昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

1969年。僕たちの宵山 ―昭和少年漂流記第二章― ①

2017年01月11日 | 日記

玄関、ガラスの引き戸を開けて正面、2階へと続く階段の下から3段目に、彼は大股開きで座っていた。タバコを挟んだ人差し指と中指の先を鼻の穴に突っ込んでいた。入り口に向かってVサインをしているようにも見えた。

僕は一瞬ひるんだ。元気いっぱい張り上げたはずの「ごめんくださ~~い」がか細い。

すると彼は、フィルターまですっぽり口の中に納まっていたタバコを引き抜いた。ジュポンと音がしたような気がした。

「おっちゃ~~~ん!お客さんやで~~~!」

タバコが抜けた口から煙をブゥと吹き出すと、彼は奥に向かって叫んだ。向き直った顔は、人懐っこく笑っていた。

それが、とっちゃんとの初対面。1年足らずの付き合いの始まりだった。

 

その年、1969年。僕は10代終わりの年を迎えていた。下鴨神社近く、四畳半の下宿生活も2年目。二度目の受験は失敗に終わっていた。

しかし4月を迎えても、「勉強しなくては‥‥」という思いは空回りするばかり。7時と決めた起床時間に身を起こしても、窓を透けてくる春のぬくもりには抗えず、いとも簡単に睡魔に取り込まれてしまう始末。

身に覚えのない罪で追われる夢に汗だくになって首を起こすと、斜めに差し込み足元まで暖めていた日差しは、もう頭に残るだけ。焦燥と寂寥が胸の辺りで交錯し始める……。

そんな日々を過ごしていた。そして、挨拶と定食の注文の時にしか言葉を発した記憶のないまま二週間が過ぎ去り、三週間目を迎えた夜、遂にいたたまれなくなった。

何かをせねばと、手始めに日記を書くことにした。新しいノートの1ページ目に、“自立なくして自律なし!”と書いた。決意と自戒の言葉だった。一度書いた後、上から何度もボールペンでなぞった。翌朝最初に目に飛び込んでくるよう、本棚に立てかけて眠った。

そして翌朝、目覚めるとすぐ、半開きになった日記が目に飛び込んできた。枕元の時計は、午前7時直前。頭を廻らせると、好天の空が眩しい。

「起きろ!行動開始にはうってつけの日だぞ」

頭の中で声がした。布団を蹴上げた。窓を開け、買ったばかりのジーパンを穿いた。「よし!」と声に出し、勢いよく階下へと駆け下りた。

下宿の息子が開店準備に忙しい。亡くなった父親の跡を継ぎ、母親と二人で青果店を切り盛りしている、僕と同じ19歳。生き生きと立ち働く姿が眩しい。挨拶もそこそこに、駆けるように出雲路橋方面に向かう。

しかし、飛び出した勢いが落ち着くと、春爛漫を思わせる日差しが疎ましく感じられ始める。そののどかさは、茫洋として掴みどころのない“これからの僕”を象徴しているかのようであり、その明るさは、橋の上を行く明らかにそれとわかる大学生やサラリーマンの“生き生きとした未来”を表しているかのようにも思える。僕はまるで、目的地を持たない出発を後悔する家出人のように、下宿からわずか数百メートルで、もう途方に暮れてしまいそうだった。

しかし、いつもならここで“また今度にしよう”となってしまうところを、寝起きに目にした半開きの日記のお陰で踏みとどまった。とにもかくにも歩みは止めてはならないと、出雲路橋に背を向け北へ向かった。

途端に春の川風が頬にやさしい。鴨川のせせらぎも小さく耳に届き始める。田舎の川辺や堤防で過ごした時間を思い出す。

北大路を通り過ぎる。堤防沿いの景色が塀や生垣から植物園の緑へと変わる。北山橋まで行き、東へと方向転換することにする。北山橋以北は京都の新興エリア。自立のきっかけと巡り会うチャンスは乏しい。北山通りを渡り、東大路へと向かう。

そこで眼前にしたのが、“京都新聞北山橋東詰販売所”。小学生の頃から新聞配達で小遣い稼ぎをしていた僕には、馴染み深い看板だった。

近付いてみると、“新聞配達員募集中!”の貼り紙。巡り合わせだと思った。躊躇することなく玄関を開けた。そして、とっちゃんと巡り会ったのだった。

                                   Kakky(柿本洋一)

  *ブログは、こちら→Kakky、Kapparと佐助のブログ


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