叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 「新・仏教教室」 九十六

2009年08月31日 | 新・仏教教室

 仏国土( ブツコクド ) *

 質問します。
仏国土というのはどんなところですか。

 答えます。
仏国土というのは法華経(御本尊)が広まって築かれる楽土のことです。
仏の住む国・寂光土ともいいますが、金剛不壊(コンゴウフエ)・ダイヤモンド
のように固くて、壊れることの無い幸福境涯である仏界を現した人や、それ
に縁する人が住む国土環境のことです。

九界の別にあるのではなく仏は九界の衆生と共に住み、全ての人に仏界
があることを教え、それを開かせようと導きます。

その意味で仏教では、
この世界を、仏と九界の衆生が共に住む同居土という場合もあります。

苦しみが充満する環境の地獄界も、
楽しみ、喜びに満ちた環境の極楽も、自分の心が現したものです。

故に、心が変われば地獄が一転して極楽になったり、逆に極楽がたちまち
地獄界に変わる場合もあります。
これに対して仏国土は常住不滅で、いつもあって変わることがない永遠の
楽土であることが特徴です。

 楽土では円満具足といって全てが備わっていますので、必要なものは必
要なとき手に入り欠乏することがありません。

「そんな旨いはなしがあるわけがない、ウソだろう」と思う人もいるでしょう。

でもこれはウソではありません。これが真実ですが、人々は真実を知らな
いので、信用しないのです。

 太陽が厚い雲に覆われていますと、太陽の光は見えませんが、雲がなく
なると光が燦燦と輝き万物をうるおします。
これと同じで各人の生命に具わっている仏界 (胸中の太陽といえます)  も、
真実に暗い無明 (生命の真実をしらないこと) の雲に覆われているので、
自分で気づくことも、現すことも出来ないでいるのです。

 質問します。
仏界を現すにはどうすればよいのですか。

 答えます。
日蓮大聖人が書き顕された仏界の命である御本尊を信じて、「南無妙法蓮
華経」と唱えれば、己身の仏界が現れます。
ナゼ現れるかと言いますと、元々自分の命に具わっているからです。無い
ものはいくら題目を唱えて呼んでも現れません。

 さらに詳しく知りたい方は管理人にお問い合わせください。

 注 楽土
貧、争、病の苦から開放され、平和でみんなが喜んで暮らせる国土のこと。
御本尊をたもった者が人間革命して、自分のいる所を仏国土に変え、それ
を広げていくことです。

つづく   


  


人間賛歌 「新・仏教教室」 九十五

2009年08月28日 | 新・仏教教室
 この世は苦か、楽か、 *

 質問します。

寿量品の中に「憂怖諸苦悩・如是悉充満」 (この世は苦であるの意) と、
「宝樹多華果・衆生所遊楽」 (この世は楽であるの意)  の文があります。
相反して矛盾しているように思いますが、なぜでしょうか。」

 答えます。

憂怖諸苦悩・如是悉充満(ウフショクノウ・ニョゼシッジュウマン)というのは、
もろもろの不安や怖れが充満していて苦しむという意味で、現実のこの世
は苦しみが絶えない世界であることを表わしています。

次に、
宝樹多華果・衆生所遊楽(ホウジュタケカ・シュジョウショユウラク)
というのは、人間の役にたつ植物がいっぱいあって果実が実り、食物が
豊富で人々が心穏やかに、楽しんで暮らすところである。という意味です。

 同じ世界なのに矛盾しているのはナゼでしょう。

 仏教では住む人の心によって環境が異なると教えています。
人の心が、貪欲、怒り、愚かの三毒強情であれば、災害や戦争、疫病など
が起きて、人々が苦しむ悪環境になると指摘しています。

反対に人々の心が穏やかで、他者を思いやるやさしさがあれば、みんな
が喜んで暮らせます。
天候も穏やかで、食料も豊富にとれ、住む人が満足して踊ったり、音楽を
楽しみながら遊楽する環境になります。

 前に依正不二のところで、環境と人間は体と影のように切っても切れな
い関係であると言いました。
人間の境涯が地獄界、餓鬼界、畜生界などの低い境涯であれば、環境も
それに応じた悪環境になり、

逆に人間の境涯が人界、天界、声門縁覚界であれば環境もそれに相応
した豊かで喜びに満ちた国土(住環境)になります。

経典の文は矛盾しているようですが、住む人の心によって決まりますの
で、心が大事になります。環境を変えようと思えば心を変える必要がある
のです。

つづく   

 

人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 三十四

2009年08月26日 | 幸運を呼ぶ法則

  十一、人間は幸運の固まりである 一

 地球の環境がいま問題になっている。地球によく似た金星と地球を比べ
てみよう。金星は地球と太陽の内側の軌道を、二二五日かけて太陽を一
周している。太陽から受ける熱と光は、地球の約二倍で、表面温度は℃四
七○度に達する。地球の表面温度が平均℃十三度であるから、金星は生
きもののいない灼熱地獄であることが想像できる。

 地球が生物の存在できる、今の大気になるのに三十五億年かかったと
いわれる。大気中の酸素が今の比から、数ポイント上がると火災が起きて
も火が消えにくくなり、数ポイント下がると、呼吸困難で鳥も空を飛べなくな
るという。

ちなみに昭和二十年八月六日の朝、広島に投下された原子爆弾は、表面
温度℃三千度、内部温度は℃百万度といわれる。(注、鉄をつくる溶鉱炉
の中の温度が千数百度である)
爆心地点で直接熱線に当たった人は、瞬間に蒸発してあとかたも残さずに
死んだ。遠く離れたところにいた人でも、熱線に当たった人は、皮膚が焼け
落ちる大火傷を負い、水を求めながら亡くなった。

 このとき広島では、爆発のショックで秒速数百メートルに達する爆風が起
きている。最大風速五十メートルの大型台風が来るといって大騒ぎする
が、原子爆弾に比べればものの数ではない。爆風で割れたガラスの破片
が鋭利な凶器となって、多くの人たちがガラスの破片に突き刺され針ネズ
ミになって亡くなった。

地球から一億五千万キロ離れたところで核爆発を繰り返している太陽は、
内部温度℃数百万度、表面は℃六千度といわれる。
どんな理由があったにせよ、人間が太陽と同じものをつくり、それを生きて
いる無抵抗の人たちの頭上に投下させた事実を忘れてはならない。大自
然の掟に背き、人類の生存を否定する行為であるからだ。

 太陽は二億年の周期で銀河系の一端を廻っているが、地球上でこのよう
なことが行われたことは、かってなかったに違いない。

次回に続く        

 あとがき

人間に生まれること、生命の全貌を明かした法華経に出会うこと、
その会い難い法華経を信じることが、どれほど幸運で凄いことか、これから
分かってくると思います。

   


   


人間賛歌 信仰に生きる 三十三

2009年08月24日 | 信仰に生きる

 信仰生活とは *

日名子さん、
「へえー、先生は禅もなさっていたのですか。見直しましたわ。」

ジッチャン、
「見直されるほどのものではありませんが、とにかく座禅をしていると、無心
になるどころか、借金のことばかり頭に浮かんで、居ても立ってもいられなく
なるのです。

そのせすか、相当重い不眠症にかかりましてね。
これについては前に言いましたが、法華経の信仰をするようになって、この
悩みはなくなりました。」

日名子さん、
「先生にお聞きしたいのですが、信仰をするとは生活面とか何かで、
変わることがあるのですか。
仏教は戒律が厳しくてとても難しいと聞いたことがありますが。」

ジッチャン、
「日名子さん、信仰したからといって朝晩の勤行(ゴンギョウ)する事を除い
て、特別に変わったことはありません。
勤行というのは、法華経方便品(ホケキョウホウベンボン)と、如来寿量品
(ニョライジュリョウボン)の経を読んで題目を唱えることです。

戒などはありませんが、日蓮大聖人の教えを書いた御書の勉強会と、
同信の仲間が集まって語り合う座談会というのが月に一回あります。これ
には参加するよう奨められます。もちろん強制ではありませんが。」

日名子さん、
「お経を読むといいますと、お坊さんが読んでいるようなことをやるので
すか。」

ジツチャン、
「お坊さんが読むのは法華経ではありません。
法華経は一番挌の高い経なので、お布施を特別にはずんで頼まないと
読んでくれません。宗派によって違いはありますが・・

 私たちが朝晩読んでいるのは、法華経の中でも一番大事な方便品の
一分と、如来寿量品の一分を声を出して読みます。全文を読むと時間が
かかりますので肝心のとこだけ読むのです。

 経を読んだあと南無妙法蓮華経と唱えますが、これは何べん唱えると
いう定めはありません。
自分の好きなだけ十分でも三十分でも、自分の都合で唱えればよいので
す。子供さんでもやっていますから難しいことではありませんよ。」

 注
方便品 釈迦と同じ仏の命が全ての人に具わっていることを教えている。
壽量品 仏の命が生滅を超えて永遠であり、福徳が無量であることを教え
ている。

つづく   


   


人間賛歌 乱世に勝つ生命観を持とう 六

2009年08月20日 | 乱世に勝つ生命観を持とう

 魂の再生 *

 宗教を持たないものは 魂がないのと同じだ、
  と言った賢者(ガンジー)がいる。
 偉大なものを信じ 近づこうと精進するから
  人間は偉大になれる。
 
 力のないハエでも 駿馬につかまれば千里を走り
 自力では高く伸びれない蔦でも
  松の木にからめば 空高く伸びることができる。
 と聖訓(意訳)にもある。

 宗教を持つのは 人間だけだ、動物には宗教心がない。
 倫理とか 道徳とか 人の道とか、 言葉はいろいろあるが、
 宗教的信念に基づく、 自制心がなければ、
  本物の力とはなり得ない。

 ところでY新聞の調査によると、
 宗教は必要ないと答えた人の割合が、

  日本    七十パーセント
  イギリス  三十パーセント
  アメリカ  十パーセント  

 で、日本が断トツ、 トップであった。

 どの宗教も 命の大切さを説いている。
 そして命の永遠性を求めることでも 共通している
 日本が自殺大国であるのも
 わずかの金欲しさに ヘイキで人を殺すのも
 たくさん人を殺せば 死刑になれる
  と無表情で言う犯人を見て 驚くのも

 宗教を持たない国だから しようがないのだろうか。

 青少年に宗教心が芽生えるよう、
 義務教育で宗教の基礎知識を 教える必要があると思う。
 信仰を持つか どの宗教を持つかは
 子供たちが大きくなって 自分で決めれば良い事だ。
  宗教を持たないことも含めて、

 おとなが出来ることは これ以上魂のない人間の仲間を
 祖国に増やさないことだ、 と私は思う。

 つづく      

 


人間賛歌 所感 二

2009年08月17日 | 所感
 世界株高 * この記事は後日消します。

 世界中で株が上がっている。
最悪期は脱したというものの、雇用不安や失業者増など景気の先行きは
不透明だ。
ナゼ株が高いのだろうか、とだれもが不思議に思うだろう。前にも紹介した
著名な投資家テンプルトンはこう言っている。

悲観の中で生まれた上げ相場は、懐疑の中で育つ。
景気の実態は良くないのに、ナゼ株高なのかという懐疑の中で上げ相場
は育つというのである。

 株が育つとは、子供の成長を例にとっても、
カゼをひいて熱をだしたり、思わぬケガをしたりで、心配事が尽きないが、
時がたってみると立派に成長していた。という意味にもとれる。途中の上げ
下げはあっても今相場は懐疑の中で育っているのだ。

 やがて次の段階に進むだろうと私は思っている。
次の段階というのは「楽観の中で成長する」というのがテンプルトンの見方
だ。私もそう思うがこれは私見で参考意見として読んでもらいたい。
 決めるのは読者自身の判断であるからだ。  


 だれでもよかった *

 無差別殺人や、わずかな金を奪うために人を殺す事件が後をたたない。
とくに無差別殺人の「だれでもよかった、たくさん殺せば死刑になると思っ
てやった。」という犯人の言葉を聞いて慄然とするのは私だけではあるま
い。

この若者たちが育った家庭や社会に、人の命を大事にする宗教的雰囲気
がもしあったら、彼らはこんな無益なことはしなかったと思う。

信じる信じないは別として、日曜日には教会に行き神に祈りを奉げるとか、
仏教徒であれば、宇宙の全財宝をもっても人の命に替えられない。
と説いた釈迦の教えにふれる環境にいたら、こんなすさんだ心にはならな
かっただろう。

 小学校で宗教の基礎を教える必要かあると思うが、みなさんのご意見は
どうだろうか。

  



  

人間賛歌 「新・仏教教室」 九十四

2009年08月14日 | 新・仏教教室

 核兵器は悪魔の兵器 *
山本さん、
「先生そうしますと、天候も人間の境涯によって変わると言われるのです
か、人間の生き方が大事になるワケですねえ。」

ジッチャン、
「そうです。いま世界中の災害多発を見ていると、地球上で人々が喜んで、
安穏に暮らしているところなどないような感じがします。これを直すには人
間の生き方を変える必要があるのです。

創価学会が進めている人間革命運動がそれで、
時代の先端であり、世界の識者はみんな注目し賛同しています。ところが
同胞の日本人があまり関心を持たないのが残念です。

 人類の境涯を高めることが、環境を快適にすることになるのですが、
これがなかなか理解しにくいのですね。
ところで山本さん、今日は八月六日ですがなんの日かご存知でしょうね。」

山本さん、
「知っていますとも、今日は原爆記念日で広島に原子爆弾が投下された
日です。六十四年になりましたね。」 

ジッチャン、
「そうですね、私はこの日を迎えるたびに思うのですが、それは戸田先生
の原水爆禁止宣言です。

「核兵器を使用するものは悪魔の手先であるから、死刑にすべきである」

 人命を第一とする仏教者で死刑に賛成でなかった戸田先生の叫びが、
創価学会の平和運動の原点になっています。

原子爆弾は生きものの環境を一瞬に破壊し、皆殺しにする兵器です。
悪魔の仕業だとしか言いようがありません。国際刑事法で、核兵器を使用
した者は死刑にする刑罰が法制化される時がくるかもしれません。

 話は変わりますが、
私は戦後間もなく広島の原爆ドームを訪ねました。
展示されているたくさんの資料で原爆の恐ろしさは身にしみましたが、
一番印象に残っているのが「人間の影」でした。

爆心地近くにある銀行の大理石の壁に人間の影が写っているのです。
爆発の瞬間そこにいた人が、光の直射を浴びて一瞬のうちに蒸発しました。
どこのだれか、跡形も残さず消えたのですが影だけ残ったのです。
それを見たとき、ゾッとすると同時に激しい憤りを感じました。もし私がそ
の時そこにいたらと思うと、原子爆弾を落とした者を許せない気がしたの
です。以来私の反核思想の原点になりました。

つづく   

 

 


人間賛歌 「新・仏教教室」 九十三

2009年08月11日 | 新・仏教教室

 人間と環境は一体 ?
山本さん、
「先生、このあいだNHKの特別番組「いま日本の空で何が起きているのか」
が報道されました。
私もほとんど毎日のニュースで強風、竜巻、豪雨の映像を見て、地球温暖
化のせいなのかと脅威を感じます。

 最近の気象は凶暴になった。と言う気象学者もいます。
これについて仏教ではどういう見方をするのか、先生にお伺いしたいのです。」

ジッチャン、
「山本さん、仏教の大事な考え方の一つに依正不二(エショウフニ)という思
想があります。

依正不二の依(報)は環境のことで、
正(報)は生命活動の主体である生き物、この場合は人間のことであります。
報はむくいのことで、自分の行為の結果が集積して受けるむくいで、環境
も人間とともに同じ報いを受けるとされています。

これを互具互融といい、報いが互いに具わって、分離独立せず、相互に
融通しているので依正は二っのようだけれども、実は一つであることを
依正不二というのです。

 注 互具互融(ゴグ゜ゴユウ)
互いに具わっていて影響すること、正報が地獄であれば依報も地獄であ
るという意味。

 御書にはこう書いてあります。

「それ十方は依報なり、衆生は正報なり、たとえば依報は影のごとし、
 正報は体のごとし。
 身なくば影なし、正報なくば依報なし、また正報をば依報をもってこ
 れをつくる。」   瑞相御書 1140ページ

要点だけを言いますと、人間がいなければ環境もなく、また環境が人間を
つくるのである。という意味になります。
たとえば火星のような生きもののいない星は、平均気温がマイナス四十三
度、サンソはほとんどなく、二酸化炭素が九十五パーセントですから、これ
は生きものの住む環境とは言えませんね。

 前置が長くなりましたが聖典では、
正報である人間の不満や怒りが激しくなると、戦乱や紛争が起き、我欲や
貪欲が過ぎると、暴風、暴雨などの災害が襲い、
正しい思想がすたれ、不正義がはびこると、大地震、大疫病などの天災が
起きて、人類が存亡の危機に立たされる。と書いてあります。

 反対に、人の心が穏やかで喜びに満ちていると、
気候も温暖で自然災害も起きず、人々が安心して暮らせる世の中になる、
とも書いてあります。

次回に続く    

 


人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 三十三

2009年08月08日 | 幸運を呼ぶ法則

 幸運を呼ぶ条件 三 *

 以上の五つが人間らしく生きるための基本である。よく”人の道に背くな”
と言われるが、殺すな、盗むな、ウソをつくな、性道徳を犯すな、酒に飲ま
れるな、が人の道に背かない生き方である。幸運に恵まれ、幸福にくらす
ためには、どうしても必要な条件だ。

 これらの五つを守ったうえで、さらに高度な幸福を目指すために、東洋の
慧知は次の三つをあげている。

 一、他に尽くす、利他の行い。
自分の欲望を充足するためだけに行動するのではなく、他人に奉仕する
生き方をする。
 二、悪を防ぐ。
人間の心は放っておくと利己主義になりやすい。その結果、正義に反す
行ないをし、悪に走りそうになる。それをおさえるために、日頃から誘惑に
負けない強い心をつくる鍛練が必要なのである。
 三、知慧を磨く
知識を求め、求めた知識を自他ともの幸福のために活用する知慧(価値を
創造する生き方)を体得する。

 五つの基本条件の上に、以上の三つが加わると、最大の幸運に恵まれ、
自分のやりたいことをやり、それが利益を生み、他人や社会をも益すとい
う、人間として最高の幸福境涯を築くことになるのだ。


 アンドリウ・カーネギーの志をついで、彼の思想を世界中に広めた、ナポ
レオン・ヒルは、次のように言っている。

 人間はみな生まれてくるとき、二通の封書をもって生まれてくると言われ
ている。封書の一通は、表に”賞”と書かれた封書で、もう一通は、”罰”と
書かれた封書である。封書を開いて中をみてみよう。

 賞と書かれた封書には、
”自分の心を鍛練して、目標を達成するために活用した人に与える賞とし
て”心身ともの健康、よい家庭、よい友人、恵まれた経済力、好きでする仕
事、長命など人間として望ましいものがすべて書きこんである。

 一方、罰と書いてある封書のほうはどうだろう。
”自分の心を放置して、環境のなすがままにした人に与える罰として”
心身ともの不健康、いやでやる仕事、生涯を通じての貧困、少ない味方、
多い敵、不自由、全ての面での欠乏、などなど、およそ人間としてさけたい
ことが、まるでカタログのようにビッシリ書いてある。

 この封書のたとえを通して、ナポレオン・ヒルは、心が人間の幸、不幸を
決定することを強調している。前にも書いたが、人間が自由にできるのは
自分の心だけだ、ということをもう一度、思いおこしてもらいたい。

 この稿終わり   

 


人間賛歌 信仰に生きる 三十二

2009年08月05日 | 信仰に生きる
 法華経にたどりつく *

日名子さん、
「先生、奥さんに反対してやめさせた法華経の信仰を、先生がされたことは
ちょつと意外です。
よろしかったら詳しいいきさつを教えていただけないでしょうか。」

ジッチャン、
「前回私が学会に入ったワケを言いましたが、実はその時私は宗教を求め
ていたのです。
そのころ「平常心」という本がでましてね。
たしか高橋某という、松下電器の社員教育の責任者が書いた本でした。

それを読んでその内容にひどくひかれたのです。
平常心というのは、何があってもビクともしない強い心のことで、仏教では
不動心というそうです。
これを身につけておくと、人生の途上でどんなことに出会っても、うろたえず
落ち着いて対応でき、平常心を得るには宗教を持つことが一番近道である
と、書いてあったのです。

私は当時大きな借金を抱えており、借金取りにあうのが恐くていつもびくび
くしていました。
 そんな弱い自分を変えて、借金取りにあっても平然としておられる強い心
になりたいと思っていたのです。」

日名子さん、
「それですんなり法華経の信仰に入ったというワケですか? 」

ジッチャン、
「いや、そうではないのです。
平常心を持つには宗教が必要だと書いていましたが、どの宗教がいいか
という点については書いていなかったのです。

 そこで自分でキリスト教や禅の勉強をしました。
キリスト教は内村鑑三の著書を読んでずいぶん勉強しましたが、聖書のな
かに、「富めるものはますます富み、貧しいものはますます貧する」という
文がありましたので、貧乏している私には向かないなと思いました。

 また禅も、禅の本を読み、家内にかくれて自分の部屋で座禅を組んでい
ました。

禅の教えは、この世の一切は空で、有でもなければ無でもない。だから世
間の雑事を離れて、ひたすら座禅を組み、大自然と自分が一体であると
悟るのが修行であると教えていましたので、そのとおりにしていました。

注 内村鑑三 明治時代の大思想家、キリスト者で無教会主義を唱えた。

つづく