昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第一章:親父への旅  親父の“今”との対面 ①

2010年09月13日 | 日記
親父と二人、背筋を伸ばして待つこと数分。「息子さんですか?いらっしゃったんですね」と、微笑みながら主治医はやってきた。主治医の“いらっしゃった”という言葉の裏に“やっと”という言葉が隠されているような気がして、僕は背を丸めた。
目の前のビューアーに、親父の患部の写真が並べられ、主治医の説明が始まった。明快だった。
●肝臓癌であることは、間違いない。
●本人の望みなので、すべて包み隠さずお話しする。
●肝臓癌は慢性C型肝炎に起因する、原発性のものである。
●慢性C型肝炎は、本人が肺結核の手術を行った際の輸血によって感染したものと推察される。
●癌の治療法としては、概ね3種類しかない。どの方法を採るかは、癌の進行状況などによって決められる。
癌が小さい場合は、直接癌細胞を殺すか、吸い出す(アルコールを注入し、アルコールと一緒に吸い出す、という方法が一般的)。
癌が大きい場合は、切除する。ただし、切除した残りの部分で臓器としての機能が果たせるか、体力が手術に耐えうるか、本人が手術そのものを忌み嫌うことはないか、宗教的な理由で手術ができないということはないか、等々の判断は予め行わなくてはならない。
手術不能となった場合は、抗癌剤を使用することになる。ただし、抗癌剤も進歩してきているとはいえ、延命策以上の期待を寄せることはできない、と考えるべきである。
●肝臓癌は、5㎝大のものが1つ、2㎜大のものが2つ。幸いなことに肝臓の左葉の一部に集中しており、他への転移は認められない。よって、手術による完全摘出が可能である。
●本人の体力、精神力と肝臓は手術に耐えうるものであり、本人も手術を望んでいるので、手術による全摘を行いたい。
というものだった。
「何かご質問は?」。主治医が、親父と僕に交互に顔を向けながら問いかけてくる。
僕は、「別にありません。とてもわかりやすいご説明、ありがとうございました」と主治医に答える。隣の親父から声はない。「手術、大丈夫だよね。頑張れるよね」と、親父に顔を向ける。
その時、僕は慄然とした。
穏やかな笑みを浮かべながら、己の肝臓のCT写真を凝視している親父。その横顔には、純朴な執念、無邪気な希望、茫漠とした諦念などが綯い交ぜになった“別の親父”がいた。
親父は、透明に老いていた……。
とたんに僕は、恥ずかしくなった。
手回しのいい早め早めの行動、僕を引率せんばかりの動き、過去を語る時の饒舌、絶やすことのない微笑み、……。それら一つひとつの背景にあったものに、なぜ僕は気付かなかったのだろうか。
入院の書類にボールペンを走らせる指先の細かな震えを、今になってやっとまざまざと思い出すほど、僕は親父のいろいろを看過していたに違いない。
手術は成功することだろう。いや、きっと成功する。
しかし、親父は6月7日に78歳になった親父の、その後の“生”はどうなるというのだろう。親父はそれに向かって手術をするというのに、この僕は……。親父と共に親父の運命を見つめていこう、という覚悟さえできてはいない……。

親父の肝臓癌発症をきっかけとした久しぶりの帰省。3時間前まで、それは僕にとって過去への旅でもあった。
友人たちに出会う可能性が低くなった現在、僕にとっての田舎とは、都会では経験できなくなったコトやモノに触れることへのささやかな期待と、親父の存在だった。
不肖の息子は、いつの間にか郷愁の虜になり、親父が抱える“今”に気付く力さえ失くしていたようだ。
しかし今、身勝手な郷愁は打ち砕かれた。過去への旅は厳しい未来への旅に通じているのだ。僕の想いはそこまでは至っていなかった。
「田舎とは、出ていくべき所だ」と嘯いていた高校生時代。
「田舎があるって、いいなあ。うらやましいよ」と友人に言われると、「田舎は場所ではなく、人と人との思い出だよ。だから、誰にでもあるんだ」と、したり顔をしていた大学生時代。
そして、田舎の臭いを一かけらひとかけら落とし去っていった都会生活……。
失うことに積極的だった、そのこと自体が、僕の中に根深く存在する田舎を表していたのではないか。そして、落とした一かけらの田舎の中に、僕は親父を閉じ込め、置き去りにしていたのではないか……。

60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと等あれこれ日記)

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