叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

 すべて無料です、気軽に読んでください。

人間賛歌 「新・仏教教室」 五十二

2008年12月28日 | 新・仏教教室
  続、六ハラミツとは ?
ジッチャン、
「六ハラミツとは前回述べたとおりですが、
これだけ凄いものが題目を唱えただけで得えられると言いますと、
山本さんでなくても、信じられない人が多くいると思います。

このうちの一つだけでも、自分にはとても手が届きそうにないと、思えるの
に六つがぜんぶ得られるとなるとなおさらです。

これだけのものを、新たに会得しようとするとたいへんですが、
元々、自分の生命に具わっていると知れば、はなしは違ってきます。
取り出す方法さえ分かれば、だれだって取り出して活用できるのですから。

日蓮大聖人は、
おりおりのご指導で、釈尊ほどの仏にやすやすとなれる方法がありまよ。
と言われ、それには、

「南無妙法蓮華経と唱えて、我が身に具わっている仏の命を呼び現す
 ことである。」

と教えています。

仏の命が現れると先ほど申し上げた六ハラミツの智慧は仏の命に含ま
れていますので、六ハラミツを得る修行をしなくてもよいのです。 
山本さん、ちょつと長くなりましたが、分かっていただけたでしょうか。」 

山本さん、
「先生ありがとうございました。
おかげで、私にも凄い能力が具わっているのだと、
いままでの自分観を一新することかできました。先生に感謝します。」

ジッチャン、
「そうですか、山本さんにそう感じていただけたら私も嬉しいですよ。
もう少し続けたいと思いますが、よろしいでしょうか。」

山本さん、
「先生長いのにはなれていますので、
どうぞ、気をつかわないで進めてください。たくさん聞けて私のほうが
ありがたいですから。」

ジッチャン、
「長いのになれていると言われると、くすぐったい気もしますが、それでは
先に進みましょう、
法華経の直前に説いた無量義経十・功徳品三に、

「いまだ六はらみつを修行する事を得ずといえども、
 六はらみつ自然に在前(目の前にあること)し」

との経文があります。
これを見ても、元々自分のモノですから、だれに遠慮もいりませんので、
おおいばりで使ってくたさい。
と釈尊も言っているのです、心強いではありませんか。」

つづく   

人間賛歌 「新・仏教教室」 五十一

2008年12月25日 | 新・仏教教室

 六ハラミツとは ? 

山本さん、
「先生、疑うワケではありませんが、
題目の力というのは私にはよく分かりませんが、先生がそれほど言われ
るのですから、先生の言葉を信じたいと思います。

ですが、六ハラミツ行をしなくても修行したと同じ結果が得られる、
というのはどうも理解しにくいのですが・・」

ジッチャン、
「山本さんが不審がるのもムリはないと思います。
六ハラミツというのは、長い時間と、たいへんな苦労をして、
仏道修行した人が修行の結果得られる境地ですから、
何も修行しないで題目を唱えただけで得られるというのは、フにおちない
かもしれませんね。

そこで六ハラミツとは何かについて、もう少し詳しく話しましょう。

ハラミツとは智慧を意味しますから、仏道修行の結果得た六つの智慧の
ことと言えます。内容は、

 一 布施 (フセ )
人にほどこすことことを言い財布施(カネやモノを与える)と、
法布施(正しい生き方を説いた仏教を教える)の二つがあります。どちらも
他の人を思いやる利他の心から出る行いです。

 二 持戒(ジカイ)
不幸にならないためにしてはならない掟で、人界(人間の境涯)には五つ
の戒があります。

1 人を殺さない。 2 ウソをつかない。 3 人のものを盗まない。
4 邪淫しない。 5 酒に飲まれない。

以上の五戒をたもった上で、

6 貪欲でない。 7 怒らない。 8 愚かでない。
9 二枚舌をしない。 10 キレイごとを言わない。

以上の戒をたもつ人は、十善戒を持つ人で天界に住むといわれます。
例えば、天子の別名を十善の君と呼びますが、十善戒をたもつ人という
意味です。

三 忍にく(忍耐のこと)
現実世界のことを娑婆世界とも、忍にく世界ともいいます。
現実世界に苦悩が満ちているのは、苦労に耐え、心を鍛え磨き、人間が
本来持っている仏性を現すために修行する場であるからだ。
と教えています。

四 精進(ショウジン)
人生の目標(願望)を持ち、途中であきらめずに前に向かって進む人間
本来の力です。

五 禅定(ゼンジョウ)
自分の信じるところに心を定め、世間の動きにいちいち左右されない
不動の心です。

六 智慧(チエ)
仏のもつ智慧で、世の中の全てを見通し、なにをやっても間違うことのな
い最高の能力のことです。

次回に続く   

 


人間賛歌 「新・仏教教室」 五十

2008年12月20日 | 新・仏教教室

 最高の智慧 *

山本さん、
「先生、随縁真如の智慧というのは凄いんですね。
その智慧を出すにはどうすればよいのですか、私みたいなものでも智慧
が出ますでしょうか。」

ジッチャン、
「もちろん、山本さんにも出ますし、だれでもその気になれば出して活用
することが出来ます。

真如というのは、真理とおなじ言葉で、
釈迦が悟った仏界の生命が現す智慧、すなわち仏の智慧のことです。
世の中のすべてを見通し、何をやっても間違うことのない智慧のことを、
随縁真如の智慧というのです。

この智慧を、
特別に苦労をしなくても、
長いあいだ時間をかけて修行しなくても、
直ちに現す秘法があると、日蓮大聖人は教えています。

その
秘法とは、
「ただ南無妙法蓮華経と唱えることである」と簡単明瞭に教えてくださっ
ています。ですから山本さんも、恥ずかしがったり、本当だろうかと疑う前
に先ず題目を唱えてみることです。

題目を唱える前の自分と、題目を唱えた後の自分がどう変化したか、
すぐ気がつくことがあります。
私の場合は、
初めて題目を唱えた日に、悩みぬいていた不眠症が治って、
朝までグッスリ眠れたという貴重な経験をしました。そのときの嬉しさとい
ったら例えようがないくらいです。
酒で頭を麻痺させないと、怖くて体を横にすることも出来なかったほどで
すから・・


経典には、菩薩になる条件である六ハラミツ行( 布施、持戒、忍にく、
精進、禅定、智慧の各行のことで最高の徳 )を得る修行をしなくても、
題目を唱えれば、六ハラミツを修行したのと同じ結果が得られる。と書い
てあります。

そのくらい題目を唱える効果は大きいのですが、山本さん、想像がつき
ますか。
先師の戸田先生は、
「題目をとなえると頭の悪い人は頭がよくなり、貧乏でどうしょうもない人
でも、大金持ちになれる因をつくったことになるんだ。」
と言っていたそうです。

つづく   

 

   


人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 二十二

2008年12月18日 | 幸運を呼ぶ法則

  八   奇蹟を起こせ 続き * 

私は思いがけないツキに恵まれ、つぶれた会社の後始末をすることがで
きた。借金は残ったが、夜逃げをすることなく、一家離散もなく、自分の家
を手放した程度ですんだのは、不幸中の幸いであった。
しかし家族を支え、借金を返していくには相当稼がなければならないので、
私は証券会社の歩合外務員になろうと考えた。

歩合外務員というのは、証券会社で一定の給料で働く社員セールスでは
なく、出来高に応じた歩合給で働く社員のことで、どちらも有価証券外務員
の資格が必要である。

私は、株の顧客はいなかったが、証券外務員の資格があったので、元手
いらずでてっとりばやく稼ぐには、これが一番だと考えたのである。

私は知り合いのO証券会社の役員を訪ね、事業に失敗した事情を話し、
外務員になって稼ぎたいことを話した。

役員氏は、

「顧客のことは努力すればなんとかなるだろう。ウチの会社に入れてあげ
るからガンバリなさい。」と快く採用してくれた。

私がO証券を訪ねて二、三日たったころのことである。映画界の名門N社
の常務が、旧知の仲であるO証券の役員氏を訪ねてきた。N社の常務は、
役員氏に向かって、

「実は内々の相談があってきたのだが、ウチの会社でN光機の株を買い
占めようと思っている。投資が目的だが、場合によっては系列の会社に
入れてもよい意向だ。
ついては買い注文を扱ってくれる社員を一人紹介してもらいたいのだ。
情報がもれると困るので
口の固い男で、できれば兜町にあまり知り合いのいない、新顔の人がよ
いのだが、」

と頼んだのである。

私が入社に必要な書類をつくって、O証券に行くと、役員氏は私を呼んで、

 「きみは運のいい男だな。まだ入社しない内に客の方が、向こうからや
ってきたよ、それも大口のいい客がね。きみの担当にするから誠意をもっ
てやってくれ。」

と言ったのだ。私はここでも、願ってもない大口の顧客を手に入れる、
幸運に恵まれたのである。
私が担当するようになってから、N社が買う株はどれも思惑通りに値上が
りした。その結果、N社もそれにからんだ周りの人たちも、大きな利益をあ
げたのである
その人たちは私のことを”福の神が来た”と言うようになった。

続く  
 


人間賛歌 信仰に生きる 九

2008年12月14日 | 信仰に生きる
 漂流人間と非漂流人間 *

一個のドングリのタネから樫の木が生まれ、
一粒のトマトのタネから トマトの木が生まれます。 
樫になる。 トマトになる。 という明確な目標がタネの中にあり、
水と空気と太陽の恩恵を受けて実現した。

と発想することは、明確な目標をもって行動する人の気持ちを大きくして
くれます。

私たちの住んでいる地球は、毎秒約三十キロの猛スピードで365日五時
間四十八分四十六秒かけて、太陽の周りを約四億七千キロの旅をしております。
百回ぐらい廻るうちに今地球にいる人は一人もいなくなり、
次の代に代わるのですが、地球自体は変わることなく四十億年も運動をし
続けています。

地球は自転しながら365日ちょつとかけて太陽の周りを一周するという
明確な目標をもち、寸時も休むことなく活動 (観念ではないこと) している
のです。


明確な目標をもつということは、
一個のドングリが樫の大木になり、
地球がどんな精巧な機械でもかなわない精度で、
寸分の狂いもなく太陽の周りを廻っているのと同じ、巨大な力を活用する
ことなのだ。

と考えることは、やる気のある人に限りない励みと、確信と、勇気を与え
てくれます。
無限の叡智=大自然の巨大な力、とでもいうものが本来人間には備わっ
ており、その力を活用せずに成功を成し遂げた人は一人もいない。
とのカーネギーの言葉のもつ意味の大きさが分かります。

ナポレオン・ヒルはこの世の中には二種類の人間がいて、一っは漂流
人間で、もう一つは非漂流人間だといっています。

漂流人間は明確な目標をもたず、
無限の叡智と大自然の巨大な力が、自分に備わっているのに、
それに気づかず、活用しょうともしないで、人生を無為に過ごし、
失意のうちに一生を終える人のことです。

非漂流人間は明確に目標をもち、
自己を鍛練しながら、目標実現に向かって努力し、
巨大な力の存在に気づき、それを活用しようと自己を高め、
目的に向かって突き進んでいる人のことです。

「行くべき目的の港をもたない船には、風も応援することが出来ない」

有名な西洋の箴言です。

「明確な目標をもたないで成功を勝ち取った人など、今まで一人もいない
し、これからもいないだろう。」

とカーネギーは断言しています。

注、
カーネギーもヒルも仏教を知らなかったので、無限の叡智とか、大自然
の巨大な力と言っていますが、仏界の生命を指していることは間違いな
いと確信します。
ここでは仏界の生命の比ゆとしてそのまま使いました。

つづく  


人間賛歌 「新・仏教教室」 四十九

2008年12月11日 | 新・仏教教室

 自他ともに幸せになる智慧 *

ジッチャン、
「御本尊のことを、もったいなくも幸福製造機と申しあげるのである。
と言われた創価学会二代会長の戸田先生が、こんな話をされていたと
聞いています。 

「ご本尊様には、
どんな難病でも治せる薬や、いくら使っても使い切れないほどのカネを
用意してあるが、みんなは遠慮して取りにこないのだ。

ご本尊様のほうは、
いくらでも自由に取って使いなさい。
癒えじと憂うことなかれ、と経文にあるが、
自分の病は治らないのではないかとか、自分はカネに縁がないから願っ
てもムリだろうと。

ゼッタイあきらめてはならないと仏様は厳命されているのだ。始めから疑
ってかかるから功徳が出ないのだ。」と、  


私はこのことを聞くたびに思い出すことがあります。それは自動車王、
ヘンリー・フォードのエピソードです。
無一文からスタートして自動車の大量生産に成功し、一躍脚光をあびた
フォードを新聞記者が訪ねてきました。

新聞記者はフォードに、

「ふなたは何もないところから叩き上げて、大会社をつくりましたが、
 その秘訣はなんだと思いますか。」

それに対してフォードは、

「きみは私が何もないところから会社をつくったように言っているが、
それは間違っているよ。
私は、宇宙にあるすべてのものは、その気になれば使うことが出来ると
いうことを知っていたので、それを活用したまでだよ。」

と答えたといわれます。

フォードは工場の労働者を雇うのに、当時の常識を破る高賃金をだして
彼らを雇いました。安い賃金でこき使うのが当時の経営者の常識だった
のですが、それをブチ破ったのです。

労働者が安心して働き、幸せな家庭をつくれるように高い賃金を払った
のです。
フォード工場の従業員は団結して会社発展のために尽くしたので、やが
て世界一の大会社になりました。
尚、フォード社では労働争議が一度もなかったことで知られています。

凡人の智慧は自己中心に考えますが、
仏の智慧は他者の幸せを願う思いやりが特徴です。
フォードは仏教徒ではありませんが、他者を思いやる智慧、
すなわち随縁真如の智慧をもっていたといえるでしょう。

他者を幸せにしたぶんだけ自分に幸せが返ってきます。他者を不幸にす
れば、自分に不幸が返ってきます。
単純なようですが、これが真理で、他者の幸せを願う心に随縁真如の知
慧は無尽蔵に湧き出てくるのです。

つづく   

 


人間賛歌 「新・仏教教室」 四十八

2008年12月09日 | 新・仏教教室

 真理を知る智慧 *

山本さん、
「仏教の智慧は信がなければ得られない、
と言われましたが、信仰をしなければ分からないということですか。」

ジッチャン、
「仏教、特に法華経は智慧を大事にします。
智慧そのものが仏であるといってもよいでしょう。仏の別名を報身(智慧)
如来と呼ぶくらすですから・・

ほかの宗教は、神とか超能力者に頼る信仰ですから、
智慧についてとやかく言わないようです。
神にお任せしてとか、後生は阿弥陀仏にお願いして極楽浄土に往生す
るのだから、
今世でしっかり念仏をあげておこう。というように考えます。

もちろん聖書を勉強したり、牧師や僧の説教を聴いて学ぶことはありま
すが、それは神や仏の教えを学び、それに従って生きることを知るため
で、神が中心であり、
自分の智慧を磨いて人生に活かす、というようなことではないようですね。」

山本さん、
「先生、 仏教でいう智慧というのは、神や仏に頼るのではなく、
自分の智慧で生きていけということなんですか。」

ジッチャン、
「そう、自分の運命の主体者は神や仏ではなく、自分であることを知れ。
ということです。

仏教の智慧には二つあります。
一つは不変真如の理を知る智慧と、もう一つは時と場所に応じて最高
の能力を発揮する随縁真如の智慧の二つです。

不変真如の知というのは、よくいわれる真理のことで、
過去、現在、未来の三世に亘って変わらない法則です。
その法則が生命に元々あると見抜いたのが仏法で、すべての現象は
生命の現れであり、現れ方は因果の法則に基づいて現れる。
ということから始まるのです。


因果は生命に始から具わっていて、縁に出会って十界の境涯のうちの
どれかを現す、というのが基本になります。
不変真如の知については、今まで折りにふれて話してきましたので、
ここでは随縁真如の智慧について考えてみたいと思いますが、どうでし
ょうか。

次回からそれに入っていきましょう。

注、因果について 
地獄界から仏界まで、十界の境涯が生命に内在していることを十界具足
という。

つづく   
  

 


   


人間賛歌 信仰に生きる 八

2008年12月05日 | 信仰に生きる

 大学教授の信仰体験 *

私も主催者の一人であった仏教セミナーの講師に招いた大学教授
O博士の信仰体験を紹介します。
O博士は計量経済学の世界的大家であり、S大学で経済学部の教授をし
ています。

 江戸っ子の博士は子供のころ、
近所のすし職人のイキな姿にあこがれてすし屋になりたいと思っていまし
た。
学校に入り勉強していくうちにすし職人になりたいという子供のころのあこ
がれは消えて、
経済学の分野で活躍することを目指すようになりました。

大学で計量経済学を専攻した博士は、
やがて国連に入り、後進国の経済発展のアドバイザーとして世界を舞台
に活躍したのです。
すし屋になるより、自分は経済学のプロになるほうに適しており、
そのほうが世の中の役に立てるようになりましたと・・

そして、
人間のからだにも同じようなことが言えますといって、博士は、

眼になる細胞は、眼になるのにもっとも適した細胞が眼になり、
肝臓になるのは、肝臓にもっとも適した細胞、
(人間の細胞のなかでは最も頑強で戦闘的性質をもつている )がなるよう
です。

それぞれの細胞は、自分のなりたいものに目標を定めて、希望どおり眼
や肝臓になりますが、それらをコントロールしている神秘的な力の存在を
自分は認めざるをえない。

博士は科学者ですが、
宇宙の一切をコントロールしている巨大な力が存在するように思いだし
たのです。
米国に住んでいた博士は、子供の教育のことを考え、四十歳をすぎたら
日本に帰り大学の教授になりたいと思っていました。

その時のために東京の千代田区にマンションを買っていたのですが、
そのマンションを値段はいくらでもよいから、ゼヒ譲ってもらいたい。という
人が現れたのです。
方位学にこっている地方の資産家で、
その場所に住むと長年の悩みが解消し、希望が叶うと信じているのです。


再三の頼みに断わりきれず、結局時価の倍くらいで譲ってあげました。
その金で成城学園にかなり広い土地を買ったのですが、それからの土地
ブームで成城学園は値上がり率トップになり、
博士は思ってもいなかった土地長者の一人になったのです。

ゼヒ行きたいと願っていたS大学の経済学部教授に迎えられ、
成城学園の自宅から通勤の便もよく、自分はラッキーであり、
自分に幸運をもたらせてくれた巨大な力に常に感謝している。
と語っていました。

注、 O博士は御本尊をたもち、学生時代から唱題行を続けていました。

つづく     

 


人間賛歌 「新・仏教教室」 四十七

2008年12月03日 | 新・仏教教室
 近すぎて見えないまつ毛(宝)  *

ジッチャン、
「私ぐらいの年になって人生を振り返ってみますと、
楽しいこともありましたが、つらいことの方が多かったように思います。
私ひとりに限らず、私が見たり聞いたりした人の中にもこれは共通してい
るようです。

仏典には、

「この世の中は、もろもろの憂いや怖れ、苦悩が満ちている苦界のようだ。」

とありますが、本当にそのとおりだと実感します。
私の師匠は、
つらいことや、苦しいことに出合うから不幸なのではない。
それに負けてしまう心が不幸なのだ。 と教えています。

私も師匠の教えを守って、何があっても負けない強い心をつくろうと、
毎日、努力しているところです。

ところで人間は、
つらいことや、苦しいことが続いたり、人生が思いどおりにいかないと、
自分以外の神とか仏にすがって救ってもらおうとします。

この世の中の支配者である神や、
大慈悲心で人間を救おうとする阿弥陀仏のような、全知全能であり、
人間を超えた力をもつものに頼るのです。
そして恩恵を期待したり、
困難な状態から救われようと祈りますが、
これを信仰というのであれば、比較的たやすく信仰に入ることが出来ます。


仏教でも法華経を説く前の教えでは、
大慈悲心をもち、全知全能の阿弥陀仏や大日如来などを信仰の対象に
していました。
しかし法華経に来てそれらをぜんぶ否定したのです。

全知全能の仏とも如来ともいわれるものは、自分の生命の中にあり、
それを現せば、仏と同じ智慧と力を持った人間になり、
生老病死の四苦を脱して、苦しみから解放された自在な境涯になれる。
と教えたのです。

それまで釈迦を信じてついてきた人たちは驚きました。
阿弥陀仏も大日如来も仮の仏で、本当の仏は自分の生命にあると言わ
れても、信じられず、信仰をやめた人が大勢いました。
あなたの生命の中に全知全能の仏がいますよ。
と言われても、みなさんは信じないでしょう。

御本尊は、その仏の命が分からない人のために、目で見て分かるように
書き顕された仏(日蓮大聖人)の御命です。
と言われても、これが信じにくいのです。

紙に字が書いてあるだけではないか、と御本尊の力を知らない人は思う
のです。私もそうでしたし、いま信仰に励んでいる人も始は私と同じだった
と思います。

御本尊の力が分かるために信仰をするのです。信仰しなければ分かりま
せん。
仏教の智慧の大海は信をもってのみ入ることを得る。と言われるとおりな
のです。

つづく