるもの」 の著者アレクセス・カレルは、
人間について、特にその心の働きについては知られていないことの方が多
いと言っています。

医者であるカレルは、
「筋肉は鍛えれば強くなりますが、心も鍛えるにしたがって強くなり、鍛えら
れた心は年とともに強くなります。」と指摘しています。

アンドリゥ・カーネギーは、人類はまだ力不足でこの力を使うまでに至って
いないが、いずれこれを活用する時代が来るだろうと言い、人間が元々も
っている無限の力を発揮できないでいるのは、恐れる心があるからで、
すべての恐怖心の源は死えの恐怖であると結論しています。


私の経験から言えば死の問題を解決するのは宗教しかなく、特に法華経
の題目を唱えて仏界を現すのがイチバン現実的であると思います。
そして題目を唱えれば百五十億個の脳細胞がすべて活用できると、感じ
ています。

つづく