叙事詩 人間賛歌

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人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 三十七

2009年10月10日 | 幸運を呼ぶ法則

  
  十二、欺瞞(ペテン)を見抜け

 武士社会出現のもととなった保元の乱は、一一五六年(保元元年)七月
二日、鳥羽上皇の逝去を契機に起きた。上皇派の後白河天皇をかついだ
源義朝、平清盛連合軍と、崇徳上皇派についた源為義、平忠正連合軍の
勢力争いである。

白河殿にこもった崇徳上皇派を、九月十一日の朝、義朝、清盛連合軍が
急襲してこれを破ったが、この乱の後始末が悲惨をきわめた。
崇徳上皇は讃岐に流され、平清盛は叔父の平忠正の首をはねた。これを
見た源義朝は、実父である源為義の首を落とした。武勇ばかりで人のよい
源義朝は、狡猾な清盛の策略にのって、源氏の棟領である実の父を殺し
た。

 これが因になって源氏の勢力は二つに割れたのだ。そして後年、義朝が
破滅をむかえる平治の乱の因となるのである。

保元の乱後、着々と勢力を拡大する平清盛をみて、源義朝はあせった。
一一五九年(平治元年)十二月九日、ついに義朝は兵をおこした。清盛が
平氏一門をつれて、伊勢の熊野詣にでて、京を留守にしているあいだに
一挙に勢力挽回をはかったのである。
義朝はいっときは京の実権をにぎるが、急きょ駆け戻った清盛と、為義派
の源氏勢も加わった連合軍に襲われて大敗し、東国をめざして逃走した。

 嫡男頼朝もいっしょに逃走したが、途中猛吹雪にあって父一行と離れば
なれになった。
頼朝は一人で荒野をさまよっていたが、追跡してきた平家方に捕えられ
た。一方義朝は旧臣の屋敷まで逃れたが、休息していたところを旧臣に裏
切られ謀殺された。

捕えられた頼朝は京に連れもどされ、打ち首になるところを、清盛の義母、
池の禅尼の慈悲で死を免れた。伊豆に流された頼朝は、無念の死をとげ
た父義朝と、一門の菩提をとむらうために、法華経の経典八万四千字を千
回読むことを決意して、それを実行した。

人間が本来持っている無限の力を教えている法華経を、八百回以上読み
切ったとき、頼朝に転機が訪れた。

次回に続く        



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