叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 鎌倉竜ノ口事変 三

2007年02月26日 | 鎌倉竜ノ口事変
 日蓮と竜ノ口法難

 第一幕 続き、

日蓮
「教主釈尊は、法華経を説いた後は、仮の教えを捨て真実の教えの法華経
だけを修行するよう勧告したのだ。

もしこれに反し仮の教えに執着するものは、苦しみの絶えない地獄の境涯
におちると警告した。
よつて自分が仏の境涯になろうとせず、架空の仏である阿弥陀仏を信仰す るものは、釈迦の教えに背くもので、地獄におちると、経文のとおりにもおし
たまでだ」

平 頼綱
「外国が攻めてくるともおしておるそうだが、どうして貴僧にそれがわかる
のか」

日蓮
「およそ国を治めるものは、正義によらねばならない。
これは幾多の故事や古今の書にあるとおりだ。
しかるに幕府は、法華経の正義を求めようとせず、邪宗邪義のみかたに
なって、法華経を失おうとしている。

為政者が正義にそむくとき、その国におこる災難については、
十年前の文応元年に北條時頼どのに提出した立正安国論で指摘した
とおりだ。

このままでは、他国からの侵略や身内どうしの争いが起きることは、
経文にてらして明らかなことだ」

平 頼綱
「仏法の正邪を公開の場で討論するよう、他宗に求めているようだが、
仏教は争いをこのまず、他者を容認する寛容の精神を説くときいておる。
そうではないのか。

日蓮
「この国に六千余巻の経典が渡ってきている。
そのなかには、仮の教えもあり、戒律だけを説いた低い教えもある。
また経典の渡ってきた前後も不同で、読む人によって解釈もまちまちで
ある。

どれが正しくてどれが誤りであるかは、全部の経典を読んだうえで、
識者が協議して決めるべきだ。
中国の天台大師、わが国では伝教大師が公の場で討論した結果、

法華経で説く教えか正しいということは、すでに公認された事実だ。
それが今になって正と邪が乱れているので、
討論してもとに戻すべきだ、ともおしているのだ」

続く、

人間賛歌 若い人の仏教教室 十五

2007年02月24日 | 若い人の仏教教室
ジッチャン、
「心はあるというても、ジャーどこにあるんだ、と聞かれても答えられず、
ないと言っても、瞬間瞬間に、喜んだり、悲しんだり、怒ったりする心が
おきるから、
ないとも言えないワケだ。

心はコトバで、あるともないとも表現しにくいフシギなものだ、 
と言えるね。

よる寝ているときは、なにも思わないから心がなくなったように、思うこと
もあるだろう。
だが目がさめると、またきのうの続きをやっていくのだ。

寝ているあいだなくなったような心が、目がさめると同時に活動を始める
からだ。
昔の有名な学者は、「ワレ思う、ゆえにワレあり」と言ったが、

なにも思わなかったら、寝ているのと同じで、いないのとイッショだと
言えるね、人間がなにかを思うということは、
心がある証拠なんだ。

ちょっとむずかしいかな、
だが分かる分からないの問題ではなく、これが現実なんだな。


その心だが、人が百人いれば百とおりの人生があるように、
同じ心の人は一人もいないと言われている。
だが傾向として、同じような心をもった人がいると仏教では教えているのだ。


たとえば、
一、おこりっぽい人、
自分の思いどおりにコトがすすまないと、すぐアタマにきて、
人にあたったり、こんなオレを生んだ親がわるいんだと、すねたりうらんだりする人で、ケッコーいるんだな。

こういう人はいつもグチや悩みをかかえているので、仏教ではジゴクの境涯
というんだ。
なにをやってもウマクいかず不自由なのでサイテーのジゴクと言うんだね。

二、欲ばりの人、
欲がふかくて人のものでもなんでも欲しくなるんだ。
いったん欲しいと思いだすと手にいれるまで、なにがなんでも自分のものに
しようとする。かつえた人が食物にありついて、あたりかまわずカブリつく
のを、ガキみたいだというが、

こういう人をガキの境涯というんだ。 つづく、

人間賛歌 若い人の仏教教室 十四

2007年02月22日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「そのとおりだよ、おなじ人間で、おなじような立場にいても、
人によって考えかたがちがうのは、心がちがうからだ。

そして心はその人の境涯によって差があると、仏教は教えている。
境涯というのは、
その人が生きていくうえでおかれる立場や、身分などで、
その人が生活する環境もふくんだものだ。

境涯のはなしにはいるまえに、もうひとつの例があるのであげておこう。

サッカーをしていてシューズを買いたいところまではおなじだが、
その人はオカネに不自由しない家の子なので、

シューズが欲しいと、親に言えば買ってもらえるから、前の三人のような
ストーリーはうまれないわけだ。
みかけはこの人がイチバン幸せなように見えるが、はたしてどうだろうか、


大作家 吉川英治のコトバにこんなのがあるので紹介しよう。
裕福な家庭で育った青年に、

「若いうちからおいしいものをたべて、
欲しいものはなんでも手に入るキミのような人は不幸だ。
若いときに貧乏で苦労し、忍耐力をつけた人は幸福なのだ」

と言ったのだ。


カラダを鍛えることがダイジで、必要なことはだれでも知っていて、
実行する人もたくさんいるが、
心もきたえなければ強くならないのだ。

心をきたえるには苦労することがイチバンで、
なんの苦労もないところでは、ヒヨワですぐキズつく、弱い心になって
しまうのだよ。

充実した人生をおくり、幸せになるには心をきたえて強くしなければ
ならないんだ。

それについて次回から学んでいこう。 つづく、


 


人間賛歌 鎌倉.竜ノ口事変 二

2007年02月20日 | 鎌倉竜ノ口事変

  「 劇 」

 日蓮と竜ノ口法難

第一幕

時、 文永八年九月十二日、午後
場所、鎌倉幕府問注所(いまの裁判所と同じ)

登場人物
僧 日蓮
安房小湊の出身で天台宗を学ぶ、釈迦の本意は法華経にあると主張し、
鎌倉松葉ケ谷に庵を構え法華経の弘通につとめた。

平 頼綱(へい よりつな)
北條得宗家{北條泰時の直系の子孫で代代、鎌倉幕府の執権職を務めた}
の家臣団を束ねる総支配人。
鎌倉の治安と政務をつかさどった。

二階堂 常長
幕府の最高決議機関である評定衆のひとり。

問注所役人
書記および雑務を行うものさんよにん。

以下尋問にはいる。

平 頼綱
「訴状によると貴僧は、念仏をとなえるものは地獄に落ちるともうしておる
そうだが、
なにを根拠にそのようにもおすのか、存念を聞きたい」

日蓮
「釈迦は自分が永遠の生命をさとったホトケだ、と言っても人々は信用
せず、逆に疑いの念をおこすだろうと考え、
人々が信じやすい仮の教えをまず説いた。

その一つが無量寿経で、西方十万億土を越えた国に阿弥陀仏という
ホトケがいて、
このホトケの寿命は永遠で、智慧は無量である。
凡夫の想像を超えたものだが、この世で善行をつめば死後このホトケの
住む浄土にうまれ、法華経をさとって永遠の生命と、無量の智慧をえら
れる。
という教えである。

これは釈迦のさとったホトケの境地のすばらしさを讃えて、人々にホトケ
を渇仰させる手段として説いたのだ。

その証拠に釈迦は、ほんとうの教えである法華経を説くまえに、
いままで四十二年間説いてきた教えは方便{法華経にみちびくための
仮の教え}で、

これから説く法華経が唯一真実の教えである、と言い、
すべての人に釈迦と同じホトケのいのちが具わっていることを明かした」

続く、






 

 

 

 

 

 

 

 


 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 十三

2007年02月19日 | 若い人の仏教教室

ケイタくん、
「ハイ、お母さんにはいえないね、ジッチャンにもいろいろ世話になって
いるし、
そんなときボクはバイトをして、オカネをためてから買うことにしているんだ」

ジッチャン、
「そうだろうな、もしもだよ、バイトをしてためたオカネをもって、
シューズを買いに行く途中、サイフを落としてシューズが買えなくなったら
どうする」

ケイタくん、
「たぶんガッカリしてやる気をなくすかも、
でも、そのときになってみないとよく分からないな」

ジッチャン、
「そこでだな、ジッチャンが考えてみると、三とおりのやりかたがある
と思うんだ。

一つは、ガッカリしてやる気をなくしあきらめる。

二つ目は、どうしてもシューズが欲しいので、万引きをしてでも
手にいれようとする。

三つ目は、いったんは落胆するが、
ヨシ、またバイトをしてカネをためシューズを買おうと決意する。

以上の三つだ。一から三までどれも心の働きであるが、少し考えただけで、
一つ目のガッカリしてあきらめる人がいちばん多いように思うね。

二つ目は悪いことで、社会的に認められないから、ゼッタイやっては
いけないことだね。

三つ目はあきらめずに再挑戦する姿勢でサイコーだと思うね。
ケイタくんにもそうしてもらいたいものだ」

ケイタくん、
「ジッチャン、たぶんボクはそうすると思うよ」

ジッチャン、
「いいことを言うね、お母さんがきいたら喜ぶとおもうよ、
ところでケイタくん、三者三様というが、
同じことにあったのに、どうしてこんなに考え方がちがうのか、
ワケをかんがえてみないか、ケイタくんはナゼだと思う?」

ケイタくん、
「うまく言えないけど、たぶん人によって心がちがうからでしょう」

つづく、

          


人間賛歌 若い人の仏教教室 十二

2007年02月17日 | 若い人の仏教教室
ジッチャン、
今週はダイジな会議があって勉強がおくれてゴメンネ。
前回で話した、世のなかのすべての現象は、心が造り現している。というのを
聞いて、
ケイタくんは意味がわからず、とまどったと思うがどうかねえ。

ケイタくん、
「そう、ジッチャンの言うとおりだよ、
まさか自分の心のこととは思えないし、いったいだれの心のことなんだろうと、とまどっているんだ」

ジッチャン、
「ムリもないよ、釈迦が昔のなかまに、
世のなかのすべての現象は、心が造り現したもので、それ以外に現象となって
現れるもはないんだ。
と聞いても、なかまは意味が分からなくて、自分の心のこととは思えず、
ケイタくんと同じようにとまどうんだね、

真理をきわめた釈迦の心と、そうでないナカマの心のあいだには、
大きな開きがあって釈迦の意向は伝わらなかったのだ。

そのことに気づいた釈迦はそのご、ながい時間をかけて、
心の働きが人によってちがうこと、そのちがいは生命の境界によって起きる、
ということを教えていくんだ。

一説によるとなん年もかかったと言われるから、始めて聞いたケイタくん
がとまどうのは、当然だと思うよ」

ケイタくん、
「ジッチャン、心の働きってどういうことなの」

ジッチャン、
「そうだね、ケイタくんはサッカーをしているが、
性能のよい新型のサッカーシューズが売り出されると、欲しいと思うだろう。
なにかを欲しいと思うのは心の働きなんだ、
ケイタくんはお父さんがなくなったので、お母さんが働いて三人の兄弟を
育てているから、新しいシューズを買ってくれとは言いにくいだろう。

でもシューズはどうしても欲しいし、
そんなときケイタくんならどうする?」

つづく、

人間賛歌 鎌倉竜ノ口事変 一

2007年02月14日 | 鎌倉竜ノ口事変

  「 劇 」 

日蓮と竜ノ口法難、

時代背景、
文応元年(1260) 日蓮、立正安国論を著わし、鎌倉幕府執権.北條時頼に
提出する。

注、立正安国論.正しい教えと正義によって政治をすれば、国は安泰で
民は栄え幸せになると説き、それに反すれば自然災害や、自国内乱、
外国からの侵略などの災難が起こるだろうと警告した建白書。

当時起きた主な災害と事件

弘長三年、 鎌倉大火、大地震、大雨、北條時頼没。

文永二年、 鎌倉大地震、

文永六年、 蒙古国より国書到来、時宗八代執権になる。

文永八年、 鎌倉大干ばつ、蒙古の使者趙来日、フビライ北京に入る。

文永九年、 時宗の兄、時輔の反乱、二月騒動が起きる。


文永六年蒙古から国書が来て開国を迫る。
同七年、蒙古船対馬に至り島民多数を殺し、女を船にのせて連れ去った。

このことから蒙古の大軍が襲ってくるとのウワサが広まり、国中が不安と
恐怖におおわれていた。

文永八年夏、祈雨の祈祷で日蓮に敗れた極楽寺良観は、念仏宗の僧
行敏を使って日蓮を幕府に訴えた。

訴状は日蓮が他宗の悪口を言いふらし、
念仏、禅、真言など各宗派が迷惑しているので、
幕府が取り締まり、日蓮の悪口をやめさすよう、訴えたのだ。

これを受けて幕府は、日蓮を問注所に呼び出し、
平頼綱(登場人物で紹介)が訴状に基づいて尋問した。

続く、

 

 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 十一

2007年02月10日 | 若い人の仏教教室

ここでケイタくんにゼヒおぼえてもらいたいことがあるんだ。
それは、あらゆる問題を解決するチカラは自分のなかにあって、よそにあると
思ってはダメなんだ。

宗教でよく言う神とか、創造主など、人間を超えた絶対者がいるとして、
それに救いを求めるのではなく、

自分が、自分の運命の主体者であり、どのようにでも開いていけるということ
が、仏教の大きな特徴で、ほかの宗教とちがう点なんだ。

ここのところをよくフマエたうえで、心の問題にはいっていこう。


ちょっとむずかしいが、
釈迦が最初に説法したケゴン経という経典に、こんなのがあるんだ。

「心はたくみなる画師のしゅじゅの五陰(ごおん、にんげんの姿、かたち)
を造るがごとく、いっさい世間のなかに法(現象)として、造らざることなし。

心のごとくホトケもまたしかなり、
ホトケのごとく衆生もしかなり、三界ただ一心なり。

心のほかに別の法なし、心、ホトケ、および衆生、この三差別なし。
この心が善悪の縁におうて、善悪の法をば造り出せるなり..」

ジッチャン、
「どうだいケイタくん、
ちょっとぐらい聞いてもよく分からないだろう。
釈迦は心を徹底的についきゅうして、いままでだれも知らなかった真理を
説きあかしていくんだが、

これが心について最初の説法で、スゴクだいじなことを教えているんだ。
仏教はここからスタートしたといってもまちがいない。

分かりやすいようにジッチャンが少し解説してみるよ。
上手な絵描きはキャンパスに、なんでもかくことができるね、

それと同じように心は全世界のすべての現象を造りあらわしているのだ。
ホトケといっても心があらわしたものであり、
衆生といっても心があらわしたもので、

宇宙のすべては心が造りあらわしたものなのだ。
心のほかになにかがあって、それがすべてを造りあらわしているのではな
い。心がすべてなのである。

このことを知っているのがホトケで、知らないのが衆生(凡人)であるが、
知っているか、知らないかのちがいだけで、もともと差別はないのである


そしてこの心が善悪(利他の心が善で利己の心が悪)の縁にあって、
幸、不幸の現象をあらわしているのである。

という意味なんだが心のダイジさがいくらか分かったかね。
マアマア簡単には分からないから、あせることはないよ、
だんだん理解できるようになるから..」

つづく、






 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 十

2007年02月07日 | 若い人の仏教教室
釈迦はブッタガヤのはるか南、ロクヤエンしいうところで、昔いっしょに修行していたナカマにであうが、
そのとき釈迦がナカマに呼びかけたコトバが、

「不死は得られたり」

という有名なコトバなんだ。死の問題は解決したよ、
という意味だね。

ナカマは釈迦の思いがけないコトバにおどろくが、
釈迦は自分のさとった真理を教えるのだが、これが釈迦の説法の始まりになるんだ。

ケイタくん、
「ジッチャン、お釈迦さんは死の問題をどうやって解決したの」

ジッチャン、
「釈迦は死の問題はモチロン、生老病死のすべての問題を解決したんだ。
人間の苦悩のもとになる生老病死の苦しみを解決する力が、
ほかでもない自分自身のいのちに具わっていることを、さとったのだ。

この力は釈迦だけでなく、だれのいのちにも、
本来具わっていることも発見するんだ」

ケイタくん、
「ジッチャン、いのちというのはスゴイんだね、
ぼくのいのちにもその力がホントーにあるの」

ジッチャン、
「そうだよ、ケイタくんのいのちにも、ケイタくんのお母さんのいのちにも、ともだちのいのちにも、
だれにでもこの力が具わっているんだ。

だがこの力を活用するには、チエがいるんだ。
仏教を勉強するというのは、このチエを得ることなんだよ」

ケイタくん、
「そんなスゴイことがぼくにも分かるかなぁ、ちょつと心配になってきたよ」

ジッチャン、
「だいじょうぶ、心配ないから、
だれだって釈迦の教えどおりに仏法を実践すると、必ずこのチエが得られるんだ。
釈迦をはじめ、このチエをさとった人たちがみんな保証しているから、まちがいないよ。

そのチエを得るには、まず自分の心のことをよく考えて、
心の実体を知らなければならないんだ。

つづく、