神なる冬

カミナルフユはマヤの遺跡
コンサドーレサポーターなSFファンのブログ(謎)

[SF] 我もまたアルカディアにあり

2015-08-17 08:57:31 | SF

『我もまたアルカディアにあり』 江波光則 (ハヤカワ文庫 JA)

 

なんだか、みょうちくりんな話だった。

働きたくない人たちを集めてマンションを作る。そこでは衣食住は保証され、何をやっていてもいい。ただし、いつか来る“終末”に備えること。これは現代社会批判なのか、果てしないスペキュレイティブ・フィクションなのか。

集団には必ず2割の怠け者がいるとか、会社は2割の働き者で動いているとか、そもそもがそういう話なのかもしれない。

働きたくなくて、餓死して死のうとまで思っていた主人公の前に、一緒に子供を作ろうと生き別れの妹が出てくるあたり、ラノベやエロゲーのパロディっぽくもあるのだけれど、そういった批判的パロディが主眼では無いのだろうとは思う。全編がこんな感じで何かのパロディだったり、ネタ的取り扱いだったりする。

餓死して死ぬはずの主人公がアルカディアマンションに入り、餓死するどころか暇をもてあまして働き始め、最後には大日本(そう、大日本政府なるものが出てくるのだが、これも昨今流行のネトウヨ批判ではなく、あくまでもネタ的取り扱いに見える)の未来に(間接的に!)関わっていくという皮肉な話になっている。つまり、主人公は怠け者の2割として隔離されたにも係わらず、その集団の中では働き者の8割になってしまう。

アルカディアマンションの管理者も、酔狂な金持ちや狂人的な宗教家ではなく、秘密の国家プロジェクトに係わる公務員だとか。つまり、アルカディアマンションは国家的な社会実験か、本当の意味でノアの箱舟として作られたものだ。その真相は思わせぶりに匂わされるだけで、明確には語られない。

それでも、幸か不幸か、大日本とアルカディアマンションを、前代未聞なテロと事故と天変地異が次々と襲う。それでも、終末は来ないと嘯いている主人公が可笑しい。それ、すでに終末じゃないか。

メインとなる主人公の一生を語る物語の合間に、彼の子孫と思われる人々のエピソードが挟まれ、アルカディアマンション、および、大日本の未来が語られていく。そして、その結末は、主人公と妹の(遺伝子の)世代を超えた邂逅であり、遠大なラブストーリーと読むこともできるようになっている。

しかし、“これ”はいったい何なんだろうか。

現代社会批判でもなく、未来社会予測でもなく、笑えるパロディでもなく……。ネタが詰め込まれている割に、それぞれの要素が弱いために、なんでもありで何にも無し。

しかし、こういうのが意外と著者の死後あたりに文学的に評価され、カルト的な人気を誇るようになるのかもしれないなと思った。

 


[SF] 折り紙衛星の伝説

2015-08-17 08:49:32 | SF

『折り紙衛星の伝説 年刊日本SF傑作選』 大森望/日下三蔵 編 (創元SF文庫)

 

毎年毎年お疲れ様ですといった感じの傑作選。今回はなんでこれが選ばれたのかというものが多かった気がする。作品そのもの力ではなく、2014年に活躍した人、見出された人という視点で選んでないか?

個人的ベスト1作品だけ選ぶとすると、「「恐怖の谷」から「恍惚の峰」へ」かな。次点で「わたしを数える」。



○ 「10万人のテリー」 長谷敏司
ゲーム中だけに実行される人工知性というアイディアもさることながら、アナログハック・オープンリソースという試みが面白いと思った。日本ではシェアワールドはなかなか成功しないので、ちょっと興味深い。

○「猿が出る」 下永聖高
もっと後味の悪い話だと記憶していたら、意外にさわやかな結末だった。

○「雷鳴」 星野之宣
それにしても、恐竜の謎は尽きないものだ。雷に結びついた連想もおもしろい。

○「折り紙衛星の伝説」 理山貞二
SFのロマンをストレートに表現するこのタイトルは反則的。収録作が「百年塚騒動」の方じゃなかったのは残念。

○「スピアボーイ」 草上仁
これはよい。スペースオペラは西部劇から来たものだしね。

○「Φ」 円城塔
初読の時は途中で気付いたが、わかった上で最初から再読してみると、思っていた以上に美しい。

○「再生」 堀晃
SF作家というのは何を書いてもSFになるものなんだなぁと。

○「ホーム列車」 田丸雅智
誰もが考えたことがあるようなネタ。そのままホームで寝てしまうというあたりがほのぼのしていて良かった。

○「薄ければ薄いほど」 宮内悠介
『エクソダス症候群』風。宮内悠介は完全に作風を確立してしまったが、ここからどう崩していくかが課題になるかも。ホスピスは緩慢な自殺というのは厳しい視点だが、反論は難しい。

○「教室」 矢部嵩
不条理。グロイ。

○「一蓮托掌(R・×・ラ×ァ×ィ)」 伴名練
うーん、やっぱりラファティはわからん。

○「緊急自爆装置」 三崎亜記
なぜ自爆なのか。

○「加奈の失踪」 諸星大二郎
だから、ネームバリューだけで選ぶな。

○「『恐怖の谷』から『恍惚の峰』へ0その政策的応用」 遠藤慎一
例のあれ。おお、論文形式なのに、ちゃんとSFになってる。すごい。

○「わたしを数える」 高島雄哉
いろいろなものがなんともミスマッチでありながら、なんだか切なくなる感じ。数えることは認識することというテーマはおもしろい。

○「イージー・エスケープ」 オキシタケヒコ
『トリノホシ』は、やってません。

○「環刑錮」 酉島伝法
著者本人のちょっとした解説があると、格段にわかりやすくなるものだ。

○「神々の歩法」(第6回創元SF短編賞受賞作) 宮澤伊織
いかにもゲームのシナリオ的な。アメコミの絵柄で脳内再生される感じ。え、この人、魚蹴さんだったのか!

 


[映画] 進撃の巨人 ATTACK ON TITAN

2015-08-08 22:28:27 | 映画

『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』


[c]2015 映画「進撃の巨人」製作委員会 [c]諫山創/講談社

 

立川シネマシティ(シネマツー)の極上爆音上映にて。

一部で酷評されるけれども、そんなに悪くなかった。原作やアニメの『進撃の巨人』のどこが好きだったのか、何に期待していたのかで、大幅に評価は異なるのだろう。

特に、キャラ好きのファンに不評なのは理解できる。どうせなら、全員の名前を変えてしまえば、エレンもミカサも出てこないならと、見に行く人は減っただろうに。(それじゃダメか!)

シナリオ改変も不評だけれど、実はこれはこれでかなり練られた構成になっていると思う。それが成功しているかどうかは、各人に評価をゆだねるにしても。あからさまなダメダメシナリオでも、作品に愛が無いわけでもないよ。

とにかく問題なのは尺。全後編二部作編成とはいえ、徹底的に尺が足りない。そこで時間のかかるエピソードはすべて省く。それでいて、『進撃の巨人』としてのストーリーを成立させる。今回の実写版におけるストーリー上の改変は、ほぼそのためのものだろう。

エレンとミカサの関係については共同脚本の町山氏が事前に述べていた通り。
「町山智浩 実写版映画『進撃の巨人』を語る」

ミカサがあれだけエレンを慕う理由を尺の中で描ききれないから、巨人来襲後のエピソードでそれを組み上げようとした。それが、エレンの地獄と贖罪。ミカサを助けられなかったエレンと、エレンに見捨てられたと思ったミカサだが、再会の果てに立場が逆転する。残酷な世界は二人の絆を強くする。

そして、過酷な訓練を描く時間が無いからこそ、調査兵団は精鋭部隊ではなく、巨人の餌として同行する素人集団になった。これで調査兵団の隊員が阿呆すぎなのはシナリオ上の要請となった。

石原さとみ演じるハンジだって、今のところ原作よりも無知で、ただのエキセントリックなお荷物キャラ扱いっぽい。リヴァイじゃなくてシキシマの方が、よっぽど真相を知っていそうな気がする。

これだけ改変されていても、原作どおりのシーンや台詞が登場するのが、返ってパロディっぽくておかしかったが、限られた時間の中で、どこまで何を再現するのかを徹底的に考え抜いた結果がこのシナリオだったんじゃなかろうか。

逆に、そこから切り捨てられた部分や、改変された部分に思い入れがある人には受け入れ難いだろう。

あと、まったく『進撃の巨人』を知らない人にも、何が起こっているのかわからないから、粗ばかりが目立ってポカンとする状況になるかも。そういう意味ではターゲットが狭すぎという感じではある。

しかしながら、これらの改変はすべて、原作者である諫山創の許可済みどころか、一部のネタは本人の発案だからな。原作レイプと言っているやつは、ちょっとピントが外れている。

個人的には、原作とは違う結末を迎えることが約束されたこの映画が、地下室も雌型の巨人も無い中で、どのような結末を迎えるのかに俄然興味が出てきた。すべての評価は、それ次第だ。

後編も、ぜひ見に行こう。もちろん、極爆で!

 


[SF] ゼンデギ

2015-08-08 22:17:15 | SF

『ゼンデギ』 グレッグ・イーガン (ハヤカワ文庫SF)

 

イーガンの新作だと思って期待して読んだら、ちょっとびっくりした。

第一部の舞台となる2012年(原書刊行は2010年)のイランにおける市民革命は前振りだとして、2027年の第2部ではイーガン流のぶっ飛んだ理論が見られるのかと思いきや、主人公マーティンの余命が短くなるにつれて残りページ数も少なくなり……。

扱っているネタは『順列都市』や『ディアスポラ』に近いのだけれど、その扱い方がまるで正反対。古くは人間なんか添え物といった物語を展開していたのに、今度はなんと人間の心、気持ちが焦点だ。イーガンって、人間的倫理なんてくそくらえって作風じゃなかったっけ?

ゼンデギとはペルシア語で“人生”を表す言葉であり、より具体的には、作中に登場するバーチャル空間を示す。ユーザはヘッドマウントディスプレイやフィードバックグローブをつけ、ランニングマシーンのように床の動くカプセル状の空間に入って体感ゲームや参加型ムービーを楽しむという趣向。

ここで重要になってくるのが、ユーザやネットワーク経由の参加者以外の、いわゆるモブといわれるNPC。ドラクエなんかでは「ようこそ、○○へ」とか、「僕は悪い魔物じゃないよ」とか、固定した台詞しかいえないモブキャラが、AIの進化によってある程度、人間と変わりない反応を示すようになる。

そして、その先で問題となるのは、どうやったら人間のように反応するAIを作ることができるのか。どこまでなにをシミュレートしたら、人間と区別が付かなくなるのか、ということだ。

この物語中では複数のアプローチや考え方が紹介され、重要なキーポイントになっているところが興味深い。特に、人間と区別が付かなければいいという考え方は、古典的なチューリングテストの概念を発展させたもので、とにかく計算量の許す限り何でもシミュレーションしようという概念とは異なる開き直りがあって面白い。そこでは意識とは何かという問題は華麗に切り捨てられている。

で、結局のところ、SF的ネタや意識や知性の問題は背景に過ぎなく、死にゆくマーティンが息子に何を残せるのかと葛藤する物語になっている。過去のイーガン作品から考えると、短編を無理矢理長編に引き伸ばしたような感じがして、どうもにも違和感があった。求めているのはそうじゃないというか、それならイーガンじゃ無くてもいいというか。

でも、短編にはこの手の作品もいろいろあるので、イーガンの作家としての本質はこっち側なのかもしれないね。