の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

北野社 / 北野神社

2014年03月19日 02時14分47秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■石佛■
(14th May 2009)
 


★北野社★ 栃木県日光市山内

・祭は菅原道眞。

・日光二荒山社別宮瀧尾社末社。

・文元年(1661)、筑紫安樂寺の大鳥居信幽が大宰府天滿宮より勸請したものという。


■鳥居■
(14th May 2009)
 


■本殿■
(14th May 2009)
 


((コメント))
2009年5月14日

 日光二荒山社別宮瀧尾社に行く途中に違っていったところである。所屬が、二荒山社なのか輪王寺なのかもわからないが、山の氣があり、雰圍氣はいい。

 近くに開山堂、觀音堂といった文化財が見られる。

 後日談として調べたところ、日光二荒山社別宮瀧尾社末社ということである。

日月社 / 日月神社

2014年02月06日 14時47分25秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■鳥居■
(13th June 2008)



★日月社★ 千葉県いすみ市大原町新田

・創建は建長元年(1249)頃という。

・當時は御厨臺にあり、大日霎貴命を祭った。

・御厨臺は往古伊勢宮の御料地であった。

・慶長元年(1596)月夜見命合祀し、現在地に移り、山を日居森、山麓鳥居前を日居口いうようになった。

・慶安三年(1650)、本殿を造營、今の内殿がこれであり、降って文政八年(1825)、社殿を再建。


■社殿■
(13th June 2008)



■木■
(13th June 2008)



((コメント))

2008年6月13日

 いすみ市市役所の脇を入り、細い道を迷いながら地圖に載る日月社なるところへといった。この地區には日月社が二社あるようだが、新田のほうのようである。

 正直、かなり大變であった。諦めかけたほどだ。最終的に、農家のおばあさんのアドバイスを元に迷って、ようやく到著した。

 まあ、取り立てて、特別な氣は感じない。ま、夕方で日が落ちているのと木木に圍まれ日隂になっていることで少し涼しいな、というくらいかな。

香取宮 / 香取神宮

2013年11月24日 07時51分08秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■拜殿、本殿■
(13th May 2009)
  


★香取宮★ 千葉県香取市香取1697

・延喜式内社、下總國香取郡、香取宮、名大、月次新嘗。

・舊社格は官幣大社。

・祭は經津主大。武甕槌命、比賣命、天兒屋根命を配祀。主祭經津主大に關して、正史においては伊波比主命と書かれているが、藤原氏がその權力で他氏の祭祀權簒奪の結果であり、物部、齋部(忌部)兩氏が一切認めず、經津主とするところに眞實が見える。

・下總國一之宮。

・日本全國に約四百社ある香取社の總本社。

・創建は、武天皇十八年(紀元前643)と傳えられる。『常陸國風土記』によると、代に肥後國造一族だった多氏が上總國に上陸し、開拓を行いながら常陸國に勢力を伸ばし、この際に出雲國の拓殖氏族によって農耕として祀られたのが、香取宮の起源とされる。但し、創建年が古すぎるとの異論もある。

・霞ヶ浦は古代、奧深い入海であり、鹿島と香取の兩宮はその出口を兩側から扼えるように建っていた。

・『延喜式』名帳では伊勢の「大宮」を除き、鹿島、香取の二社が唯一「宮」と記され、特別視されていたことがわかる。

・『續日本後紀』承和二年(835)三月の條に「下總國の人、陸奥鎭守府將軍外從五位下勲六等物部匝瑳連熊豬、連を改めて宿禰を賜う。又本居を改めて左京ニ條に貫付す。昔、物部小事大連、節を天朝に錫し、出でて坂東を征す。凱歌歸報。この勳功に籍りて下總國に始めて匝瑳郡を建て、仍て以て氏となすことを得しむ。是れ卽ち熊豬等の祖なり」とあり、香取郡の東南に鄰接していた。『先代舊事本紀』は物部氏の家配であるが、その「天孫本紀」に宇麻志麻治命の十二世の孫の物部木蓮子連の弟、物部小事連について、「志陀連、紫垣連、田井連らの祖」とあり、太田亮刃は、この「志陀連」を「信太連」とみ、『和名抄』にある陸奧國志太郡を『續日本紀』では信太郡、志太郡と書くことからもそのように考えられる。香取郡の西北に、かつての榎浦渡海を隔て常陸國信太郡があるが、『常陸國風土記』によれば、白雉四年(653)、物部河内と物部會津が請願し、筑波國造と茨城國造の土地を裂いて建てたものという。このように物部小事連を祖とする物部匝瑳連の匝瑳郡と物部信太(志太、志陀)連の信太郡に挾まれて香取郡があることからも香取宮と物部氏の關係は否定しがたいと思われる。また、攝社の匝瑳社の建て直しの役を匝瑳郡が受け持っていたこともその證と思われる。

・大禰宜を世襲した香取連は大宮司の大中臣氏と結びついていたために、平安末期には大中臣氏を稱し、物部氏とは一線を畫し、物部氏祖の饒速日命ではなく物部氏の氏の經津主命の後裔を稱しているが、物部小事連を祭とする匝瑳郡の式内社老尾社の祠官であったこと、および、香取連五百島が匝瑳郡に住したということから、物部香取連と考えるのが妥當とされる。

・職首座は大宮司、大禰宜といい經津主の兄(子とも傳えられる)の天苗加命の子孫を稱する香取連が首座となったが、後世、大中臣氏(藤原氏)が入り相互に重職を世襲した。

・香取宮の丑寅の方位に鹿島宮、津の宮、蹟宮があり、鹿島宮は『當社例傳記』によると、鬼門降伏のために鎭座するという。この鬼門というのは畿内からの位置であるが、香取、鹿島兩宮が四十五度の正確な位置關係で鎭座するのは、意圖的なものであると考えられる。また、内海を前にして西南に鳥居がむいているが、香取から見ると鬼門の方位になっている。こういった位置關係から、鹿島と香取の關係は竝列ではなく、祀られると祀る齋主の關係であったとみられる。これは、位階および勳等からも推測にかたくない。

・かつては、二十年ごとに本殿が造營されたという。


■朱鳥居、社號標■
(13th May 2009)
 


■石鳥居■
(13th May 2009)
 


■總門■
(13th May 2009)



■手水舎■
(13th May 2009)
 


■樓門■
(13th May 2009)


 國重要文化財

・元祿十三年(1700)、川幕府の手により造營。
・屋根は造銅板葺。壁や柱は丹塗り。


■拜殿■
(13th May 2009)





■本殿■
(13th May 2009)




 國重要文化財

・元祿十三年(1700)、川幕府の手により造營。
・桃山樣式、屋根は檜皮葺。壁や柱は漆塗りで、を基調とした特徴的な外觀をもつ。


■三本杉■
(13th May 2009)


・後冷泉天皇の御世、源義が參拜し、「天下太平社頭繁榮子孫長久の三つの願成就せば此の杉自ら三岐に別れん」と祈願したところ、一株の杉が三枝に別れたという。眞僞のほどは不明。


■札授與所前の木■
(13th May 2009)



■社殿背後の木■
(13th May 2009)



■饌殿■
(13th May 2009)



■攝社匝瑳社■
(13th May 2009)


・祭は磐筒男、磐筒女。香取大の親。
・古くは社殿の立替は匝瑳郡の使役であった。


■末社櫻大刀自社■
(13th May 2009)


・祭は木花開耶姬命。


■寶物庫■
(13th May 2009)



■表門■
(13th May 2009)



■末社市社、天降社■
(13th May 2009)


・祭は、市社に事代主、天降社に伊伎志通保。


■末社馬場殿社■
(13th May 2009)


・祭は建速須佐之男命。


■末社押手社■
(13th May 2009)


・祭は宇迦之御魂命。


■要石■
(13th May 2009)


・古くより地震の多かったこの地に大きな鯰が住みついていると考えられ、香取、鹿島兩宮の大が地中に深く石棒を差し込み、大鯰の頭尾を刺し通したというもの。
・水戸光圀が參拜の折に、掘り下げて根元を見ようとしたが叶わなかったといわれる。
・香取宮に凸型、鹿島宮に凹型の一部が見えている。


■雨乞■
(13th May 2009)


・聖武天皇の御代、天平四年(732)、大旱魃の際に祭壇を設け、雨乞いをしたところ。


■攝社香取宮奧宮■
(13th May 2009)





・祭は經津主大荒御魂。
・舊參道に鎭座。
・社殿は昭和四十八年(1973)の伊勢宮遷宮の折の古材を用いられている。


((コメント))

2009年5月13日

 この日の最後の社に行ったのは、平成十八年(2007)の誕生日にも行った下總國一之宮香取宮。

 個人的には、常陸國一之宮鹿島宮の祭武甕槌命も石上布大のこと、と九世紀の段階でも正史に逆らって、物部氏、齋部(忌部)氏が言ってるのだからやはり、本宮と奧宮、もしくは齋宮と本宮というような印象をどうしても拭えない。藤原氏が鹿島、香取のを簒奪し、春日大社に氏として祀ったことにもやはり、物部や齋部(忌部)はよしとはしていないわけで、春日大社自體も、地主の榎本からの簒奪であり、それはそれは汚れた一族であったことは明らかである。

 やはり、ここは物部の社だけあり、重厚である。個人的には、鹿島宮よりもはるかによく感じるところである。

海南刀切社 / 海南刀切神社

2013年11月21日 14時59分48秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■鳥居■
(13th June 2008)



★海南刀切社★ 千葉県館山市見物

・舊社格は村社。

・祭は刀切大明。

・縣道の北側海岸寄りにあるのが海南刀切社、南側山中にあるのが舩越鉈切社で、かってはひとつの社として信仰され、濱田の舩越鉈切社を上ノ宮、見物の海南刀切社を下ノ宮と呼んでいた。

・『房總志料』によれば、海南刀切社の祭手斧鑿明が勝地を求めるために使を遣わしたところ、刀切の靈地を愛したこの使は岩窟に隱れて復命せず、舩越鉈切社の祭になったという。また『安房志』は「古昔この、上國より船に乘じてこの海濱に來たり、手斧を以て巨岩を鑿開して道を通ず。ゆえに一にして舩越、海南の二名ありといふ」と記す。實のところ、二社の祭を別とする說、同一とする說があり、その關係は必ずしも判然としていない。

・本殿裏には二つに割れたような巨岩があるが、が船に乘ってきたとき、濱に上陸してから手斧で巨岩を切り開いて路を通したのだとも、人人を苦しめる大蛇が災をおこさないように、が鉈で岩を切り、大蛇の住む紫ノ池の水を抜いたときのものだとも傳えられている。


■社號標■
(13th June 2008)



■拜殿■
(13th June 2008)



■拜殿の優秀な彫刻■
(13th Jun 2008)






■拜殿の背後にある磐座■
(13th June 2008)



■狛犬■
(13th June 2008)


 天保十年(1839)、楠見村の石工田原長左衞門が彫った狛犬。


((コメント))

2008年6月13日

 こちらは、鉈切社と比較すると何も感じなかった。というか、スカスカに近い狀態。鉈切社が分斷されたために出來た社というので、まあ、の社のあった部分が鉈切のほうだったんでしょう。

 裏手にある巨岩。磐座と思うが、見た目はかなり立派である。ただ、惜しむらくは、あまりエネルギーを感じないということであった。

洲宮社 / 洲宮神社

2013年10月26日 21時36分01秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■拜殿■
(13th June 2008)



★洲宮社★ 千葉県館山市洲宮921

・延喜式内社、安房國安房郡、后天比理刀命社、大、元名洲、論社。

・舊社格は縣社。

・祭は天比理刀命。天鈿女命、天冨命を配祀。

・安房國二之宮。

・社傳によれば武天皇元年、天冨命が魚尾山に創建し、當時、海邊にあったことから洲、洲宮と呼ばれたといい、文永十年(1253)、社殿を燒失し、現在地に遷座したと傳えるが、この地より、祭祀に使われた鏡や土器が出土しており、古代よりの祭祀がなされていた地であることが明らかである。社傳が正しいか否かは不明。

・洲崎社も論社で、長らく論爭となっていたが、明治五年(1872)、部省は當社が后天比理刀命社であると決定。その翌明治六年(1873)、今度はその決定を翻し洲崎社が后天比理刀命社であるとした。實際のところは、不詳と思われる。


■鳥居■
(13th June 2008)



■本殿■
(13th June 2008)



((コメント))

2008年6月13日

 寂れた感じで、ぽつんと立っている感じ。もはや社としての力も氣も失い果てた、という印象が强い。