の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

志玄王墓所

2013年11月10日 13時42分53秒 | 天皇陵、皇族墓所
■志玄王墓所■
(18th November 2012)
 


★志玄王墓所★ 京都府京都市右京区嵯峨柳田町

・弘安五年(1282)生、延文四年/正平十四年二月十六日(1359.03.15)沒。

・人皇第八十四代順天皇曾孫。父は尊雅王。

・臨濟宗の僧。

・道號は無極、諡號は佛慈禪師。

・十三歳のとき、京都安部の願成寺で出家、得度し、東寺、東寺などで修學。

・のちに夢窓疎石の門に入り南禪寺や臨川寺に住した。

・夢窓疎石の法を繼いで京都天龍寺の第二世となった。


■志玄王墓所■
(18th November 2012)
 



((コメント))

2011年11月18日

 移轉したという天龍寺塔頭慈濟院の墓地が元の位置に殘されており、そこの中心部に志玄王の墓所がある。特に詳しくは知らないが、名前が氣になって訪問した次第。なんと天龍寺の第二世との事である。ちなみに、曾祖父に當たる順天皇は、父後鳥羽上皇の倒幕計畫に加わり、世にいう「承久の變」により、佐渡に流され、その地に眠られている方である。行きたいと思っていたが佐渡に結局いけなかったのであるが、その血筋の人の墓に行くことになるとは不思議なものである。

後冷泉天皇火葬

2013年11月07日 00時33分48秒 | 天皇陵、皇族墓所
■後冷泉天皇火葬■
(24th April 2009)
 


★後冷泉天皇火葬★ 京都府京都市北区紫野下御輿町

・人皇第七十代後冷泉天皇の火葬地とされる。


((コメント))

2009年4月24日

 藤原氏北家による攝關政治の最後の天皇で、藤原道長の外孫に當たる後冷泉帝。皇太后章子、中宮子、皇后歡子の三人の后を同時にもち、日本史上三后竝立の唯一の例であったらしいが、これは、皇子をどうしても產ませようとする藤原の思いだったのかもしれない。しかし、結局は、子のないまま崩御され、異母弟後三條天皇が繼がれ、さらに次の白河天皇の退位の後、一般に言う源平爭乱期の混沌とした世に結びつく一つの因子である院政へと續いていくのである。天皇自體は、さほど知られた人ではないが、ある意味、キーマンだったのかもしれない。

 其の帝の火葬された地であるというが、火葬が當時から存在していたというのか、と思ったが、調べたら、持統天皇が天皇で最初に火葬されたとあるので、なんら不思議は内容である。

吉備内親王墓所

2012年08月11日 12時05分53秒 | 天皇陵、皇族墓所
■入り口■
(19th January 2009)



★吉備内親王墓所★ 奈良県生駒郡平群町大字梨本

・長屋王の妃。

・草壁皇子と元明天皇の次女。文武天皇、元正天皇の姉妹に當たる。

・根拠のない密告による長屋王謀反の咎による自殺に際し、三人の子、膳夫王、葛木王、鉤取王とともに縊死。


■吉備内親王墓所■
(19th January 2009)
 


((コメント))

2009年1月19日

 長屋王の墓所より少し山手にその妃であった吉備内親王の墓所があったので行ってきた。同日にお亡くなりになったのだから、夫婦と三人の王子も同じ場所に葬ってあげればよかったのにと思う。

堀河天皇火葬塚

2012年03月19日 14時42分18秒 | 天皇陵、皇族墓所
■火葬塚■
(24th April 2009)



★堀河天皇火葬塚★ 京都府京都市北区等持院東町

・人皇第七十三代堀河天皇の火葬された跡。

・御陵は右京区竜安寺の後円教寺御陵。


((コメント))

2009年4月24日

 白河上皇の院政が行われたが、自ら政務に励み「末代の賢王と稱された堀河天皇」の火葬塚。聰明で知られるが、二十九歳という若さで薨去された。もし、長く生きられておれば、保元の乱も起こらなかったであろうし、後の時代が変わっていたように思う人物であることは確かである。

長屋王墓所

2012年02月06日 04時03分20秒 | 天皇陵、皇族墓所
■石標■
(19th January 2009)



★長屋王墓所★ 奈良県生駒郡平群町大字梨本

・長屋王は天武天皇の第一皇子とされる市皇子の皇子。母親は元明天皇の同母姉である御名部皇女であるという。

・妃は草壁皇子女吉備内親王、夫人に藤原不比等女がある。

・左大臣となり、政治家の筆頭とまでなったが、藤原氏との政爭の末、謀反人とされ、自害。

・長屋王家の発掘調査などの多量の出土品、『日本靈異紀』などの記述などから、實は、長屋親王であったという説もあり、父市皇子もまた、天皇であったという可能性も強く、この父子の歴史は謎に包まれている。


■長屋王墓所■
(19th January 2009)



((コメント))

2009年1月19日

 紀氏社の近くに左大臣長屋王の墓所があったので立ち寄ってきた。何故、平群に葬られたのだろう。館跡の調査で、大きな豪邸であったことや奥の木簡、そこには「長屋親王」と記されていたことがあり、實は「王」ではなく「親王」という説もある。その上に、父に當たる市皇子も實は、天皇であったという説もあるのである。市皇子の父とされる天武天皇こと大海人皇子にも謎があり、ここ三代が非常に謎に包まれていたりする。個人的には、天武天皇となった人物の前半生も謎であるし、不可解といえば不可解な状況もありそうではある。まあ、個人的に研究するほど興味がないのでどうでもいいのだが、もし、自分が小説家であるのならば、次のようにするだろう。

 向王と寶女王の間の漢王 → 天武天皇
 舒明天皇と寶女王の間の中大兄皇子 → 天智天皇
 同じく、大海人皇子 → 高市皇子

 そう考えると興味深いものである。