叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ 五

2010年06月28日 | 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ
 無限地獄(苦悩)の道をふさぐ *

 質問します。
「題目を唱えますと、だれでも一生のあいだに歓喜の命になれると言
われましたね。そしてこれは末法の仏・日蓮大聖人のお約束だから絶
対間違いありませんと断言されました。 
 それについてお伺いしたいのですが、一生のうちといっても三年も
あれば十年もあります。
 だいたいどのぐらいをメドにすればよいのでしょうか。」

 お答えします。
「どのくらいの年月がいるかはわかりません。
人によって信心の強弱があったり、宿業の軽重などがありますので、
一概には言えません。
 ただ、大聖人は稲に早稲(ワセ=早く実る稲)とオクテ(実るのが遅い
稲)の違いがあっても、一年のうちには必ず実って収穫できるよう
に、一生のうちには必ず仏の境涯になれるとおおせです。

 一生といってもあっというまに過ぎてしまいますから、今世の短い
修行で永遠に続く歓喜の境涯が得られるなら、五年や十年の差は問題
てはないと思いますよ。

 それより、「一生むなしく過ごして万歳悔ゆることなかれ」という
大聖人の警告を肝に銘ずべきではないでしょうか。
 さらに大聖人は、
御本尊を信じて題目を唱える人は、「無限地獄の道をふさぎぬ」とい
われ、すぐに大我の境涯になれなくても、、
今まで苦悩の底であえいでいた人であっても、、
二度と苦悩の境涯にもどることはないと、おおせであります。。

 私は今から三十三年前に入会しました。
そのときは事業に失敗し、一生かけても払えないだろうと思うほどの
借金をかかえていました。
入会するときに来宅された学会の幹部の人が、「これ以上悪くなるこ
とはありませんから、安心して信仰にはげんでください。」
 と言われました。

そのときは意味がよく分からなかったのですが、その後何回かの浮き
沈みを経験するうちに、不思議に借金が残るような失敗がないことに
気づきました。
ギリギのところで損がでないように御本尊に護られていたのです。
「無限地獄の道をふさぎぬ」のお言葉の意味の重さを身にしみて感じ
ています。

 もし今、借金で苦しんでいる人がいましたら、、
迷うことなくこの信仰をして、無限地獄(借金苦はまさに無限に続く
苦しみですから)の苦からか開放され、二度と落ちないように道をふ
さいでください。
 苦悩の道をふさげば、歓喜の道しか残りませんから・・

続く  

「目覚める人・日蓮の弟子たち」二十七

2010年06月25日 | 小説「目覚める人」

   第二章 法華経の行者

 いつのまにか日が陰って持仏堂の中が寒くなってきた。小源太は火
箸をとると灰の中に埋もれている炭火を取り出した。真っ赤に焼けた
炭火が小源太と三郎の顔を赤く照らしだした。

「少し寒くなってきた。三郎どのも手を暖められよ。」

と言って火箸を三郎の方に押しやった。

「ところで三郎どの、例の安国論のことだが、あれからわしももう一
度読んでみたがどうしても分からないことがあるのじゃ。」

「との、実は私ももう一度読んでみようと思いまして、政所の宿屋ど
のから写しを借りて読み直してみました。」

「ほう、そなたも読まれたか。安国論は宿屋どのを通して時頼どのに
出されたのだが、宿屋どののもとに写しがあったのか、なるほど。そ
れで何か新しい発見でもありましたか。」

 小源太は三郎に促すように訊いた。三郎は、

「との、立正安国論に書いてあることを私も経文に照らし合わせて調
べてみましたが、釈迦の経典どおりで寸分の違いもありません。
念のために中国の歴史と、本朝の史実にも照らし合わせてみましが、
上人が述べられている通りでした。」
 
「なるほど、それで災害の起こる原因については、そなたはどう思わ
れたかの。」

「はい、私も釈迦が亡くなる前に説いたという涅槃経や、国王を指導
する金光明王経などを読んでみました。確かに国の指導者である王が
正法正義に背いて、邪法邪義が広まるのを防がなかった時には、その
国に干ばつ、冷害、飢饉、兵乱などの災害が起きて、王もそれにつな
がる者たちも亡ぶであろう、と警告しています。」

続く  

  


人間賛歌 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ 四

2010年06月23日 | 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ
 大我を現すには・・

 質問します。
「自分の命にたまった宿業を消して、大我(仏の命)を現すにはどうす
ればよいのですか。」

 お答えします。
「仏の命(大我)のことを南無妙法蓮華経といいます。
私たちが本来持っている真の自分の命を現すには、南無妙法蓮華経と
唱えて、仏の命と同じになればよいのです。

とはいっても、仏の命があるかどうか、分からない人に南無妙法蓮華
経とだけ唱えなさいといってもムリだと思います。

 そこで末法の仏である日蓮大聖人が、、
仏法に無知な末代の弟子の私たちに、仏の命を現す縁になる御本尊を
残してくださいました。
 この御本尊は日蓮大聖人ご自身が悟られた仏の命を書き顕したもの
であります。

 日蓮大聖人は、御本尊を与えられた門下へのお手紙で、

「日蓮がたましいを墨にそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給え。
 仏のみこころは法華経なり、
 日蓮がたましいは南無妙法蓮華経に過ぎたるはなし」

としたためられています。
日蓮大聖人(仏)の命であるから大事にしなさい。と仰せであります。

 八識にたまった宿業の厚い壁を破ったところに、九識=仏界がある
といっても私たちには想像もできません。
しかし、日蓮大聖人が書きあらわされた御本尊を仏の命と信じて、南
無妙法蓮華経と唱えることはできます。
そうしますと今まで厚い壁に囲まれていた自分の仏の命が現れてくる
のです。

 なぜ現れるのか理屈でわからなくても、
題目を唱えますと、今までとは違った力強い自分が現れることが実感
できますので、ウソではないことが分かります。

 質問します。
「南無妙法蓮華経と唱えるだけなら、私でも出来ると思いますが、
それで本当に仏の命になれるのですか。」

 お答えします。
「絶対になれます。題目を唱える人がだれびとであれ、
一生のあいだに必ず仏界になれるというのが、日蓮大聖人のお約束で
あります。仏の言葉にウソはありません。

続く  

「目覚める人・日蓮の弟子たち」二十六

2010年06月21日 | 小説「目覚める人」

 北条小源太 二十六  

「うむ、それで時宗どのはどうじゃった。」

「はい、そなたは若いのになかなかの軍略家だの、見直したぞ。とた
いそう誉められました。私は正直に、父から教わっていたことをその
まま申し上げただけでございます、と申しました。
 すると執権どのは、

「そなたは正直者じゃ。それにいい父御をおもちで羨ましいぞ。わし
の父は、もう世にないがそなたの父御は健在じゃ、父御を大事にな、
と言われて思い出したように、
 そうじゃ、時昭どのは入道されて頭が寒いだろう。
この頭巾は父が使っていたものだが、そなたの父御に差し上げてく
れ、寒い折なので風邪などひかずご健在でいてもらいたい、とわしが
言っていたと伝えてくれ。そう仰ってご自分で棚の中から取り出して
くださいました。」

「ほう、そうだったのか有難いことじゃな。」

と言って小源太は、頭巾をおしいただいた。

「父上、私は執権どのは父上が頭を丸めていないのをご存じないか
ら、頭巾をくださったのだろうとおかしく思いましたが、ふとその時
気がついたのです。
父上が頭を丸めないのは、いざという時には冑を着て、戦陣にお立ち
になるおつもりではないかと、父上のお心の内を思いはかりました。
大軍を率いて戦った経験のない私を助けようとされているのではない
かと思うと胸が熱くなりました。」

そう言うと義昭は小源太の前に両手をついて頭を下げた。

「なんの、そなたはもう立派な武将だ。父が頭をそらないのは面倒だ
し、他に考えることもあってのことじゃ。そなたは大軍を率いる総大
将の器だとわしは思っている。
時宗どのをお助けして、この大事に心して当たるようにな。」

小源太は言いながら、息子に腹の内を見透かされたかと、くすぐった
い思いと、義昭も人の心が分かる立派な大人に成長している、と安心
と喜びを感じていた。

「それからのう義昭、時宗どのにはよいが、めったに腹の内を人に明
かすでないぞ、黙って人の動きを見ておくのじゃ、上に立つ者が腹の
内を軽々と明かすと、周りの者は追従して本心を語らなくなるものだ
からな。承知のこととは思うが念のために申しておくぞ。」

   大人になった息子に小源太は忠告したのだった。

 第一章 終わり  

 


人間賛歌 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ 三

2010年06月18日 | 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ
 真の自分(大我)とは ? 

 質問します。
「大我が真の自分であるといわれても、ピンときませんが、、もう少
し詳しく教えていただけないでしょうか。」

 お答えします。
「小我(自分のことしか考えない我)を現代人にわかるように考えてみ
ましょう。
私たちは、目、耳、鼻、舌、皮膚(以上を五識といいます)でキャッチ
した外界の情報を意識(一番浅いところにある心で六識といいます)で
分別し、その結果なにかの行動を起こします。

 たいていはそこで終わり、
次にキャッチした新しい情報に心は移って、さつきまで自分がしてい
たことは忘れてしまいます。
ところが表層意識より深いところにある潜在意識は覚えていますの
で、情報に対する反応パターンが習慣になって記録されるのです。仏
教ではここを七識と呼んでいます。

 ところで九界にしみこんだ心の特徴は、
地獄=怒る心、餓鬼=むさぼる心 畜生=愚かな心、修羅=素直でなく自
分が一番エライと思う心、人=穏やかな心、天=喜ぶ心、声聞=真理を
悟って安心しようと思う心、縁覚=自分の経験などで真理の一部を悟
る心、
菩薩=仏になろうとして利他行をする心、

 ごく簡単に言いますと、以上が九界の衆生の心にしみついた内容で
あります。
たとえば地獄界は怒る心が習慣になっていますのですぐ怒り、自分も
他人も苦しめます。菩薩は自分のことはさしおいて他に尽くす心なの
で、自他共に喜びを感じ幸せな心であります。
 ただ、仏と違って小我の中に入れるのは、自分が仏になるために
利他行をしているのてあって、自分のためではなく利他の心しかない
仏とは紙一枚違うのです。

 同じ人間でも心が千差万別であるのは、
七識に心の差異があるからで、これによって行動した結果が、善悪ひ
とっ残さず、八識(アラヤ識)に貯蔵されているのを仏教は発見し、
これを業(カルマ)と呼んでいます。
 現代心理学の祖、ユングが発見したのもこの八識であると云う人も
います。

 開設がだいぶん長くなりましたが、肝心の大我について述べさせて
もらいます。
八識を突き抜けたところに九識(アマラ識=仏の心)があることを突き
止め、これを悟ったのが釈迦を筆頭にしたすべての仏です。
この九識(大我)の境涯になると、自分と他人との区別も、こことかあ
そこという場所の違いもありません。

 宇宙の心(生命)と同じ心であり、いつも嬉しくて、嬉しくて仕様が
ないという心です。この歓喜の心がづーつと永遠に続くのですから、
これほど有り難いことはないのです。
 それこそが本当の自分であると信じることがポイントです。

続く  

 


人間賛歌 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ 二回

2010年06月16日 | 小我(苦悩)から大我(歓喜)へ

 真(まこと)の自分 * 

 創価学会二代会長、戸田城聖先生は、大我を現した歓喜の命を、

「とにかく、生きていること自体が楽しくて、楽しくてしようがな
い。というような境涯なるのだ。
 信心した人は、死ぬまでにみんなそうなるのだ。」

と言われていたとうかがっています。

 法華経には、、
衆生(生きているものすべて)は、この世を遊楽(なにをしても楽しい
こと)するために生まれてきた。と記しています。
 ところが現実は、、
遊楽どころか、もろもろの苦悩が充満していて、楽しくなく、恐れや
苦しみの海の中でもがいている人の方が多いのです。。

 ナゼでしょう。
仏教は生老病死の四苦及びそれから派生する八苦を超えて、この世を
楽しむ境涯になる方法を教えています。
 前回で、小我にこだわった生き方をすると苦悩が尽きない人生にな
ると云い、小我とは九界の境涯のことであると申しました。

 九界とはすでにみなさんご存知のように、
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声門、縁覚、菩薩のことで、九界
の特徴は、死の苦縛から逃れられない境涯のことです。
 それに対して仏界は、、
死の苦を解決して、自在な境地(なにをしても楽しくてしょうがない
という歓喜の命)で、小我に対して大我といいます。

 仏教では、
大我=仏界が真の自分であって、九界の姿は仏界を悟るためにわざと
苦労している、仮の姿であると指摘しています。
九界は夢で、仏界が夢からさめた真実の我であると教えるのです。

 日本人で最初に法華経を読んだ聖徳太子は、
「世間虚仮(セケンコケ) 唯仏是真(ユイブツゼシン)」と書き残して
います。この世は仏になるための仮の世であり、仏(仏界)の世界だけ
が唯一の真実である。
 という意味であると思います。

続く  

 


 


「目覚める人・日蓮の弟子たち」二十五

2010年06月14日 | 小説「目覚める人」

 北条小源太 二十五 *

 わずか五百に満たない手勢で頼朝を助け、何十万という兵力を誇っ
ていた平家を滅亡に追い込んだ、時政以来伝統の思想であった。
勝者の論理とでもいうべき家憲を時宗が知らないはずがない。

 小源太がそう確信するわけがあった。ある日、幕府から帰った義昭
が、

「執権どのから父上に、これを差し上げてくれと仰せつかりまた。」

 と言って義昭は白い頭巾を小源太に渡した。

「ほう、頭巾をな、」

小源太がけげんそうな顔をして頭巾を受け取ってみると、絹で作った
上等なもので、中には綿が入っているのかふんわりとして暖かそうだ
った。

「時宗どのは、また何でわしに頭巾を、」

と言いながら時頼の葬儀以来会っていない時宗の顔を思い出してい
た。

「今日、執権どのに呼ばれて、この度の蒙古のことについてそなたは
どう思うか、と尋ねられたのです。」

「ほう、それでそなたはどう答えたのじゃ。」

「はい、日頃父上から教わっていたことをそのまま申し上げました。」

「うむ、それで時宗どのはどうじゃった。」

「はい、そなたは若いのになかなかの軍略家だの、見直したぞ。とた
いそう誉められました。私は正直に、父から教わっていたことをその
まま申し上げただけでございます。」
 と申しました。

続く    

   
 


人間賛歌 所感(政治経済)

2010年06月11日 | 所感
  証券経済 *

 前の回で,株価は新しい段階に入ったといいました。
懐疑の中で育った株価が、楽観の中で成長する段階に入ったから、高くなるだろうと
思っていました。
 ところがである。予想もしていなかったギリシャの財政破綻がヨーロッパを不安に
し、それが世界を不安におとしめたのです。

 株価は景気の動向を先見し、先が良くなるだろうと思う人が多ければ上がります。
だが景気の動向ではなく、国の動向が世界の株価を左右するようになろうとは思い
ませんでした。
長いあいだ証券にかかわっていますが、初めての経験です。

 だが、経済のほうは各国が必死で取り組んだせいで、しだいに上向いてきています。
いずれ株価も本来の動きを取り戻して、上がってくると信じています。
世界に滞留する行き場のない投機マネーが、空売りをして株価の値下がりで儲けよ
うとたくらんでいますが、いつまでも彼らの思うとおりにはならないでしょう。

 政治 *

 鳩山総理がルーピーであるかどうかは歴史が審判するといいましたが、そのとおり
になったと思います。
勝利の女神から見放され、国民の八割から嫌われていた実力者の首を切って、心
中したのですから、その効果はこれから分かるだろうと思います。

 替わって管総理が誕生し、民主党の支持率が大きくあがりました。
新総理の実力はこれから分かると思いますが、歴代の総理と違って管氏はなにの
後ろ盾をもたず、リスクを自分で背負って育った政治家ですから、強いし、頼りにな
ると私は思います。

 ノンリスクで育ったサンプルが鳩山前総理でしたが、、管総理の庶民感覚に期待し
たいものです。
そういう意味で、国民はなんでも、かんでも、政府のせいにして保障を求めるのでは
なく、自分がリスクを背負っていくぐらいの気概がなければ、人間が劣化していくと感
じています。