叙事詩 人間賛歌

想像もできない力を持つ生命の素晴らしさを綴っています !

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人間賛歌 若い人の仏教教室 七十六

2007年11月06日 | 若い人の仏教教室

ジッチャン、
「人間には無限の可能性があるというのは、
人間のいのちに仏界があるからだが、仏界を現した人に出会うこと自体が
難しいといわれるくらい、仏界を現すことは難しいのだ。

なぜかというと、
仏界のことを法性( ホッショウと読み、仏界を現す性質・能力のこと )というが、
この法性を覆い隠し現れないようにしているのが無明なのだ。
無明は生命の真実に明らかでないことで、迷いともいうのだよ。

この法性と無明の両方が生命に元々具わっているから、
ほとんどの人が無明に覆われたまま、迷いの人生を送ることになるんだね。

無明を突き破ったところに法性( 仏界 )があるが、
無明を突き破ることが至難のワザなんだね。


釈迦も、日蓮大聖人も無明を破るには信の利剣しかない、と言っている。
無明のことを仏教では元品( ガンポンと読み元々具わっていること )の無明
ともいうが、
無死無終に続く元初の生命に、元々法性とともに具わっているから、
元本の無明というのだよ。
 注 信の利剣とは生命の真実を悟った仏の言葉を信じること。


一面からいうと無明は、死ぬことえの恐れと言うことも出来ると思う。
およそいのちあるもので、いのちを惜しまないものはいない。
「人の恐れるものは剣の下と炎のなかなり」と指摘されているが、どちらも
いのちが危ないからである。
山本さんも、ケイタくんもいのちは惜しむでしょう。」

山本さん、
「それは先生、おっしゃるまでもなく死は恐いですし、なにをするにも
いのちあってのものダネですから、いいのちは惜しみますよ。」

ケイタくん、
「ボクも山本さんと同じで、自分のいのちは惜しいし、他人のいのちも
ダイジにしたいと思いますよ。」

ジッチャン、
「それはそうだろう、山本さんに限らず、ケイタくんもそうだし、だれでも
そうだ。自分はいのちなんか惜しくないというのは、自暴自棄になって
ヤケッパチで言ってるとしか思えないね。」

つづく


 

 



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