OECDの国際学力テストで、日本の順位が軒並み下がって、大騒ぎである。週刊朝日の広告には、「日本人はどこまでバカになるのか」「漢字を読まない大学生」「言葉遣いはデタラメ」「分析力ゼロ」などの見出しが踊っている。
一方、このテストで、常に、トップクラスを維持している国がある。フィンランドである。「なぜフィンランドなのか?」。誰もが、疑問に思うようで、先週木曜日(12月6日)の朝日新聞朝刊37面には、「フィンランドの子、なぜ優秀」の見出しで、特集が組まれていた。
記事の中で、「暗記詰め込み式ではない」「自分で考えさせる」「分厚い本を何冊も読ませる」「テストは小論文」など、いくつかの点が指摘されていた。しかし、もっとも感銘を受けたのは、「教師がすべて修士号を取得していて質が高い」という点である。
私は、専門学校で生物学の講義を、十五年以上、担当していたことがある。毎年、最初の授業で、学生に、「好きな科目」「嫌いな科目」「好き、嫌いなった理由」を、アンケート調査していた。
その結果、はっきりしたことがある。好きになった理由のトップは、「よい先生に教えてもらったから」。嫌いになった理由のトップは、「その先生が嫌いだったから」。これは、毎年同じだった。つまり、「よい教育を受ける」ことは、「よい先生と巡り会うこと」と、ほぼ同義なのだ。
文科省の話を聞いていると、指導要領をどうするか、教科書をどうするか、そういったことは、よく聞くが、肝心の教師の話は、あまり出てこない。しかし、フィンランドを含め、多くの先進国の教育行政の指導者は、常に、「よい教師を、いかに多く集めるか」を議論している。
質の高い教師を、たくさん集めて、授業に専念させる。これ以外に、質の高い教育を実現する方法は、ありえない。
そのためには、まず、教師の数を増やして、一人あたりが担当する子供の数を、二十人未満にすることが大事である。二十人学級で教師二人が理想だと思う。教師の数を増やすだけで、教育の質は、大幅に向上するだろう。
次に、教師に、授業準備以外の雑事を、させないことである。不必要な仕事は、出来る限りなくして、どうしても必要なものは、別に、ひとを雇って任せる。そういう仕組みを作る必要がある。
さらに、修士以上の学位を持った教師を、どんどん増やして、最終的には、全員にすることである。子供の「考える力」を伸ばすなど、今の教師は、相当にハイレベルな仕事を要求されている。ときには、「生きる力」を養う教育などと、無茶を言われる(笑)。
修士クラスの研究論文を、自力で書ける力がなければ、今後さらに高度化する、そういった要求に答えるのは、難しいかもしれない。実際、フィンランドは、教師全員が、修士を持っているそうである。
以上を実現するために、どうしても必要なものがある。「予算」である。お金がなければ、何一つ、実現できない。フィンランドは、国民が、教育に多額の税金を使うことを、納得している。日本は、公教育に、口は出すが、予算は増やさない。フィンランドと、日本の違いは、そこにある。
結局、教育改革の成否は、予算を増やすか否かにかかっている。予算をつけなければ、「応用力向上」だろうが、「考える力重視」だろうが、どんなプランも、絵に描いた餅に過ぎない。
終戦直後から始まった、六三制義務教育。その枠組みは今も同じであるが、当時の社会と、今の社会は、まったく別物である。高度に発達した情報社会の中で、義務教育も、より高度なものが求められている。
高い税金を払って、時代に合った、質の高い教育を実現するのか。それとも、予算を増やさず、落ちこぼれを作り続けて、このまま行くのか。その場合、知的労働力が不足するので、中国などから、優秀な人材を大量に受け入れて、国を維持することになる。今週号の「TIME」(Dec. 17)によると、その動きは、すでに今の日本で、かなりの速度で進んでいるようである。
フィンランドの国民は、前者を選択した。日本は、どうするのか。すべては、国民の決断次第だ。
ちなみに、「教師、教師、そして、教師」という言い回しは、イギリスの前首相、トニー・ブレア氏の演説から、頂いている。曰く、
「英国には、三つの問題がある。教育、教育、そして、教育である(Education, education and education)」
一方、このテストで、常に、トップクラスを維持している国がある。フィンランドである。「なぜフィンランドなのか?」。誰もが、疑問に思うようで、先週木曜日(12月6日)の朝日新聞朝刊37面には、「フィンランドの子、なぜ優秀」の見出しで、特集が組まれていた。
記事の中で、「暗記詰め込み式ではない」「自分で考えさせる」「分厚い本を何冊も読ませる」「テストは小論文」など、いくつかの点が指摘されていた。しかし、もっとも感銘を受けたのは、「教師がすべて修士号を取得していて質が高い」という点である。
私は、専門学校で生物学の講義を、十五年以上、担当していたことがある。毎年、最初の授業で、学生に、「好きな科目」「嫌いな科目」「好き、嫌いなった理由」を、アンケート調査していた。
その結果、はっきりしたことがある。好きになった理由のトップは、「よい先生に教えてもらったから」。嫌いになった理由のトップは、「その先生が嫌いだったから」。これは、毎年同じだった。つまり、「よい教育を受ける」ことは、「よい先生と巡り会うこと」と、ほぼ同義なのだ。
文科省の話を聞いていると、指導要領をどうするか、教科書をどうするか、そういったことは、よく聞くが、肝心の教師の話は、あまり出てこない。しかし、フィンランドを含め、多くの先進国の教育行政の指導者は、常に、「よい教師を、いかに多く集めるか」を議論している。
質の高い教師を、たくさん集めて、授業に専念させる。これ以外に、質の高い教育を実現する方法は、ありえない。
そのためには、まず、教師の数を増やして、一人あたりが担当する子供の数を、二十人未満にすることが大事である。二十人学級で教師二人が理想だと思う。教師の数を増やすだけで、教育の質は、大幅に向上するだろう。
次に、教師に、授業準備以外の雑事を、させないことである。不必要な仕事は、出来る限りなくして、どうしても必要なものは、別に、ひとを雇って任せる。そういう仕組みを作る必要がある。
さらに、修士以上の学位を持った教師を、どんどん増やして、最終的には、全員にすることである。子供の「考える力」を伸ばすなど、今の教師は、相当にハイレベルな仕事を要求されている。ときには、「生きる力」を養う教育などと、無茶を言われる(笑)。
修士クラスの研究論文を、自力で書ける力がなければ、今後さらに高度化する、そういった要求に答えるのは、難しいかもしれない。実際、フィンランドは、教師全員が、修士を持っているそうである。
以上を実現するために、どうしても必要なものがある。「予算」である。お金がなければ、何一つ、実現できない。フィンランドは、国民が、教育に多額の税金を使うことを、納得している。日本は、公教育に、口は出すが、予算は増やさない。フィンランドと、日本の違いは、そこにある。
結局、教育改革の成否は、予算を増やすか否かにかかっている。予算をつけなければ、「応用力向上」だろうが、「考える力重視」だろうが、どんなプランも、絵に描いた餅に過ぎない。
終戦直後から始まった、六三制義務教育。その枠組みは今も同じであるが、当時の社会と、今の社会は、まったく別物である。高度に発達した情報社会の中で、義務教育も、より高度なものが求められている。
高い税金を払って、時代に合った、質の高い教育を実現するのか。それとも、予算を増やさず、落ちこぼれを作り続けて、このまま行くのか。その場合、知的労働力が不足するので、中国などから、優秀な人材を大量に受け入れて、国を維持することになる。今週号の「TIME」(Dec. 17)によると、その動きは、すでに今の日本で、かなりの速度で進んでいるようである。
フィンランドの国民は、前者を選択した。日本は、どうするのか。すべては、国民の決断次第だ。
ちなみに、「教師、教師、そして、教師」という言い回しは、イギリスの前首相、トニー・ブレア氏の演説から、頂いている。曰く、
「英国には、三つの問題がある。教育、教育、そして、教育である(Education, education and education)」