リスペクトコラムです。(ビルドアップ記事です)
少し前にやっとなでしこジャパンのプロジェクトXをリスペクトできましたが、最近会得したちょっとした技術革新を駆使して、もう一つのバスケ日本代表(7/13放送)もその後に早めにリスペクトできました。内容が充実し過ぎて、要約するのが難しかったですが。それでも記事アップがすっかり遅くなってしまいました。この回の主役(バスケットマン)は3人(+1)ですね。その3+1人の方を中心に記事にまとめてみました。
【新プロジェクトX 男子バスケ世代を超えた逆転劇 オリンピック48年の挑戦】
「パリオリンピックの出場を決めたバスケットボール男子日本代表。自力でのオリンピック出場権獲得は、実は48年ぶりの快挙だ。その長い歳月の影にはオリンピックの夢を追い続けた幾多の挑戦者たちがいた。」
「(五輪で)日本はなんと10大会連続予選敗退。なぜここまでオリンピックに出れなかったというと、体格に劣る日本は世界でもなかなか勝てなかった。
1979年バスケ男子日本代表は翌年のモスクワオリンピックを目指して猛練習を行っていた。前回モントリオール大会には出場したものの、今回は協力なライバルがいた。それは中国。アジアの巨人2m28cmセンチのボク・テッチュウがいた。体格が劣る日本はテッチュウの高すぎる壁に連戦連敗を喫していた。テッチュウ対策は苛烈を極めた。強靭な体を作ろうとコンタクトバックをぶつけた。必死に食らいつく若手がいた。馬場敏春。当時24歳。驚きのメンタルトレーニングも課せられた。
だが、中国との決戦。日本は1ゴール差でモスクワ行きを逃した。そしてこれが日本バスケ、冬の時代の始まりとなった。2mの馬場。続くロサンゼルス大会への秘密兵器とされたが、思わぬことが起きた。勤めていた保険会社で給料が下げられた。働きながら実業団チームでプレーしていたが、日本ではバスケはマイナースポーツ。宣伝にもならない陰口を叩かれた。日の丸を背負っても冷遇される。稼ぐこともできない。馬場は次第に情熱を失い、代表を辞退すると決めた。馬場が去った日本代表はロサンゼルス、ソウル、バルセロナ、アトランタと出場を逃し続けた。」
「(90年代に入るとスラムダンクもヒットもあり)バスケの認知度は高まったが、オリンピックに出られないこともあり、国内実業団リーグの人気さっぱりだった。」
「そんな中1人気を吐く選手がいた。佐古賢一。稲妻のようなドリブルと正確、無比なパスを駆使する熱血感だった。高校時代から抜きん出た選手だった佐古。福井・北陸高校、全国制覇を成し遂げたそのチームメイトに生涯忘れ得ぬ友がいた。西俊明。」
「留学から1年後、西は帰国を余儀なくされた。ガンだった。手術が難しい多くのがん、懸命の闘病も虚しく。西はこの世を去った。21歳の若さだった。生前西は佐古に言った。俺は日本一のコーチになる。お前は日本一の選手になれ。そして一緒にオリンピックに行こう。佐子は西との約束を胸に、所属チームをリーグ4連覇に導き、ミスターバスケットボールと呼ばれる日本一の選手になった。だが、オリンピックの壁は高かった。佐古にとって3度目の挑戦になるシドニー大会も出場は叶わなかった。そしてそれが想像を超える苦難へとつながった。不況もあり、バスケの実業団チームが次々と廃部を決めた。なんとリーグ4連覇を果たした佐古のチームもなくなった。」
「2007年、日本代表を辞退した馬場は会社勤めに専念していた。馬場敏春が50歳を手前にリストラされた。そんなある日、小学生の息子が神に将来の夢を描いた。全日本の4番というのは当時キャプテンナンバー。息子の名前は雄大。父を超えるバスケセンスを秘めていた。雄大が中学生になると息子のために猛特訓を行った。」
「一方の佐古。バスケ冬の時代の中で、懸命にプレーを続けた。アキレス腱の大怪我を負ってもカムバックし、子供たちの憧れであり続けた。40歳で引退。オリンピック出場は叶わなかった。それでも思った。世界の扉をこじ開ける者たちが必ず現れる。それまで決してあきらめない。そして佐古は日本代表の強化委員長に就任。次の世代にバトンを渡す。新たな戦いが幕を開けた。
後にNBAプレイヤーとなる香川の高校生・渡辺雄太を代表に選出。更に力を入れたのが将来のエースと期待される大学生、比江島慎の育成だった。」
「ある男が施策を練っていた。日本代表、アシスタントコーチ、東野智弥、佐古とは古い友人だった。全国制覇を成し遂げた福井・北陸高校、東野のチームメイトの1人だった。大学進学後試合に出られず、パチンコ屋に入り浸っていた。そんな東野を闘病中の西が訪ねた。西の死後、背中を追うように生きたバスケのコーチになるためにアメリカに渡り最新理論を学んだ。その後、日本代表アシスタントコーチに就任。取り組んだのは永遠の課題、身長の低さ。ある国に活路を求めた。それはアルゼンチン。」
「その後、日本代表の技術委員長に就任した東野はアルゼンチン式の育成プログラムを導入し、選手の体感を徹底的に鍛え上げた。」
「(パリ五輪のW杯での)アジアの出場枠は1。自力で出場枠を勝ち取るには、アジア6カ国の中で最も価値点を挙げる必要があった。」
「闘志みなぎる選手がいた。馬場雄大。父敏春とともに磨いた豪快なダンクを武器に、日本代表の中心選手となっていた。バスケでは稼げないと言いながらずっと練習に付き合ってくれた父。その思いに応えるためにもパリへの切符を勝ち取り、バスケは夢のあるスポーツと証明したかった。」
「比江島はオリンピックにかける秘めた思いがあった。一人親家庭で懸命に比江島を育ててくれた母・淳子さん。57歳の若さで亡くなった。いつかオリンピックに出る。それが親子で交わした約束だった。比江島の育成に力を入れてきた佐古。必ずスイッチが入ると信じていた。」
「(天王山のベネズエラ戦で残り8分で15点の大差)。比江島がコートに戻った。わずか3分の間に1人で11得点。土壇場で比江島スイッチが入った。48年ぶり、オリンピック自力出場を決めた。不屈のバスケットマンたちは、世界の扉をこじ開けた。」
なるべく短くしようとしたのいですが、省略する部分が少なく、こんなに長くなってしまいました。日本を強くした3+1人の挑戦者のバスケットマン達はこちら。
・馬場敏春氏:
馬場雄大選手の父。身長2m。三井生命ファルコンズ(本拠地:千葉県柏市)の選手として活躍し、1979年アジア男子バスケットボール選手権、モスクワ五輪予選の日本代表として選出。現役引退後は会社員生活。
・佐古賢一氏:
北陸高校バスケ部出身。いすゞ自動車ギガキャッツからアイシン精機に所属。オールジャパン7回・JBL7回の優勝を経験、数々の個人タイトルを獲得。日本代表としても活躍し、2021年にFIBA殿堂入り。引退後は日本協会理事に就任。北海道や広島のHCの後、現在はB1三河のシニアプロデューサー。
・東野智弥氏:
北陸高校バスケ部出身。1993年にアンフィニ東京(さいたまブロンコスの前身)に入社し、全日本実業団選手権準優勝に貢献。その後渡米し、米国の大学アシスタントコーチに就任。その後は国内で指導者の道を歩み、日本代表アシスタントコーチに就任。2012年にはNBAチームのアシスタントコーチも務める。2016年に日本協会技術委員長に就任。
・西 俊明氏:
北陸高校バスケ部出身。高校卒業後にコーチ業の勉強のために渡米したのち、何と21歳で逝去。
すごいのが、この強い日本バスケを作って行った3+1人のうち、2+1人が高校バスケの同級生。現在の日本代表の主力選手がこの3+1人の影響を多分に受けているという点。なでしこジャパンと同じように、先人たちから今の世代へバトンはつながり、結果につながっている。
もう一つ、これを観てピンと来たのがアルゼンチンとの関係。同じような平均身長という事で、サッカーが一時期メキシコを意識したように、バスケはアルゼンチンを目標としていたという事。そうでした、ホーバスさんの前任者のハマスHC(東京五輪まで)はアルゼンチンの指導者だったと気付きました。成人男性の平均身長が日本とほぼ同じにもかかわらず、オリンピックでアメリカを破り金メダルを獲得していた国という事で。当時はそういう方針でしたが、今はアルゼンチンのキーワードは出ていませんね。
番組の中で、バスケの競技人口は野球やサッカーよりも多い4億5,000万人で世界のメジャースポーツ。そんな中で、背が低くパワーで劣る日本は、長く弱小国のレッテルを貼られていました。ただ、パリ五輪でも3戦全敗なので、サッカーの域とはまだまだ遠いですね。NBAを中心とした海外組を増やしていけば、いつかサッカー日本代表のように強くなる事でしょう。
あと、個人的にはこの回で、もう一つの日本バスケの挑戦ドラマが全く描かれていなかったなと思いました。それはBリーグ誕生に至るリーグ分裂時代の事。まぁ国内リーグの方ですからね。
NHKプロジェクトX(なでしこジャパン)関連:https://blog.goo.ne.jp/kataru-kai/d/20250212
AKATSUKI FIVE男子(バスケ日本代表)関連:52 / 51 / ㊿ / ㊾ / ㊽ / ㊼ / ㊻ / ㊺ / ㊹ / ㊸ / ㊷ / ㊶ / ㊵ / ㊴ / ㊳ / ㊲ / ㊱ / ㉟ / ㉞ / ㉝ / ㉜ / ㉛ / ㉚ / ㉙ / ㉘ / ㉗ / ㉖ / ㉕ / ㉔ / ㉓ / ㉒ / ㉑ / ⑳ / ⑲ / ⑱ / ⑰ / ⑯ / ⑮ / ⑭ / ⑬ / ⑫ / ⑪ / ⑩ / ⑨ / ⑧ / ⑦ / ⑥ / ⑤ / ④ / ③ / ② / ①
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