叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 若い人の仏教教室 八

2007年01月31日 | 若い人の仏教教室
 次のテーマに入るまえに、利己主義者がたどる道について話しておこう。
人間の歴史は悲惨のくり返しであったが、
ウラを返せば「利己主義」がたどった道であったといえよう。

それをいちいち書いていたら、キリがないので自然界の例を一つあげて参考にしょう。


 「死海」

エルサレムの東方、イスラエルとヨルダンの国境にある死海には、
ヨルダン河をはじめ六つの河川が流れ込んでいる。
注、
ヨルダン河。キリストが洗礼を受けたところと伝えられている。

地球上にあるほかの湖には水の出口があって、河川から流れ込んだ水は、
出口から流れ出て、一定の水位をたもっているが、死海には水を流す出口がない。

そのため流れ込んだ水はたまるだけで、ほかに出すことがないのだ。

ながい年月をかけてたまった水は、水分だけ蒸発し、塩分だけ残った。
その結果、水中にしめる塩分の割合は二十五パーセントで世界一である。

このため死海は、魚やほかのいきものが住めない死の海となった。
世界中にある湖では、魚やビセイブツなど多くのいきものが生活している。

それをめがけて鳥たちがあつまり、
湖のまわりは、鳥がはこんできたタネから、
草や木が茂り、いきものたちの楽園になっている。

人間もいこいを求めて集まってくるが、死海にはそれがない。
自然界の恵みをうけるだけで、他に与えることのないこの湖は、
いきもののいない異様な世界になったのだ。


死海のように、自分が得るだけで、他に与えることを知らない、
利己主義者のまわりには人が近寄ってこなくなり、栄えるということもない。

死海の姿は、人間に利己主義にならず、
他のために役だつ利他の生きかたをするよう、教えているのだ。

続く、




人間賛歌 若い人の仏教教室 七

2007年01月29日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「ケイタくん、環境をみかたにすればスゴイことができるだろう。
自動車の大量生産で大成功したフォードに、新聞記者がこんな質問をするんだ。

「あなたはハダカ一貫からたたきあげて、
大自動車会社をつくるのに成功されましたが、その秘訣はなんだとおもいますか」

するとフォードは、

「キミの質問はまちがっているよ、私がなにももたないハダカ一貫からたたきあげたように言うが、
私には、宇宙にあるすべてのものは、その気になれば使えるということを知っていてね、
それを使ったまでのことだよ」

と、答えたといわれる。


環境をみかたにすると、自分の願いがなんでもかなうのだ。
反対に環境を敵にまわせば、始めは順調なようでもやがて行き詰まり、
結局破滅するのがオチなんだ。

環境が敵になるのは、
利他の反対の利己主義をとおすと、そうなるのだ。

ジッチャン、
「日吉丸やフォードの例をきいて、ケイタくんはどう思う」

ケイタくん、
「そうなればスゴイなと思うけれど、フォードや秀吉は特別な人で、
ぼくなんかにはムリかなと思いますよ」

ジッチャン、
「ケイタくん、正直にこたえてくれてありがとう。
この話を聞いた人みんなケイタくんとおなじように考えると思うね、

信じたいけれど自分にはムリだろうと、
だがここがだいじなテンなんだ。まえに話したね、

お釈迦さんがすべての人のいのちには、
仏性(ブッショウ)といって、計り知れないチエとチカラと福運があるが、

ながいあいだ、自己中心の生活をかさねてきた結果、
その仏性がかくされているから、自分には不可能だと思うのだ。

だがホントーは、秀吉やフォードがやったように、
だれでも自分の仏性をあらわせば、自分の個性をサイコーに生かした、

輝かしい人生を送ることができるのだ。
その仏性をあらわす方法について、仏教はいろいろ教えているが、
それは次のテーマで取り上げることにしょう。

ポイント、
仏性.生命の真理を認識した釈迦のことを仏(ブッ)とか覚者(カクシャ)と
いう。釈迦とおなじように真理を認識することができる性質のことを仏性
といい、だれのいのちにも具わっている。

続く、

 



 


人間賛歌 若い人の仏教教室 六

2007年01月25日 | 若い人の仏教教室
 貧しいひゃくしょうの子だった日吉丸は、ハリを売り歩いて生活しいいたが、
一日じゅう歩いてもハリが売れない日は、食事もとれず野宿をしなければならなかった。

ハラをへらして歩いていると、道すじにカジ屋があったので、
炭で火をおこす作業を手伝ったところ、いくらかのダチンをもらった。

また、べつの商家のまえの道をホウキできれいにそうじし、
水をまいたらお礼にオムスビをくれて、食にありつけたりした。

こどもながらに日吉丸は考えた。

「人がよろこぶことをすると、なにかのお返しがあるものだ」と、

これが人に奉仕する利他の生きかたを身につけるモトになったと、
いわれている。


世界一の自動車会社をつくったヘンリーフオードは、
マジメなだけがとりえの片いなかの農夫だった。
かれは人に奉仕する生きかたを身につけ、やがて自動車を
つくることになるが、

工場の工員をやとうのに、
とうじ日給二十五セントが相場だったのを、倍の五十セントはらう
約束をして工員を募集した。

採用された工員たちはよろこんで、
「じぶんたちの会社を世界一の会社にしよう」
と、団結してガンバった。

常識の倍のちんぎんを支払うフオードに見切りをつけた、
共同経営者が出資金をひきあげて、
フオードはピンチにたつが、

別の協力者があらわれて、まえ以上に応援してくれる
ようになった。

利他の行為をするフオードに幸運がついてまわったのだ。

フオード自動車会社が大成功し、
世界一の会社になっても、フオード自動車会社の労働組合は、
いちどもストライキをしなかったことで有名になるんだ。

そのくらい労使協調がうまくいっていたんだね。

つづく

人間賛歌 若い人の仏教教室 五

2007年01月23日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「ケイタくん、ジッチャンがかいた「幸運を呼ぶ人生」という本のなかに、
利他の行為のさんこうになるのがあるから、そこを読んでみるよ」

植物はタンサンガスをとってサンソを出し動物のやくにたち、
動物はサンソをとってタンサンガスを出し、植物に恩返しをしています。
チョウはミツをもらうかわりに、
花粉をはこんで花のやくにたち、

魚はわずかしか魚にならないのに、
何十万個ものタマゴをうんで、
ほかの微生物に食料をていきょうしています。

地球は自転して重力を生じ、
太陽のまわりをまわって、
いきものの生存に適した温度をたもち、
太陽はほかの天体と、たがいに引き合いながら、
自らをたもち活動しています。

大宇宙( 大自然 )の働きじたいが、
他のやくにたつ利他の働きになっています。


ジッチャン、
「ケイタくん、どうだい、宇宙が利他の行為でなりたっていることが、
すこしは分かったかね、

利他の行為というとなにかソンしたように思うかもしれないが、
じつはこれ以上トクをすることはないんだよ。

利他の行為をするものは、宇宙がミカタになるから、
幸運がついてくるんだ。

向かうところ敵なしだよ、実例をあげてみるかね、

日本人ならだれでも知っている豊臣秀吉は、利他の精神で
織田信長に仕えて出世し、
やがて天下統一という大事業をなした人だ。
ケイタくんも秀吉のことは知っているだろう」

ケイタくん、
「ハイ、本でよんだことがあるから知っています」

ジッチャン、
「その秀吉が利他の生きかたを身につけたのは、
日吉丸といっていたコドモのころであったといわれる。

つづく

 


人間賛歌 賢聖の境涯 十一

2007年01月21日 | 賢聖の境涯

  お知らせ

読者のみなさん、いつも人間賛歌を読んでいただきありがとうございます。
このたびは、表示方式をかえて、いままでの全文表示から概要表示にし、
みなさんにお手数をかけることになりました。

最近の親殺し、子殺し、人を殺したうえ死体をバラバラにする事件など、
文明国ではありえないような出来事が、ヒンパツしております。
自他の生命の尊厳を第一義とする仏教の思想が、いまこそ必要であると
考え、「若い人の仏教教室」を始めました。

そのために表示方式を変えましたので、どうかご了承ください。
尚、難解な聖徳太子のはなしは今回でおわり、次ノテーマに移りますので、
以後もよろしくお願いします。



  聖徳太子 最終回

十七条の憲法のなかには、国か運営をになう官僚の道義心をたかめ、
善をよろこび悪をにくむ公徳心をやしなう規律をさだめている。

第十四条、( 旧文、 十四にいわく )

「グンシンヒャクリョウ嫉妬あることなかれ、
われすでに人をねたむときは、人またわれをねたむ、
嫉妬のうれえそのきわまりを知らず。
ここをもって五百歳にしていまし賢聖にあうとも、
千歳にしてひとりの聖を待つことかたし、
それ賢聖をえずばなにをもってか国を治めん」

漢のリョウビがショカツコウメイを三顧の礼で迎えた例にみるごとく、
正道を教える賢聖がいなければ、国をたもつことは難しい、との教えだ。

中国では、

「黄河は千年にいちど澄み、聖人は千年にいちど世にあらわれる」

といわれる。

西洋でも、

「人間は放っておくとダラクする、故に神は千年にいちど使いをよこして、
人間を善にみちびく」

の箴言がある。

四方を海で囲まれ「自衛隊二、三コ分に相当する自衛力といわれる」
外敵に襲われることのなかった日本では、国内ですぐれたものを嫉妬する
傾向がとくに顕著だ。

古代人にかぎらず現代においても、
「嫉妬のうれえそのきわまりを知らず」のいましめを謙虚にきかねばなるまい。


太子は遺訓で、

「もろもろの悪しきことおばなすなかれ、もろもろの善きわざを行へ」

の教えを残した。

注、 
悪しきこと、 自分の利益のため他を犠牲にする利己主義。
善きわざ、  自分のことより他の幸せをねがい行動する利他の行い。

この稿おわり。


人間賛歌 若い人の仏教教室 四

2007年01月19日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「ケイタくん、いくらか仏教がわかってきたかね」

ケイタくん、
「ウーン、まだよくわからないけど、なんだかスゴイ感じがするよ」

ジッチャン、
「お釈迦さんは、仏性をあらわすには正しい生きかたをしなければならない、
と教えているんだ。
正しい生きかたとはどんな生きかたか、これから勉強していこう。
ケイタくんもしっかり学ぶんだよ」

ケイタくん、
「ウン、わかった、勉強してお母さんにも教えてあげるよ」

ジッチャン、
「ほかの人をダイジにする行いを仏教では、
利他( ほかの人を思いやる )の行為というんだ。

お釈迦さんから千四五百年後に日本に生まれた、
伝教大師( デンキョウダイシ )という人がいるが、
ヒエイザンにエンリャクジという寺をたて、日本の仏教の中心になる、
天台宗をひらいた人だ。

そのかたがさとったのが、忘己利他(モウコリタ)といってね、
自分のことは忘れて、他のために尽くす、
これが正しい生きかたのなかで、一番ダイジなことだと、
教えているんだ。

ケイタくん、
「ジッチャン、ぼくたちもサッカーの部活などで、
みんな助け合いチームワークをとってやっているけど、
それとはちがうの」

ジッチャン、
「おなじ仲間がなかよくチームワークをとっていくことは、
とてもダイジなことだから、それはそれでスゴイことだと思うよ。
仏教でいう利他の行為というのは、仲間どうしだけでなく、
ゼンゼン知らないアカの他人でも、
利他の心で接しなさいという教えなのだ、

ナゼかというと、宇宙そのものが、他を思いやる、
利他の精神でなりたっているからだ」

続く、

 

 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 三

2007年01月17日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「お釈迦さんは、ナゼ説法してまわったのかという、ケイタくんの質問にまだ答えてなかったね。
お釈迦さんはね、自分がさとった真理を人々に伝えたかったんだ。
生老病死の苦悩をかかえながら、懸命に生きている人々に、真理を教え、
自分とおなじ立場に引き揚げて、
苦悩から開放してあげたい、との願いが国中をまわって、法を説く動機になるのだ」

ケイタくん、
「ジッチャン、お釈迦さんがさとった真理というのはなんなの」

ジッチャン、
「分かりやすく言えば、
人をたいせつにする、ということだね、

人間はだれでも自分が一番ダイジだと思って生きているが、
自分以上にほかの人をダイジにすることが、
お釈迦さんのさとりの部分でもあるんだ。

もちろん八万法蔵といわれるくらい、たくさんの法を説いているから、
ほかにもダイジなことはイッパイあるがね。

人をダイジにすることが、自分を一番ダイジにすることになるんだ。
実行するのは難しいが、
これをおぼえただけでも、ケイタくんはたいしたもんになれるよ。


ナゼ人をダイジにするのか、
それはねぇ、
人間の生命には、だれも想像できないほど、
スゴイちからと智慧がそなわっているのだ、
これを仏性というんだがね、

もちろん、ケイタくんのいのちにも、ジッチャンのいのちにも、
そなわっているんだ。
だが、いままで長いあいだ本能のまま、自己中心に生きてきた
習慣がこびりついていてね、
この仏性をかくしているのだ。

お釈迦さんは、自分があらわした仏性を、みんなにも開かせたくて
説法を始めたのだ。

仏性を開くと、みんながお釈迦さんとおなじ智慧とちからをもった
サイコーの人になれるから、ひとりひとりをダイジにするんだ。
これが仏教の始まりなんだよ」

続く、

 


人間賛歌 賢聖の境涯 十

2007年01月15日 | 賢聖の境涯

  聖徳太子続き、

太子の著書、「法華ギシヨ」の序文に、

「 『 妙法蓮華経 』とは、あたかも豊田、神薬のようなものである。
それは大善( 仏道修行 )をすべて、さとりのタネとして育てる、
豊田であり、かぎりある生命を、永遠に転ずる神薬である」

と法華経を褒め称えている。

憲法第十条に、( 旧文、十にいわく )

「われ、かれ、必ずしも聖ならず、必ずしも愚かならず、
ともにこれ凡夫のみ」

とある。

上下、貴賎の差別はなく、自分も他の人もともに凡夫である。
しかし、法華経を信仰することによって、凡夫が聖人になることも、
あるのだ。の意味で、

万人平等の思想をのべると同時に、生命の真実を知るか、
そうでないかの違いが、凡人と聖人のわかれめなのだ。
とのべている。

その他の著書「ショウマンキョウギシヨ」は国王の夫人が、
法華経を賛嘆した経典の解釈書で、
「ユイマキョウギシヨ」は出家した僧ではなく、在家の信仰者.
ユイマキツが、法華経を説いたのを、太子が解釈したものだ。


太子がこれらの経を宮中で講義し、
それをきいたスイコ天皇や、女官たちが喜んだようすが、
日本書紀にしるしてある。

太子の講義は、

「スイコ天皇二十年、正月十五日に始めて、翌二十一年におわる。
ひとりとして喜ばざるなし」

としるされているので、一年以上かけて講義したようだ。

太子は仏教の修行に、難解な理論を学ぶことより、
釈迦の教えを行動にうつす、善の実践をこんぽんにした。

教義の理解ともなれば、だれにでもというわけにいかず、
かぎられた人のものにしかならない。
しかし、善の実践であれば、理解のいかんにかかわらず、
だれでも実行できるからだ。

続く

 









 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 二 

2007年01月13日 | 若い人の仏教教室
ケイタくん、
「ジッチャン、お釈迦さんの時代は自動車や鉄道もなかったのに、
お釈迦さんは歩いてまわったの」

ジッチャン、
「そうだよ、いまから二千七百年ぐらい前のことだから、乗り物なんか
なかったんだ。
一説によると、お釈迦さんは八十歳で亡くなるまで、五十年ちかくインド中を
旅して歩いたので、足がハガネのように強くガンジョウになった、
といわれているよ。

ケイタくん、
「そんなにムリをしてまで、なんでお釈迦さんは説法してまわったの」

ジッチャン、
「うん、いいところに気がついたね、
それに答えるまえに、お釈迦さんがナゼ出家したか、そのワケを話しておこう」


お釈迦さんは釈迦族の王様の子で、カピラ城という立派な城に住んでいたんだ。頭もよく武芸にもすぐれ、インド第一の美人といわれた奥さんと結婚して、なに不自由なく幸せにくらしていた。

だがある日、おしのびで城の外に出てみると、
歩くのがやっとの年寄りや、病人にあったり、
人が亡くなって、みんなが悲しんでいるのを見たりして、
城の中とはずいぶん違うと思ったのだね。

「自分は若くて健康で、いずれ王になる立場だから、
家来もいっばいいて、不快とか不自由ということを、
感じたことがなかったが、」

フトお釈迦さんは、こう考えるようになったんだ。

「自分も年をとったり、病気になったりして、
いずれ死んでしまうのだろうか、死とはどんなものか、
死んだあと人間はどうなるのか、」

と考えだしたんだね、
もちろん、だれに聞いても分からないし、
お釈迦さんのお母さんが、釈迦を産んですぐ亡くなっていたから、
よけい死について考えるようになったのだね。

「出家して死の問題を解決しよう」

これがお釈迦さんが出家する理由なんだ。
続く、

人間賛歌 若い人の仏教教室 一回

2007年01月11日 | 若い人の仏教教室
 登場する人、 
ケイタくん、  サッカー好きの高校生。
オジイサン、 文筆業をしている七十代の男性で、ケイタくんの母方の祖父。
        ( 愛称、ジッチャン ) 
投稿日、   週二回を予定しています。

  本文

ケイタくんが問う。
「ジッチャン、仏教ってお釈迦さんの教えのことだろう」

ジッチャンがこたえる。
「ケイタくん、よく知っているね、エライじゃないか」

ケイタくん、
「ウン、お母さんに仏教ってどんな教えか聞いたんだけど、
お母さんもよく分からないから、ジッチャンに聞いてみたら、
と言われたんだよ」

ジッチャン、
「そうだったの、みんな仏教のことはよく知らないから、
お母さんも知らないのだろう。
お釈迦さんがね、二十九歳のとき出家して三十五歳で真理を悟るんだけど、
自分が悟った真理を人々に教えたくてね、国中を説法してまわったのだよ。

そのときお釈迦さんが説いた教えを仏教というんだ。

お釈迦さんはね、聞きに来た人や、そのとき、その場所によって、
人々が理解しやすいように教えたので、
数え切れないほどたくさん説法したと、伝えられているんだ。

お釈迦さんが説法したのを、後世の弟子たちが、
文書にして残したのを、仏教経典というが、これがたいへんな量でね、

日本では大正時代に、
当時日本にあった仏教経典をぜんぶ集めて、
編集した大正大蔵経典というのがあるが、
百か辞典にして、百冊分以上あるそうだから、スゴイ数だね。

一人の人間が毎日読んでも、ぜんぶ読みきるのに、
二百年以上かかると言われているよ」

続く、