神なる冬

カミナルフユはマヤの遺跡
コンサドーレサポーターなSFファンのブログ(謎)

[映画] IT

2017-11-29 23:23:38 | 映画

『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』

 

諸事情あって、久しぶりの映画鑑賞。

『IT』と言えば、スティーブン・キングの最高傑作にして、アメリカでTVドラマ化された際にはピエロ恐怖症を生み、赤い風船にトラウマを発症したひとびとを量産した最恐の物語。

という知識はあったが、原作も読んでいないし、最初の映像化も見ていないので、これが初見。

結果としては、素晴らしかった。R15なのがもったいないくらいの、13歳、14歳の少年少女が見るべき、勇気と友情と成長の感動物語。ホラーなのに、見終わった後でこんなにさわやかなのは珍しい。

もちろん、いきなりスプラッタだし、腹も切られるし、腕も折れる。びっくり系の演出も多く、心臓が弱い人は見ない方がいい。かといって、最恐ピエロのペニーワイズは怖いというより気持ちが悪いだけだし、“それ”が見えても、ぜんぜん終わんないし、不良たちの方がよっぽど怖い。

これはかなり意図的にやっているのだと思うけれど、ペニーワイズは子供たちにとって一番怖いものとしてやってくる。それは壁に掛けられた絵だったり、突然やってきた生理だったり、死んだ弟のいない家だったりする。そして、その恐怖を共有できる仲間にしか、“それ”は見ることができない。

それでも、彼らは己の恐怖に立ち向かい、乗り越え、成長する。まるで、シリアスな『グーニーズ』みたいなものだ。

陰気ドモリ、過保護病弱、宗教息子、饒舌ゲーオタ、転校生デブ、貧民、DV被害少女など、スクールカーストの底辺にいる“Losers' Club”の面々が、「Welcome to the Losers' Club!」の叫びとともにペニーワイズを袋叩きにするシーンは思いのほか痛快だった。

しかし、“それ”は少年時代特有の幻想、集団幻覚、もしくは、記憶の改変と解釈することもできるように、用意周到に演出されていると思う。それ故に、あのシーンは、下水道に暮らすホームレスを少年たちが集団リンチするというシーンにも解釈できるというのが個人的にはポイントが高かった。それこそが、ホラーってもんでしょう。

で、これは第一章に過ぎなく、ラストシーンで誓いを立てたLosers' Clubのメンバーが大人になって再開してからが本番らしい。本当に怖いのはこれからなのだろう。きっと。

 


[SF] 忘れられた巨人

2017-11-29 22:34:12 | SF

『忘れられた巨人』 カズオ・イシグロ (ハヤカワepi文庫)

 

ノーベル文学賞受賞作家の作品というと、どのようなイメージがあるだろうか。高尚で、難解で、政治的メッセージに富み、作品そのものよりも作家の社会的位置付けが重要であるような、個人的にはそんなイメージだった。

だいたい、以前に意識して読んだノーベル賞受賞作家は大江健三郎くらいだし、そもそも読んだのは『治療塔』なんてSFとしてはクソみたいな話だったし。ほかには『蠅の王』のゴールディングがノーベル賞受賞だったのをついさっき知ったくらい。万年候補の誰かさんの作品も、なかなかノレないものが多いし。

ところが、カズオ・イシグロの作品は、そんなイメージとはまったく異なる。特に最近の二作は(といっても寡作な人なので10年の間隔はあるが)いわゆる純文学ではなく、私小説ですらなく、エンターテイメント小説とか、ジャンル小説とかに分類されるべき作品だと思う。

前作の『わたしを離さないで』は、“いま”とは異なるパラレルワールドを描いた紛れも無いSFだった。そして、この『忘れられた巨人』はさらに凄い。

舞台設定は中世ファンタジーだ。アーサー王が平定した後のブリテン島が舞台。人間関係から村を追われるように旅に出た老夫婦を主人公に、竜退治のフォーマットに従った物語が描かれる。

さらに、この作品はミステリでもある。世界は記憶を奪う霧に覆われている。人々は少しずつ何かを忘れ、何かを失っていく。本当に物忘れの原因は霧なのか。この世界にはいったい何が起こっているのか。この謎を解明していくことが物語の背骨になっていく。

そしてまた、この物語はたったひとつのIFから始まっている。そこから、当時のブリテン島の社会情勢や生活風俗を外挿し、世界を構築していく。この手法は、世界を丸ごと創造するハイファンタジーというよりは、まさにSFの描き方を踏襲している。

さらにもちろん、恋愛小説でもある。主人公の老夫婦が交わす言葉には深い信頼感と愛情を感じることができて、微笑ましい。ふたりは失われた過去に苦しみながらも、それを乗り越えていく。まさに王道の恋愛小説。

ファンタジーでミステリでSFで恋愛小説で、それでいて、ゴチャゴチャせずに美しく物語を描いている。さすがに凄いと思った。

しかも、ノーベル文学賞にふさわしい社会的テーマ、政治的メッセージを兼ね備えている。タイトルの“忘られた巨人”の意味に気付いたとき、ちょっと鳥肌がたった。それが指し示す、現代社会における“忘られた巨人”の存在に思い至ったとき、恐怖と無力さに慄くしかない。

著者のカズオ・イシグロはこのテーマをユーゴスラビア紛争から着想したそうだが、日本にも忘られたどころか、半分目を覚ましかけた巨人が居座っている。

臭いものに蓋のごとく、巨人は霧の彼方に忘却されたままの方が良いのか、あるいは、負の連鎖を断ち来ることは可能なのか。隣人を愛せよとの言葉はむなしく、深い霧もいずれは暴かれる。はてさて、いったいどうしたものか……。

 


[SF] ゲームの王国

2017-11-16 22:45:39 | SF

『ゲームの王国(上下)』 小川哲 早川書房

 

いやー、びっくりした。まごうことなきSF巨編だった。

上巻を読み終わった時点では、マジックリアリズムの良作かもしれないけれど、これのどこがSFなのか。また汎SF拡大主義者に騙されたかと思った。

しかしながら、下巻を読み終わった時点で評価は逆転。なんというSFか。世界がひっくり返るこの感覚こそ、センス・オブ・ワンダーなのだよ!


上巻は暗黒時代のカンボジアを舞台に、シハヌーク、ロン・ノル、そして、ポル・ポトへと支配者がかわっても、不条理と暴力に苦しみ続けた人々が描かれる。その中で聡明な少年ムイタックと、聡明な少女ソリヤは、運命的な出会いから、それぞれが生き抜くためにもがいた末、悲劇的な事件へと至る。

彼らの共通の夢は、社会が、人生が、公正なゲームであること。そのためのルールとは何か。ルールのルールとは何か。そもそも、ゲームとは何か。そういった主題が繰り返し語られる。

下巻では民主化の進む近未来(2023年)のカンボジアで、政治の頂点に上りつめようとするソリヤと、過去の悲劇的な事件ゆえ、それを阻止しようとするムイタックが描かれる。ムイタックの武器は、あくまでゲームだけ。

楽しめないゲームはルールが悪い。ならば、楽しむことをルールに織り込んでしまえばいい。そんな発想を、ほんの子供の頃からしていたムイタックが作り上げたゲームとは。

それを詳しく語るとどうにもネタバレになりそうなので、やめておく。とにかく読むべき。


そして、上巻をもう一度“思い返す”のだ。ヒントはいくつもある。

かつてのムイタックとソリヤのゲームの勝敗はどうだったのか。不思議な力を持つ村人は本当に存在するのか。ソリヤの夫であるマットレスの経歴はポル・ポトのインタビュー(これはGoogleで検索してね)と関係があるのか。

ついでに、P120関連では事象関連電位を検索してもおもしろい。ポケモン事件とかも出てくるよ。(ムイタック教授はググれカス好き)

そういうことをいろいろ考えると、物語世界はくるっとひっくり返るのだよ。まさに、物語、革命、想像力を主題とした規格外のSF巨編だった。

 


[SF] PSYCHO-PASS GENESIS 3,4

2017-11-08 19:54:45 | SF

『PSYCHO-PASS GENESIS 3』 吉上亮 (ハヤカワ文庫 JA)

『PSYCHO-PASS GENESIS 4』 吉上亮 (ハヤカワ文庫 JA)

 
 
すっかり今さらながら、積読消化。やっぱり、こういうのは熱いうちに読まないといかんな。

『PSYCHO-PASS GENESIS』は、1、2が征陸智己篇とするならば、3、4は禾生壌宗篇とでも言うべきか。禾生壌宗のモノローグで始まり、主人公が免罪体質を疑われるのであれば、もう結末は決まっているようなもの。ハッピーエンドで終わることの無い運命。

〈シビュラシステム〉の黎明期。初期型の〈ドミネーター〉。そして、〈ノナタワー落成式襲撃事件〉の真相。前日譚という性格上、予定調和に終わることは仕方がない。それでも、アニメ本篇のキーワードを丹念に拾って世界を構築するというのはなかなかできることではない。そこは尊敬に値する。

ふたりの主人公、滄と茉莉の百合めいた関係も、その壮絶なる人生も、PSYCHO-PASSという舞台の上で踊るには充分に美しく、哀しく。そして、ふたりの物語が迎えた結末が、アニメ本篇のセリフに重層的な意味を持たせることになるとは。アニメのスピンオフ・ノベルとしてはとてもよくできた作品だった。

一方で、いろいろモヤモヤした部分は残る。

何と言っても、共感できる登場人物が一人もいないという異常さ。滄と茉莉はもちろん、唐之杜兄弟にしろ、野芽も、泉宮司も、もちろんアブラム・ベッカムにも、まったく共感できない。完全なる傍観者として、常軌を逸脱した登場人物たちの行動を見届けたという読後感。彼らと比較すると、アニメの槙島の方がまだ理解できたような気がする。

そして、あとがきにおける著者の結論「無数の人の営みによって構成される社会それ自体に、善も悪も無い」。それは命題として正しいとしても、ここに描き出された物語は、そんな風に片付けられるべきものだっただろうか。

おそらく、アブラム・ベッカムは正しい。社会のために個人が犠牲となるシステムはおかしい。しかし、それを打倒するために個人が犠牲となるのはもっとおかしい。

瑛俊のように、社会を守るために自ら犠牲になるのは確かに美しい。しかし、社会を成立させるためのシステムが個人の犠牲を必然とすることは、また話が違う。

登場人物の主張はどれも、一見正しいようで、ちぐはぐだ。まるで、本心を隠して建前を述べているような。あるいは、自分自身を屁理屈で騙しているような。

日本という楽園を守るためにすべての不条理を押し付けられた国外の様相も極端すぎて現実味が無いし、〈シビュラ〉の出自にしたって何かが解明されたわけでもないし、突っ込みどころを探せばイライラとモヤモヤがつのるだけだ。

この方向でPSYCHO-PASSの物語を完成させるには、〈シビュラ〉の本当の原点までさかのぼった、さらなる前日譚が必要なんじゃないかな。極度の混乱の中で、日本という国を救うために、未来を〈シビュラ〉に賭けた想い。そんな話を読んでみたい。