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叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

 すべて無料です、気軽に読んでください。

人間賛歌 人間は何者だ、どこから来たのか 十

2008年02月27日 | 人間は何者だ、どこから来たのか

真理を悟った釈迦は、

私は滅したり生じたりせず 常にここに居て
迷いの衆生を救うために 説法教化している

私はいつもこのように思う
西を東と見 東を西と見る 顛倒した人々を
自分と同じ悟りの境地に導き 苦から開放させるため
どのように教えたらよいかと。

法華経に、

為度衆生故(イドシュジョウコ) 方便現涅槃(ホウベンゲンネハン)
而実不滅度(ニジツフメツド)  常住此説法(ジョウジュウシセッポウ)

の経文がある。
人々を救うため 方便として死の姿を現すのだ それは
釈迦が死んで 自分たちを救ってくれる人がいなくなったと
人々を悲しませ 釈迦を渇仰する心を起こさせるためだ。

だが本当は滅していないのだ
人々を悟りの境地に入らせるための 方便(手段)で
釈迦も歳をとり からだも不自由になったので
いったん死んで 新たに生まれ変わってくるのだ。

と述べているのだ。

釈迦の言葉どうりだとすると 悟りの生命はだれにでもあるので
(知っているか 知らないかの差はあるが)
私たちもどこかよそから来て どこかえ行くのではなく
常にこの世界にいるのだ。 

有名な仏法の言葉に、「仏法は体のごとく 世間は影の如し」
とあるが、
影だけ見て体を知らない人には 信じられないだけのことだ。

釈迦の最後の言葉は、

「この世は美しい 人のいのちは甘美なものだ」
そして、
「すべてのものは過ぎさっていく
 己をより所とし 法をより所として 他をたのむな」

であった。

注、法とは南無妙法蓮華教(仏界の生命)のことを指す。

この稿 終わり。





 


人間賛歌 人間は何者だ、どこから来たのか 九

2008年02月20日 | 人間は何者だ、どこから来たのか

 前回の続き、

生命活動(作用、働き)だけを生命と思えば
生まれる始と死ぬ終わりがあり、 そのあいだに

一、生老病死(セイロウビョウシ) 二、愛別離苦(アイベツリク)

三、求不得苦(グフトクク)
 四、怨憎会苦(オンゾウエク)など

種々の苦をなめつくさねばならない。
これを夢に例えたのだ 夢からさめてみれば
生命自体は 無死無終で不変であった。(悟りの生命で仏界のこと)

ということを教えた話だ。

注、
一、 生老病死。 老い、病み、貧に苦しみ、死を恐れる。
    生きること自体が苦しみの元になること。

二、 愛別離苦。 愛する人や、かけがえのない人と死別したり、
    離別する苦しみのこと。

三、 求不得苦。 金や地位、名声などを求めても、
    求めても得られない苦しみのこと。

四、 怨憎会苦。 恨み憎むものと出逢い、別れられない
    苦しみのこと。


もろもろの苦悩が 充満しているのが迷いの世界の特徴だ
これを堪忍世界とも娑婆世界ともいう。

荘周が夢で蝶になり 浮かれていたが
鳥におそわれ ハチにさされ ガマに食われそうになるなどは
恐れや 苦しみが充満していることのたとえだ。

もろもろの苦しい経験をしていくなかで
人間の心が磨かれ 鍛えられ
生命は 生命そのものと 生命活動の両面が
あることを知る智慧を得、 苦しみは
智慧を得るために 避けて通れない道だと分かるのだ。
(悟りの生命で本来だれのいのちにもある)


そのとき苦しみは あとかたもなく消え失せ
迷いの心が生んだ妄想であった ことを知るのだ。

続く

 


人間賛歌 人間は何者だ、どこから来たのか 八

2008年02月13日 | 人間は何者だ、どこから来たのか

むかし楚の国に 荘周という男がいた
ひるげ(昼食)に 雑炊を食べようと思い
ナベに材料を入れ カマドにかけた。

雑炊が煮えるまで 横になって待っていたが
ついうたた寝をしてしまい 蝶になった夢を見た。

蝶はいいなあ いつもきれいな服を着て
花から花え飛んで ミツを食べるのだから
楽しいだろうな と思っていたからだ。

夢のなかの荘周は 甘い香りに誘われて
花から花を廻り ウキウキしたが
突然鳥に襲われたり ハチにさされたり
恐ろしいことが多かった。


蝶になって百年ぐらい経ったある日のこと
昼ねをしていたところを ガマ蛙に襲われ
大きな口に 飲み込まれそうになった。
冷や汗をかいて目をさまし 辺りを見たが

ナベのフタがコトコト音を立て 雑炊が煮えていたが
家の中はうたた寝をする前と 何も変わっていなかった。

蝶にもならず 百年もたたず
もとの荘周のままで 半時も経っていなかった。


これは仏教説話に出てくる有名な話である。
生命は生命そのものである体と、生命活動(作用・働き)
の両面で成り立つ。
生命と生命活動が別々に有るということはない。
生命活動は生死または起滅を繰り返すが、
生命自体は無始無終で永遠に続く

人は、起滅のある生命活動だけみて
生命そのものである体を知らないから、生死があるように思う。
生命活動は生死、生死を繰り返しながら
よりよいものを目指し、常に変化しているのだ。

これを分かりやすく説いたのが、荘周の夢の話だ。
うたた寝をして蝶になった夢をみている荘周を、
生命自体を知らず、生命活動だけみて、生命だと錯覚しているのを
夢をみている荘周にたとえたのだ。

眠りから覚め、蝶にもならず、百年もたたず、もとの荘周のままだった
と気づくのを、生命の本質を知ったことに例えたのだ。

つづく    


 

 


人間賛歌 人間は何者だ、どこから来たのか 七

2008年02月05日 | 人間は何者だ、どこから来たのか

 前回よりの続き、

環境をよくしようと無理をし 一時的に変わったように見えても
境涯の変革がなければ 一時の気休めで長続きしない

みんなこの原理がわからないから
環境を変えようと あくせく働きかける
だが徒労に終わるのがオチだ

鏡に写った顔が汚れているからといって
鏡を拭いても汚れは落ちない これと同じ理屈だ

顔を洗って汚れを落とすと 鏡にきれいな顔が写る
先ず自分の生命の汚れを 落とすことが大事なのだ
 (注、生命の境涯を変革すること )


人間の本性は仏界の境涯だ と前に述べた
仏界を体とすると 九界以下は影のようなもので
真実ではない 夢か幻のようなものだ

生命に仏界があることを 知らないために
夢 幻のような九界の内の 主に六界を流転する

声聞界、縁覚界、菩薩界は少なく 六界の人が多いからだ

これを六道輪廻といい 地獄界から天界までの境涯を
絶え間なく 生死を繰り返しながら経めぐる
これを古人は 「酔生夢死」と言うた

酒に酔って正体をなくし 妄想の夢を見て
なにがマコトでなにがウソか 知らずに一生を終える

これではいけないと思い 救いを求め
いろんな思想 哲学を求める だが誤った思想や
偏狭な哲学は ありもしないことを有ると思う
妄想であったり 人を惑わす邪見であったりして
逆に人を苦悩に追い込む


このような妄見妄想の網の中で 身動きできず
もがき苦しむ人々を救うため 真実を語る人が現れ
人々に目を開き真実を見るよう 教えるのだ

みんな目を覚ませ 地球は火宅のようになっているぞ
( 注、火事で燃えている家、苦悩が充満していること )
今なら間に合う 本性に目覚めよ

習慣の下僕から抜け出せと 警告しているのだ。

続く


人間賛歌 人間は何者だ、どこから来たのか 六

2008年01月28日 | 人間は何者だ、どこから来たのか

 ご参考、

暗いニュースばかりで希望を持ちにくい時代ですが、だからこそ希望を
見出そうと「若い人の仏教教室」では、希望について話し合っています。
よろしかったらお寄りください。
尚、私の好きなサムエルソンの詩「青春」を載せますので、声を出して
読んでみてください。


青春とは人生のある時期をいうのではなく 心の様相をいうのだ。

すぐれた創造力 燃ゆる情熱

キョウダ(臆病)をしりぞける勇猛心

安易をふり捨てる冒険心 こういう様相を青春というのだ。

年を重ねただけで人は老いない

理想を失う時にはじめて老いがくる。

イギリスの詩人、サムエルソンの詩・「青春」より


 本文

依正不二 (エショウフニ)

仏教では生命活動の主体である人間を 正報といい
正報が活動する環境を 依報という

依報 正報ともに妙経を宣ぶ と経典にあるが
生命活動は環境なしではなりたたない

そして正報が仏界であれば 環境も仏界を現し
全宇宙の働きが 正報を守り活動を支える作用をする

正報が地獄界の境涯であれば 環境も地獄界の姿を現し
何をやっても旨くいかず 苦悩する地獄の姿を現すのだ

正報と依報は二にして二ならず 切っても切れない
不二の関係(体と影の関係)だからだ。

環境を変えたければ 自分が変わればよいのだ。
環境と自分は不二だから 自分が変われば環境は変わる

これは仏教では自明の理なのだ。

続く

 

 


人間賛歌 人間は何者だ、どこから来たのか 五

2008年01月21日 | 人間は何者だ、どこから来たのか

 前回の続き、

利他に喜びを感じる境涯とは 自分のことに汲々としていた
生命が大変革するのだ
この状態を絶対に幸福な境涯という

なぜなら もう不幸を感じることはないからだ。

人間はこの境涯になるために 悩み多いこの世に生まれ
種々の苦難にあい 自己を磨き鍛えて
究極の境涯である 仏界に至るのだ

これが人間の運命であり 冥加( 身に過ぎた幸せ )なのだ。


仏界以下の九界については 前に述べたので
多くは言わないが 因果が同時なのは仏界と同じだ

因と果はセットになっていて 別々に切り離せない
地獄界の因であれば 苦悩する心(果)が同時であり
ガキ界の因であれば 貪欲な心(果)がセットされ

畜生界の因であれば 目先のことに汲々する
愚かな心(果)がセットされる

どれも満足する生命活動は望めないのだ。

生命の境涯を変えることが 最重要だと前に述べたが
再々、確認をしておきたい
尚、仏界の境涯について 誉め讃えたが
自分と余りにもかけ離れていて ピンと来ない人に

「あなたが一番あこがれてなりたい人 それが誰であれ
その人より幸せになれることは 絶対間違いない」
と断言できる。
天地神明に誓って言えるので 信じてもらいたい

仏界の力を信じずに 使えるワケがないことは当然だからだ
と申しあげたい。

つづく

注、仏界とは生命のことであり、希望のことであり、
  不滅のことなのだ。これを賛嘆したのが法華経だ。





 

 

 


人間賛歌 人間は何者だ、どこから来たのか 四

2008年01月14日 | 人間は何者だ、どこから来たのか

 ご参考、

無限の力を持ち、永遠に続く生命を悟った釈迦の言葉をいくら書いても、
完全に理解してもらうのは難しいと思います。

なぜなら生死の枠の中( 九界の境界 )の中にいる私たちは、
生死を超えた仏界の境界を想像することができないからです。よほど特別
な能力を持った人でないと、頭では分からないと思います。


それでは特別な能力を持たない一般人である私たちには、釈迦の悟った
境界になれないのか、というとそうではありません。
日蓮仏法では、南無妙法蓮華経と唱えるだけで、己心の仏界を現すこと
が出来ると教えています。

題目を唱える勇気さえあれば、だれでも出来る実践法です。


 本文

普通の人間に 最高の仏( 真理を悟った人 )の境界が
具わっている と言ってもなかなか信じられないのが常だ

だが仏界を現した 先哲の教えを信じ
教え通りに実践すれば ( 南無妙法蓮華経と唱えること )
必ず仏界の境界が得られるのだ

仏因と仏果が同時だから やればだれでも
すぐに確証が得られる
もともと仏の境界が 人間の本性だから
利己的な小我の自分を超え 我即宇宙の大境涯となり

なにも恐れない 大安心で
自分も他人も共に喜ぶ 大歓喜の境涯になれるのだ

もともとそうなるように 設計されているのが人間なのだ

「他のいきものを 幸せにするために進化したいきものが人間だ」

これが最新の脳科学者の見解だ。

続く

 

 

 


人間賛歌 人間は何者だ、どこから来たのか 三

2008年01月08日 | 人間は何者だ、どこから来たのか

 解説

前回は、私たちの体は宇宙を縮めた存在で、天地と一体なのだ。
と経典の文を紹介しましたが、これは簡単には理解できないと思います。
生命の真実を悟った釈迦仏の言葉ですから、私たちは信じるか、信じない
かのどちらかです。
今回も、無限の力を持ち永遠に続く生命を悟った仏の言葉の続きを書いて
いきます。


 本文

この金剛不壊の身を 生滅無常の身と思うのが
迷いの境涯(
自分の生命のことを明らかに知らない無明のこと)である
というのだ

凡人が思いもしない 尊極の仏界のいのちが
だれのいのちにも具わる これが因になり
仏界の心という 果となるのだ

因が先にあって 果が後に現れるのではない
因と果は同時に現れるのだ これを因果具時という
因果具時・不思議な一法(言葉で説明することも、
心で想像することも出来ない生命の法則)を

妙法蓮華経と名付けたのだ 名付けたひとは
この不思議な法を悟った人で その聖人のいのちを
「南無妙法蓮華経」と 申しあげるのだ

植物の蓮華は 花(因)と実(果)が同時に現れる
通常 植物は花が先で 実が後になるか
実が先で 花が後になるのが普通だ

蓮華草は 花と実が同時なので
仏界の因と 仏界の果が同時にある不思議な法を
蓮華にたとえたのだ

だれのいのちにも 仏因.仏果を具えているが
縁がなければ 実際に現すことはできない
蓮華草も雨や 太陽の光の縁にふれねば
タネが発芽し成長し 果実を実らすことはできない
これと同じだ

仏因仏果を現すには 仏果を体得した師に縁し
教えを乞わねばならない 仏因.仏果を具足していても
正しい師に会うことが難しいのだ

諺に聖人は千年に一度世に現れる とあるほどだ

続く


 




 

 


人間賛歌 人間は何者だ、どこから来たのか 二

2007年12月30日 | 人間は何者だ、どこから来たのか

本文に入る前に、思いについて最近感じたことをかきます。

「 思い 」

思いはエネルギーなんです。
これは川の魚と海の魚を同じ水槽で育てるのに成功した研究者の言です。
研究所のある場所が海から遠く、海水を手に入れにくいので海の魚を、
淡水魚と同じ水で一緒に育てようと思ったのです。

なんでも思いから始まるんです。と語っているのを新聞で見ました。

さて、人間賛歌もこれで今年最後の投稿になります。一年間こ愛読ありが
とうございました。
読者の中には、身体に障害をおもちの方がおられるかもしれないし、
そうでなくても悩みや苦しみを抱えて年を越そうとする人がいるかもしれま
せん。そのような人に私の師の言葉を紹介します。

「障害があるから、不幸なのではない。障害に負ける心が不幸なのだ。
苦しみや悩みがあるから不幸なのではない。
苦しみや悩みに負ける心が不幸なのだ。」

幸福になるには負けない心をつくることが大事なのです。
ちなみに私も心臓に障害をもっています。だが負けない心で来年もかきま
すからよろしくお願いします。


本文

仏界の境涯は、もちろん生死がなくなるわけではない。
生死にこだわらない心で、生まれるたびに、
自分の望むままの使命を全うし、悠々と人生を楽しむ。
これが無限に続く境涯を、仏界というのだ。

仏界になっても、別の人になるワケではない。
今までと変わらない、その身そのままで、
完全、円満な人格になるのだ。

経典にはそのからだを、次のように記している。

「この身の一つ一つが天地の姿に模倣していることが分かる。
頭の円いのは天にかたどり、足の四角なのは地にかたどり、
身中が空虚であることは、虚空をあらわしている。
腹が暖かいことは、春と夏にのっとり、背中が剛いのは
秋と冬にのっとり、四体は四時にのっとり、

十二の大節は十二ヶ月にのっとり、三百六十の小節は
三百六十日にのっとり、鼻の息の出入りは山の沢や、
深谷の中の風にのっとり、
口の息の出入りは虚空の中の風にのっとり、

両眼は日月にのっとり、その開閉は昼夜にのっとり、
髪の毛は星辰にのっとり、毛は草むらや林にのっとり、
眉は北斗星にのっとり、脈は洪河にのっとり、
骨は玉や石にのっとり、皮と肉は土地ののっとる・・・」

まだ続くが、要はこのからだは、宇宙を縮めた存在で、
天地と一体なのだ。

続く

 みなさん、よい年をお迎えください。 

 


人間賛歌 人間は何者だ、どこから来たのか 一

2007年12月24日 | 人間は何者だ、どこから来たのか



 人間は何者だ、 人間は生命だ。

 人間として 生命活動する存在だ。

 人間は裸で生まれて、裸で死ぬとだれもいう。

 確かに服を着て 生まれたものはいない。

 だが、裸で生まれたといっても、

 なにも持たずにきたのではない。

 不可能はなしの 生命という宝を持ってきたのだ。


 二十億年以上まえ、 原始の地球に誕生した

 百分の一ミリにもみたない、 微生物から

 六十兆個の細胞で出来たからだをもつ 人間まで

 進化した過程を情報として具え 

 いきものの頂点に立つ人間として 生まれてきたのだ。

 これ以上はない 最高の宝を求めずして持ってきた。

 だが、ほとんどのものが、それに気づかない。

 「一人のいのちは地球よりも重い。」

 その言葉は知っていても それを実感する人は少ない。

 なぜ、生命が最高の宝なのか。

 それは生命には仏性(大我のいのち)という、

 最高に尊い性質があるからだ。


 生死に束縛された小我(地獄、ガキ、畜生、修羅、人、天、声聞、

 縁覚、菩薩)の九界を超え、

 大我(仏界即ち妙法蓮華経)に到達して人間は、

 その身そのままで、仏界の境涯を得るのだ。

 宇宙生成から現在にいたるまで、すべての情報を具えた宇宙大の智慧。

 あらゆるものを抱擁し、活かしきる大慈悲力。

 全宇宙の働きを味方にする大福運、これが仏界の境涯だ。

 生死を超えているから、生ずべき始もなければ、

 死すべき終わりもない、永遠に、大安心と、大歓喜の心で、

 人生を遊劇する境涯なのだ。

 つづく