叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

 すべて無料です、気軽に読んでください。

人間賛歌 若い人の仏教教室 八十二

2007年11月30日 | 若い人の仏教教室

 前回の続き

そのころ都では、男女上下を問わず和歌がはやり、
法華経を詠んだ和歌も古今集におおく収録されているようだ。
教育によって人の心を真っすぐにする聖徳太子の願いが実現し、法華経
が全盛期を迎えたのだ。

秋の宮島で有名な厳島神社は、全盛期の平家一門が金銀で装飾した
法華経の経典を納めたことで知られているが、
上流階級では法華経をたもつことがその証しになっていたのだ。

当時、遣唐使が持ち帰ったり、朝鮮半島経由で国内に入って来た経典は、
数千巻近くあったと言われている。

ジッチャン、
「ケイタくん、仏教史の勉強は退屈だろうが、あとになって意味が分かる
から、もう少しつきあってね。」

ケイタくん、
「ジッチャン、ボクが今まで知らなかったことが、いろいろ分かって
おもしろいよ。退屈なんかしていないからね。」

ジッチャン、
「それを聞いて安心したよ、ではもう少し話を続けていこう。

平安時代も終わりごろになると、法華経の教えが中心だった仏教界に
変化が起きて、いろいろな宗派ができるのだ。
たくさんの経典が入っていたことはさっき言ったが、それらの経典を元に
念仏宗.律宗.真言宗.禅宗などの宗派が興って、

いずれも自派の教えが正しくて、釈迦の真意を伝える宗だと、言い合った
んだね。
法華経を根本にした天台宗の伝教大師最澄は、それら各派の誤りを公開
の場で指摘し、法華経が正しいこを認めさせたんだ。

その後、天皇の帰依も得て比叡山に延暦寺を建立し、
法華経の根本道場として日本仏教の中心となったのだ。

しかし最澄の死後、天台宗は真言密教を取り入れ、伝教大師が再興した
法華経の正義はすたれていくのだよ。」

続く

 


人間賛歌 運命と宿業と 十五

2007年11月28日 | 運命と宿業と
田中教授
「よくあることだが懸命に努力するのに結果がでなかったり、
思ったことの逆になったりする場合がある。これは天運(福運)がないためだ。
私たちが福運をつけようとよく言うのは、正しい生き方をしようということだ。

要するに生命力とは、
人間が第七識の自我を克服し,第八識にたまった宿業を打破し、

第九識に達したとき、セキを切ったようにいっきにあふれ出てくるのだ。
ちょうど石油を掘るのに、削岩機が岩盤を突き抜けて、
油層にぶっかると原油が凄い勢いで噴き出てくるようなものだ。

いままで押さえつけられていたのが、宿業の壁を破ったとたん、想像もつか
ない力でほとばしり出る。これが生命力なのだ。
この力が出るようになると、私たちに不可能なことはなくなる。
これが信仰の醍醐味なんだよ。」

山田くん、
「ウーン、凄かですね!」

田中教授、
「九州弁がでたね、」

山田くん、
「つい感動しておくにコトバがでました。信仰の力って凄いですね。」

田中教授、
「そう、分厚い岩盤を付き抜くドリルの働きをするのが題目だ。
どんな宿業を持った人であっても、題目の力で破れない壁はないのだ。
日蓮大聖人は、法華経に勝る兵法はないと仰せだが、まったくその通り
なんだね。

ところで山田くんも知っていると思うが、教典には私たちのこの身体が、
宇宙にも匹敵する存在だと書いてあるね。
長くなるので詳細は省くが、人間がいかに不思議な存在であるか想像
できないほどなんだ。

続く

人間賛歌 若い人の仏教教室 八十一

2007年11月25日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「ケイタくん、日本に仏教が入って来たいきさつが分かったと思うが、
どうかね。」

ケイタくん、
「ジッチャン、聖徳太子が仏教を導入したことは歴史で習いましたが、
太子が法華経を根本にしていたことは知りませんでした。」

山本さん、
「私も聖徳太子が仏教に反対する物部一族を破って、仏教を日本に取り入
れたことは学びましたが、十七条の憲法で仏教を奨めていたことは知りませ
んでした。
当時の日本は宗教オンチどころか、立派な宗教国家であったと言えるので
すね。」

ジッチャン、
「聖徳太子と法華経の話をしていたら、時間がいくらあっても足りないので、
その後の日本がどうなったか、日本史を勉強しなおすつもりで学んでいこ
う。
太子の思想はその後も大きな影響を与え、
奈良、平安時代えと何百年も続く仏教隆盛時代となっていくのだ。

宮中の貴族から一般庶民のあいだまで、男女を問わず法華経の教えが
広まり。ケンランたる仏教文化の華が開いたのだね。
人心も安定し、一説によると死刑の法律はあったが百何十年も死刑の執行
がなかった。とも言われるぐらい、世界に誇れる文明を築いたのだ。


当時、京の都では盛んに法華経を学ぶ講習会が開かれていたようだ。

源氏物語で有名な紫式部が、
藤原道長邸で行われた法華経講義の席を中座しょうとしたとき、

道長が、

「さてはあなたも慢心した五千人の弟子の内なのか、」

と詰問したのに対し、紫式部が、

「人の都合も知らず、慢心した一味と決め付けるあなたこそ、
 五千の内ではないのですか。」

とやり返したと言われている。

注、 五千人の慢心の弟子
釈迦が最重要の法華経の説法に入るとき、五千人の弟子たちが、釈迦を
師にして長年学んできたので、これ以上師に教わることはないと思いあが
り席を立ち去ったことが、経典に記されている。
このことから慢心したものを五千の内と言うようになった。

つづく

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 八十

2007年11月22日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「前回言い残しましたが十七条憲法の第二条は、
「仏教によらなければ、人の心の曲がったのを直すことはできない。」
の結びで終わっています。

誤解されると困るので言いますが、宗教は個人が自分の意思で、
宗教を持つか、持つとしたら何を選ぶか、を決めることなので憲法で定める
性質のものではないと思います。

ただ太子の時代は、
今から千四百年も前のことで、近世えの夜明けであり、国民の教育にそれが
一番よい方法だったのかもしれません。
このようなワケで太子が自分も信じ、他にも奨めた法華経が仏教信仰の
中心になったのです。

奈良の法隆寺に、太子が法華経を講義している図絵が寺宝として保管さ
れています。私も図鑑で見ましたが衣冠、束帯にシャク(正装のとき右手に
持つ長さ一尺ぐらいの細長い板)を持ち、
威儀を正して講
義されている姿に、聴く者は心を打たれたと思います。


日本書紀には、
太子が推古天皇をはじめ宮中の女官たちに、一年にわたって法華経を
講義したことが記されています。
講義を聴いた者で喜ばなかった者は一人もいなかったそうですから、
名講義だったのでしょう。

当時百済の国から多くの仏典と釈迦像が贈られましたが、
その中に法華経の経典がなかったので、太子は中国から直接取り寄せた
と伝えられています。
太子は数ある経典の中から、なぜ法華経を重要視されたのでしょう。

法華経は他の経典と異なり、すべての人が仏だと説いているからです。
他の経典は、仏の持つ智慧や力、慈悲などを賛嘆するばかりですが、
その仏が実は、みんなの心の中にあると明かしたのが法華経で、それ故
一人ひとりを大事にし尊敬する教えが、
太子の考えと共鳴したのだと思います。

憲法の第十条に、

「われ、かれ、必ずしも聖ならず、必ずしも愚かならず、ともにこれ凡夫のみ。」 (旧文)
とあるように、一人ひとりが平等で共に仏になる性質をもっているから、
互いに尊重しなさい。という太子の考えと一致するのです。

つづく


 


 

 



 

 


人間賛歌 運命と宿業と 十四

2007年11月20日 | 運命と宿業と

山田くん、
「教授、そのエネルギーのことですが、
よく先輩から生命力をつけてと言われますが、それのことですか。」

田中教授、
「そう、ひとことで言えば生命力ということになるね。
でも生命力と言っただけでは抽象的で、具体的に何をなす力なのか
イメージしにくいと思うね。

たとえば一個のドングリの実が樫の大木になったり、地球が秒速二十キロの
猛スピードで太陽の周りを公転したりする力、それも生命力と言えるだろう。
宇宙を動かす大きな力になったり、
ドングリが芽を出し成長するという小さな力にもなる。

すべてのモノを創造する力、それが生命力だね。

暴力も力の一種ではあるが、価値を造らず逆に破壊するから生命力とは
いえないね。
私たちは力というと、目に見える形で現れるか、頭で想像できる範囲内で
認識するが、目に見えないが人間の想像をこえた価値創造をする力、
それが生命力と言えるだろう。


生命編で、氷河期にぶっかった人類が飢餓に直面したことがあったね。
あのとき土地を耕し自生していた麦の種をまいたことが、食料生産のきっかけになったが、
そのとき取れた実は、自生のものより粒も大きく、
柔らかくて食べやすかったと伝えられている。

人間の努力に対して目に見えない力が応援し、期待していた以上の麦が
取れるようになったのだ。
これを当時の人々は、天の助け(神の恵み)とし、感謝しあがめたのだ。
コトバで説明しがたいが、
人間が目標を持ち、正しい方法で努力を続けるとき、思わぬ力が援助する
ことはよく知られているし、絶対間違いないのだ。

二宮尊徳翁は、
「天というものは慈悲深いもので、いつも人間を助けよう、助けようとするが
人間のほうがそれを避けよう、避けようとしているのだ。」
と言っている。
天は正義を好む、欲に刈られた人間が正しい行いをしないのを諭した言葉なのだ。

続く

 

 

 


 


人間賛歌 若い人の仏教教室 七十九

2007年11月17日 | 若い人の仏教教室
山本さん、
「先生、日本人が宗教オンチだというのは私もきいていますよ。
よく言われるのは、
日本人は生まれたときはお宮参りで神社に行き、結婚するきは神前結婚が
多いし、なにか災難にあつたり、目出度い正月などには神社に詣でて、
厄払いや、家内安全.一家繁栄を神に祈ったりします。

私もそうしていますが、
それが死んだ時はお寺から僧がきて、お経をあげ葬式をし、先祖の供養も
寺に行って僧にお経をあげてもらいます。

クリスマスになると、キリストの生誕を祝ってキリスト教徒と一緒にお祝いを
しますが、実際には何を信じているのか自分でもよく分かっていないのだ、
と思います。これは私を含めてですが・・
だから、自分は無宗教だと言ってはばからないのだと思います。

それが外国人には理解できないのですね。」

ジッチャン、
「山本さん、日本人の特徴をズバリ言ってくれましたね。
そのとおりだと思いますよ。
だが日本人が初めから無宗教であったかと言うと、そうではありません。

有名な聖徳太子は、日本古来の神道を改めて仏教を取り入れましたが、
なぜ聖徳太子は、多くの反対を押し切ってまで仏教を取り入れたのでしょうか。
この辺がポイントになりそうですね。

聖徳太子は太子の伝記などをみても分かりますが、
武力によって国を統治するやりかたを改め、法律によって国を治めようと
したのです。武力に頼らず民を法律に従わせるには、民をそのように教育
する必要があったのです。
そして教育するには釈迦の教えである仏教によるべきだと、考えられたの
ですね。

聖徳太子が十七条の憲法をつくって国のおおもとにしたことは、よく知られ
ていますが、第一条が有名な、和をもって尊しとなす。で始まる条文ですが、
第二条にこうあるのです。旧文は分かりにくいので現代風に訳してかきます。

「仏と法と僧を敬い、仏教を大事にしなさい。
仏教は人間のよりどころであり、国のおおもとをなすものである。
いつの時代、どこの人であっても、この法を大事にしなさい。人間は生まれ
つき悪人はいなくて、教育しないために悪に向かうのであり、

仏教を教えて育てれば善い人になるのである。」


仏とは釈迦のことで、法は法華経であり、僧とは教えを伝える人のことで
ある。

つづく





人間賛歌 若い人の仏教教室 七十八

2007年11月14日 | 若い人の仏教教室
ジッチャン、
「私たちはどこから来たのかの話から始まって、
だいぶん迂回したようだ。この問題は簡単に分かることではなく、慌てて
理解しなければならない事でもない。

長い時間をかけて、たとえば一生の間に分かる境涯になってもそれで最高
だと思うね。何も知らずに終わる人がほとんどなのだから・・
前の回に無明というコトバが出たね。仏界が現れるのを妨害する働きのこと
だが、

この無明には、
生命の真実を明かした法華経を聞くのをイヤがる特徴があるのだ。
法華経に縁しなければ、自身の法性(仏界)を開くことが出来ないから、
迷いのまま、苦悩の世界にとどまらせるのが無明の最大の目的なんだよ。
だから法華経を説く人や、それを広めようとする団体を嫌うんだね。


そこで今回から、
ナゼ宗教が必要なのか、宗教を持つとどんな利点があるのかに焦点を当て
て、話を進めていこうと思うがどうだろうか。」

ケイタくん、
「ジッチャン、そうしてください。余り専門的だと難しくてボクにはよく理解
できないことがありますから。」

ジッチャン、
「そうだろうね、わるかったよ。
ではナゼ宗教が必要なのか、だれにでも分かるように話していこう。
少し前のことだがね、ヨーロッパの有名な作家がこんな評論をしているのだ。
ちょつと紹介しておくよ。

「世界の主要な先進国の中で、宗教心を持たない民族が民主主義をとり
いれ、経済的に成功したときどうなるか、歴史的実験をしている国がある」

というのだ。日本を名指してはいないが、
日本人の道徳の低下、社会の劣化を見ていると、どうも日本を批判してい
るようなのだ。
世界の潮流は、宗教を持たないものは人間とはいえない。
という思想が主流をなしているんだ。ところが日本人は宗教オンチで有名
であるし、日本人自体もヘイキで、自分は無神論者だとか、

自分は無宗教だ゛と言ってはばからず、それがよくないとは思っていない
のだね。」

つづく


人間賛歌 運命と宿業と 十三

2007年11月12日 | 運命と宿業と

前回の続き、

田中教授、
「山田くんの生命境涯はスゴイ変化を遂げているのだね。
周囲の出来事に一喜一憂せず、どんな困難なことがあっても、悠々と
乗り越えていく力強い生命になっているのだ。

こうなるともう恐いものはなにもないね、
人間は本来無限の力を持っているが、それを発揮できないのは恐怖心と
いうカベがあって、その中に閉じ込められているからだ。

そしてすべての恐怖心の根源は死えの恐怖だと言われるから、
私たちは信仰で生死の束縛から解放され、心のカベを破り、もてる力を
存分に発揮していけるのだ。ありがたいことだね。

山田くん、
「生死の束縛から解放されるなんて思いもしなかったですよ。
本当にそうなるのでしょうか。」

田中教授、
「もちろん本当だよ、成仏(仏界を現すこと)というのは、
自分の中にる仏界のいのちを開くことなんだ。信心した年数も浅く、仏法
のためになんら功を積んでいない私たちが、

御本尊に題目を唱えることで、御本尊と同じ生命になれるのだ。
御本尊は「我即宇宙.宇宙即我」の日蓮大聖人の御命であられるから、
私たちもたいした労もなく、同じいのちになれるのだね。

山田くん、
「なんだか夢みたいですね、悩み多いこのボクが、
そんな境涯になれるなんて、まだ信じられない気がします。」

田中教授、
「いまは分からなくてもいいよ、
そのうちに、・なるほど・と必ず思えるようになるから、その前に前にも言っ
たが、過去の宿業を断ち切ることが必要なのだ。

これには強力なエネルギーがいってね、
そのエネルギーも元々私たちの生命に具わっているが、それを使わずに
放っているのだ。」

続く


 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 七十七

2007年11月09日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「人間が天賦の才能(天から授かった能力)を使い切れないのは、
恐れる心があるからで、それが心の中にカベをつくり自分で自分を過小
評価するからだ。

人間が本来持っている能力の二十パーセントを使っている人はマレで、
たいていは五から十パーセントぐらいが普通であり、残りは使わずに一生を
終わると言われている。
これは専門家のあいだでは常識になっていることなんだ。

たしかに人間の潜在能力の大きさに比べて、
人間が自分だけのために生活し、子孫を残すだけで終わるのであれば、
これだけ大きな能力を持つ必要はないのだ。
一説によると、
人間の脳には百四十億個の神経細胞があり、
神経細胞をつなぐ回路は組み合わせ次第で、天文学的数の組み合わせ
が可能だといわれている。

そして神経回路の数は、人間の生き方によっていくらでも増やせるのだ。
自分のためだけでなく、他人に奉仕する生き方をする人は、無限に拡大
できるといわれているのだよ。


最新の脳科学では、

「他の生きものを幸せにするために、進化した生きもの、それが人間だ。」
と言う学者もいるが、
これは仏教の教えとまったく一緒だと言えるね。」

ケイタくん、
「ジッチャン、恐れる心をなくすには、どうしたらいいのですか。」

ジッチャン、
「ケイタくん、なかなか良い質問だ。これが一番大事なことだね。
心理学者は、すべての恐怖心は死を恐れる心からきている、と指摘してい
るのだ。
死えの恐れをなくせば、人間は恐怖心に縛られることなく、
持っている能力を自在に使って、人生を思うがままに楽しむことが出来る
のだよ。

仏教は生命の真実を明らかにし、死は恐れるものでないことを悟らせる
ために説かれたのだ。釈迦が法華経を説いた目的はそこにあるんだ。
もちろん、恐怖心のすべてが悪いというのではないがね。
危険を回避するために恐怖心が必要な場合もあるのだから・・」

つづく





 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 七十六

2007年11月06日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「人間には無限の可能性があるというのは、
人間のいのちに仏界があるからだが、仏界を現した人に出会うこと自体が
難しいといわれるくらい、仏界を現すことは難しいのだ。

なぜかというと、
仏界のことを法性( ホッショウと読み、仏界を現す性質・能力のこと )というが、
この法性を覆い隠し現れないようにしているのが無明なのだ。
無明は生命の真実に明らかでないことで、迷いともいうのだよ。

この法性と無明の両方が生命に元々具わっているから、
ほとんどの人が無明に覆われたまま、迷いの人生を送ることになるんだね。

無明を突き破ったところに法性( 仏界 )があるが、
無明を突き破ることが至難のワザなんだね。


釈迦も、日蓮大聖人も無明を破るには信の利剣しかない、と言っている。
無明のことを仏教では元品( ガンポンと読み元々具わっていること )の無明
ともいうが、
無死無終に続く元初の生命に、元々法性とともに具わっているから、
元本の無明というのだよ。
 注 信の利剣とは生命の真実を悟った仏の言葉を信じること。


一面からいうと無明は、死ぬことえの恐れと言うことも出来ると思う。
およそいのちあるもので、いのちを惜しまないものはいない。
「人の恐れるものは剣の下と炎のなかなり」と指摘されているが、どちらも
いのちが危ないからである。
山本さんも、ケイタくんもいのちは惜しむでしょう。」

山本さん、
「それは先生、おっしゃるまでもなく死は恐いですし、なにをするにも
いのちあってのものダネですから、いいのちは惜しみますよ。」

ケイタくん、
「ボクも山本さんと同じで、自分のいのちは惜しいし、他人のいのちも
ダイジにしたいと思いますよ。」

ジッチャン、
「それはそうだろう、山本さんに限らず、ケイタくんもそうだし、だれでも
そうだ。自分はいのちなんか惜しくないというのは、自暴自棄になって
ヤケッパチで言ってるとしか思えないね。」

つづく