叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 自分の心を変える 十

2007年07月30日 | 自分の心を変える
 前回の続き、

少女は大声で泣き叫び、両親のところにもどろうとするが、
ドイツ兵は少女の首を掴んで、

「ジャマなガキだ、手間をかけるな。」

と怒声とともに、少女のからだを放り投げた。
投げ飛ばされた少女の目の前で、鉄の扉は鈍い音を立て閉まっていく、
地べたを這ってガス室へ入ろうとする少女を、

「ガチャン!」と鍵のかかる音がして鉄の扉が遮断した。
それっきり少女は、愛する両親と永遠に引き離されたのだ。

やがて任務を終えたドイツ兵は立ち去った。
かれらは次の任務のために、少女のことなど忘れ去っていた。
少女の名前は、両親とともにガス室で殺された人の中にはいっていたので、
生存者名簿からはずされた。

その結果少女は、この世からもあの世からも抹消され、
惨めな身になって、ひとり残されたのだ。
ロスは少女の話を聞いて、このいたいけな少女が哀れでならなかった。


「神よ、もしおわすのであれば、なぜこの子に、
 これほどむごい試練をお与えになるのですか。」

天を仰いで訴えたい気持ちであった。
少女は女のロスが見てもハッとするほど美しかった。その美しさがよけい
少女を痛々しく見せた。

「それで、あなた、いままでどうしていたの。」

少女にはなまじっかな同情など、言葉にだせなかった。
どうやって生きてきたのか、と訊くのがやっとだった。

少女はロスがドイツ人でなく、スイスから来た医学生と知って安心したようだ。ロスの問いに答え話を続けた。

それからの少女は、だだっ広い収容所の片隅に、ドイツ兵に見つからない
よう、自分がやっと入れる穴を掘ってそこに隠れた。
昼間はドイツ兵に見つかるので、夜、見廻りの兵隊が去るのを確かめて穴
を出た。食料を探すためだ。

草の根や昆虫が食べ物で、何もないときは積もった雪を口に入れて、
飢えをしのいだこともあった。

続く

人間賛歌 若い人の仏教教室 五十二

2007年07月28日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「山本さん、考えて分かることではないけれど、悪業に染まる前の清浄な
いのち(心)とは、宇宙生命と同義なのです。

太陽や地球の活動も、万物を生成せしむる根源の力、
それは宇宙生命のことである。

と教えたのが法華経(宇宙即我)です。

ただしこのことは理解しがたいので、釈迦は法華経の冒頭で、この経は
難信難解で信じがたく、理解するのが難しい。
と断ったうえで妙法蓮華経を説くのです。


釈迦の弟子でインド第一の知者と評判されたシヤリホツが、
弟子のなかでも一番早く真理を悟るのですが、
このシヤリホツでさえ、

「自分の知恵で分かったのではなく、釈迦の言葉を信じて仏道を実践した
からだ」
というのが経文に出ています。

法華経は無量劫(劫は長遠な時間のこと)において、その名前を聞くことさえ難しいと経文にあるぐらいです。


題目を唱えることぐらい簡単だと、思うかもしれないが、簡単なようでこれが
なかなか出来ないのです。
生命には清浄な仏界のいのち(法性という)と、
仏界があるこを信じられない迷いのいのち(無明という)が同時に具わっています。

題目を唱えようとすると、無明のいのちが妨害して、やらせまいとするから
です。どちらも心の深層にありますから、考えても分かりませんが、
自分の心の違いが、
無明になるか、法性になるかを決めるわけですから、日蓮大聖人は、
心こそ肝要なれ、と言われています。

そこで題目を唱えるのが最善ですが、どうてもそれが出来ない場合、
自分の周囲で題目を唱え仏道修行している人がいれば、その人に近づき
親しく交際することです。

善友を得れば仏道を成就したのと同じ効果がある。と釈迦も言っています。

続く。

 

 

 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 五十一

2007年07月25日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「前にも話しましたが仏界を現すには法華経の題目を唱えることです。
これ以外に根本淨識である仏界を現す方法はありません。

なぜなら、悪業に染まる前の清浄な心を妙法蓮華経というのです。

昔のさらに昔、
聖人(過去、現在、未来のことを詳しく知る人を聖人という)が、
真理を直観して名前をつけるとき、
因果倶時(仏になる因と仏になった果を同時に具えていること).不思議な法
を『妙法蓮華経』と名づけたのです。


したがって、わがいのちに悪業に染まる前の清浄な仏界のいのちがあると
信じて、その名を呼べば、仏界のいのちが呼び、呼ばれて現れてくるのです。

呼んだらナゼ現れるのか、とヘリクツを言うまえに、
ともかく題目を唱えて、わが胸中の仏界を呼んでみることです。
現れるか、現れないか、すぐ分かりますよ。

自分のことで恐縮ですが、私は十なん年も法華経の信仰に反対して、
どうしようもなくなって信仰したのですが、

信仰して題目を唱えたその夜、長いあいだ悩んでいた不眠症が一晩で治った経験をしました。

山本さん、
「へぇーホントウですか、不思議ですねぇ。」

ジッチャン、
「信仰するようになってから、不思議な体験はイッパイありますが、会社倒産
のショックと、借金返済の重圧で、
枕元に一升ビンを置いてなければ一睡もできなかったのが、
題目を唱えただけでウソみたいに治ったのが、当時としては一番感動的でした。

山本さん、人間の頭では理解できないことが、世の中にはイッパイあります。
たとえばトリの卵をとってみても、カラの中の透明な液状のものから、
クチバシや目が出て、羽がはえ、足がそろって空を飛べるようになるとは、
だれが想像できるでしょうか。

でも卵がトリになるのは事実で疑いようがありません。いったいだれがそう
しているのでしょうか。
山本さんはどう思います。

山本さん、
「私にはよく分かりません。だから人間は万物を創造する神か゜いて、その
神が造ったなどというのでしょう。」

つづく

 

 


 


人間賛歌 自分の心を変える 九

2007年07月23日 | 自分の心を変える

 前回の続き

頭がおかしいのではないかと思い、少女の顔を見たが、
目は澄んでいて賢そうな顔をしている。医学生の、
ロスには少女が狂っていないことが、一目でわかった。

「それは、どういうことなの、」

ロスの問いに、

「人間はだれだって、ヒトラーのように残酷なことができるわ、
あなただっていっしょよ。」

と少女は応えた。
不思議な少女に興味をひかれ、ロスはたずねた。

「私はスイスから見学に来た医学生だけれど、あなたはいったいだれなの、
それにどうしてこんなところにいるの。」

ロスの問いに少女は次のような話をした。
少女はハンガリーの田舎で、両親と平和にくらしていた。
だが、ユダヤ人狩りのドイツ兵に捕まって、
ここに送られてから、運命が一変した。

少女の両親は仲間のユダヤ人とともに、ガス室で殺された。
殺される日のことだった。

名前を呼ばれ、裸にされた少女は、
他のユダヤ人と一緒にガス室に入れられた。
名前を呼ばれたのが、後のほうだったので、
すでに満パイになっていたガス室に、少女は、
両親の手をしっかり握ってもぐりこんだ。

その時だ。
ドイツ兵に追い立てられ、ガス室に詰め込まれたユダヤ人の数が
多すぎて、ガス室の扉が閉まらないのだ。

「このブタやろうメ、もっとなかえ詰めろ。」

ドイツ兵は口汚くののしりながら、ユダヤ人をさらに奥え詰め込もうとしたが、
ムリだった。いくらやっても扉は閉まらなかった。

ゴウをにやしたドイツ兵は、両親のあいだにはさまれて、
扉の前にいた少女に目をつけた。
少女を強引に両親から引き離し、外え引きづり出したのだ。

続く


人間賛歌 若い人の仏教教室 五十

2007年07月21日 | 若い人の仏教教室
山本さん、
「先生、悪い業を善に転換する方法とはどんなことですか、
分かりやすく教えていただけませんか。」

ジッチャン、
「アラヤ識(八識)を通り越したところにアラマ識(九識)という根本淨識(悪業に
染まる前の生命で本来の清浄な心であり、仏界のことである)があると言うのだ。

根本淨識である仏界の生命か現れると、九界以下の悪い業が消えて見えなくなるんだ。

ちょうど太陽が出ると闇が消えて月や星が見えなくなるように、
仏界の強力なエネルギーで、つもり積もった悪い業が隠れてしまうのだよ。

百万年も日の差し込まなかった暗いところであっても、
ひとたび太陽の光が当たると、すべてが明らかになるように、
いままで隠れていた仏界のいのちが現れるのです。

山本さんいくらか分かってきましたか。」

山本さん、
「先生のお話になることは理解できますが、その仏界のいのちというのがど
うも実感できなくて弱っているのです。」

ジッチャン、
「これは自分のいのちの中にあるものですから、それを取り出して自分で
体得しなければ分からないのです。
釈迦や日蓮大聖人のような仏様でも、そこに導くことは出来ても与えること
はできないのです。

自分で現す以外に方法はありません。
自分次第なのです。このことは大事なのでよく覚えておいてください。


実際に自分のいのちを改革して宿命を転換し、本来の清浄ないのちが
現れれば自然に分かります。
これを山登りにたとえると、
山のふもとにいる人が山の頂上のことをあれこれ考えても、実体はわから
ないのと同じで、登ってみれば自分で確かめることができるのです。
頭で考えただけではつかめないということですね。」

山本さん、
「先生、よく分かりました。仏界を現す実践法についてお教えくださいます
ようお願いします。」

つづく

人間賛歌 若い人の仏教教室 四十九

2007年07月19日 | 若い人の仏教教室

山本さん、
「アラヤ識に宿業がつまっているというのは初めて聞きました。
それを善いほうに転換することが、ホントウに出来るのですか。」

ジッチャン、
「山本さん出来るのです。いやそれをするために人間は生まれてきたと、
言ったほうがよいでしょう。

ケイタくんはまだ社会に出ていないから、宿業といってもピントこないかもしれないが、
 ボクはなんのためにうまれたのか、と考えるときがいつか来るものだよ。
そのときのために言っておくが、

仏教では、人間はこの世に楽しむために生まれてきた。
と言っているのだ。
楽しむためには過去延々と続いている宿業を断ち切らなければならないのだ。
そうでなければ楽しむどころか、苦悩するだけの人生で終わってしまうことも
あるんだ。

ケイタくん、
「ジッチャン、人生を楽しむってどういうことなんですか」

ジッチャン、
「楽しみはいろいろあるがね、ホントウの楽しみというのは、
自分の好きな事をして才能を発揮し、その結果自分も周りの人も幸せに
なることが、ホントウの楽しみだといえるね。

難しいコトバで言うと、自己実現をし、人間に課せられた使命..他者を幸せ
にすること..を果たすことだと思うよ。
これが最善の行為になり善業をつむことになるんだ。


参考までに言うが、
アラヤ識に善業をつんできた人は、五戒をたもち十善を行った人などで、
この世に生まれるときは国王や大指導者として現れ、
悪業をつんだ悪い種子の人は、苦難に満ちた人生を送らねばならない。
と唯識論には書いてあるのだ。」

ケイタくん、
「ジッチャン、悪い業というのはどんな業なんですか」

ジッチャン、
「ひとことで言えば自己中心的な利己心のことだね。
利己心がすべての悪業の源になるのだ。個人も人類も自己中心的な、
利己心で生きてきた弊害が、今地球的規模で現れていると思うね。

つづく

 

 


人間賛歌 自分の心を変える 八

2007年07月17日 | 自分の心を変える

 前回の続き、

パリの女性はセーヌ河に身を投げて死んだが、
三木リエはどうなったのだろう。
大川の堤防で、リエは自分の心を変えようと決意したのだ。

夫を憎み、二女を手ごめにしたヤクザを憎み、
三女を発狂させたシウトを憎み、
期待を裏切って死んだ長男を恨む、
そんな心とオサラバしょうと思ったのだ。

「そうだわ、もうくよくよして、いつも悲しむのはよそう。
これからは、どんな小さなことだっていいから、
好いこと、嬉しいことを見つけるよう、自分の心を変えていこう。」
と決心したのだ。


リエはその日を境に生き方を変え、目を見張るほど変化した。
いままで気づかなかったのが不思議なぐらい、
好いこと、楽しいことが自分の周りに満ちているのが分かったのだ。

母親の変わった姿を見て、精神に異常をきたしていた、
二人の娘が正気を取り戻した。

やがてリエの家には、悩みを抱え、
どうしてよいか分からない人たちが、
教えを乞いに、訪ねてくるようになった。それらの人たちにリエは、

「病気を治すのではなく、心の病を治せ」と訴え、
のちに有名な社会啓蒙家になったのだ。



世界的ベストセラー『死の瞬間』のなかに、著者キュプラー.ロスが、
医学生のころ、アウシュビッツのユダヤ人収容所跡を見学したときの話しがある。

ロスが見学をおえて収容所の外に出た時、ちょっとした事件が起きた。
一人の見知らぬ少女が、突然近づいてきてロスにこう言った。

「やさしそうな顔をしているけれども、あなただってヒトラーになれるわ」

少女の出現が唐突だったのと、コトバの内容が衝撃的だったので、ロスは
思わず足をとめた。

続く


 

 


人間賛歌 若い人の仏教教室 四十八

2007年07月13日 | 若い人の仏教教室
ジツチャン、
「あれ、仏界がないなと思うだろうが、仏界はあとから出てくるから心配しないようにね。


ところで山本さん、カルマン(業)というのを聞いた事がありますか、
仏教を知らない人でもカルマンの法則とかは有名なので、たいていの人は
聞いたことがあると思いますが。

山本さん、
「はい、聞いたことはあります。
人間はカルマンの法則に縛られて、どんなに努力してもあるていどのことは
できるが、それ以上はカルマンによって左右される。という意味のことを聞い
たことがあります。」

ジッチャン、
「そう、カルマンというのは業(ゴウと読み行為のこと)のことで、
人間が生きているあいだに、からだ(身)や、コトバ(口)でした行為や、意すな
わち心で思ったりしたことを業というのだ。

仏教では身口意の三業と言っているがね。

もちろん業のなかには善い業もあるが、たいていは悪い業のほうが多いんだね。
たとえば人をあなどれば、逆に人に軽蔑される業になったり、
人のものを盗めば、貧乏で生活するのに苦労する業になったり、
数え切れないほど多くの業を積み重ねてきている、と言われるのだ。

その業を蓄積するところが第八識(アラヤ識)なんだ。
アラヤとは貯蔵する蔵のことで、業が積み重なって貯蔵されている。
という意味なんだね。

ユングが集合的無意識と言ったのはこの部分を指していると思うね。
ここには個人の業だけでなく、人類全体の業が..悪業も善業も、ここに集積されていると言うんだ。

これが種子になって、善い種子は善い果を生じ、
悪い種子は悪い果となって現れるのだ。

善業も悪業も混在しているアラヤ識の善業はよいとして、悪い果をもたらす
種子を善に転換しなければ、人間ひいては人類の苦悩は解決しないのだ。

これを仏教では宿業転換といって、
仏道修行の目的は宿業を転換し、自分も他の人もともに幸福になる、
ことにあるのだ。

つづく

人間賛歌 自分の心を変える 七

2007年07月10日 | 自分の心を変える
 前回の続き、

男は高名な学者で、パリ大学の教授だった。
女が暴れなくなったので、もうあきらめたかと思い、
腕の力をゆるめ、女に言った。

「おちつきなさい、死ぬ気でやればなんでもできます。
もし私にできることなら、なんでも力をかしますから、
とにかくおちついて、事情を話してみなさい。
私はパリ大学の教授で、Lというものです。」

女はまだ若い人だった。
香水の匂いが闇のなかに、かすかにただよう。
高ぶっていた感情が通り過ぎたのか、ややおちついた声で、


「どうか助けると思って見逃してください。
私にはどうしても死なねばならない、わけがあるのです。」

と男に言った。
それでも目の前で自殺しようとするのを、見逃す事はできない。
という男に、

女はなぜ自分が、セーヌに身を投げて死のうとしているか、
ワケを語った。

女はパリの下町に住む売春婦だった。
彼女が死なねばならない理由について、ここでは書かないが、
それを聞いて男は、

「かわいそうに、この女は死んで逃れる以外に、
 救われる道はないんだ。」

と思わざるを得なかった。

女の環境は悲惨を通り越していて、男がこれまで生きてきた世界の常識で
は、なすすべがないことを思い知らされたのだ。
男はそれまで掴んでいた女の手を、ソッと離すと、黙ってそこを立ち去った。

翌日のパリ新聞は、

「若い女性の水死体が、セーヌ河に浮かんでいた」

と短く報じた。
不幸な女は男が去ったあと、セーヌに身を投げて、短い一生を終えたのだ。

L教授は、女の死を報じた新聞を見ながら、
どうしょうもない虚脱感に陥った。
いったい今まで自分は、何を学んできたのだろう。
たった一人の女性の命も救えない、自分の学問とは、何だったのか。

疑念と悔恨が、教授の胸のなかに広がった。

続く

人間賛歌 若い人の仏教教室 四十七

2007年07月08日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「私たちが心で思うという行いは、難しく言うと心で認識するということなんだ。
それには目で見たり、耳で聞いたり、鼻で匂いをかいだり、舌で味わったり、
手やからだで触った感覚などを意識がキャッチし、

痛いとか、心地よいとか判断するのだ。
その結果その場を逃げ出したり、居つづけたりする行動になるのだね。

このことについては誰も異存はないと思うが、ケイタくんはどうかね。」

ケイタくん、
「はい、異存はありません。」

ジッチャン、
「そう、山本さんも異存はないものとして進めるが、
からだの外からの情報をキヤッチする働きを仏教では識というんだ。

目、耳、鼻、舌、身、意(こころ)の六つの働きを六識と呼んでいる。
そこで問題なのは同じことを見たり、聞いたり、味わったりしても人によって
心の受け止め方が違うということなんだ。

なぜ違いがでるのか、それは表面の心の奥に潜在意識という意識の層があって、
 フダンは意識することがないから無意識層というがね...

この無意識層に自己にこだわる根本的な自我意識があるというのだ。
いきものが本能的に持っている利己的な自意識(小我)のことだが、これを
仏教では第七識(マナ識)と呼ぶのだ。


いままでに十界の境涯については何回も言ったので、覚えていると思うが、
下はジゴク界から上はボサツ界までの九界の境界が、
ここに潜在しているととれるね。

ジゴク界の人の自意識はいつも苦しんでいるから、
六識でキヤッチした情報はゼンブ苦しみの元になるんだ。

反対にボサツ界の人の自意識は、
自分のことはさしおいて、他者に尽くそうとする自我意識だから、
六識でキヤッチした情報は、他の人の役にたとうとする行動となるので、
自他共に常に感謝と喜びを感じるようになるのだね。

つづく