今日は彼がいないので、一人でゆっくりとお酒をたしなみながら、いろんなことを考えた。
今は、紅茶を飲みながら、まったりとしている。
紅茶はベノアのダージリン・アールグレイ。
私がこの世で一番好きで、最も美味しいと思っている紅茶だ。
普通、アールグレイといえば、中国茶にベルガモットの香りをつけたフレーバーティーなのだけど、これは上質のダージリンで作っている。
常識で考えれば、ダージリンのマスカットフレーバーと、ベルガモットの香りがケンカしてしまいそうなのだが、これが見事な調和をみせている。
決して安い紅茶ではないけれど、自分の人生には欠かせない紅茶だ。
この3連休は、私も一度も仕事をせず、ゆったりと過ごした。
3日間とは思えないほど、充実した3日間だった。
23日は、ふみこの家へ。
私と彼と、あやととしくん夫妻と、ふみこファミリーとで楽しんだ。
いつも私の家やあやの家で集まることが多かったので、ふみこが「たまにはうちの家にも呼ぶわ」と素敵なホームパーティを開いてくれたのだ。
「かおりちゃんやあやみたいに料理に自信がない」と言っていたから、どんなものかと思っていたら、とにかく全てが美味しい!
ブロッコリーと海老の炒めものも、私とあやがレシピを尋ねたくらい美味しかったし、鯛の昆布締めのような豪勢なお料理も出たし、キッシュやお豆腐を使った揚げ物なども、本当に美味しかった。
昆布締めに使った昆布を揚げてくれたりしたのも、ニクイ演出だ。
ささみを使ってスナック春巻き風にしたのも、お酒のアテにちょうどよかったし、鮭と梅肉を使って巻き寿司風のおにぎりにしてくれたのも、美味しいだけじゃなく、見た目にも素敵だった。
彼も感激していて、「ふみこさん、お料理上手やなぁ。全部美味しかった」と絶賛。
お昼の12時に集まったのに、帰ったのは夜中の11時。
11時間も楽しんだ。
ふみこの家にはWiiがあるので、彼ととしくんはそれに夢中。
ボクシングに二人ではまり、ひたすらやっていた。
私も少しやらせてもらったが、運動不足がたたって、今も腕が筋肉痛。
ゲームで筋肉痛になるなんて、かなり体がなまっている証拠だ。
それに、ふみこの家に行けば、かわいい子供たちがいる。
私は決して子供好きではないし、子供なら何でもかわいいと言う女ほど胡散臭いものはないと思っている。
子供だって人間だもの。
かわいくないものは、かわいくない。
だけど、ふみこの子供はかわいい。
特に、小学生くらいになって、ちゃんと人として話ができるようになってからのほうがかわいくなった。
普通、子供好きな人は、2、3歳が一番かわいい時なんていうのだが。
赤ちゃんは本当にかわいい。無条件でかわいい。
小学生くらいになれば、人としてかわいい。
何度も言うが、私は決して子供好きではないが、塾の先生をしていたとき、自分はもしかしたら子供好きなんじゃないかと思ってしまうほど、子供たちが愛しかった。何よりも、誰よりも。
私はちゃんと「人」を見ていると思っている。
だから、ふみこの子供はかわいい。
極端に言えば、ふみこの家族や親戚が全部いなくなったら、自分が死ぬまで面倒を見てもいいと思うほど大事に思っている。
子供と遊ぶのなんて苦手だと思っていたのに、ふみこの子供とは普通に遊ぶ。
こういう感情をなんと表したらいいのだろう。
私たちの共同体の中で、ふみこの子供というのは特別なのだ。
もはや他人の子供ではない。
たぶん、あやもそうだと思う。
久しぶりに子供たちと一緒に「あやとり」をした。
日本人っていうのは、なんと素敵な遊びを考えついたのだろう。
あやとりというのは、もはや芸術。
折り紙もそうだと思う。
お金がかからず、想像力と創造力を養える、芸術的な遊びだと、つくづく思った。
あっと言う間に時間は過ぎ、みんな酔っ払って楽しくて、幸せだったと思う。
私の大事な共同体。
酒飲み友達、バンザイ!
そして、昨日は私が前から紅葉を見に行こうと言っていて、たぶん仕事もあったんだろうけど、彼はそれに付き合ってくれた。
今年行ったのは、光悦寺と源光庵。
京都の寺は行き尽くした私だけど、ここは好きな寺ベスト3に入る。
1位 蓮華寺
2位 祗王寺
3位 源光庵
写真の通り、源光庵には、二つの窓がある。
四角いほうが「迷いの窓」。
丸いほうが「悟りの窓」。大宇宙を表している。
この窓から見る庭は本当に素晴らしい。
こんなふうに、形の違う窓から庭を眺めさせ、何かを感じさせようとした文化というのは、一体何なんだろう。
とても現代人には思いもよらないことだ。
でも、この日も多くの日本人がこの寺に集まり、みんなこの窓から庭を見ていた。
私は寺が好きで、日本の古い文化が好きだけど、いつも寺に行くと思う。
「なんだ、みんな好きなんじゃない」と。
年配の方はもちろん、若いカップルでも大勢が紅葉を見に来ていて。
縁側でじっと正座して庭を眺めている。
美しい紅葉を心におさめている。
なんだ、みんな好きなんじゃない。
やっぱり日本人なんじゃない。
いつもそう思う。
美しいものは美しいし、それを愛でる心というのは、この100年でできたものではなくて、それこそ1000年以上前からのもので、そういうDNAが日本人にはあるのだ。
例えば、月でもそうだけど、一体どこの国の人が「月を愛でる」という習慣をもっているだろうか。
満月、三日月だけじゃない。
もう今の人はあまり知らないかもしれないが、月には1つ1つの名前がある。
立ち待ち月、居待ち月、寝待ち月など。
こんなにも月に名前をつける国民があるか?
樋口一葉の「十三夜」は、絶対に他の国の文化をもった人にはわからない。
でも、日本人なら、これを読んだとき、大半の人が何かを理解できるのではないだろうか。
(文語なので、非常に読みにくいとは思う。読むことが平気ならの話だ)
昔、小林秀雄の評論を読んでいたら、欧米人には月を愛でるということはどうしたってわからないだろう、という内容のものがあった。
「月」というのは、日本人にとって、特別なものなのだ。
人類がそこに到達してしまった現代ですら。
そういうことを、毎年秋に京都のお寺へ行き、紅葉を見るたびに思い出す。
なんだ、みんな好きなんじゃない、というこの感覚だ。
彼も悟りの窓の前でずっと座っていて、「いつまでもこうしていたい」と言った。
何か心を揺さぶられたらしい。
この寺にはもう1つ興味深いものがあって、血天井がある。
伏見桃山城で自決した武士たちの血がにじんだ床の板を天井にしてある。
リアルに血の足跡まで見ることができる。
こういうものを捨ててしまわず、寺に奉納する。
その心こそが、日本人だ。
血天井を見つめていると、壮絶な死が目に見える。
だけど、少しも目をそむけたいものではない。
尊い死というのは、あるのだ。
今の人から言えば、それは道徳的におかしな部分もあるだろうし、左翼的な人間から言えば、おかしな文化だと思うかもしれない。
だけど、その時代の人の心は、その時代の人にしかわからないことで。
何か信念をもって、人間にとって一番大事な「死」というものを、その信念の故に潔く渡すことができたのなら、それはやっぱり意味のあることだったのだと思う。
誰も、昔の時代の人間を悪く言うことなんてできないはずだ。
そんなことを感じさせてくれる源光庵。
だけど、数年ぶりに行ったこのお寺で、私が一番美しいと感じたのは、入口の薄だった。
薄を見ると、いつも何かを思い出しそうになる。
そういう郷愁が私にはある。
そして、今日は大きくて丸い月が出ていた。
私の好きなカキ色の月。
最近、自分の心を苦しめていたものが、ふいと溶けた気がした。
私は、もっともっと、昔のように朝から晩まで働きたいと思っている。
今は、まだまだ余裕がある生活で、それが物足りない。
だけど、生活に困っているわけでもない。
幸い、普通の若いOLさんくらいの収入はあって、「足りない」のは「もっともっと」という、私の欲望のせいだった。
人は「足ること」を知れば、いつでも幸せなはずなのに。
なんだかわからないけれど、今日はそういう思いがすべて溶けた。
私はどこかでいつも自分は人一倍健康なのだから、人の2倍働かなければならないという強迫観念に駆られていた。
収入に関わらず、人より働かなければ、罪のような気がしていた。
堕落すると思い込んで不安だった。
だけど、今日思った。
私はいつでも働きたいと思っている。だったら、少し休憩したって、また働くべきときがくれば、いつでも働けるはずだ、と。これは堕落ではないのだと。
今は、自分が子供の頃からずっと好きなだけやりたいと思っていた「物作り」をしよう。
それから、1円にもならない自分の文章を書こう。
そして、大好きな彼が毎日頑張れるように、やさしいご飯を作ろう。
やっとそう思えるようになった。
自分でもなんでこんな人間なんだろうかと思うときがある。
食べるものに困っているわけでもない。
仕事が全くないわけでもない。
むしろ、自分の好きな仕事があって、それなりに収入もあって、それで自由な時間があって、本当に最高の環境じゃないか。なのに、いつも「罪深い」気がしていて。
人より健康なんだから、人より働かなければという想いがあって、少しでも自由な時間があると、罰当たりな気がして仕方がない。
彼が夜中に帰って来るのに、自分がそれ以上に働かないなんて、おかしいと、いつも罪の意識に駆られていた。
ちょっと変な人だ。
どこかおかしいか、前世があったとしたら「奴隷」だったんだろうといつも思う。
だけど、この殻を破るのも、今の自分に必要なこと。
死ぬほど働かなくてもいいのだ。
人並みに人生を楽しんでも罪ではないのだ。
こんな普通の人にとって当たり前のことが、自分には何ヶ月も考え抜かなければ理解できないことだった。
だけど、今日、それを心から理解した。
明日から、また違った心で生活できると思う。
なんだか楽しみだ。
とても意味のある3連休だった。