昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章:1969年:京都新聞北山橋東詰販売所   とっちゃんの宵山 ②

2010年11月05日 | 日記

僕の注意を逸らしながら、簡単な面接終了。「住み込み?通い?どっちでも好きなようにして。どっち?…そうか~。通いやな。ほな、説明しょうか」と、カウンター下から地図を取り出した。

広げると、すすっととっちゃんが近付いてくる。メモを覗き込み、「おっちゃん、これなんて読むんや?」と僕の名前を指差す。「柿本さん、言う人や」とおっちゃんが面倒臭そうに答えると、「ガキガキか~」と僕をにやりと下から見上げる。

「ほれ!ここ、ここ」と言うおっちゃんの方に向き直ると、広げた地図の赤線で区切られたエリアの一つを指差している。植物園の南側、そこそこ広い一角だ。

「広いやろ~。お屋敷ばっかりやからなあ。ま、すぐ慣れるやろ。全部で、210部かな?ま、後はカズさんに聞いて。…カズさんは、配達先を全部知ってる人やから、な」。

あまりのトントン拍子に、茫然と「はい」「は~」を繰り返していると、顎の下からとっちゃんが「一番しんどいとこやな~~」と小声でにやつく。聞きとがめたおっちゃんに、振り向きざま「あほ言いなや。いらんこと言うたらあかん。あっち行っとき」と叱られ、首をすくめて階段の定位置に戻っていく。

「お屋敷ばっかりやからなあ。ちょっとしんどいかもわからへんけど、その分、他のとこよりちょっとだけ給料よくしてあるから。な、気にせんといて。まったく!とっちゃんの言うことあんまり聞かんといてな」

おっちゃんのやや焦り気味のフォローに、むしろとっちゃんの言ったことの正しさを感じつつ、「いえいえ、大丈夫です。是非、お願いします」と僕は、京都新聞北山橋東詰販売所の“通い”の配達員となった。

給料は、23,000円。下鴨神社近くの下宿代5,000円を含め、生活費は15,000~17,000円で事足りるため、十分な額だった。

 

スーパーカブに乗って販売所に帰ってきたカズさんは、30代前半。中肉中背で、人との距離をわきまえた大人の顔は浅黒く、汗で光っていた。

「一週間は一緒に回ってあげるし、心配せんでええから。意外と早く憶えるもんやから、な。とっちゃんは、時間かかったのお。なあ、とっちゃん」。

うふぇ、うふぇと笑った後「1ヶ月やったかなあ、カズさん」ととっちゃんが言うと「あほか!2ヶ月やろ!いや、3ヶ月やったかなあ…」と、カズさん。

「せやけど、とっちゃんのエライのは、憶えてしまうと絶対失敗がないことやなあ。なあ、とっちゃん」と、フォローも忘れない。

「こないだかて、…雨の日や、なあカズさん。……」。お客さんからの朝刊欠配のクレームに、「絶対!配った」と言い張り、おっちゃんの再配達の指示を頑として聞き入れなかったとっちゃん。二人をなだめたカズさんがスーパーカブで駆けつけると、ビニール袋に入れられた新聞がポスト下の庭草の中に落ちていた、という。

とっちゃんが誇らしげに語る間、カズさんは「そうや。……せやったなあ」と相槌を打ちながら微笑んでいたが、終わると「ええから、そこに座っとき」と、興奮気味に立ち上がりこちらに来ようとするとっちゃんを制し、「こないだ言うても、去年の梅雨の頃のことやけどな」と、僕の耳元で言って笑った。

 

朝5時半に来ること。チラシを入れる作業があること。チラシが多い時は、予めカズさんが束ねておいてくれること。自転車が1台貸与されること。給料日のこと。……。手慣れた簡潔な説明を聞き、店の前に並んでいる黒い自転車の中の1台の鍵を受け取った。

「明日から来んの?せやったら、明日はちょっと早めにしょうかあ。5時、な」ということになり、僕は自転車で下宿に帰った。お昼の鴨川の堤防の風が爽やかだった。

 

*月曜日と金曜日に、更新する予定です。つづきをお楽しみに~~。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと、ペットのこと等あれこれ日記)

2.60sFACTORY活動日記(オーセンティックなアメリカントラッドのモノ作りや着こなし等々のお話)


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