『ダイナミックフィギュア』 三島浩司 (ハヤカワJコレクション)
太陽系外からやってきた謎の物体、STPF。落下したその物体の破片から生まれる人型モンスター、キッカイと戦う人型近接決戦兵器、ダイナミックフィギュア。
周辺各国、米露中韓朝台、五加一の承認を得て、牢獄台から出獄するダイナミックフィギュア。ユラピストル、ユラライフル、ユラスピア! 最後は蹴りだ、手刀だ、この野郎!
どう見てもアニメ的な物語を、小説ならではの細かい書き込みとSF設定とによって支える、リアルロボットSF小説。
人型ロボットの存在理由はそれなりに考えれられており、基本戦力は陸自の実在兵器。キッカイの走馬灯を除去する必要性という設定が、いろいろな角度からの精密射撃や格闘戦の必要性につながり、最後は「足なんて飾りですよ!」まで飛び出して、人型が人型である理由に説得力を与えようとしている。
走馬灯というのはキッカイの牡種が持つ生体器官であり、記憶を牝種の胎児に伝えることができる。これにより、当初はゾンビみたいにふらふらしてるだけだったキッカイが急速に学習、進化を遂げる。この走馬灯は牡種が死ぬ直前に記憶を伝えるため、キッカイを倒す前に走馬灯を切除しなければならない。
この走馬灯の存在がキッカイとの戦闘を複雑化し、物語に深みを与えている。たとえば、キッカイに飛行機を見せてしまえば、そのキッカイが走馬灯を経由して胎児に知識を伝え、キッカイが空を飛び始めてしまうという。ゆえに、戦闘に航空機はどころか、羽付きのミサイルさえも使えず、航空戦力は飛行船という徹底ぶり。ただし、そのための設定で、STPFの破片が放つ究極的忌避感によって、その周辺では人間どころか鳥も昆虫も生き残れないということになっているというのはちょっと無理矢理かなと思う。
こんな感じで、とにかく膨大な設定がリアルロボットを活躍させるために用意されており、読者が読み進めるにしたがって披露されていく。冒頭からゆっくり読んでいくのには問題ないが、本の紹介や感想を書こうとすると、これが難しい。走馬燈やら究極的忌避感やらの説明無しでは記述できないのだけれど、それらを書いていくと到底書ききれない。まったく感想の書きにくい小説だ。
そして、やたらと想起される“ヱヴァンゲリヲン”ネタ。3人の少年少女、親子の葛藤、組織の裏の顔……。使われなかった伏線なのかもしれないが、〈カラス〉の子は3匹いて、一匹がパイロットの親を食っている。それはつまり、アレを思い起こさせるわけで……。
いまさらヱヴァでも無いだろうが、ネタは過去の作品(エヴァンゲリオンに限らず、ファフナーだのなんだの)をトレースするわけではなく、どちらかというとアンチ的な対比を見せているように思える。
たとえば、本作品で重要なポイントになる“他感作用”、“究極的忌避感”とヱヴァンゲリヲンのATフィールドの違い。
ATフィールドは閉ざされた心の壁のアナロジーとして用いられ、さらには人と人の境界を示す絶対的な障壁であった。一方、他感作用(アレロパシー)は「ある植物が他の植物の生長を抑える物質を放出するなどにより排除する作用」のことを言い、人と人の間にも他感作用が存在するのではないかということが仮説として示される。また、STPFが放つ究極的忌避感とは、五月病や登校拒否の強烈なものであり、あまりに強烈過ぎて死に至るという。他感作用仮説は、人と人の間だけではなく、さらには異性種族間にも作用し、その強烈なものが究極的忌避感であるという仮説が導かれる。
関係性の中に“壁”という障壁があるのではなく、無意識のうちに相手を排除しようとしているがゆえに障壁が生まれる。排除すべき壁などは無く、障壁を排除することと自死が表裏一体化するという結論は、ATフィールドの消失によって他者と一体化するというエヴァ的結論よりも悲劇的かもしれない。
この物語は後半に進むにつれてグダグダ感が生まれ、ある意味、無理矢理な結末へと突き進むところも、いかにもアニメ的である。しかし、久しぶりに、読んでいて電車を乗り過ごしそうになった作品だ。
正直なところ、これまで三島浩司は自分の中で評価が低く、この小説もJコレじゃなかったら読んでいなかっただろう。参りました。見直しました。
それにしても、Jコレクションは(というか塩澤さんは、なのか)いいものを拾ってくるな。