叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 「新・仏教教室」 百三

2009年10月21日 | 新・仏教教室

 生と死(生命)の時代 *
山本さん、
「前回、東京大学に希望学部というのができ、世界の大学が死後の研究を
していると伺いましたが、死後の研究をして本当に死後のことが分かるの
でしょうか。

死んだ人で帰った者はいませんから、仮に死後の世界があったとしても証
明のしようがないと思いますが、先生のご意見はどうでしょうか。」

ジツチャン、
「さすが山本さん、着眼点がいいですね。
たしかに死後の世界はあると、キュブラー・ロスは宣言しましたが、ロスが
面接した六万人余の臨死体験者は、死んだ状態から生き返った人たちで、
厳密に言うと死の体験者とはいえないかもしれませんね。
現にそう言う学者もたくさんいるそうです。

仮に死後の世界があったとしても、みんなにそれが分かるように証明でき
なければ、人間の役には立ちませんね。

そこで今回は少し難しいかも分かりませんが、日蓮大聖人の教えを通して
この問題を考えてみたいと思います。
大聖人が書かれた聖愚問答抄という御抄があります。

生命の真理を悟った人(聖人)と、そうでない人(愚人・愚かという意味では
なく迷っている人の意味です)の質疑応答ですが、その中の肝心のところを
学びましょう。

ケイタくん、ここを読んでくれないか。
読者には聞こえないでしょうから、文字を目で追つて行つてください。解説
はあとでしますから、意味が分からなくても耳しみこませるつもりで聞いて
ください。」

ケイタくん、
「それでは聖愚問答抄の一節を読ませていただきます。」


 悲しいかな、痛ましいかな、我ら無始よりこのかた、
 無明の酒に酔いて、六道・四生に輪廻して、
 あるときは焦熱・大焦熱の炎にむせび、あるときは紅蓮・大紅蓮の
 氷にとじられ、
 あるときは餓鬼・飢渇(ケカチ)の悲しみにあいて、
 五百生の間飲食(オンジキ)の名をも聞かず。

 あるときは畜生・残害(ザンガイ)の苦しみをうけて、
 小さきは大きなるにのまれ、短きは長きにまかる。これを残害の苦
 という。
 あるときは修羅・闘ジョウの苦をうけ、
 あるときは人間に生まれて八苦をうく、
 生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五盛隠苦なり。

 あるときは天上に生まれて五衰をうく。
 かくの如く三界の間を車輪の如く回り (中略)
 生を受けたる我が身も死の終わりを知らず、

 ああ受け難き人界の生をうけ、あい難き如来の聖教にあい奉れり、
 今度もし生死のきづなをきらず三界の籠ハン(ロウハン)を、
 出でざらん事かなしかるべし、かなしかるべし。

(読みやすいように句点をいれました。)  御書四七四頁  *

次回に続きます。