叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

 すべて無料です、気軽に読んでください。

人間賛歌 信仰に生きる 十九

2009年03月29日 | 信仰に生きる

 二通の封書 *
人はみな生まれてくるとき二通の封書を持ってくると言われています。
封書の一通には賞と書かれていて、もう一通は罰と書かれた封書です。

二通の封書を開けて中味を見てみましょう。
賞と書かれた封書には、自分の心を支配し、自分の成したいことに心を用
いた人に与えられる賞として、

心身ともの健康、経済的豊かさ、よい家庭、人望、友情、長寿。
と書かれて
います。

一方罰と書かれた封書には、自分の心を放置し、確たる願望目標を持た
ず、心を環境のなすままにしておいた罰として、

心身ともの不健康、生涯を通じての貧困、イヤでやる仕事、すべての面で
の不自由、多い敵少ない味方、短命等、人生に望ましくないもののすべて
がカタログのように書き込まれています。


ナポレオン・ヒルは人間の心をよく肥えた畑にたとえて次のよううに言って
おります。
 畑じたいは種子を選ばない。
 どんなものでも生育してしまう。
 それが有害な毒草であっても、
 なんの役にも立たない雑草であっても拒むということはない。
 したがってよい作物を得るにはよい種子を選び、
 雑草が生えないように、常に手入れを怠らないことが大事だ。

人間の心もそれと同じで放
っておくと雑草がはびこってしまうのだ。
大部分の人は彼らの人生から得ている収穫の少なさからみて、どうも手入
れを怠ってきたようだ、と。


経営の神様といわれた松下幸之助の、素直な心、宇宙根源の法とでもいう
もの。
大事業家で一流の哲学者でもあったアンドリゥ・カーネギーの、いかなる智
者でも説明することのできない、巨大な力、無限の叡智とでもいうもの、

大成功を成し遂げた五百人の男女が感じていた、もう一人の自分「困難に
挫けず不可能を可能にする智慧と力を持っている。」は本当にいるのでしょ
うか。いるとすればその実体とは具体的に何なのでしょうか。

それは私たちにも活用できるのでしょうか、この稿もだいぶん佳境にいって
きました。

つづく    

ひとこと。
心を放置していませんか、宝の持ち腐れで、これほどもつたいないことは
ないですよ。


  


人間賛歌 「新・仏教教室」 六十九

2009年03月24日 | 新・仏教教室

 六道輪廻(ろくどうりんね)のかたち *
ジッチャン、
「釈迦が悟った「生死を繰り返しながら永遠に続く生命」というのは、
一般的に知られている輪廻転生とは違ったものです。

輪廻転生説では、生きているときの行為によって後の世の果報がきまり、
後世が人間に生まれるとはかぎらず、動物とか他のいきものに生まれる
こともあるとされています。

釈迦が悟った「生死を繰り返しながら永遠に続く生命」は、
別のものに生まれるのではなく、前の世の続きを継続していく。としています。

 問い  前の世の続きといいますと?・・・  

大多数の人は生きているとき六道輪廻を繰り返しています。
六道輪廻とは、
地獄界(苦しみ怒る) 餓鬼界(むさぼる) 畜生界(目先のことしか分からな
い愚か) 修羅界(慢心) 人界(平らな心) 天界(喜ぶ心) 以上の六の境涯
の内のどれかを現しながら生活していること。

時には喜び、時には悲しむ。などの変化はあるが、
生命の傾向性が地獄界であれば、苦しみ怒る心が基底となり、
生命の傾向性が天界であれば、喜ぶ心が基底となる。

したがって、生命の傾向性が地獄界であれば、次の世も苦しみ怒る心を
基底とした生活の続きであり、
生命の傾向性が天界の人は、次の世も喜ぶ心を基底にした生活を続ける
ことになるのである。

以上を六道を輪廻するというのである。

 問い 生命が続いているとは思いにくいのですが?・・・

人の一生といっても、一日一日の生活の集まりですから、たとえば生と死
を日常の生活に当てはめてみると、
一日がおわり、眠ったあと、目がさめて、次の日が始まりますが、そのとき
前の日の続きをやるのであって、まったく新しいことをするワケではないで
すね。起きて活動しているときが生で、夜、眠っているときが死であるとも
いえます。

生死が続いているといっても決して奇異なことではなく、
仏や釈迦からみると当然なことですが、生命の実相を知らない人には信じ
にくいだけのことです。

つづく   


  


人間賛歌 信仰に生きる 十八

2009年03月22日 | 信仰に生きる
 幸運を呼ぶ生き方 *
あるとき経営の神様、松下幸之助は松下に入社が決まった同郷のK青年
に問いかけました。

「君ぃ、人間というものは弱い者だと思うかね、それとも強い者だと思うか
ねえ。」

K青年(後に松下に命じられて倒産寸前の会社を世界一のファクシミリ会社
に育てあげ奇跡の経営者と言われた。) は、

「人間は弱い者だと思います。
てすから何か困ったことがあったり、どうしょうもない事件に出会うと神社に
お参りしたり、宗教に頼ったりするのだと思います。」

と答えました。 松下は、

「人間というものは弱くも強くもなれる。
強くなるには素直な心を持つことだ、先入観にとらわれず物事をありのまま
に見、仮に宇宙根源の法とでもいうものがあって、それに人間は生かされ
ているのだから、
その根源の法に従っていけば何ごとでも必ず出来るんだ。と前向きに考え
ることだよ。」

と言いました。
その宇宙根源の法に従うにはどうすればよいのですか。というK青年の
質問に、松下は、

「それは君ぃ、素直な心を持つことだよ。」

と答えています。  *


日名子さん、
「先生、すなおな心というのは、どんな心なんですか。」

先生、
「松下さんが言っているように、先入観念にとらわれず、物事をありのまま
に見る能力だと思いますね。仏教では、何があってもビクともしない不動の
心のことで、平常心とも言います。
平常心について有名なエピソードがありますので紹介します。

ちょつと古い話ですが、日本がロシアと戦争をしたことがありました。
その時、当時世界最強といわれたロシ艦隊が日本に向かって攻めてきた
のです。

それを迎え撃ったのが東郷元帥の率いる日本海軍だったのですが、
日本海で大海戦をした結果、日本海軍が大勝利したのです。日本が世界
に認められるきっかけになった出来事ですが、その時東郷元帥の言った
言葉が、

 「世界最強といわれるロシア艦隊を目の当たりにして、
  平常心で戦えたことが勝因であると思う。」

というものでした。」

日名子さん、
「平常心を持つことって、ステキなんですねえ。」

先生、
「平常心を得るには、宗教をもつことが一番近道だ、というのを聞いて私
は信仰をしたのです。」

つづく         





人間賛歌 「新・仏教教室」 六十八

2009年03月19日 | 新・仏教教室

 平常心をたもつ *
山本さん、
「釈迦は法華経を後世の人のために言い残した、と言われましたがそれ
はナゼですか、
当時の人には理解できなかったからですか。」

ジッチャン、
「釈迦在世のときに釈迦に縁した人たちは、直接仏の口から教えを聞き、
すぐれた人格に触れることが出来たので、法華経の意義が分からなくても
仏界の命を現すことができました。

でも釈迦が亡くなった後の世の人の人は、
仏に会うことも出来ず、直接教えを聞くこともできません。
仏が言い残した言葉(文字)だけをたよりに仏道修行をしなければなりませ
ん。

特に法華経は釈迦の死後二千年以降の末法の人たちを救うために説か
れた教えです。末法の人々(現代の人々)が仏界の命を現すには法華経に
よるしかないのです。

山本さん、
「釈迦は生死を繰り返しながら永遠に続いている生命の実相(真実)を悟っ
て仏になったと言われましたが、
永遠の生命を悟るとどんな利点があるのでしょうか。教えてください。」

ジツチャン、
「永遠に続く生命の実相を悟ると、
生老病死の中の死苦から開放されます。生老病といっても根本は死苦が
もたらすものですから、死苦がなくなれば、他の苦もなくなって安心しきつ
て生きていけるのです。

これを仏教では安心立命の境地といっています。

どんな時でも、どんな所にいても、生命の実相を知っていれば、
なにも恐れるものはなくなるので、平常心で物事を観察し対処できるので
す。」

山本さん、
「平常心といいますと?・・・」

ジッチャン、
「なにがあっても動じない心のことです。不動心とも言いますが、
人間が天賦の能力を活かしきれないのは、イザという大事なときに心が
動揺して平常心をなくすからです。

気が動転していたとか、アタマの中がまっ白になった、というような状態で、
こうなりますとせっかく持っている能力を発揮できないのです。」

つづく      

 


人間賛歌 「新・仏教教室」 六十七

2009年03月17日 | 新・仏教教室

 世界史のナゾ 釈迦の悟り *
ジツチャン、
 慈悲について戸田先生はこうも言われていたそうです。

「青年は自分の親をも愛さないものが多いなかで、慈悲の心を会得せしめ、
功徳の大海を遊戯できる大境涯にしようと、私は日夜努力しているが、
信仰に真剣に取り組むものが少ないことを嘆くものである。」

さて話は変わりますが、
釈迦が悟ったものは何であつたのかが、世界史のナゾの一つになってい
ます。

釈迦は、生死を繰り返しながら永遠に続く生命を悟ったのですが、
これを言葉で説明してもみんな信用しないだろうし、死んで無に帰すと思
いこんでいる人々に、
 「死は終わりではなく次の生の始まりですよ。」
と言っても、あたまから反発するだけで、話を聞こうともしないだろう。と思
ったのです。

経文に、言語道断・心行所滅 (ゴンゴドーダン・シンギョウショメツと読む。
言葉で言い表すことも心で思うこともできない、という意味)とあるとおりな
のです。

それでも言わなければ人々に伝えることが出来ず、せっかくの法が自分
一人で終わってしまう。どうすべきか考えた結果、難しくても言おうと決意
するのです。
ここから釈迦の五十年以上にわたる説法行脚が始まりました。

広大なインドを徒歩で旅しながら、行く先々で説いた教えは八万四千の法
蔵といわれるぐらい膨大なものです。釈迦が説法したのを後世の弟子たち
が文字に記録し、伝えたのが仏教経典で、中国経由で日本にも渡ってきま
した。

大正時代に日本にある仏教経典を全部集めて編集したのが、大正大蔵
経典ですが百科事典にして百冊分もあるといわれますから、量の多さが
想像できるでしょう。
かりに一人の人が毎日読んだとしても、二百年ぐらいはかかると言われて
います。

法華経はその膨大な経典の中の、ほんの数十ページですが、その中に
釈迦の説いた教えのすべてが凝縮されているのです。


釈迦は生死を繰り返しながら永遠に続いている生命を、
「妙法蓮華経」と名づけました。妙法蓮華経(法華経)二十八品は、釈迦が
悟った仏界の命の素晴らしさを、これでもか、 これでもか、と褒め称えた
経典です。

人々の理解の枠を超え、釈迦だけが悟った仏界の命を、
分かっても、分からなくても後世の人に伝えるために説いた経ですから、
法華経は信じ難く解し難いといわれるのです。

つづく   

 


 

 


人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 二十五

2009年03月15日 | 幸運を呼ぶ法則

 奇跡を起こせ 続き * 
サン・テグジュベリ(フランス・星の王子さま・の著者)の詩に次のようなの
がある。

     この人生には 解決策など ないんだ。
     あるのはただ 前進していく 力だけだ。
     その力を 創造しなければならない。
     そうすれば 解決策など ひとりでに生まれてくる。

   私に次の句をつけることが許されるなら、

     それは幸運を伴って。

とつけ加えたい。困難や壁に突き当たって、あれこれ解決策を考えたり、方
法をこうじてみても、私の経験からいっても旨くいったためしがない。
とにかく困難から逃げずに、そのときになすべきことをなすために前に進む
ことだ。そうすれば天の一角から幸運という名のロープが降りてくるのであ
る。

証券会社の歩合外務員で稼いだ金と、その後も大きな幸運に恵まれて(こ
れについては拙著、未知なる力.に詳述している)さしもの借金もかたづいた
ので、私は新しい事業に取り組んだ。もともと野心家であったうえに、一時
は挫折したが事業家で成功する夢が捨てきれなかったのである。

沖縄近海にすむ海ヘビ(学名.ラチカウダ)を現地ではイラブウナギと呼んで
いる。これが精力を強める効果があることは、古くから知られていた。沖縄
ではこれを材料にした栄養料理が珍重されている。

私はこれに目をつけて、イラブウナギを原料にして精力増強のドリンク剤を
つくれないかと考えたのである。ドリンク剤は当たれば大儲けできるが、大
手の製薬会社でも開発から軌道に乗せるのはたいへんなので、ズブの素
人の私に出来るワケがない、と言う声もあった。

だがやらない先に出来ないというのは、私の性格に合わないので、とにか
く研究開発に取り掛かったのである。その後一年近いあいだ試行錯誤をく
りかえしたが、とうとうドリンク剤のサンプルを完成させたのだ。試しに関係
者に飲んでもらったところ、おいしくてよく効く、と評判もなかなかのものだっ
た。

そこで製品を造って販売することに踏み切った。製造コストの面と生産を委
託した工場の都合もあり、ワンロットで十万本の製品を造ったのである。

つづく   

   
  


人間賛歌 「新・仏教教室」 六十六

2009年03月13日 | 新・仏教教室

 絶対幸福と相対幸福 *
山本さん、
「先生、仏の命は絶対幸福な命といわれましたが、
絶対幸福というのはどんな幸福なんですか、詳しく教えて頂けませんか。」

ジッチャン、
「創価学会・二代会長の戸田先生は、

「幸福には相対的な幸福と、絶対的な幸福の二つがある」

と言われています。
相対的な幸福というのは、自分が欲しがっていたもの、例えば家とか車と
かカネ、若い人なら恋人という場合もあるだろう。
それらが手に入ったとき感じるのを相対的幸福というのだ。

この幸福は対象物がなくなったとき、
例えば株で損してカネがなくなったり、彼女に別の男性ができてフラレたり
すると、幸福は消えてしまうし、ときには絶望して不幸のドン底に落ちる場
合いもある。

相対的幸福は、物とか人とか、何かに支えられて得られる幸福といえるか
ら支えるものがなくると幸福も消えてしまうのだ。

一方、絶対的幸福というのは、
自分の心を磨き鍛えて、なにがあっても恐れず、逆になんでも喜びに変え
てしまう心になることだ。
例えば、借金取りに出会っても嬉しい、という心になればシメたものだ。 

その心になるには信仰に励んで、ご本尊様に題目をとなえ、
己身の仏界の命を現すしかほかに方法はないのだ。

仏界の命が現れるようになると、相手を思いやる慈悲の心が出てきて、
慈悲の心は宇宙の心と通じるから、宇宙大の智慧が湧いてくるようになる
んだ。
こうなると何もコワいものはなくなり、自分を生んでくれた親や、支えてくれ
た全ての人や社会に感謝する心になってくるのだ。

いったんこの心になると永久に消えることがないから、絶対的幸福という
のだよ。」   (趣意)

以上のように話されていたと聞いていますが、山本さん趣意をわかって
いただけたでしょうか。」

山本さん、
「先生、ありがとうございました。おかげでよく分かりました。それにしても
仏教というのは奥の深い教えなんですね。」

つづく   

 

 


人間賛歌 信仰に生きる 十七

2009年03月10日 | 信仰に生きる
 情報 *
世界同時不況の影響は日々強まっています。
中国が今年度八パーセントの経済成長を目指すことや、中国国内の鉄鋼
や自動車の販売にやや明るい兆しが出ていますが、アメリカを中心にした
先進国はまだ混沌としています。

千九百三十年代の世界不況を克服したルーズベルト大統領の特別顧問
になったナポレオン・ヒルは、
国民に明るい話題を提供しようと考え、ラジオ局に協力してもらって、
ニュース番組を明るいニュースから放送するようにしたそうです。

当時のラジオ番組の第一声は、

「みなさん、おはようございます。
 きょうはこんないいニュースがありますよ! }

というアナウンサーの明るい声で始まったといいます。
結局、ニューディール政策は成功してアメリカは不況を脱するのですが、
政・官・民が一体となって取り組んだ結果でしょう。


情報について興味深い話がありますので紹介します。
スイスのある地方に伝わる話ですが、実際にあった出来事だそうです。

大吹雪の夜、一人の男が、レマン湖畔の古いホテルを訪ねてきました。
男はからだについた雪を払い落とすと、ダンロの前にきて、かじかんだ手
を暖め、
生き返ったような表情で、ホテルの主人に言いました。

「ここの明かりを目指して、猛吹雪の中をいちもくさんに歩いてきたんだ。
ここについたときは命拾いしたと思ってホッとしたよ。」

主人は不思議そうな顔をして男を見ていましたが、

「お客さんは、どちらから来なさったかねぇ。」

と聞きました。男は窓の外を指さして、あっちから、真っすぐ歩いてここに
来たのだ。と言いました。

「お客さん、お客さんが歩いてきなさったのはレマン湖の上ですよ。」

と主人が言ったとたん、男はショツクで気をうしない、ダンロの前で倒れた
まま息を引き取りました。
男は自分が、凍結したレマン湖を渡ってきたことを知らないほうがよかった
のです。

二つの例でみたように情報には良い面と悪い面があります。
智慧を磨き心を鍛えていないと、情報が氾濫する今の世の中を安全にす
ごすことは難しいのです。

つづく   



人間賛歌 「新・仏教教室」 六十五

2009年03月07日 | 新・仏教教室

 仏(絶対幸福)のいのち *
ジッチャン、
「山本さん、私に仏の世界が分かるのかというご質問ですが、
法華経は生死を写し出す明鏡ですから、日々磨いている私の命に生死を
見通す智慧がでないワケがないと思っています。

釈迦が法華経で説いた世界は、一般には生死のワクといわれる生を超え
たところで、
死とも、妙とも、不可思議とも言われるところです。

それを言葉で説明することは難しいし、生のワクの中にいる人は聞いても
理解することは出来ないでしょう。
生死のワクに閉じこもっている人が、ワクを超えた外のことを聞いても、
オトギバナシか、オオブロシキにしかとれないからです。

法華経は世界中の無数の人々が読んで修行しましたが、悟りの境地に入
った人はそんに多くはいないと聞いています。

法華経の教えを信じれば幸せになり、
信じなければ幸せになれない。
と言われて信じようとしても、信じ難いといわれますと、いったいどうすれ
ばよいのか、うろたえますよねえ。

でも心配はいりません。
末法になって日本に出生された日蓮大聖人が図顕された御本尊がありま
す。釈迦の法華経をなん百回読んでも理解できない人々のために、

法華経で明かした仏の命を、ご自身が悟られ、万人を仏(絶対幸福の境地)
に導くために、書き顕されたのです。


古文で分かりにくいでしょうが、御本尊についての大事な文証なのでご紹
介します。

「日蓮がたましいを墨にそめながして・かきて候ぞ信じさせたまへ、仏のみ
こころは法華経なり、
日蓮がたましいは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」

これは日蓮大聖人が信徒に与えられたお手紙の一節で、日蓮がたましい
というのは大聖人のお命のことです。
法華経の意味が分からない人でも、この御本尊に南無妙法蓮華経と唱え
ると、直ちに日蓮大聖人と同じ命が現れる。と教えられています。

つづく   

  


人間賛歌 「新・仏教教室」 六十四

2009年03月04日 | 新・仏教教室

 オオブロシキ?   *
山本さん、
「先生、法華経で説いている仏の世界は、きらびやかで、活気に満ち、
欠けるものは何一つなく、すべて具わっていて、過去 現在 未来と永遠に
続き、宇宙大の広がりをもった広大なものである。

と言われましたが私には想像できません。

しかも仏の悟った仏界の命が凡人の私たちにもある、と言われましても信
じられないのです。
法華経はオトギバナシかオオブロシキのようで、理解できませんが本当に
そんな夢みたいな事があるのでしょうか。」 

ジッチャン、
「私はあると信じます。
法華経で説く仏の命の素晴らしさを聞いて歓喜し、信じる人ははかり知れ
ない福徳を得るが、それを信じない人は長いあいだ苦の絶えない世界に
いて、そこから脱出できないと釈迦は言うのです。

信じれば幸せになり、信じなければ不幸から抜けれない。
というのなら信じなければ損ですが、それでもなかなか信じられないので
す。

法華経の冒頭で、

「この経は信じ難く、解し難いが、一句でも聞いて魂に入れる人は、
仏界に入ることが出来るだろう。」 (趣意)

と釈迦は宣言して法華経の本題に入っていくのです。」

山本さん、
「先生、だれでも幸せになりたいですから信じたいと思いますが、
ナゼ法華経を信じることがそんなに難しいのですか。」

ジッチャン、
「それはねえ、山本さんにかぎらずこの娑婆世界(シャバセカイ・現実の
世界のことで苦労が多く忍耐する世界のことを仏教では娑婆世界という)
に住んでいる人は、

生まれてから、死ぬまでのあいだの限定されたワクの中に閉じこもってい
て、法華経で明かす時間的に無限で、空間的には宇宙大に広がる世界を
想像することも、夢みることも出来ないからです。」

山本さん、
「釈迦はそれを悟ったのですか、
それから先生はその世界が分かるのですか。」

つづく