神なる冬

カミナルフユはマヤの遺跡
コンサドーレサポーターなSFファンのブログ(謎)

[SF] ゼロ年代の想像力が単行本化された

2008-09-15 23:01:16 | SF
あえてSFカテゴリで書く。

SFマガジン2008年9月号の宇野常寛インタビューを読んだ。
『ゼロ年代の想像力』でやりたいことはわかったが、やっぱりこいつはどうして自分の言説が批判されているのかわかっていない。

学園ドラマは少なくとも僕らにとっては“敵”ではないのだよ。
それが物語ではなく、アイドルとして消費されていたとしてもだ。
北乃きいってかわいいよね、とか、中島美嘉の『LIFE』ってかっこいいよねとか。
だが、逆に言うと、それこそが東浩紀の言うデータベース的消費ではないのか?

こいつのダメなところは、“流行”の取り上げ方が恣意的で、ソレを支持した層がどこにあったのかをまったく考慮していないところにある。引き籠りニートに受けたものと、DQNやキャバ姉ちゃんに受けたものが同じ価値観で評価できるわけがなかろう。

また、原作つきのドラマに関しても、ドラマ放映当時の議論が多すぎて、原作が出版された時代の考慮が乏しい。それではドラマばかり持ち上げてといわれても当たり前だろう。たとえば、『1ポンドの福音』が連載されたのは1987年で、ドラマ化の20年前である。これが同じレベルで語られるから、話がおかしくなる。ちなみに1987年とは、『機甲戦記ドラグナー』でサンライズアニメが打ち切られた、冬の時代の始まりである。

最後まで読むと、この違和感の出所がわかる。
こいつはサークラーでイベンターだ。
つまり、時代的にもスーパーフリーの和田さ~んの仲間だ。

つまり、我らがSF読者の敵は、決断主義でもDQNドラマでもなく、宇野常寛本人だ。
こいつは、冬の時代が続けば、SFなんぞを歯牙にもひっかけなかったであろう。
切実に“物語”を必要としている人間を切り捨て、ようやく二度目の夏を迎えようとしているSF/ファンタジーにたかる蚤野郎だ!


[昔話] ラインサッカーが好きだった頃

2008-09-15 17:12:58 | Weblog
ラインサッカーって、まだ小学校の体育でやってるんでしょうか?
僕が小学校の頃は、さすがに釜本のメキシコオリンピックよりは後ですが、フットサルやサロンフットボールなんて言葉も存在せず、Jリーグなんて影も形も無い頃でした。
そのころ、サッカーゴールは学校のグラウンドに1セットあればいいくらいで、体育の時間にみんなで使うこともなかったのです。
そこで、体育の授業でやっていたのがラインサッカー。小さなフィールドに白線でラインを書き、これがゴール代わり。基本はボールを転がして、このラインを通過すると得点というものでした。(ボールもサッカーボールじゃなくてドッヂボールだったかも)
じゃあ、上ははどこまで有効かというと、これが記憶に無いんですが、たぶん、関係なかったと思います。なぜなら、当時はまともなサッカーの試合を見たことがある児童が少なくて、ヘディングすらまともに知りませんでしたから(ワラ)
ちなみに、「キャプテン翼」の連載も開始されていなかった頃の話です。

で、なんでラインサッカーが好きだったかというと、逆に他の球技が嫌いだったのです。
身体が小さくて力も無かったので、ドッヂボールなんてただの的、バレーもバスケ(ポートボール)も話になりません。
それでも、サッカーだけはなんとかなったのです。そもそも、ボールを“蹴る”ということが少なかった時代です。みんな同様にヘタッピでした。そんな中で、ちょこまか動きながら、ゴールを決めることができました。キーパーは逆に大柄でどんくさい子がやっていたので、彼はサッカーが嫌いだったようです(ワラ)
それ以来、サッカーは唯一得意な球技となったのでした。

今だと、小学生が翼のマネをしてオーバーヘッドの真似事とかしてそうで、運動の得意な子の独壇場かもしれません。
運動が苦手な子供でもルールを覚えさえすれば運動が得意な子に勝てるスポーツというと何でしょうか。タッチラグビーとか?

[映画] ハンコック

2008-09-15 16:23:35 | 映画
『ハンコック』 - goo 映画

実は中ほどで気持ち悪くなったので、あまり良い評価ではないのはそのせいかも。
3D酔いみたいな症状だったんだけど、そんなに揺れてたかな。

内容としては、なんとも言いがたい感じ。
細かい突っ込みどころはありますが、そりゃおかしいだろうという展開も無く、逆にこれはすごいというところも無く……。

物語は2部構成になっていて、この二つがまったく別物。ある意味度肝を抜かれます。
しかし、違う脚本を二つくっつけたのではないかというくらい、繋がりがありません。
片や、宣伝どおりに、不人気のアル中ヒーロー更生物語。片や、スーパー種族同士の悲恋物語。
どっちかに絞って、深く掘り下げれば、いい映画になったと思うんだけど、片方のアイディアだけでは間が持たなかったのでしょうか?

フランケンシュタインの映画の半券も、意味深でステキな小道具だと思うんだけど、生かしきれておらず、もしかして第3の脚本の名残かとも思えるくらい。

原作つきの映画なら、この手のまとまりの無さは良くあることですが、映画オリジナルでこれって、なんなのでしょうか?
スタッフの力の無さの証明?

なんにしても、いろいろ惜しい映画でした。

[SF] 新しい太陽のウールス

2008-09-15 15:55:57 | SF
『新しい太陽のウールス』 ジーン・ウルフ ハヤカワ文庫SF

我らがコンサドーレとともに、豪雨の三ツ沢で水没した書である(ワラ)
乾いた後も本の歪みっぷりはすごいことになっていて、どの方向にも直立しません。

乾かすために2週間かかったせいで、イエソドの途中で間があいて、なおさらわけがわからなくなってしまいました。
思いっきり消化不良です。口当たりだけは楽しみましたが、未消化で栄養には全然なっていません。
汚い話ですが、この文章は下痢みたいなものです。

「数々の謎が解き明かされる」という売りですが、想像もしていなかったような物語の大どんでん返しには気付きませんでした。無かったのではなくて、気付きませんでした(←これ重要)

謎の解明よりも、イエソドでの裁きの後にウールスへ戻り、時間を越えて旅をすることにより、主要キャラ大集合のお祭り的な展開が楽しかったです。That's 太陽の書 グラフティー(ワラ)

なんだかよくわからないんですが、セヴェリアンは何度も死んで、そのたびに生き返らされているのでしょうか。
自分の死体らしきものがいくつか出てきますが、母親の生んだ肉体の他にアンドロイドのような身体があって、今生きているのはそこにプログラムである魂(アニマ)を格納したものということでしょうか。

光子帆船っぽく見えてタキオン速度(?)で飛ぶ船やら、量子力学やらブラックホールやらホワイトホールやら、なんだかよくわからない説明が出てきます(しかも語り手のセヴェリアンがわかっていないので、さらにわけがわかりません)が、結局セヴェリアンは黄泉の国であるイエソドから帰還し、魂として復活した後にウールスのいろいろな時代へ旅をしたのでしょうか。

1巻から4巻が、ファンタジーの衣をまとったSFだったのに対し、本書はSFの衣をまとったファンタジーというか、神話なのでしょうか。
天界からのお導きにより、なんだかんだでノアの大洪水で、最後は新しい神様になるという。

うーん。やっぱり消化不良で駄目すぎですね。
老後に1巻から5巻まで通読してみたいと思います。