『ドクター・ラット』 ウィリアム・コッツウィンクル (ストレンジフィクション 河出書房新書)
これは悪趣味な小説だ。
作品紹介に書かれるように、残虐な動物実験のエピソードが、その実験を受けた動物からの告発として、いくつもいくつも記述される。
それだけではない。悲惨な状態に置かれる家畜、場へ送られる家畜、動物園の動物、猟師に狩られる野生動物……。
目を塞ぎたくなる様なシーンが何度も描写され、痛みを伴う告発が何度も述べられる。動物たちは擬人化により、人間のように感じ、人間のように考え、人間のように救済を求めて叫ぶ。
主人公はドクター・ラット。人間の医学博士のように考え、人間の医学博士のようにふるまうネズミ。
彼は動物実験の被害者であると同時に、動物実験の推進者でもある。科学の進歩のためにその内臓や脳髄を差し出すことは立派なことだ。
はたして、彼が本当にドクターなのか、はたまた、悲惨な境遇から精神を守るために人間に同一化してしまった精神疾患者なのかはわからない。ドクターラットは自らをも犠牲に捧げてしまった医学者のなれの果てなのか、はたまた、過度に擬人化されて描かれる動物たちの一匹に過ぎないのか。
いや、ちょっと待て。これは本当に醜悪なカリカチュアなのか。人間を動物のように扱うことと、動物を人間のように扱うのは同一のことなのか。動物を人間のように扱うのが正しいならば、昆虫はどうなのか、植物はどうなのか。安易な擬人化は理解を妨げ、逆に真実から目を逸らさせる罠ではないのか。
動物たちの反乱は、直観的衝動の放射、直観的波長の放送なるものによって、革命主導者の叫びがテレビジョンのように世界中の動物たちへ放送されることによって始まった。研究所のネズミたちは、ネコたちは、イヌたちは、踏み車を廻し、ローラーを廻し、世界へ放送を続けた。それは何のためか。革命のため?
いや、最後の結末を見るがよい。人間たちは慌てず騒がず、集まった動物たちに容赦の無い銃弾の雨を降らせ、革命に加担した動物たちを一掃してしまう。まるで、為政者によって意図的に引き起こされた革命によって不満分子が炙り出され、一網打尽にされてしまうかのようではないか。
大いなる沈黙の元に、ひとつの偉大な動物と化した大集会を人間たちが蹂躙したとき、動物たちの魂は嵐となり、すべてを引っ張りながら旅立っていった。それを見送った、なみはずれたナマケモノの台詞は、羨望なのか、悔恨なのか、あるいは安堵だったのか。
果たして、これは本当に動物愛護を掲げた文明批判小説なのか。これは本当に、動物たちに愛の手を差し伸べよとのメッセージなのか。
深読みをしようと思えば思うほど、表面的なメッセージの裏に、そのメッセージに乗ってしまった読者への悪意と悪戯が透けて見えるような気がしてくる。
これは、まったくもって悪趣味な小説だ。
これは悪趣味な小説だ。
作品紹介に書かれるように、残虐な動物実験のエピソードが、その実験を受けた動物からの告発として、いくつもいくつも記述される。
それだけではない。悲惨な状態に置かれる家畜、場へ送られる家畜、動物園の動物、猟師に狩られる野生動物……。
目を塞ぎたくなる様なシーンが何度も描写され、痛みを伴う告発が何度も述べられる。動物たちは擬人化により、人間のように感じ、人間のように考え、人間のように救済を求めて叫ぶ。
主人公はドクター・ラット。人間の医学博士のように考え、人間の医学博士のようにふるまうネズミ。
彼は動物実験の被害者であると同時に、動物実験の推進者でもある。科学の進歩のためにその内臓や脳髄を差し出すことは立派なことだ。
はたして、彼が本当にドクターなのか、はたまた、悲惨な境遇から精神を守るために人間に同一化してしまった精神疾患者なのかはわからない。ドクターラットは自らをも犠牲に捧げてしまった医学者のなれの果てなのか、はたまた、過度に擬人化されて描かれる動物たちの一匹に過ぎないのか。
いや、ちょっと待て。これは本当に醜悪なカリカチュアなのか。人間を動物のように扱うことと、動物を人間のように扱うのは同一のことなのか。動物を人間のように扱うのが正しいならば、昆虫はどうなのか、植物はどうなのか。安易な擬人化は理解を妨げ、逆に真実から目を逸らさせる罠ではないのか。
動物たちの反乱は、直観的衝動の放射、直観的波長の放送なるものによって、革命主導者の叫びがテレビジョンのように世界中の動物たちへ放送されることによって始まった。研究所のネズミたちは、ネコたちは、イヌたちは、踏み車を廻し、ローラーを廻し、世界へ放送を続けた。それは何のためか。革命のため?
いや、最後の結末を見るがよい。人間たちは慌てず騒がず、集まった動物たちに容赦の無い銃弾の雨を降らせ、革命に加担した動物たちを一掃してしまう。まるで、為政者によって意図的に引き起こされた革命によって不満分子が炙り出され、一網打尽にされてしまうかのようではないか。
大いなる沈黙の元に、ひとつの偉大な動物と化した大集会を人間たちが蹂躙したとき、動物たちの魂は嵐となり、すべてを引っ張りながら旅立っていった。それを見送った、なみはずれたナマケモノの台詞は、羨望なのか、悔恨なのか、あるいは安堵だったのか。
果たして、これは本当に動物愛護を掲げた文明批判小説なのか。これは本当に、動物たちに愛の手を差し伸べよとのメッセージなのか。
深読みをしようと思えば思うほど、表面的なメッセージの裏に、そのメッセージに乗ってしまった読者への悪意と悪戯が透けて見えるような気がしてくる。
これは、まったくもって悪趣味な小説だ。