■村上義隆公募所■
(10th October 2007)
奈良県吉野郡吉野町吉野山
・村上義隆公は、元弘三年(1333)閏二月一日、吉野城(現金峯山寺藏王堂)にて後醍醐天皇の皇子護良親王を逃がすために親王の鎧を着、鎌倉幕府軍の前に仁王立ちし、腹を切り絶命した勇士信濃源氏村上彦四郎義光公の嫡男に当たる。
・義隆公も共に死することを望むも、親王を守り逃がすように命じられ親王を守り戦い、ただ一人にて殿を務めそこで力尽きている。
((コメント))
2007年10月10日
曲がりくねった細道を利用したとはいえ、ただ一人にて五百騎あまりを相手に半時間も踏みとどまった義隆公の姿に涙を流さぬものはいないであろう。
皇統の正統であるべき南朝に尽くした勇士である。されど、殘された村上氏に対しての恩賞が薄く、その結果、のちに村上氏が足利尊氏方に付くのは後醍醐天皇の大失策といってよいだろう。彼らの功をその死に見合う評価していたらば、楠木正成や新田義貞のように最後まで忠を尽くすことになったであろうから。結局、跡を繼いだ義光の弟信貞は尊氏方、義光-義隆の系統の義武は南朝につき、後の村上水軍となったというのだから皮肉なものだ。
(10th October 2007)
奈良県吉野郡吉野町吉野山
・村上義隆公は、元弘三年(1333)閏二月一日、吉野城(現金峯山寺藏王堂)にて後醍醐天皇の皇子護良親王を逃がすために親王の鎧を着、鎌倉幕府軍の前に仁王立ちし、腹を切り絶命した勇士信濃源氏村上彦四郎義光公の嫡男に当たる。
・義隆公も共に死することを望むも、親王を守り逃がすように命じられ親王を守り戦い、ただ一人にて殿を務めそこで力尽きている。
((コメント))
2007年10月10日
曲がりくねった細道を利用したとはいえ、ただ一人にて五百騎あまりを相手に半時間も踏みとどまった義隆公の姿に涙を流さぬものはいないであろう。
皇統の正統であるべき南朝に尽くした勇士である。されど、殘された村上氏に対しての恩賞が薄く、その結果、のちに村上氏が足利尊氏方に付くのは後醍醐天皇の大失策といってよいだろう。彼らの功をその死に見合う評価していたらば、楠木正成や新田義貞のように最後まで忠を尽くすことになったであろうから。結局、跡を繼いだ義光の弟信貞は尊氏方、義光-義隆の系統の義武は南朝につき、後の村上水軍となったというのだから皮肉なものだ。