叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 信仰に生きる 二十八

2009年06月29日 | 信仰に生きる
 破局 三 ( 私が信仰に入ったワケ )

 妻が信仰をやめたので、私は学会の地元の責任者を訪ね、
「家内は信仰をやめたので、もうすすめないでもらいたい。」と申しいれまし
た。だがそれだけでは心配だったので、そこ( 東京 )を引越し千葉に移転し
たのです。

後日談ですが、学会から逃げてきた千葉の地で私は創価学会に入りました。

 そのころ会社のほうは、オイルショック後の不況で広告収入が激減しまし
た。各企業は経費節約のため先ず広告費を倹約したのです。

私の会社は全国の公衆電話に広告を出す権利を持っており、地方の民間
放送会社が広告取り扱い代理店になっていました。
博報堂と組んで公共広告に力を入れ、総理府のコマーシャルや、自衛官
募集など政府関係の広告も取り扱いました。

電話広告がテレビ、ラジオの補助広告媒体として認められ、民放各社から
それなりに評価されていましたが、六十人いた社員の人件費にも困るよう
になったのです。

 兜町の金融会社では成田さんのお札を安置して商売繁盛を祈念してい
ました。そのせいかこちらの会社は不況の影響を受けず、むしろ業績は上
向いていました。
私は広告会社の苦境を乗り切るには、成田さんより格が上の神様に頼む
しかないと考えたのです。

役員や主な社員をつれて富岡八幡宮に詣り、一番よく効くご祈祷をしても
らった夜のことでした。前祝に酒を飲んでいたところで酔っ払いにからまれ
ケンカをし、耳を噛み切られる大怪我をしたのです。

救急病院に運ばれ二十八針も縫って切れたところをつなぎ、耳を失うこと
は免れました。麻酔なしの処置だったので、その痛さは忘れられません。

このことが良くない前兆になり、広告会社は行き詰まって倒産しました。
兜町の金融会社で再起しようと思ったのですが、
部下に任せていたこの会社は数億円の不良貸付を抱えており、再起不能
に陥っていたのです。

脱サラ以来営々と築いてきた地位とカネでしたが、僅か二、三年の内に皆
なくなりました。
残ったのは莫大な借金と、信頼していた人に裏切られた人間不信だけでした。

つづく

 追、妻が信仰をやめてから三年の月日がたっていました。



 

人間賛歌 「新・仏教教室」 八十七

2009年06月25日 | 新・仏教教室

 自分は何モノだ ?  
ジッチャン、
「ケイタくんに聞きたいのだが、自分って何なんだろう、と思ったことはない
かねぇ。
 ジッチャンなんか学生のころ、ときどき、自分はいったい何者なんだ。
なんでここにいるのだろう、と思ったものだよ。答えはわからなかったがね。

戦争中だったせいか、大きくなったら戦争に行って弾にあたって死んでしま
うかもしれないのに、
どうしていま勉強しているのだろう。と悩んだこともあったね。ちょつとませ
た子だったようだが。」

ケイタくん、
「ジッチャン、ボクも考えたことがあるよ。
お父さんお母さんがいてボクが生まれてきたのだけれども、お父さんはボ
クが五歳のときに死んじゃつた。
友だちはみんなお父さんがいるのに、ボクだけいないのはなぜだろう。

ボクは何をするために生まれてきたのだろうと、思ったことはありますよ。」

ジッチャン、
「やはりそうか、ケイタくんも自分について考えることがあるんだな。
 ジッチャンの若いときと同じだ。
それで何か納得のいく答えが見つかったかね。」

ケイタくん、
「ジッチャンそれがなにも分からないのですよ。
 そのうちに忘れてしまって・・・
考えているときでも、なぜ生きているのか、どうしてここに生まれたのだろ
うと考えても、ぜんぜん見当がつかないのですよ。」

ジッチャン、
「自分は何者だ。
という問いに明確な答えを出してくださったのが日蓮大聖人だよ。

法華経に諸法実相( ショホウジツソウ )という大事な文があるが、それに
ついて大聖人に質問した人がいてね。その答えが次ぎの文なんだ。

 諸法というのは現象界のすべてで、三千諸法ともいうが、
その三千諸法の真実の姿( 実相 )は仏しか知らないが、大聖人はずばり
答えられているのだ。

実相というのは妙法蓮華経のことである。
上は仏界から下は地獄界の衆生まで、環境も含めて、ことごとく一法も残
さず妙法蓮華経の姿であるというのを、諸法実相というのだ。
 と言われている。  ( 取意 )

つづく   

 


 

  


人間賛歌 乱世に勝つ生命観を持とう 三

2009年06月22日 | 乱世に勝つ生命観を持とう
  大河ドラマ天地人に登場する  上杉謙信は

 四十九年一睡夢  一期栄華一盃酒
 四十九年の生涯は  一眠りしたときの夢のようなもの
 この世の栄華は  一盃の酒に等しい
 という辞世の句を残した。

 こう書くと  諸行無常の仏教の哀感めくが
 仏教の諸行無常は
 この世で変化しないものはない  という意味の
 大いなる現実認識であるのだ。

 生も死も  諸行無常で変化しないものはない
 の中の一つだ
 恐れることも  忌むこともないが
 生命に対する無知が  恐れる心を生む。


 超エリートの教養人  在原業平は
  ついにゆく  道とはかねて聞きしかど 
  昨日今日とは  思わざりしを
 と詠んでいる。 

 生まれてきたものに  死ぬことは決まっているが
 こんなに早く死がやってくるとは  思いもしなかった
 それならもっと人に  やさしくするのだったと
 後悔の念も  あったのではあるまいか。

 どちらにしても死は一定( 決まっていること )である。

 死ぬときになって  あわてたり
 後悔しないために
 生きている今のうちに  生死観を確立しておきたい。

 日蓮大聖人は
 「先ず臨終のことを習って  後に他事を習うべし」
 と仰せだ。

 死んだらどうなるのか先ずそれを習って  生死観を確立し
 世間のことは  それから学ぶべきである
 と教えられている。

 つづく   

人間賛歌 信仰に生きる 二十七

2009年06月20日 | 信仰に生きる

 破局 二 ( 私が信仰にはいったワケ )
 私は我が社の会長であり、郷里の大先輩でもあるk先生を心から尊敬
していました。
先生は戦後内務省から出向して、東京都食料局長の要職にあり、飢えに
苦しむ都民の食料供給を一身に引き受けていました。   

ある時、
戦勝国になった某国の暴漢が武器を持って押しかけ、食料庫のカギをあけ
て備蓄している米を渡すよう、先生を脅したのです。
武器を突きつけられて食料庫のカギを渡すよう要求されても、先生は驚か
ず、

「この米は全都民の命の綱だ、自分の命にかえてもこのカギを君たちに
渡すことは出来ない。」

と断固拒否したのです。

自分の命を賭けて都民を護ろうとする先生の迫力に押されて、暴漢たち
は引き揚げていきました。やがてF県の知事になった先生は県民から親の
ように慕われ、推されて国会議員になりました。


証券会社を止めて脱サラした私は兜町で証券金融の会社を始めたので
すが、これが当たって毎日使い切れないほど儲かっていました。

父親が早く亡くなり、貧乏のなか苦労して育ててくれた田舎の母親にも家
を新築してあげ、新たに友人と始めた広告の会社も隆盛でした。
社員も六十人になり、銀座七丁目のN放送ビルに立派な事務所を構える
までになっていたのです。

友人たちは、
「お前はたいしたヤツだ、このままいけばキット大物になるぞ。」
と言っていました。私も、念願の実業家になれるかもしれないと、有頂天
になっていました。

 私の妻は創価学会に入って法華経の信仰をしていました。
私は妻が自分以外のものに心を奪われることに嫉妬し、妻に信仰をやめ
るよう強く迫ったのです。

自分の家は代々真言宗で、私はいずれ家のあとを継がねばならない。
そのとき妻が違う宗教をするのは困る。という理由でした。
真言宗がどんなもので、法華経の教えが何なのか分からないのに、自分
を信じておれば幸せになれるのだと、思いあがっていたのです。

ついに私は妻の信仰をやめさせてしまいました。

つづく   

 


人間賛歌 「新・仏教教室」 八十六

2009年06月18日 | 新・仏教教室

 七如是の続き *

 五 如是果( ニョゼカ )
かくの如き慈悲の心で人々を救い、幸せにする仏の心はいつも歓喜に満
ち充ちていて、どんなひどい環境にいても、無尽蔵な智慧の力で環境を変
革し、楽土に変える神通力を発揮します。

 注
因と果は、因が先で果が後に現れるというような時間的な差はなく同時に
現れます。
自分の命に仏界があることを信じて( 仏因 )、題目を唱えると直ちに仏界の
慈悲の心( 仏果 )が現れます。これを因果倶時といいます。

 六 如是報 ( ニョゼホウ )
かくの如き仏の報いは、人々から敬われ、慕われ、自他共に最高の幸福
境涯になって、それにふさわしい清浄な環境に居住します。

 七 本末究境等 (ホンマツクキョウトウ )
本( 仏界の相 )から末( 仏界の報 )まで一貫して仏界の特質を現しているこ
とです。
金太郎アメはどこを切っても金太郎の顔が出ますが、
仏の十如是はどこをとっても、仏の十如是で一貫しており、地獄界や餓鬼
界はまじらないという意味です。

以上が仏の七如是で、地獄界の人は仏界の正反対の七如是であること
は言うまでもありません。

 *

山本さん、
「先生おかげで十如是についてだいぶん分かってきました。
だれの命にも仏界の因があって、それを現した人が仏で、それ以外の人
は九界の境涯の中のどれかであると聞きました。そこでお伺いしたいの
ですが、仏界の因果と九界の因果はどう違うのですか。」

ジッチャン、
「これはとても大事な質問です。
九界の因果は、善因は善果となり、悪因は悪果となる。 と説きますが、
これは仏教にかぎらずどの宗教でも、善い行いは幸福をよび、悪い行い
は不幸を招くと教えていますので、外の縁によって起きる通常の因果と
言えます。

 仏教の凄さは、通常の因果を超えたとこに、根本の因果である仏因と
仏果が生命に具わっていることを見抜いています。

生命に仏界があることを信じる( 仏因 )、そして、
仏界を現す修行をする( 南無妙法蓮華経 と唱えること )、
その結果仏因・仏果が同時に得られるというのが日蓮大聖人の教えです。

難しいことを言うようですが、釈迦の法華経に対して、日蓮仏法は法華本
門・文底秘沈の大法といわれ、末法の人々が仏界を現す唯一の教えなの
です。」

この稿終わり   


 

 


   


人間賛歌 幸運を呼ぶ法則 三十

2009年06月16日 | 幸運を呼ぶ法則

 善い行いをすれば必ず栄える 続き

 前回はイカの大漁の話でしたが、今回は・・・
このころU氏の実家がある青森県H市の漁村にも異変が起きた。U氏の頼
みもあって、この村では、他人に奉仕する生き方を実践する候補者を村を
あげて応援した。もともとが、アジやイワシぐらいの小物しかとれない漁村
なので、みんな貧しい暮らしをしていたが、その浜になんとマグロの大群が
まぎれ込んできたのである。

一本なん万円もする高級魚のマグロがなん千本もとれて、村始まって以来
の大豊漁となった。村では盆と正月がいっしょにきた以上の大騒ぎで、この
幸運を村中で祝ったのである。

ウソみたいな話だが、本当のことである。
世の中には信じられないような、こうした例がいっぱいあるが、人々は信じ
ようとしないのだ。それはこうした事実があることを知らないからだ。これに
ついてカーネギーの意見を聞いてみよう。

「人間の最大の欠点のひとつは、自分が理解できないことを信じようとしな
いことだ。ほんとうは、あまりたいして分かってもいないくせに。」
と言っている。

自分が知っていることや、経験したことが全てと思い込んで、そのことが
自分の中に壁をつくっていることに、気がつかないのだ。

もう一人、ドイツの鉄血宰相といわれたビスマルクに聞いてみよう。
「凡人は自分の経験に学ぶが、賢人は歴史の経験に学ぶ。」ビスマルクの
言である。

どちらも自分を、小さなワクに閉じ込めてはならないと教えているのでる。

せっかく幸運を呼んで、栄えるようになっても、自分だけの力でなったように
思い、傲慢になるのも人間の欠点のひとつだ。傲慢は滅亡への第一歩で
ある、というのも人類が発見した知恵のひとつだ。

 西洋の格言にこんなのがある。

   「幸運の女神は、ほほえみと謙虚を好む。」

いつもいばって偉そうに振舞ってはならない。にこにこして謙虚な態度で、
他から学ぶ姿勢が幸運を長続きさせるために必要なのだ。おとなりの中国
では、

   「和心、百福を生づ」

と言われ、謙虚でおだやかな心でいれば、百の幸運に恵まれる、と教えて
いる。

この稿終わり    


人間賛歌 「新・仏教教室」 八十五

2009年06月14日 | 新・仏教教室

 七如是について *
 問う。
七如是についてもっと詳しく知りたいのですが。

 答う。
七如是は生命の働きを七つの面から分析したものです。

 一 如是力 ( ニョゼリキ )
かくの如き力とは、生命に具わる力=エネルギーのことです。生命の境涯
によって千差万別ですが、仏界の境涯を例にあげてみましょう。

仏界の特徴は慈悲の心ですが、宇宙の根源も慈悲の心でありますから・・
異論があれば、相手のためを思う活動以外の宇宙活動を列挙してみてく
ださい。 無いはずですから・・

したがつて慈悲の行いは、全宇宙の力が味方になりますので、宇宙と等し
いパワーを持っています。かくの如き力が仏の力です。

 二 如是作 ( ニョゼサ )
生命が自個以外に働きかける作用のことです。
仏界の如是作は、自分に仏界があることを知らず苦悩の世界にいる人々
に、仏界があることを教え救おうとする作用をします。

 三 如是因 ( ニョゼイン )
かくの如き仏界の因はだれの命にも具わっていますが、それを知って仏界
を現した人が仏( 覚者 )で、知らない人は九界( 地獄界から菩薩界まで )の
中のどれかを現しています。

 四 如是縁 ( ニョゼエン )
仏界の因はあっても仏界を現した仏( 御本尊 )に縁しないと、仏界を現すこ
とはできません。

縁は因を現す媒介の役目をします。
例えば怒る心はだれにもありますが、実際に怒る心が現れるのは、人から
ナグられるとか、悪口されるというような縁が動機になって現れます。
これと同じリクツで縁がないと因は現れないのです。   次回に続く

 *

 お知らせ

katuのひとことを書いてきましたが、公表できない部分がありましたので
中止します。
当ブログは宗教や政治などの表現について規約がありますのでご了承
ください。 尚、 この記事は後日消化します。

  

 

 



  


人間賛歌 乱世を勝ち抜く生命観を持とう 二

2009年06月12日 | 乱世に勝つ生命観を持とう
 生命は生と死のどちらかを現しながら、
 どちらも無くならず、生死を繰り返しながら、
 永遠に続いています。

 スタート地点もなく、ゴールもない
 無死無終に続いている、実在です。

無死無終の実在である生命は、自分と他人、植物と動物というように
別々に考えることに慣れた人間が、細かく区別して考えているような
ちっぽけなものではなく、

人も、動物も、植物も、全てを含む巨大な存在です。
地球そのものも、宇宙も、生命の現れです。

その生命には、人がそう思わないかぎり、不可能とか、限界とかは
ありません。

幸福も、不幸も、成功 失敗も、海底の神秘も、宇宙の不思議も、
一切が生命が造り出す現象で、

熟練した画家が、なんでもキヤンパスの上に、自在に描くことが出来る
ように、

生命のまた一切のものを、この世に造り現しているのです。

一滴の海水の中に、大海の成分、素質はすべて含まれています。
生命をセツナに無くなってしまう一滴の海水と思うか、地球と共にあり、
久遠に続いている大海であると思うか、発想の違いだけです。


 法華経に書いてある宇宙規模の壮大な生命の世界は、始めて目にす
る人には、まるでおとぎ話のように写りましたが、誇張や、架空のことで
はなく、厳然とした事実です。

小さく限定して考えることに慣れた人間には、想像も出来ず、信じ難い
だけのことでした。

 長身の先生は狭い独房の中でこのことを覚知しました。

私たちの生命は永遠であり、その力と智慧の働きは広大で無限である。
 と長身の先生は認識したのです。

生命はこの自分の中にもあり、他の人の中にもある。
いや犬や猫にも、桜の木にもあり、宇宙全体が一つの生命体だ。
無限の生命の世界には、偶然というものはなく、原因と結果の法則が
厳しく支配していて、この法則から逃れるものは何もないのだ。

不幸や、失敗にはその原因があり、原因を改めない限り不幸も失敗も
なくならないのだ。

今までは個人も国家も、幸せを求めながら悲惨な歴史を繰り返してきたが、
それを根底から救う道はこれしかないと、長身の先生は確信したのです。

大事業家で教育者でもあった長身の先生は、生命の真実を知らず苦悩
の底に沈んでいる民衆を救おうと、この時決意したのです。

つづく      
 

人間賛歌 「新・仏教教室」 八十四

2009年06月10日 | 新・仏教教室

 幸、不幸を決める因果 *
ジッチャン、
「前回でケイタくんに、なんの心配もなく、ただ題目を唱えていけばいいん
だよ、と言いましたが、それについての御書があるので紹介しましょう。

「即身成仏( その身そのままで己心の仏界を開くこと )は、
今我が身の上の天性なり、( 中略 ) わずらいもなく障りもなき衆生の
運命なり果報なり冥加なり。」

 総かん文抄より抜粋 P 565

この御文にあるように、私たちが大聖人の教えどおりに信仰していくと、
一生のあいだに仏界を現す( 崩れることのない絶対的幸福になれること )
は、定まった運命であり、 決まっているのだから、 途中なにがあっても、
安心して信仰に励みなさい。 と仰せなのです。

冥加というのは、身に過ぎた幸せでありがたいという意味で、これが御本
尊をたもった人の果報であると言われているのです。

御本尊をたもち題目を唱える人が、いかに果報者であるかここを読めば
分かるでしょう。」

ケイタくん、
「ジッチャン、ありがとう。ボクはガンバってジッチャンのように題目の鬼に
なりますから、安心してください。」

ジッチャン、
「別に鬼にならなくてもよいと思うが・・
ところで生命の体( 三如是 )と生命の働き( 七如是 )について述べたが、
三如是と七如是を足した十如是についてもっと詳しく見ていこう。

かくの如き相、性、体、というのは、
たとえばケイタくんは、このような相、性、体であり、ジッチャンはこのよう
な相、性、体であるが、姿や性格に違いはあっても、相性体の三如是で
現れるのは共通しているのだ。これはすべての人に共通していることだ
がね。

次に働きである七如是について言えは、
かくの如き力、作、因、縁、果、報、本末究境等で、
ケイタくんの七如是と、ジッチャンの七如是は当然違うわけだが、
ナゼ、どのように違うのかというと、それは因によって決まるのだよ。

 だから七如是の中で因がいちばん大事であると言えるね。因には通常、
善因と悪因の二つがあって、善因は善い果報( 幸福 )となって現れるが、
悪因は悪い果報( 不幸 )となって現れると決まっているのだ。」

次回に続く   


 


 

   


人間賛歌 信仰に生きる 二十六

2009年06月06日 | 信仰に生きる
 破局 一 ( 私が信仰に入ったワケ )

昭和五十年代の初頭、文部省の隣にある虎ノ門の大ホールで、同省後援
の「小さな親切運動」全国大会が開かれました。

 会場では、日本のドンと呼ばれた船舶振興会のS会長の張りのある声が
響いています。よく耳にする、

「地球は一つ、人類はみな兄弟姉妹」という趣旨の話から始まって、
両親を大切に、 兄弟仲良く、 友達を大事に、 
小さいことのようですが、小さいことの積み上げが、やがて人生を大きく
開いていくのです。

どうか「人を愛し、人を信じ、人に尽くす」を掲げる小さな親切運動を全国に
広め、明るい社会を築くために協力して努力しようではありませんか。

そのために必要なお金でしたら、不肖ですが私がいくらでも用意させてもら
います。

 と激励して結びました。

小柄な体のどこにこんな迫力があるのか、と思わせるような声でした。
文部大臣の祝辞から、M銀行の頭取、N通運の社長など、実行委員のお祝
いの言葉が続いています。

 私は壇上で日本のドンの横に座り、次々に続くスピーチを聞いていました。
四十歳の最年少でしたが、元東京大学学長 茅 誠司さんが会長をしてい
る小さな親切運動の実行委員待遇として、お歴々の末席に加わっていた
のです。

私が経営している広告会社の会長であるK先生が、
小さな親切運動の実行委員をしていた関係で、私も実行委員待遇になって
いたのです。

K先生は私と同じO県人で、学校の先輩でした。政治家で防衛庁長官、
国家公安委員長などの公職を退いて、政界を引退していたのを私がお願
いして広告会社の会長になってもらったのです。

勲一等の勲章の受章者であるこの先生が私の誇りだったのです。
酒を飲むと、自分がもらったのでもないのに勲一等の先生の自慢をするの
が常でした。

脱サラをした当時、出先で終電に乗り遅れ、タクシーに乗るカネもなく、
線路伝いに雪道を歩いて帰ったような自分が、こんな立派な先生を会長に
戴くまでになり、この国の指導者たちと一緒に壇上に座っているのが夢の
ようでした。

つづく