最近、どうもせつない気分になることが多い。
この感じを「せつない」という言葉で表現するのが的確なのかはわからない。
ただ、これが読んだ人も自分に置き換えて感じられる、いちばん近い言葉だとは思う。
もう少しわかりにくく言えば、
酒を飲みながら独り言を言いたくなるような、
ブルース・スプリングスティーンのサンダー・ロードを聴きたくなるような、
誰でもいいから友達にメールしたくなるような、
昔好きだった本を取り出してお気に入りの一節を探したくなるような、
近所の子供が歩いているのを見るだけで泣きたくなるような、
・・・そんな感じだ。
物書きなんて商売は、こういうときに、本当に役立たずだと思う。
取材相手の想いを表現することばかり考える毎日で、
自分の言葉を忘れてる。
塾の近所のファミマで働いている昔の生徒が、パンを買う私に向かって、
「さんのーさん、まだ本書かないの?」
なんて、気軽に重い言葉を問いかけるもんだから、
私は一気にせつなくなる。
しょうがないから、家に帰って、サンダーロードをYouTubeで探したりするわけだ。
そして、もう冷蔵庫に日本酒がないから、夫の部屋に行って、
彼の秘蔵のハーパーをちょっと拝借したりもするわけだ。
今日は、三浦しをんの『まほろ駅前 番外編』を読み終わった。
2006年の直木賞に輝いた『まほろ駅前 多田便利軒』
私はこの作品がめちゃくちゃ好きで。
三浦しをんの本を読んだのはこれが最初だった。
そこから結構いろいろ読んだのだけど、ページが進まないほど自分とは合わない。
なのに、この作品だけは、自分の感性にぴったりで。
人生で読んだ数ある本の中でベスト10に入ると思っているくらいだ。
でも、意外に周りの人のだれも、この本の話をする人はいない。
(ちなみに私の友達は基本的に本好きだ)
今回の『番外編』も本屋で見つけてすぐに買った。
迷いもなく。
でも、よくあるように、続編というのは本編の半分も満足いかない。
前半は読まなきゃよかったと思っていた。
それでもやっぱり後半はよかった。
今は読んでよかったと思う。
私は、映画でも本でもそうなんだけど、その全体のストーリーうんぬんよりも、
自分にとって「たまらん!」という場面や一文にやられるタイプだ。
それがその作品の評価となってしまう。
たぶん、『まほろ・・・』もそうで、自分にとってはたまらない言葉があったのだ。
息子が死に、離婚し・・・という重い過去を背負った多田。
便利屋を始め、高校の同級生で変わり者の行天という男と関わりをもつようになる。
便利屋にくる様々な依頼。
その中で親の歪んだ愛情を受けている子供の送り迎えを依頼される。
いろんなことがあった後、最後に多田はその子供に言うのだ。
「だけど、まだだれかを愛するチャンスはある。
与えられなかったものを、今度はちゃんと望んだ形で、
おまえは新しくだれかに与えることができるんだ。
そのチャンスは残されてる。
生きていれば、いつまでだって。
それを忘れないでくれ」
このせりふにやられてしまったわけだ、私は。
たぶん、自分が子供時代に、一番欲しかった言葉だからかもしれない。
いつもぼんやりと思っていた。
どんな形であれ、愛されていることを知らなかった私は、
いつか自分はだれかを愛して、自分が与えられなかったものを
必ず与えるんだ、と。
それも今では間違っていたことはよくわかっているけれど、
もし、あの時代の歪んで卑屈でどうしようもなかった私に、
この言葉をかけてくれる大人がいたなら、
もう少し早く「私も生きていていい」ということを実感できたのではないかと思うのだ。
それから、この本のラストにもうひとつ、たまらない文章がある。
今度こそ多田は、はっきりと言うことができる。
幸福は再生する、と。
形を変え、さまざまな姿で、
それを求めるひとたちのところへ何度でも、
そっと訪れてくるのだ。
自分が伝えたいけれど、うまく言えない言葉・・・
それをこんなにも簡潔に表現されると、やはり感服する。
「幸福は再生する」
本当に、そうなんだよなぁ・・・
自分自身の幸福が再生したからこそ、これを真実の言葉として受け取ることができる。
だからこそ、感情が揺さぶられるのだろう・・・
今、夫が帰宅して、「あっ!ハーパーがこんなになくなってる!」と騒ぎ出したので、
今日はこれにて失礼。
この感じを「せつない」という言葉で表現するのが的確なのかはわからない。
ただ、これが読んだ人も自分に置き換えて感じられる、いちばん近い言葉だとは思う。
もう少しわかりにくく言えば、
酒を飲みながら独り言を言いたくなるような、
ブルース・スプリングスティーンのサンダー・ロードを聴きたくなるような、
誰でもいいから友達にメールしたくなるような、
昔好きだった本を取り出してお気に入りの一節を探したくなるような、
近所の子供が歩いているのを見るだけで泣きたくなるような、
・・・そんな感じだ。
物書きなんて商売は、こういうときに、本当に役立たずだと思う。
取材相手の想いを表現することばかり考える毎日で、
自分の言葉を忘れてる。
塾の近所のファミマで働いている昔の生徒が、パンを買う私に向かって、
「さんのーさん、まだ本書かないの?」
なんて、気軽に重い言葉を問いかけるもんだから、
私は一気にせつなくなる。
しょうがないから、家に帰って、サンダーロードをYouTubeで探したりするわけだ。
そして、もう冷蔵庫に日本酒がないから、夫の部屋に行って、
彼の秘蔵のハーパーをちょっと拝借したりもするわけだ。
今日は、三浦しをんの『まほろ駅前 番外編』を読み終わった。
2006年の直木賞に輝いた『まほろ駅前 多田便利軒』
私はこの作品がめちゃくちゃ好きで。
三浦しをんの本を読んだのはこれが最初だった。
そこから結構いろいろ読んだのだけど、ページが進まないほど自分とは合わない。
なのに、この作品だけは、自分の感性にぴったりで。
人生で読んだ数ある本の中でベスト10に入ると思っているくらいだ。
でも、意外に周りの人のだれも、この本の話をする人はいない。
(ちなみに私の友達は基本的に本好きだ)
今回の『番外編』も本屋で見つけてすぐに買った。
迷いもなく。
でも、よくあるように、続編というのは本編の半分も満足いかない。
前半は読まなきゃよかったと思っていた。
それでもやっぱり後半はよかった。
今は読んでよかったと思う。
私は、映画でも本でもそうなんだけど、その全体のストーリーうんぬんよりも、
自分にとって「たまらん!」という場面や一文にやられるタイプだ。
それがその作品の評価となってしまう。
たぶん、『まほろ・・・』もそうで、自分にとってはたまらない言葉があったのだ。
息子が死に、離婚し・・・という重い過去を背負った多田。
便利屋を始め、高校の同級生で変わり者の行天という男と関わりをもつようになる。
便利屋にくる様々な依頼。
その中で親の歪んだ愛情を受けている子供の送り迎えを依頼される。
いろんなことがあった後、最後に多田はその子供に言うのだ。
「だけど、まだだれかを愛するチャンスはある。
与えられなかったものを、今度はちゃんと望んだ形で、
おまえは新しくだれかに与えることができるんだ。
そのチャンスは残されてる。
生きていれば、いつまでだって。
それを忘れないでくれ」
このせりふにやられてしまったわけだ、私は。
たぶん、自分が子供時代に、一番欲しかった言葉だからかもしれない。
いつもぼんやりと思っていた。
どんな形であれ、愛されていることを知らなかった私は、
いつか自分はだれかを愛して、自分が与えられなかったものを
必ず与えるんだ、と。
それも今では間違っていたことはよくわかっているけれど、
もし、あの時代の歪んで卑屈でどうしようもなかった私に、
この言葉をかけてくれる大人がいたなら、
もう少し早く「私も生きていていい」ということを実感できたのではないかと思うのだ。
それから、この本のラストにもうひとつ、たまらない文章がある。
今度こそ多田は、はっきりと言うことができる。
幸福は再生する、と。
形を変え、さまざまな姿で、
それを求めるひとたちのところへ何度でも、
そっと訪れてくるのだ。
自分が伝えたいけれど、うまく言えない言葉・・・
それをこんなにも簡潔に表現されると、やはり感服する。
「幸福は再生する」
本当に、そうなんだよなぁ・・・
自分自身の幸福が再生したからこそ、これを真実の言葉として受け取ることができる。
だからこそ、感情が揺さぶられるのだろう・・・
今、夫が帰宅して、「あっ!ハーパーがこんなになくなってる!」と騒ぎ出したので、
今日はこれにて失礼。