妻が信仰をやめたので、私は学会の地元の責任者を訪ね、
「家内は信仰をやめたので、もうすすめないでもらいたい。」と申しいれまし
た。だがそれだけでは心配だったので、そこ( 東京 )を引越し千葉に移転し
たのです。
後日談ですが、学会から逃げてきた千葉の地で私は創価学会に入りました。
そのころ会社のほうは、オイルショック後の不況で広告収入が激減しまし
た。各企業は経費節約のため先ず広告費を倹約したのです。
私の会社は全国の公衆電話に広告を出す権利を持っており、地方の民間
放送会社が広告取り扱い代理店になっていました。
博報堂と組んで公共広告に力を入れ、総理府のコマーシャルや、自衛官
募集など政府関係の広告も取り扱いました。
電話広告がテレビ、ラジオの補助広告媒体として認められ、民放各社から
それなりに評価されていましたが、六十人いた社員の人件費にも困るよう
になったのです。
兜町の金融会社では成田さんのお札を安置して商売繁盛を祈念してい
ました。そのせいかこちらの会社は不況の影響を受けず、むしろ業績は上
向いていました。
私は広告会社の苦境を乗り切るには、成田さんより格が上の神様に頼む
しかないと考えたのです。
役員や主な社員をつれて富岡八幡宮に詣り、一番よく効くご祈祷をしても
らった夜のことでした。前祝に酒を飲んでいたところで酔っ払いにからまれ
ケンカをし、耳を噛み切られる大怪我をしたのです。
救急病院に運ばれ二十八針も縫って切れたところをつなぎ、耳を失うこと
は免れました。麻酔なしの処置だったので、その痛さは忘れられません。
このことが良くない前兆になり、広告会社は行き詰まって倒産しました。
兜町の金融会社で再起しようと思ったのですが、
部下に任せていたこの会社は数億円の不良貸付を抱えており、再起不能
に陥っていたのです。
脱サラ以来営々と築いてきた地位とカネでしたが、僅か二、三年の内に皆
なくなりました。
残ったのは莫大な借金と、信頼していた人に裏切られた人間不信だけでした。
つづく
追、妻が信仰をやめてから三年の月日がたっていました。