叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

 すべて無料です、気軽に読んでください。

人間賛歌 若い人の仏教教室 九十六

2008年01月30日 | 若い人の仏教教室

ケイタくん、
「ジッチャン、イクチオステラというのはエライ魚ですね。
ユゴーなんかまだいないのに、希望して待てというのを知っていたので
すから・・」

ジッチャン、
「ケイタくん、成長したね。
なかなかよいジョークを言うじゃないか・・」

ケイタくん、
「ジッチャンにいつもしごかれているから、このくらいはヘイキですよ。」

ジッチャン、
「ケイタくんにザブトン二枚あげるよ。そこなんだよ、大事な点は・・
希望する。忍耐する。変革のために能力を開発する。

イクチオステラのこのノウハウは遺伝情報でづーっと続いていくんだ。
もちろん我々にも続いているんだがね。

それからづーっと下って、といっても数百万年前のことだが、
地球に氷河期が来てね。気温が大幅に下がったんだ。
そのじぶん人類の先祖である原始人類は、狩猟と木の実をとってくらして
いたが、
獲物の動物が少なくなり、木の実もならなくなったのだ。

飢餓に直面した彼らは「どうしょう」と考えた結果、土地を耕し、野生のムギ
のタネを植えたんだ。

やがて収穫の時がきて彼らは驚喜したんだ。
収穫したムギは、野生のムギとは似ても似つかぬ大きな粒で、軟らかく
甘みがあっておいしかったのだ。
彼らが天の恵みに感謝し、幸運を祝ったことは言うまでももないがね。


東洋の格言に、

「民衆が切実に願うことは、天.必ずこれを与う。」

というのがあるんだ。天これを与う、のではなく必ず与う。という点に注目
したいね。
「なんとかして生きたい」という彼らの願望に天( 宇宙の心 )が応えた結果
だと思うよ。
それから彼らは獲物を追って移動する生活を止め、定住して農業をする
ようになるんだ。いよいよ文明の始まりだね。」

続く

注釈. 天( 宇宙の心 )

脳科学の権威、T大学のM教授は、説明することは出来ないが、
宇宙を支配している偉大なあるもの( グレートサムシング )が存在し、それ
なしでは我々の存在もあり得ない。と言い、

アインシュタイン博士は、私は一神教でいう神というものは信じないが、
宇宙を運行している精神的実在については信じる。
そのことを思うたびに、畏敬の念で頭が下がる思いがすると述べている。

仏教ではこれを、九界( 生死 )を超えた仏界の生命といい、信じないだろ
うが実在すると教えている。

 




 


人間賛歌 人間は何者だ、どこから来たのか 六

2008年01月28日 | 人間は何者だ、どこから来たのか

 ご参考、

暗いニュースばかりで希望を持ちにくい時代ですが、だからこそ希望を
見出そうと「若い人の仏教教室」では、希望について話し合っています。
よろしかったらお寄りください。
尚、私の好きなサムエルソンの詩「青春」を載せますので、声を出して
読んでみてください。


青春とは人生のある時期をいうのではなく 心の様相をいうのだ。

すぐれた創造力 燃ゆる情熱

キョウダ(臆病)をしりぞける勇猛心

安易をふり捨てる冒険心 こういう様相を青春というのだ。

年を重ねただけで人は老いない

理想を失う時にはじめて老いがくる。

イギリスの詩人、サムエルソンの詩・「青春」より


 本文

依正不二 (エショウフニ)

仏教では生命活動の主体である人間を 正報といい
正報が活動する環境を 依報という

依報 正報ともに妙経を宣ぶ と経典にあるが
生命活動は環境なしではなりたたない

そして正報が仏界であれば 環境も仏界を現し
全宇宙の働きが 正報を守り活動を支える作用をする

正報が地獄界の境涯であれば 環境も地獄界の姿を現し
何をやっても旨くいかず 苦悩する地獄の姿を現すのだ

正報と依報は二にして二ならず 切っても切れない
不二の関係(体と影の関係)だからだ。

環境を変えたければ 自分が変わればよいのだ。
環境と自分は不二だから 自分が変われば環境は変わる

これは仏教では自明の理なのだ。

続く

 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 九十五

2008年01月26日 | 若い人の仏教教室

ジツチャン、
「大事な話の途中たが、最近世界同時株安やネジレ国会で政治不安
のところえ、

有名な政治家が「やはり地球は助かりますまい」などと発言したことが、
大新聞の一面で報道された。
いことばかりあげたが、どうも日本人は希望をなくしているように思う
のだ。

そこで今回は特別に、希望をテーマに話したいと思うが、田中さん、
どうです。」

田中さん、
「先生、ゼヒお願いします。
地球温暖化の問題や、民族間の紛争、テロ行為の続発など、人類が
破滅してしまうような報道が、毎日とびかっていると、つい悲観的になっ
てしまいます。
希望について話していただくのに、丁度よい時だと思いますが。」

ジッチャン、
「私の師匠はね、「希望とは生命の別名である。」と常々言っているんだ。

希望がないということは、生きているのではなく、死んでいるようなもんだ
と言えるね。
まあ、呼吸をし、ものを喰ったりしているから動いてはいるが、
心は死んでいると言ってもいいだろう。

とくに自殺率が世界一で、アメリカの倍もあるそうだから、希望をなくして
いる人が多いと思うね。」


人間賛歌の第一章、生命から読んだ方は覚えていると思うが・・
今から何億年か前、海の中の生存競争が激しくなって( 当時陸地には
動物はいなかった )、河に逃れてきたいきものがいたね。

イクチオステ
ラという魚の仲間なんだが、
だが、河の水はサンソが少なくてね。イクチオステラは陸に上がって、
サンソをたっぷり吸いたいという希望を持つようになるんだ。
それには先ず体の構造を変えて、陸で生きられるようにしなければなら
ないが、

二千万年近い年月をかけてイクチオステラは体を改革し、陸にあがったん
だよ。
これが後の爬虫類や、哺乳類の先祖になるんだがね。」

田中さん、
「へぇ、二千万年もかかったのですか、たいへんですね。」

ジッチャン、
「もつと長いという説もあるが、その間希望を持ち続け、ジット我慢の子で
いたワケだよ。  ビクトル・ユゴーの有名な言葉に、
 「希望せよ、しこうして待て。」
というのがあるが、その通りだったんだね。」

つづく

 

 

 


 


人間賛歌 若い人の仏教教室 九十四

2008年01月23日 | 若い人の仏教教室

 前回からの続き、

ところが国家神道に真っ向から反対した人がいるんだ。

「これは国をあげてのホウ法行為( 法華経の正義に背くこと )であり、
国が亡びるのは明らかだ。」

と叫んで神札を受け取るのを拒否したんだよ。

田中さん、
「先生、戦時中の軍部に刃向かうなんて、日本人にも勇気のある人が
いたんですね。どなたですかその人は・・」

ジッチャン、
「牧口常三郎というお方でね、
小学校校長などを勤めた教育家ですが、創価教育学体系という本を
書いたのです。

本の趣旨は、教育の目的は子供が幸せに生きる方法を教えることに
ある。というもので、
天皇の赤子( 大事な子供のこと )として、国家に忠誠心を持つ子弟に
育てるのが、学校教育の目的であるという当時の政府の方針と大きく
離れていたんだよ。」

田中さん、
「国は黙って放っておかないでしょう。」

ジッチャン、
「そう、治安維持法違反と、天皇に不敬をしたという不敬罪で逮捕し、
刑務所に入れたんだよ。

牧口常三郎は七十歳を越えた老齢でありながら、
検事の取調べに対し堂々と反論し、逆に国家の間違いを指摘したと
取調べ記録に残っているそうだ。」

田中さん、
「へぇ、凄い人ですね。それでどうなったのて゜すか。」

ジッチャン、
「高齢でもあり冷房も暖房もない刑務所の独房で亡くなったのです。
病気になり、病院のある刑務所に移る直前のことだったそうだ。

昭和十九年の秋のことだったがね。
そのとき一緒に刑務所に入っていた戸田城聖というお方が、終戦で
釈放され、空襲で焼け野が原になった東京にひとり出てこられたのだ。

このお方も牧口先生の弟子で日蓮大聖人の仏法を信仰していたの
だよ。」

注、
牧口常三郎は創価教育学会(後に創価学会と改称)の初代会長で、
戸田城聖は同二代会長である。

つづく

 

 

 


人間賛歌 人間は何者だ、どこから来たのか 五

2008年01月21日 | 人間は何者だ、どこから来たのか

 前回の続き、

利他に喜びを感じる境涯とは 自分のことに汲々としていた
生命が大変革するのだ
この状態を絶対に幸福な境涯という

なぜなら もう不幸を感じることはないからだ。

人間はこの境涯になるために 悩み多いこの世に生まれ
種々の苦難にあい 自己を磨き鍛えて
究極の境涯である 仏界に至るのだ

これが人間の運命であり 冥加( 身に過ぎた幸せ )なのだ。


仏界以下の九界については 前に述べたので
多くは言わないが 因果が同時なのは仏界と同じだ

因と果はセットになっていて 別々に切り離せない
地獄界の因であれば 苦悩する心(果)が同時であり
ガキ界の因であれば 貪欲な心(果)がセットされ

畜生界の因であれば 目先のことに汲々する
愚かな心(果)がセットされる

どれも満足する生命活動は望めないのだ。

生命の境涯を変えることが 最重要だと前に述べたが
再々、確認をしておきたい
尚、仏界の境涯について 誉め讃えたが
自分と余りにもかけ離れていて ピンと来ない人に

「あなたが一番あこがれてなりたい人 それが誰であれ
その人より幸せになれることは 絶対間違いない」
と断言できる。
天地神明に誓って言えるので 信じてもらいたい

仏界の力を信じずに 使えるワケがないことは当然だからだ
と申しあげたい。

つづく

注、仏界とは生命のことであり、希望のことであり、
  不滅のことなのだ。これを賛嘆したのが法華経だ。





 

 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 九十三

2008年01月19日 | 若い人の仏教教室
田中さん、
「先生、ケネディ元大統領は、尊敬する日本人として日蓮大聖人と
上杉鷹山をあげていると聞きましたが、
宗教家の日蓮大聖人と山形藩主の上杉鷹山では、立場が違うように思い
ますが、

ケネディ元大統領は二人のどんな点を尊敬されたのでしょうか。」

ジッチャン、
「さすが田中さん、よい質問ですね。

日蓮大聖人は鎌倉幕府の権力者に、国主になるものは民を親のように思
い、尊敬し大事にしなさいと勧告しているのだ。

また上杉鷹山は、領民あっての領主であり、領主のために領民がいるので
はないと考え、領民を親のように大事にしたんだ。
どちらも民が主で、王とか国の指導者は民を幸せにするために、手足となっ
て働かねばならないという、民主主義の原点に立っていたのだね。

アメリカは民主主義発祥の国で、特にケネディ元大統領はこれを重んじて
いたからね。
田中さん、答えはこれでよろしいでしょうか。」


田中さん、
「先生、よく分かりました。日蓮大聖人も上杉鷹山も、ケネディ大統領も、
偉い人だったのですね。改めて尊敬しました。」

ジッチャン、
「さて、前回、日本人は長いものには巻かれろ、
お上の言うとおりにしておれば間違いないという、お上信仰とでもいう
宗教を持っていたと話したね。

これの究極が、軍国主義者がデッチあげた国家神道だったと思うよ。

日本は神の国で、天皇を神とあがめ、天皇の治める国を守る天照大神を
国民のすべてが崇拝しなければならないという宗教で、違反するものは
法律で罰せられたのだ。

あなたがたは知らないだろうが、私の子供時代はそれがあたりまえで、
各家庭には天照大神の神札がまつってあり、
年に何回かは国の武運長久と戦勝祈願のために、学校全体で神社に
参拝していたものだよ。

私たちは疑ってはいなかったがねぇ。
余談だが、戦争で日本軍が占領したところはみな神社を建て、住民を
強制的に参拝させていたそうだがね。

つづく



人間賛歌 若い人の仏教教室 九十二

2008年01月16日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「それは想像を絶する大反対が起きてね。
幕府権力による反対.それには伊豆、佐渡えの島流しや、辰ノ口刑場での
斬首の企てなどあり、

念仏信徒は徒党を組んで松葉ケ谷の草庵を襲ったし、
故郷の安房では、地頭による小松原の襲撃事件などなど・・・

数え切れないほどの大難を受けたんですよ。
これは自分たちの存立が危うくなった他宗門の僧らが、幕府の権力者に
取り入り、結託して仕組んだ迫害だったのですね。

釈迦の滅後、やはり法華経の正義を広めた中国の天台大師は、
名君主と呼ばれた隋の文帝が師と仰ぎ、最高に尊敬したし、

日本で法華経の正義を広めた伝教大師は、嵯峨天皇の手厚い保護を受け
て、比叡山に法華経の根本道場.延暦寺を建てたがそれとは大きな違いだねえ。


もつとも鎌倉幕府は佐渡流罪を赦免したとき、
寺院を建てて寄進すると日蓮大聖人に申し入れたが、大聖人はこれを断っ
ているね。
それで身延山に隠居され、後世に法華経が広宣流布( 法華経の教えが広ま
ること )する礎をつくられたのだ。

後のことだが、日蓮大聖人の正義は外国でも認められ、
有名な故ジョン.エフ.ケネディ大統領は、尊敬する日本人として、日蓮大聖人と
上杉ようざんをあげているんだ。
日本人でも明治の代表的な思想家で、熱烈なキリスト教徒だった内村鑑三
は、日本人の誇りとして日蓮大聖人を尊敬しているんだね。


日蓮大聖人が、鎌倉幕府の優遇策を断って身延山に隠居されるとき、
幕府に出した有名な御文があるんだ。それは、

「王地に生まれたれば、身をば随えられたてまつるようなりとも、
 心をば随えられたてまつるべからず」   撰時抄

注釈、王の支配する国に生まれたからには身は随っているようでも、
    心は随えられない。という意味である。

これは有名な文で、ユネスコの人権宣言の参考文献にされているほどだ。

世界の人たちは尊敬しても、日本人は案外冷淡なんだね。これも
島国根性のせいかも知れないがね。

つづく

 

 

 


人間賛歌 人間は何者だ、どこから来たのか 四

2008年01月14日 | 人間は何者だ、どこから来たのか

 ご参考、

無限の力を持ち、永遠に続く生命を悟った釈迦の言葉をいくら書いても、
完全に理解してもらうのは難しいと思います。

なぜなら生死の枠の中( 九界の境界 )の中にいる私たちは、
生死を超えた仏界の境界を想像することができないからです。よほど特別
な能力を持った人でないと、頭では分からないと思います。


それでは特別な能力を持たない一般人である私たちには、釈迦の悟った
境界になれないのか、というとそうではありません。
日蓮仏法では、南無妙法蓮華経と唱えるだけで、己心の仏界を現すこと
が出来ると教えています。

題目を唱える勇気さえあれば、だれでも出来る実践法です。


 本文

普通の人間に 最高の仏( 真理を悟った人 )の境界が
具わっている と言ってもなかなか信じられないのが常だ

だが仏界を現した 先哲の教えを信じ
教え通りに実践すれば ( 南無妙法蓮華経と唱えること )
必ず仏界の境界が得られるのだ

仏因と仏果が同時だから やればだれでも
すぐに確証が得られる
もともと仏の境界が 人間の本性だから
利己的な小我の自分を超え 我即宇宙の大境涯となり

なにも恐れない 大安心で
自分も他人も共に喜ぶ 大歓喜の境涯になれるのだ

もともとそうなるように 設計されているのが人間なのだ

「他のいきものを 幸せにするために進化したいきものが人間だ」

これが最新の脳科学者の見解だ。

続く

 

 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 九十一

2008年01月11日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「島国の特徴は動物だけでなく人間にも影響を与えてね。
外敵に襲われる心配がないから、強力なリーダーは必要でなく、傑出した
人物が現れると、みんなで足を引っぱり引き摺り下ろそうとするのだ。

その結果民族を引っ張っていくような大指導者が出にくくなるんだね。

長い間の鎖国と、今まで述べた事情が重なって、
日本人は、長いものには巻かれ、お上の言う通りにすれば間違いない。と
いうお上信仰とでもいう精神風土が出来たんだ。

もちろん例外はあるがね。

ケイタくんは前に話した日蓮大聖人のことはおぼえているかねぇ。」

ケイタくん、
「日蓮大聖人のことは覚えていますよ。
たしか鎌倉時代に出た偉いお坊さんのことでしょう。」

ジッチャン、
「そうだよ、十三世紀の初め安房の国(今の千葉県)小湊で誕生されたんだ。
十二歳のとき仏門に入られ仏道修行をするが、
仏教は、
「人々が平和で幸せにくらせる教え」を説いているのに、現実は不幸なこと
ばかりが多く、そのうえ釈迦一人から始まった仏教が十宗派にも分かれて
互いに悪口し、争っていたのが当時の仏教界の姿だつたんだ。

仏教とは名ばかりで、人々を救う事を忘れ、自分たちの勢力拡大ばかり
考えるようになっていたんだ。


これでは何も知らない民衆がますます不幸になると考えた日蓮大聖人は、
「仏教は釈迦の時代に還れ。」と叫ばれ、
釈迦の真意である法華経を広めるために生涯をかけられたのだ。

法華経以外の経は、法華経に導くための方便の教えで、
真実の教えである法華経を説いたあとは、方便の教えは捨て、法華経の
教えだけを用いなければならない。
と声を大にして叫んだものだから、鎌倉中が大騒動になるんだよ。」

田中さん、
「先生、日蓮さんが法華経以外の経は捨ててしまえ。
と声を大に叫んだら、法華経以外のほかの宗の人たちは怒ったでしょう。」

つづく


 


人間賛歌 人間は何者だ、どこから来たのか 三

2008年01月08日 | 人間は何者だ、どこから来たのか

 解説

前回は、私たちの体は宇宙を縮めた存在で、天地と一体なのだ。
と経典の文を紹介しましたが、これは簡単には理解できないと思います。
生命の真実を悟った釈迦仏の言葉ですから、私たちは信じるか、信じない
かのどちらかです。
今回も、無限の力を持ち永遠に続く生命を悟った仏の言葉の続きを書いて
いきます。


 本文

この金剛不壊の身を 生滅無常の身と思うのが
迷いの境涯(
自分の生命のことを明らかに知らない無明のこと)である
というのだ

凡人が思いもしない 尊極の仏界のいのちが
だれのいのちにも具わる これが因になり
仏界の心という 果となるのだ

因が先にあって 果が後に現れるのではない
因と果は同時に現れるのだ これを因果具時という
因果具時・不思議な一法(言葉で説明することも、
心で想像することも出来ない生命の法則)を

妙法蓮華経と名付けたのだ 名付けたひとは
この不思議な法を悟った人で その聖人のいのちを
「南無妙法蓮華経」と 申しあげるのだ

植物の蓮華は 花(因)と実(果)が同時に現れる
通常 植物は花が先で 実が後になるか
実が先で 花が後になるのが普通だ

蓮華草は 花と実が同時なので
仏界の因と 仏界の果が同時にある不思議な法を
蓮華にたとえたのだ

だれのいのちにも 仏因.仏果を具えているが
縁がなければ 実際に現すことはできない
蓮華草も雨や 太陽の光の縁にふれねば
タネが発芽し成長し 果実を実らすことはできない
これと同じだ

仏因仏果を現すには 仏果を体得した師に縁し
教えを乞わねばならない 仏因.仏果を具足していても
正しい師に会うことが難しいのだ

諺に聖人は千年に一度世に現れる とあるほどだ

続く