神なる冬

カミナルフユはマヤの遺跡
コンサドーレサポーターなSFファンのブログ(謎)

[SF] 終わりなき戦火 老人と宇宙6

2017-05-24 22:18:30 | SF

『終わりなき戦火 老人と宇宙6』 ジョン・スコルジー (ハヤカワ文庫 SF)

 

《老人と宇宙》シリーズも6冊目。なんで老人がタイトルなのか忘れ去られている気もするが、ハリー・ウィルスンはじめ、コロニー連合の兵士はことごとく中身が老人。最初っから兵士の人造人間もいたような気もするけど、どうなったんだっけ。

これで今回のエピソードは一段落。いやあ、××が死ぬとは思ってませんでしたよ。ちょっと衝撃的。

ここのところ、寝落ちが多くて、いまひとつ読書スピードが上がっていなかったのだけれど、これは比較的スムーズに読めた。スリリングな展開が続くのと、割と馴染みの世界というのが理由なのだろう。俺の頭が老化している証拠なのかもしれない。

そんなわけで、充分楽しめた割に、書くべきことが無い。SFネタ的に新しいわけでもなく、考えさせられるストーリーというわけでもない。でも、読んでいて楽しいというのは最も重要なんだと思った。

 


[SF] 深海大戦 超深海編

2017-05-23 23:07:22 | SF

『深海大戦 Abyssal Wars 超深海編』 藤崎慎吾 (角川書店)

 

深海大戦の第3部。完結篇。

帯の煽りのわりには、なんとなく退屈で期待外れだった気が。

おそらく、主人公たちの会話文に魅力が無いのではないかと思われ。これは藤崎慎吾の才能の無駄遣いというか、そこは期待しても困るしという部分なのかもしれない。もし、本当にアニメ化の話があるのだとすれば、その部分を中心に強化を期待したい。

海洋+ロボットといえば、『翠星のガルガンティア』だったり、『絢爛舞踏祭 ザ・マーズ・デイブレイク』だったり、先行例が無いわけではないが、そこは藤崎慎吾。最新の深海研究をもとにしたネタをいろいろ放り込んでいて、昨今のダイオウイカに始まる深海ブームに乗れば、アニメ化しても一発当てられる可能性はあるのではないかと思う。

藤崎慎吾といえば、『ハイドゥナン』に代表される海洋SFの旗手。そして、共生微生物によるバイオスフィアが知性を持つかもしれないというのもお得意のモチーフ。

遺伝子改良によって生まれた海洋適応人類《ホモ・パイシーズ》の存在と、海中での戦闘を実現するためのバトル・イクチオイドが表のSFガジェットであるならば、バイオスフィアの持つ意識とネットワークによる繋がりが裏のSFテーマになる。

人類が非人類であるホモ・パイシーズを挟んで未知の存在に対峙するとき、人類とは何かという問いを突き付けられるわけである。

しかしながら、そうであるからこそ、ジオス島とハイドラ島の比喩の意味は地球とどこかの惑星ではなく、地上に住む人類と、地球の深海生物圏に住む生命体との間の争いであって欲しかった。ああいう無駄にオカルティックな設定は邪魔ななだけだと思うんだよね。それとも、アニメ化を見据えたうえでは、こういった派手な設定が必須になってくるのだろうか。

でも、どこだかわからない異次元でつながった惑星よりも、この地球の深海に知的生命体がいるかもしれないといった設定の方がワクワクするんだよね。みんなはそうじゃないの?

 


[SF] 棄種たちの冬

2017-05-23 21:34:43 | SF

『棄種たちの冬』 つかいまこと (ハヤカワ文庫 JA)

 

夏とくれば冬。『世界の涯ての夏』で第3回ハヤカワSFコンテスト佳作となった著者の第二弾。この作品も、ノスタルジックなジュブナイルの雰囲気が溢れている。

都市は菌類に覆われた深い森に侵されている(住んでいるのは蟲じゃなくて蟹だけどな!)とか、『ナウシカ』の腐海のパクリかオマージュかと思えば、それだけでは終わらず、ちゃんとその先も用意されているというところは評価したい。といっても、梗概でも帯でも、そのあたりはネタバレしまくりなんだけれど。

そこは読みどころではなく、やっぱり主人公の少年少女たちが目指す未来が主題だというべきか。

なぜ生きるのか。なぜ死ぬのか。山の向こう、空の向こうには何があるのか。そうした幼年期の素朴な疑問と好奇心が、大人になった今でも、心の奥底からボクらを駆り立てて止まない。そんな焦燥感を呼び起こされる。

そして、たぶん、それこそが、SFを読まずにいられない理由のひとつなんだと思う。

そんな感じで、中学生、高校生時代の読書体験まで思い出させるような小説だった。

 


[SF] S-Fマガジン2017年6月号

2017-05-22 22:20:54 | SF

『S-Fマガジン2017年6月号』

 

アジア系SF作家特集。アジア系とは何ぞ、という感じではあるが、要は英米SF市場における“アジア系SF作家”の出版現状の紹介。もちろん、そういう意味で日本の作家もこの枠の中に入る。

ただ、オタクカルチャーの延長として紹介される日本SFに対し、テッド・チャンやケン・リュウなどのアジア系SF作家の作品や、彼らによって紹介される中華SFという違いは大きいかも。ネイティブな英語で書ける日系SF作家は出てこないものか。カズオ・イシグロにはこの方面は期待できそうにないしな。

一方で、中華SFが中国語からではなく、英語を挟んで訳されるというのも興味深い現象。そういえば、ロシア人作家もこのパターンが多いんだっけ。日本は日本だけで市場が作れてしまうのが、良くもあり、悪くもあり……といった感じ。どんな分野においても、ガラパゴス化しやすいのだよね。

そして、ここで紹介されている中華SFを読む限り、閉塞感と諦観が苦しいくらいに伝わってくる。世界を変えようとか、冒険に出かけようというイメージではなく、世界はこうなっているのだ、こうしかならないのだというイメージ。ありのままの世界を受け入れようというか……。これって、向こうの政治情勢を反映したりしてるんだよね、きっと。

2017年春アニメ特集がらみでは、今季見ているのは『正解するカド』ぐらい。しかし、あれも展開が遅くて退屈。もうひとつ、特集には出てこないけど『有頂天家族2』を連ドラ予約しているはずが、何度も録画ミスになっていて原因不明。まぁ、こっちは原作を読んでるからいいんだけど。

筒井康隆の「筒井康隆自作を語る」は割と貴重な連載になるかも。この人をはじめ、あの時代のSF作家は、あの時代だからこそSFを書き始めたんだなと思う。SFも才能ある若者が集う“新たな何か”であった時代があるのだ。今でいうとなんだろうな。ちょっと思いつかない。


「折りたたみ北京」 カク 景芳/大谷真弓訳(カク=赤へんにおおざと)
固定された格差と、それを乗り越えることを子供に託す人々。折りたたまれる世界のイメージは強烈。しかしこれも、世界を変えようという話ではないのだよね。

「母の記憶に」 ケン・リュウ/古沢嘉通訳
わずか数ページの短編ながら、今年一番泣ける小説。

「麗江の魚」 スタンリー・チェン/中原尚哉訳
時間拡大と時間圧縮。生ける屍と、生産性向上のモルモット。この舞台を中国にしたことに特別の意味はあるか。

「コンピューターお義母さん」澤村伊智
タイトルの出オチと見せかけて、二重にオチが待っていた。いやしかし、真相がわかってもウザイ。

「スタウトのなかに落ちていく人間の血の爆弾」藤田祥平
タイトルは妙に気が惹かれるが、苦手なタイプの小説かも。

「と、ある日のアルバイト」宮崎夏次系
なんか、そこで意地張って引っ張り続けるのもズレてる気がした。

連載はどれも、ほら2か月空いたら忘れてる、というのが事実。何とかならんのか、俺の記憶力は。